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第十章 バートリエ事変
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当日の朝は酷く冷えた。薄靄がかかって空気がしっとりとしている。ゲルダ衣裳店のチェイニー婦人おすすめのマントは、とても暖かかったが、いつのまにか首周りの毛皮の先に細かな水滴が付いていて、ソランは手袋をした手でそれを払った。
朝食をすませ、船を降り、馬に乗る。キエラに行く途中で乗り換えた際に置いてきた、領地から連れてきた愛馬だった。そこからこちらに直接連れてこられていたらしい。
久しぶりに会った彼女は、多少拗ねていたのだろう、鼻面で手荒く押され、ソランは蹈鞴を踏んだ。笑って、ごめん、と謝り、機嫌を取るために、昨日のうちに船の調理室から貰っておいた砂糖の塊を与える。今日は頼んだよ、と声をかけると、早く乗れとばかりに鐙をソランに向けてきた。
馬に上り、騎上の殿下へと首をめぐらす。目が合い、頷きが返ってきた。着込んだ甲冑と豪華なマントのせいで、今日はひときわ大きく見える。
殿下と今朝は、いや、二日前にこちらへ着いてから、私的な言葉をほとんど交わしていない。夜に、寝室に二人きりになってもだった。
軍事行動中であるし、船の中だということもあり、お互い着替えることもなく上着を脱ぎ、衣服を弛めただけの格好で、共に寝台に入る。そうして寄り添い合い、自然に口付けを交わした。それは、別の人間であるはずなのに、心の境界が消えて混じり合っていくような、とても濃密な行いで、今さら語り合うこともなかったのだ。
ジェナスは今回のことを、ソランがこうするように殿下が仕向けたのだと感じているようだったが、けっしてそうではない。殿下には、この状況でソランが取るだろう行動が、本人以上にわかっていただけで、ソランにもやるべきことが見えている今は、ホルテナたちのテントで別れた時のような混乱はなくなっていた。
物事の流れというべきものが感じられ、二人で同じものを見ているのだという感覚がある。
恐れはない。迷いもない。気負いもない。前に真っ直ぐに開いて見える道を進むだけ。
殿下は泰然自若としていて、だから、あたりには盛んに伝令と確認の声が飛び交い、忙しない雰囲気があっても、その存在感にまわりの人間も安心して、落ち着いて行動しているのが見て取れた。
ソランもまた、その傍らで警護につきながら、静謐な空気を纏っていた。
日の光が朝の色を脱ぎ捨てた頃、朝靄は晴れ、青い空が見えてきた。バートリエの防壁に立つ見張りの姿が入れ代わり立ち代りしているのも見える。それまで囲むだけ囲んで攻める様子もなかったウィシュタリア軍が、陣を組んでいるのだ。中は大騒ぎなのだろう。
とは言っても、たいした陣を布いているわけではない。防壁上からの弓の攻撃が届かない二百メートルほど離れた所に、バートリエを等分に囲むように六台の大砲が配置され、軍も六つに分けてその後ろに展開しているだけだ。
防壁との間は何もない。何もないように、相手が来る前に整地してしまった。
普通は篭城する側がそういったことをする。敵に資材や身を隠す場所を与えないためだ。また、軍を細かく分割して配するのも、下策の類になるだろう。
それでもこうしたのは、大砲を最大限に見せつけるためであった。また、こちらは烏合の衆とはいえ一万人を擁しており、圧倒的な兵力差があったからでもある。
その一万人すら表にいる人数で、その一万の反乱に備えて、密かにもう一万五千の兵が近隣に伏せられていた。今回の事は、これ以降の軍事行動を想定した演習にもなっているのだ。
防壁の上の人数が減り、元々の見張りのみになったようだ。その報告を受けて、殿下が鋭く命令を発した。
「撃て」
復唱がなされ、軍笛が吹き鳴らされる。呼応して離れた五つの陣からも軍笛の音が響き、やがて前後して六つの大砲が火を吹いた。
体に直接衝撃を与える轟音が響き渡り、同時に防壁の一部が崩れ、もうもうと砂埃を上げた。全軍にどよめきが奔る。
続いて着弾位置を変えながら、次々と打ち込んでいく。その度に兵たちは黙りこんでいった。動揺の色を浮かべながら、固唾を呑んで見守る。全部で三十発ほどが打ち込まれたところで、防壁は子供の積み木が崩れるように、音を立てて崩れ落ちた。
