暁にもう一度

伊簑木サイ

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閑話集 こぼれ話

ディーの休暇5

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 どうやら俺は、彼女を激怒させたらしい。それから後の二日は必要事項以外口を利かなかった。なんともいえない話しかけにくい雰囲気があって、さすがの俺でも話しかけられなかったのだ。
 まあ、今さらである。むしろ今まで彼女がよく我慢してくれたものだとすら思う。俺は関係を改善することを諦めて、受け入れることにした。

 領主館に着くと、父と挨拶を交わすのもそこそこに、母の許へと案内された。実は一年ほど前から体が弱り、寝たきりになっていたのだと告げられた。

「おまえに教えても、心を痛めるだけだろうと思ってな。すまなかった」

 父は実直な人だ。堅実な策を取る人でもある。情に厚くもある。それを先代、つまり俺の祖父に見出されて、母と結婚した。派手な人ではない。野心もない。でも、この人の息子と生まれられたことは、俺にとって誇りだ。

 俺はシリンの手を取って、父の後に続き、母の部屋に入った。俺は母の前では、『ディエンナ』の婚約者を装うことが多い。そうでなければ、領主夫人である母に近付くことはできなかった。
 ベッドの脇で父が穏やかに呼びかけると、母は目を覚ました。俺たちの姿を認め、優しく笑う。

「ああ、ディエンナ、よく顔を見せて」

 シリンをエスコートして進み、ベッドに近付いたところで、俺は邪魔をしないように脇に控えた。その俺の目の前に、細い腕が差し出される。

「お帰りなさい、ディエンナ」

 俺は控え目に視線を上げた。母は確かに俺を見ていた。目が合うと、嬉しそうに微笑む。

「ディエンナ?」

 俺には返事ができなかった。母は時に正気に見えることがある。しかしそれは、だいたい狡猾に俺を試しているのだ。俺が本物のディエンナかどうか。幼い日に、はい、と答えて蝋燭立てで殴られた時の痛みが甦る。
 傷は今も頭に残る。掻き分けるとそこが禿げている。けれど、そんなのはどうでもよかった。この肉体は一時与えられたものにすぎない。いずれは土に返るものだ。それに痛みは傷が治れば治まる。本当に痛かったのは、心だった。

 俺は母を慕っている。
 子を亡くした女の痛みは、繰り返す生の中で俺も味わったものだったし、忘れることも慣れることもできず、心を狂わせるほど子を愛する彼女は、本当に愛情深い人なのだろう。だけど、彼女を慕うのはそんな理由ではなかった。それはただ、俺が彼女の子供だからだった。
 不思議だが、何度生まれても、何度酷い目に遭っても、それでも生まれれば親を愛さずにはいられない。人はそういうふうにできているらしい。それが自分にとって良い親か悪い親かなど関係ない。ただひたすらに愛してしまうのだ。
 たとえ成長するにしたがって憎もうが嫌おうが、その根底には本能的に刷り込まれた愛情がある。だからこそ憎しみも嫌悪も生まれるのだ。そうでなければ無関心になれるだろうに。その方がずっと楽であろうに。

 俺には父がつけてくれた名があった。でも、俺は口が利けるようになると、ディエンナがいいと言ったのだ。そう呼ばれたいのだと。
 母が愛しさと優しさを込めて呼ぶ名が好きだった。本当に幼い頃のひととき、俺はディエンナと呼ばれながら、母に深く愛されていた。
 それが変わってしまっても、俺がディエンナであるかぎり、それを受け取る資格があるように感じていた。憎しみでも拒絶でもよかった。俺の存在が母を傷つけるとわかっていても、母と繋がっていたかった。

「ディエンナ?」

 母の表情が翳った。俺が答えても答えなくても彼女を傷つけるなら、これ以上躊躇う理由はなかった。

「はい、お母様」

 彼女は微笑んで、もっとと俺へと手を振った。それへ手を伸ばすと、力なく指を握られた。冷たく細く生気のない手だった。
 ああ、この人は近い内に死ぬのだと知った。数限りなく見てきた死の影が、そこに確かに見えていた。

 母は小声で子守唄を歌いだした。赤ん坊の頃、確かにこんなふうに俺の指を握って、彼女は歌ってくれたのだった。


   小鳥は羽根を休め、花も眠る。
   星々はさんざめき、月は夜空へ漕ぎだす。
   おやすみ、私のかわいい子。
   明日も愛しいあなたのために、お日様は昇る。


 歌い終わる頃、彼女は疲れきって、眠りへと滑り込んでいった。ベッドの上へと彼女の手が落ちる。その手を思わず追って屈んだ時、雫がぽたぽたと落ちて、俺は自分が泣いているのに気付いた。
 彼女の愛情が優しくて痛くてしかたなかった。



 そうして母はとろとろと眠り、時々目を覚ましては微笑んで、二日後に女神の御許へ旅立った。
 もう、地上にも、そして冥界にも、母はいない。女神の腕に抱かれて、辛かった今生の痛みも、きっと癒されたことだろう。未来永劫母に会えないのは、酷く淋しく悲しく辛く、胸が苦しくて痛かった。
 けれど、世界があるかぎり、母だった魂は幾度でもこの世に生まれてくる。

 だから、より良き明日を招き寄せたいと思わずにはいられない。死んでは生まれくる、愛した彼らとの未来のために。俺の出来るかぎりの力で。
 彼らとまたいつか、幸せな出会いができるように。
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