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第三章
14話 回顧録 ー 誤り
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フィリップとの逢瀬が密かに続く中、婚約の儀の準備は着々と進んでいた。
ストーン伯爵は断ってくれと言っていたが、これはそんな簡単な話ではない。
国王である父が、伯爵との結婚を望んでいるのだ。
その期待を踏み潰すことは、父の意を汲みながら生きてきた自分にとって、恐ろしいことでもあった。
「ねえ……どうやって婚約の儀を取りやめにするつもりなの?」
いつもどおり寛いでいるフィリップにそう尋ねると、彼はくすりと笑った。
「心配性だな。何もしなくても、僕の親友がそろそろ動いてくれる頃だよ」
「親友って……」
そう口にした瞬間、外が騒がしくなり、ノックもなしに扉が開かれた。
「アメリア! 聞いたか、あの話!!」
「だ……ダリオンお兄様……」
大声をあげて部屋に踏み入ってきたのはダリオンだった。
その隣には、止めようとしたのだろうローラが、不安げな表情で立っている。
「あれ? フィリップ……どうしてここに?」
「やあ、ダリオン。君と同じ理由だよ」
「フィリップの耳にも入っているのか!
ストーン伯爵の噂は……」
珍しく、ダリオンの表情に怒りが滲んでいた。
それに呼応するように、フィリップは気遣うような優しい目を向ける。
「ああ。だからこうして、彼女の様子を見に来たんだ。
ダリオンの妹は、僕にとっても大事な人だからね」
フィリップに手を取られ、優しく撫でられると、まるで本当に悲嘆に暮れているかのような錯覚すら覚えた。
「あ、ありがとう……フィリップ。
お兄様も……でも、そんなに心配しないで」
「心配しないわけないだろ!
ストーン伯爵が町娘と浮気しているなんて……アメリアだけの問題じゃない!
王室を侮辱したも同じだ!
彼は婚約の儀を行うに相応しくない……!」
ダリオンの瞳は燃えるような怒りに満ちていた。
普段は明るい兄の、見たことのない一面に、思わず眉を顰める。
「お兄様……落ち着いて」
「ダリオンが怒る気持ちもわかるよ」
フィリップが穏やかに口を挟む。
「王家の伝統である婚約の儀は、たった一人の人と添い遂げることを誓う儀式だ。
それを目前にしての、この騒ぎだからね」
自分のことは棚に上げながら、フィリップは巧みにダリオンの怒りを煽っていく。
そんな二人の会話を、ただ傍観するしかなかった。
「よし、父上に進言してくるよ」
フィリップと話して自信を得たのか、ダリオンは意気揚々と部屋を後にした。
まるでフィリップの掌の上で転がされているかのような兄の背中を見送り、背筋が凍る。
――どうして、私たち兄妹は、こんなにも彼に忠実なのだろう。
満足そうな横顔を見つめていると、その視線に気づいた彼と目が合った。
ダリオンの進言で国王がストーン伯爵に使者を放ってから数日後、フィリップに誘われ、再び街へと繰り出した。
それまで街を散策するなど王族のすることではないと思っていたが、予想外にも楽しかった。
変装して街民に紛れることも、普通の恋人のように振る舞うことも、初めての経験は幸福感を積み重ねていく。
「殿下……アメリア殿下、ですよね?」
宝飾店を出たところで声をかけられ、一瞬、誰なのかわからなかった。
それよりも、隣にいたフィリップが庇うように私の前へ出たことの方が、よほど印象的で、彼に守られるような錯覚に陥る。
「君は? 誰かな」
「あ、失礼いたしました。
カリナと申します。鍛冶職人ヤナンの娘です」
「ああ、君か……今はお忍びなんだけど、アメリアに何の用かな?」
「あの……私と、伯爵との噂が広がってると聞きまして…どうしても誤解だとお伝えしたくて……」
彼女が、ストーン伯爵と親しげに話していた鍛冶屋の娘だと思い出す。
あの日はあれほど楽しそうだったのに、今日は顔色も悪く、心なしか痩せたようにも見えた。
「悪いけど……殿下が平民とお話しされることはないよ」
「お、お願いします!
ストーン伯爵は本当に素晴らしいお方なんです!
殿下の夫として相応しい、たった一人の方です。
どうか、下世話な噂話に惑わされないでください!」
「……行こう」
フィリップに腕を引かれ、そのまま馬車へと乗り込む。
彼女は、ヴァルク・ストーンのために誤解を解こうとしている。
それは健気で、そして愚かな行為だった。
ストーン伯爵は、今や邪魔な存在でしかない。
私にとっても、フィリップにとっても。
こんなにも個人的な感情によって、彼は婚約者という立場を追われる。
申し訳ないという気持ちが、まったくないわけではない。
けれど、必死に食い下がるこの女がいるのなら……同情心など、消してしまってもいいだろう。
冷たく、氷のような彼の心にいる、太陽のような明るい彼女。
それを裏切りと言わず、何と言うのだろう。
――私の前では、清廉潔白な人間であるかのように振る舞っていたくせに。
馬車がゆっくりと動き出すと、外にいる彼女が必死に声を張り上げているのが、微かに聞こえた。
馬の蹄の音。
車輪の軋む音。
その合間に混じる、女の泣き声のような叫び。
――ギギィーッ!
ガシャんッ!