砂埃が収まると、瓦礫の向こうにバートリエの町並みが見えていた。
そうしてあたりを支配したのは、喜びの歓声ではなく、恐怖からくる沈黙だった。
朝食をすませ、船を降り、馬に乗る。キエラに行く途中で乗り換えた際に置いてきた、領地から連れてきた愛馬だった。そこからこちらに直接連れてこられていたらしい。
久しぶりに会った彼女は、多少拗ねていたのだろう、鼻面で手荒く押され、ソランは蹈鞴を踏んだ。笑って、ごめん、と謝り、機嫌を取るために、昨日のうちに船の調理室から貰っておいた砂糖の塊を与える。今日は頼んだよ、と声をかけると、早く乗れとばかりに鐙をソランに向けてきた。
馬に上り、騎上の殿下へと首をめぐらす。目が合い、頷きが返ってきた。着込んだ甲冑と豪華なマントのせいで、今日はひときわ大きく見える。
殿下と今朝は、いや、二日前にこちらへ着いてから、私的な言葉をほとんど交わしていない。夜に、寝室に二人きりになってもだった。
軍事行動中であるし、船の中だということもあり、お互い着替えることもなく上着を脱ぎ、衣服を弛めただけの格好で、共に寝台に入る。そうして寄り添い合い、自然に口付けを交わした。それは、別の人間であるはずなのに、心の境界が消えて混じり合っていくような、とても濃密な行いで、今さら語り合うこともなかったのだ。
ジェナスは今回のことを、ソランがこうするように殿下が仕向けたのだと感じているようだったが、けっしてそうではない。殿下には、この状況でソランが取るだろう行動が、本人以上にわかっていただけで、ソランにもやるべきことが見えている今は、ホルテナたちのテントで別れた時のような混乱はなくなっていた。
物事の流れというべきものが感じられ、二人で同じものを見ているのだという感覚がある。
恐れはない。迷いもない。気負いもない。前に真っ直ぐに開いて見える道を進むだけ。
殿下は泰然自若としていて、だから、あたりには盛んに伝令と確認の声が飛び交い、忙しない雰囲気があっても、その存在感にまわりの人間も安心して、落ち着いて行動しているのが見て取れた。
ソランもまた、その傍らで警護につきながら、静謐な空気を纏っていた。
日の光が朝の色を脱ぎ捨てた頃、朝靄は晴れ、青い空が見えてきた。バートリエの防壁に立つ見張りの姿が入れ代わり立ち代りしているのも見える。それまで囲むだけ囲んで攻める様子もなかったウィシュタリア軍が、陣を組んでいるのだ。中は大騒ぎなのだろう。
とは言っても、たいした陣を布いているわけではない。防壁上からの弓の攻撃が届かない二百メートルほど離れた所に、バートリエを等分に囲むように六台の大砲が配置され、軍も六つに分けてその後ろに展開しているだけだ。
防壁との間は何もない。何もないように、相手が来る前に整地してしまった。
普通は篭城する側がそういったことをする。敵に資材や身を隠す場所を与えないためだ。また、軍を細かく分割して配するのも、下策の類になるだろう。
それでもこうしたのは、大砲を最大限に見せつけるためであった。また、こちらは烏合の衆とはいえ一万人を擁しており、圧倒的な兵力差があったからでもある。
その一万人すら表にいる人数で、その一万の反乱に備えて、密かにもう一万五千の兵が近隣に伏せられていた。今回の事は、これ以降の軍事行動を想定した演習にもなっているのだ。
防壁の上の人数が減り、元々の見張りのみになったようだ。その報告を受けて、殿下が鋭く命令を発した。
「撃て」
復唱がなされ、軍笛が吹き鳴らされる。呼応して離れた五つの陣からも軍笛の音が響き、やがて前後して六つの大砲が火を吹いた。
体に直接衝撃を与える轟音が響き渡り、同時に防壁の一部が崩れ、もうもうと砂埃を上げた。全軍にどよめきが奔る。
続いて着弾位置を変えながら、次々と打ち込んでいく。その度に兵たちは黙りこんでいった。動揺の色を浮かべながら、固唾を呑んで見守る。全部で三十発ほどが打ち込まれたところで、防壁は子供の積み木が崩れるように、音を立てて崩れ落ちた。
砂埃が収まると、瓦礫の向こうにバートリエの町並みが見えていた。
そうしてあたりを支配したのは、喜びの歓声ではなく、恐怖からくる沈黙だった。
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