王の寝室に侍る娘

伊簑木サイ

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彼がシスターを口説かなければならなくなった理由(わけ)4

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 ハミル王は、水を捨てながら、ふと我に返った。

 私はいったい何をしているのだろう。
 だいたい洗濯など、最下層の者の仕事だ。なぜこんなことを、王女である彼女がしているのか。

 王は尋ねようとして、彼女へ顔を向けた。すると、自分も屈んでいたために、思いもよらぬほど近くにしゃがんだ彼女の膝があって、彼はぎょっとして身を引いた。
 それでいて、目が釘付けになって離せなくなる。膝というか、腿の半ばまで見えてしまっている、なんとも柔らかそうで、触り心地の良さそうな、真っ白い足から。
 彼は常々、アノ時に執拗に自分の腰に絡みついてくる女の足が、大嫌いだった。
 なのに、彼女のそれは非常に清廉で、それでいて魅惑的で、なんというのかもう、頭の中を猛烈な勢いで血潮がばくばくと流れて、他の事などどうでもよくなってしまう何かがあった。

 ハミル王は無意識に盥を床へと下ろしていた。空いた手を、そろりと伸ばす。ただまっすぐに、頭の中をいっぱいに占領している、今見ているものへと。
 と。気配を読んだかのように、彼女がくるりと彼へと向いた。

「では、ハミル殿、これを絞ってあちらの盥に入れておいてもらえるか? 私は井戸から水を汲んでくるから。……ハミル殿、どうした?」

 顔を強張らせ、挙動不審気味に片手を宙に浮かしている彼に、彼女は首を傾げた。

「……どうもしない。わかった。絞っておけばいいのだな」
「ああ。そうだ。軽くでいいからな」
「まかせてくれ」

 王は内心の動揺を隠して、大きく頷いた。自分の疚しさを悟られないようにするには、そうするしかなかったのだ。
 そうして彼は、山と積まれた洗濯物を、彼女と二人で黙々と片付けることになったのだった。



 約二時間後、やっと最後の一枚を絞り終えた時、彼の腕の筋肉は、最早千切れそうに痛んでいた。本当はさすって揉み解したかったのだが、努めてなんでもない顔をして、洗濯物を入れた籠を持って、立ち上がる。
 彼女はスカートの縛り目を解いて下ろしていた。スカートはどこもかしこも皺だらけになってしまっていて、それを適当に撫で付け、そしてようやく彼女も体を起こし、ほうっと息をついたのだった。

 疲れているのだろう、初めて目にした時の溌剌さは鳴りをひそめ、思わず肩を抱いて支えてやりたくなるような弱々しさを感じる。
 彼は、その様子にひどく胸が痛んだ。
 突然うねるような激情が湧き出てきて心中を焦がし、どうしても見過ごすことができずに、わずかに苛立ちを込めて、尋ねるというより詰るように、彼女へと疑問をぶつけていた。

「このようなことを、なぜあなたがしているのだ」

 彼女はことさら取り合うふうもなく、ゆっくりと小屋の隅に行って、置いてあった靴を履きながら、穏やかに答えた。

「ここでは、神の僕として、皆、自分たちのことは自分たちでするのだ。それに、ここだけではない、市井でもそうだぞ。あなたは知らないかもしれないが、洗濯が下賎の仕事と決められているのは、王侯貴族の中でだけだ」

 靴を履いた彼女が、ぽくぽくと足音をたてて、今度は王へと向かって歩いてくる。履きにくそうな、粗末な木靴だった。彼の前で立ち止まり、見上げてしっかりと目を合わせ、さらに言葉を紡ぐ。

「神は、人に生きよとおっしゃられた。神の御前では、人が生きるために必要な仕事に貴賎はない。もちろん、地上に生きる人には人の法があり、それがなければ、人の世はもっと混乱してしまうのはわかっている。しかし、この教会という限られた中でだけは、人は神の法に従って生きることが許されている。違うか?」

 そのとおりであった。地上にありながら、地の王のことわりに縛られず、天の王の御心に従う。それが本来の聖職者の姿だった。
 今では、法王を筆頭に、虎の威を借る狐もかくやと成り果ててしまっているが。

 王は、苦々しい思いで、清らかな志を語る彼女を見下ろしていた。彼女は真実本当に穢れなかった。
 シスターとして生きていくのに、充分なほどに。
 けれど。

 だからこそ、欲しい。

 王は自分の望みをはっきりと認識して、全身の血が沸き踊る心地に、陶然とした。
 この、身も心も美しい女が、欲しい。

「……偉そうなことを言った。すまない。本当は、それは建前だ」

 彼女は急に斜めに視線をそらし、少々居心地悪そうにした。

「建前?」

 不穏な言葉にも、悪い予感はしなかった。騙されたなどとも思わなかった。それよりも、何を言い出すのかと、わくわくする。
 彼女が何を考え、思っているのか、ハミル王は、もっとよく知りたかった。

「お、面白くなかったか?」
 
ちらりと彼女がこちらを窺う。
 なるほど。どうやら彼女は洗濯をするのが楽しいらしい。そして、彼に同意を求めている。
 彼は鷹揚に頷いてみせた。そうだな、と言葉を添えて。
 ぱっと彼女の表情が明るくなった。再びはっきりと彼を見上げて、元気に思いのたけを語り始める。

「そうだろう? 楽しいだろう? 初めてした時、世の中にこんなに楽しいことがあるのかと思った。窮屈な服を着て日がな一日じっとしてるより、人の役にも立てる。洗濯は素敵だ!」

 彼は、ぷ、と吹きだした。洗濯が素敵だとは、なんと無邪気なことか!

「なぜ笑う!?」

 むっとして声を荒げた彼女に、彼はくすくすと笑いやまないままに答えた。

「あなたは、かわいい人だ」

 彼女は目を見開いて、彼を見つめ返した。驚きに呆然としているその顔も、とても可愛らしいもので、彼の心は浮き立った。
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