地面が揺れるような衝撃に、思わず窓の外を見ようとすると、フィリップに制される。
彼は従者に命じて扉を開けさせ、外を確認した。
そしてすぐに戻ると、短く告げた。
「城へ急げ」
「ねえ……今の音、何?!」
「君は気にしなくていい」
馬車の速度が一気に上がり、外の喧騒が激しくなる。
フィリップは安心させるように微笑んだ。
――けれど、その瞳に感情が宿っていないことははっきりと理解していた。
ストーン伯爵は断ってくれと言っていたが、これはそんな簡単な話ではない。
国王である父が、伯爵との結婚を望んでいるのだ。
その期待を踏み潰すことは、父の意を汲みながら生きてきた自分にとって、恐ろしいことでもあった。
「ねえ……どうやって婚約の儀を取りやめにするつもりなの?」
いつもどおり寛いでいるフィリップにそう尋ねると、彼はくすりと笑った。
「心配性だな。何もしなくても、僕の親友がそろそろ動いてくれる頃だよ」
「親友って……」
そう口にした瞬間、外が騒がしくなり、ノックもなしに扉が開かれた。
「アメリア! 聞いたか、あの話!!」
「だ……ダリオンお兄様……」
大声をあげて部屋に踏み入ってきたのはダリオンだった。
その隣には、止めようとしたのだろうローラが、不安げな表情で立っている。
「あれ? フィリップ……どうしてここに?」
「やあ、ダリオン。君と同じ理由だよ」
「フィリップの耳にも入っているのか!
ストーン伯爵の噂は……」
珍しく、ダリオンの表情に怒りが滲んでいた。
それに呼応するように、フィリップは気遣うような優しい目を向ける。
「ああ。だからこうして、彼女の様子を見に来たんだ。
ダリオンの妹は、僕にとっても大事な人だからね」
フィリップに手を取られ、優しく撫でられると、まるで本当に悲嘆に暮れているかのような錯覚すら覚えた。
「あ、ありがとう……フィリップ。
お兄様も……でも、そんなに心配しないで」
「心配しないわけないだろ!
ストーン伯爵が町娘と浮気しているなんて……アメリアだけの問題じゃない!
王室を侮辱したも同じだ!
彼は婚約の儀を行うに相応しくない……!」
ダリオンの瞳は燃えるような怒りに満ちていた。
普段は明るい兄の、見たことのない一面に、思わず眉を顰める。
「お兄様……落ち着いて」
「ダリオンが怒る気持ちもわかるよ」
フィリップが穏やかに口を挟む。
「王家の伝統である婚約の儀は、たった一人の人と添い遂げることを誓う儀式だ。
それを目前にしての、この騒ぎだからね」
自分のことは棚に上げながら、フィリップは巧みにダリオンの怒りを煽っていく。
そんな二人の会話を、ただ傍観するしかなかった。
「よし、父上に進言してくるよ」
フィリップと話して自信を得たのか、ダリオンは意気揚々と部屋を後にした。
まるでフィリップの掌の上で転がされているかのような兄の背中を見送り、背筋が凍る。
――どうして、私たち兄妹は、こんなにも彼に忠実なのだろう。
満足そうな横顔を見つめていると、その視線に気づいた彼と目が合った。
ダリオンの進言で国王がストーン伯爵に使者を放ってから数日後、フィリップに誘われ、再び街へと繰り出した。
それまで街を散策するなど王族のすることではないと思っていたが、予想外にも楽しかった。
変装して街民に紛れることも、普通の恋人のように振る舞うことも、初めての経験は幸福感を積み重ねていく。
「殿下……アメリア殿下、ですよね?」
宝飾店を出たところで声をかけられ、一瞬、誰なのかわからなかった。
それよりも、隣にいたフィリップが庇うように私の前へ出たことの方が、よほど印象的で、彼に守られるような錯覚に陥る。
「君は? 誰かな」
「あ、失礼いたしました。
カリナと申します。鍛冶職人ヤナンの娘です」
「ああ、君か……今はお忍びなんだけど、アメリアに何の用かな?」
「あの……私と、伯爵との噂が広がってると聞きまして…どうしても誤解だとお伝えしたくて……」
彼女が、ストーン伯爵と親しげに話していた鍛冶屋の娘だと思い出す。
あの日はあれほど楽しそうだったのに、今日は顔色も悪く、心なしか痩せたようにも見えた。
「悪いけど……殿下が平民とお話しされることはないよ」
「お、お願いします!
ストーン伯爵は本当に素晴らしいお方なんです!
殿下の夫として相応しい、たった一人の方です。
どうか、下世話な噂話に惑わされないでください!」
「……行こう」
フィリップに腕を引かれ、そのまま馬車へと乗り込む。
彼女は、ヴァルク・ストーンのために誤解を解こうとしている。
それは健気で、そして愚かな行為だった。
ストーン伯爵は、今や邪魔な存在でしかない。
私にとっても、フィリップにとっても。
こんなにも個人的な感情によって、彼は婚約者という立場を追われる。
申し訳ないという気持ちが、まったくないわけではない。
けれど、必死に食い下がるこの女がいるのなら……同情心など、消してしまってもいいだろう。
冷たく、氷のような彼の心にいる、太陽のような明るい彼女。
それを裏切りと言わず、何と言うのだろう。
――私の前では、清廉潔白な人間であるかのように振る舞っていたくせに。
馬車がゆっくりと動き出すと、外にいる彼女が必死に声を張り上げているのが、微かに聞こえた。
馬の蹄の音。
車輪の軋む音。
その合間に混じる、女の泣き声のような叫び。
――ギギィーッ!
ガシャんッ!
地面が揺れるような衝撃に、思わず窓の外を見ようとすると、フィリップに制される。
彼は従者に命じて扉を開けさせ、外を確認した。
そしてすぐに戻ると、短く告げた。
「城へ急げ」
「ねえ……今の音、何?!」
「君は気にしなくていい」
馬車の速度が一気に上がり、外の喧騒が激しくなる。
フィリップは安心させるように微笑んだ。
――けれど、その瞳に感情が宿っていないことははっきりと理解していた。
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