暁にもう一度

伊簑木サイ

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閑話集 こぼれ話

マリーの憂鬱3-3

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 ふうっと意識が浮上して、ぽかりと目を覚ました。

「ああ、よかった、マリー。具合はどうだ?」

 イアルがマリーの頭を撫でながら、酷く心配した顔で聞いた。

「どうして」

 殿下の館で、イアルとマリーに与えられた部屋だった。なんとなく記憶があやふやで、囁くように聞き返すと、イアルはもっと心配したように眉を寄せた。

「ソランの部屋で倒れたんだ」
「ソラン?」

 鸚鵡返しに呟くと、さっきあったことが頭の中に閃いた。飛び起きて、ベッドの上で立ちくらみを起こす。額を押さえて俯いて、それでも鋭く言い放った。

「あんたなんか、大っ嫌い! 離婚よ! 出て行って!」
「何を突然」
「嘘つき! 騙したくせに!」

 あまりの悔しさに、口惜しいことに涙が滲んでくる。

「何の話だ」

 困惑した声に怒りがあおられ、顔を上げて睨みつけた。

「知ってたんでしょう、殿下がソランに手を出していないって」
「ああ。話しただろう? 戦の前だからって」
「聞いてない!」
「君は戦の前に子種を残すのは男の義務だって言った」

 はっとする。それは言った記憶があった。そう口にした時、この男の子を欲しいと、なぜか思った。この男の何かをこの世に留めたいと。そうしなければ、後悔すると。
 イアルは、いつもマリーが途方に暮れたときに傍にいる。追い払ってもまとわりつく。どんなに逃げてもいつの間にかマリーを捕まえている。だから、決してマリーを一人にしないと思っていたのに。安心できたのに。

「嘘つき」

 ――幸せにするなんて、嘘だ。この男は駄目だ。いつも私を置いていく。それでいつかきっと、帰って来ない。
 そんなのは耐えられなかった。二度も味わえば、充分だった。これ以上あんな思いをするのはごめんだった。

「顔も見たくない。出てってよ」

 勝手に湧いて出た涙が、ぼろぼろ零れ落ちた。

「マリー」

 頭を抱え込まれる。つっぱねようと思ったのに、懐かしい匂いを吸い込んだとたん、体から力が抜けた。胸の奥が痺れて、熱くなる。

「やだぁ」

 マリーはしゃくりあげた。なんでこんなに弱くなってしまうのだ。男なんて、大嫌いなのに。臭いし、暑苦しいし、男だってだけで偉そうで、いつまでもガキっぽくて、スカートめくったり、人の胸をじろじろ見たり、失礼で、デリカシーがなくて、大飯食らいで、自分勝手で、――私のことまで守ってなんて頼んでもないのに、おっとづらして勝手に決めて。

「離婚するぅ」

 ぐすぐすと訴える。

「しない」
「あんたなんか大っ嫌いなのよっ」
「どうして?」
「勝手に決めるから」
「何を?」

 少しもうろたえたりしないで冷静に聞き返してくるイアルに、きいっと頭にくる。頭を振って抱え込まれている手を弛めさせて顔を上げようとするのに、もっと強く肩ごと抱きすくめられる。マリーは腹立たしさに、イアルの背に腕をまわして拳を叩き付けた。

「置いていったくせに!」

 言ったとたん、感情が高ぶって、たくさんの涙が出てきた。

「当たり前だ。君を戦には連れて行けない」

 キエラに行く前と同じことを同じ口調で言い聞かされる。

「私だってジェナシスの女だものぉ。戦えるものぉ」

 もっと強い調子で言いたいのに、涙が邪魔をして、駄々をこねているようにしか言えなかった。

「うん。知ってる。それでも、俺が嫌なんだ」

 涙が壊れたみたいに出てくる。マリーは鼻をすすり上げて、言葉にできない何かを拳に込めて、何度もイアルの背を叩いた。

「なあ、俺に言うことはない?」

 声はどこまでも優しくて、抱き締める体は逞しくてあたたかくて、うっかりここは安心な場所なのだと思ってしまいそうになる。いつまであるかわからない場所なのに。

「お腹を触ってばかりいるだろ。それって」

 その言葉に、マリーは恐怖を感じて息をひゅっと吸い込んで止めた。だから会いたくなかった。傍に行けば、見抜かれてしまうのではと恐れていた。イアルはいつもよくマリーを見ているから。
 力いっぱいイアルから離れようとする。

「マリー」
「いやっ、いやっ、あんたなんか、嫌い、離婚」
「しない! マリー、落ち着いて、危ないから」
「大丈夫だもの。離してよ!」
「マリー、落ち着いてくれ」
「離してっ」

 悲鳴のように叫んだ。なのに反対にしっかり抱え込まれて、急に視界が反転した。体が倒れる感覚に身を強張らせる。次の瞬間には背中が柔らかくベッドに受け止められても、速い鼓動に喘いで、呆然と天井を眺めているしかなかった。
 怖かった。怖くて堪らなかった。ベッドから落ちたかと思った。不用意に尻餅でもついていたら、そうしたら、取り返しがつかないことになっていたかもしれなかった。

 イアルはマリーを押し倒して体重を掛けないように羽交い絞めにしていたが、マリーにはもう暴れる気力は残っていなかった。

「マリー。俺たちはこれからも君を置いていく。何度でもそうする。でも、謝らない。それだけは譲れないから。我慢してもらうしかない」

 恐怖に止まっていた涙が、それを聞いてまた出てきた。

「ねえ、マリー。それは君を守って傷つけたくないからだけど、君に俺たちが帰る場所を守ってもらいたいからでもあるんだ。この子も、そうだよ」

 イアルが顔を上げ、マリーの顔を上から覗き込んだ。

「いるんだろ? ここに」

 マリーは震える唇を引き結んで、涙に歪んで揺れるイアルの顔を黙って見つめた。

「黙っているのは、また置いていかれるのが嫌だから?」

 鼻を啜って、しゃくりあげて。

「それは大丈夫だと思う。この状態のマリーをソランから離したら、毎日心配して、きっとマリーの許まで訪ねて行こうとする。だったら、目の届くところに置いておけという話になるはずだ。俺もこれ以上単身赴任みたいなのはご免だし」

 瞬きしたら涙が全部零れ落ちて、イアルの穏やかな笑みが見えた。胸の中に、何かがこみ上げる。

「本当?」
「ああ。必ず、そうさせる」

 信じていい気がして、いや、信じてしまって、こみ上げた何かに押されるままに、マリーは自分からイアルに抱きついた。イアルはマリーを抱き締め直して、離さないままゆっくりと体を横にして、ベッドに横たわった。

「まだ、誰にも言ってないのか?」

 マリーは頷いた。

「俺が一番か」

 嬉しそうに笑う。
「じゃあ、後で、一緒にソランや殿下に相談をしに行こう」

 そう言って、マリーの頭のてっぺんにキスをした。マリーはイアルの体にまわした腕に力を込めて、すがりついた。
 そうしてイアルの体温を確かめる。心が体が満たされていく。それまでの不安が嘘のように消えて、代わりに切なくなった。

「イアル」
「なに?」

 名を呼びたくなっただけだった。少し考えて、まだ言ってなかった言葉を続けた。

「おかえりなさい」
「ああ。ただいま」

 マリーは、溜息のような笑い声を漏らした。その言葉が聞けたことが、なんだか無性に嬉しかった。
 そして、この人と私は生きていくのだと、素直に思えたのだった。
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