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閑話集 四季折々
花の中の花(ディーのお節介、あるいは平和の定義)
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王太子の執務室には、外の季節をあしらって、所々に豪華に草花が飾ってある。
春風の心地よいその日、生けられたのは、王太子殿下の目の色によく似た瑞々しい若葉と、白と黄色の花々だった。
これまで、そんなものはひっくり返って書類が水浸しになるのがオチだと、殿下を筆頭にむさくるしい男どもが邪険にしてきたのだったが、殿下の結婚を機に、共に部屋で過ごすことの多い妃殿下を慮って、そんな殺伐とした風潮も改められたのだった。
……そう。例えば、こんな時のためにと。
根を詰めた仕事に一区切りがつき、二人は執務机を離れ、ソファに座った。護衛や補佐官も退室し、ようやくくつろいだ気分になったところで、妃殿下はおもむろに封筒を取り出した。
「なんだそれは?」
「さっき、ディーに、二人きりになったら読んでくださいと言われて渡されたんです」
妃殿下は封もされていないそこからカサカサと手紙を抜き出して、開いて見た。怪訝な顔をする。
「『声に出して読んでください』?」
「ふうん。で、なんと?」
妃殿下は一枚めくって、あ、と言った。
「『あ』?」
「ええ。それだけです」
彼女は夫にその紙を渡し、その下から現れた文字に、首を傾げる。
「次は、『な』だけですね」
「その次は?」
殿下は面白そうに、『な』と書かれた紙を妻の手から抜き取った。
「『た』? これで終わりです」
「そのようだな。順番に続けて読んでみろ」
「あ・な・た?」
たどたどしく言った彼女の頬に手を伸ばし、殿下は自分へと向けさせた。
「ああ。なんだ?」
呼ばれたかのように応えられ、それでようやく鈍い妃殿下も、これが何を指しているのか気付き、どぎまぎとした表情で、目を泳がせた。
「そうだな。私ばかりが『おまえ』呼ばわりでは釣り合わぬな。夫婦となったのだから、おまえも私を『あなた』と呼ぶといい」
「……ありがとうございます」
妃殿下は礼を口にしたが、嬉しそうではなく、むしろ逃げ出したそうだった。
殿下は、困り顔で沈黙した妻の手から、残りの手紙も奪って投げ捨てて、彼女の頬を撫でながら、それはそれは楽しげに囁きかけた。
「どうもこれは特訓が必要なようだな。さりげなく『あなた』と呼べるようになるまで、しっかり付き合ってやろう」
そう勝手に宣言すると、まずは右の頬にやさしく口付け、それから彼女の瞳を覗きこもうとした。
彼女は心中、困惑とも憤慨とも諦めともつかないものに、めまぐるしく翻弄されていた。
なにしろ夫である殿下は、言い出したら聞かない人である。しかも羞恥心の少ない人でもあった。人前でそれは恥ずかしいだろうということでも、平気で要求する。嫌だと言っても、どうしてかと逆に問い返してくる始末だった。
彼女にとっては、『あなた』などという呼び名は、親密さが過ぎて、恥ずかしい限りでしかない。他の者も時々使う『アティス様』と呼ぶのさえ、まだどきどきとして苦しいのだ。もう少しそれに慣れるまで、とても次の段階にはすすめなかった。心臓がもつとは思えなかったのだ。
だから彼女は、精一杯の抵抗で、視線で強要されないように、けっして目を合わせようとしなかった。
彼はそんな彼女の様子に、人の悪い笑みを浮かべて、今度は左の頬に口付けた。そうして再びまなざしで催促をしようとしたのだが、彼女は必死に拒んで、ぎゅっと目をつぶってしまったのだった。
それにも彼は躊躇わず、続けて左右の瞼に、順番に丁寧な口付けを落とす。そんなことで怯む神経を、彼は持ち合わせていないのだ。
ただただ妻の答えを求めて、次々と白くすべらかな肌をついばんでいく。鼻の頭、額、こめかみ、耳たぶ、顎の線にそって。幾度も、幾度も。
そしてとうとう唇に辿り着いたところで、ぴくりと震えて、ついに妃殿下は目を開けた。少し体を引いて離れ、夫を非難を込めたまなざしで見る。
面白がって、からかっているでしょう、と。
彼はそれに、くっ、と笑った。
妻が怒ったふうをして見せてはいても、こうされるのが嫌なわけではないと、見抜いたからだった。
そうでないなら、なんだというのだろう。
彼女の頬は色づき、瞳は潤み、体のそこかしこから色気がたちのぼっている。まるで、花開き、甘い香りで蝶や蜜蜂を誘う、大輪の花そのものだ。
彼が口説いているつもりだったのに、いつのまにやら反対に誘惑され、口説かれているに等しい状態だった。しかもそれが、彼女は全部無意識なのである。
「おまえは本当に」
性質が悪い。それが本音だったが、殿下は別の言葉に置き換えた。
「強情だな。私がこんなに望んでいるのに、いいかげん呼んでくれてもよかろう?」
彼にはよくわかっていた。頭ごなしに言っても、彼女は聞かない。だが、懇願されれば弱いのだ。
「ソラン?」
呼べば、迷った瞳でうつむく。
殿下はしばらく妻を見守った。
彼女は気難しげに柳眉を顰めながら、時折唇を開いては、また閉ざすのを繰り返している。はくはくと、意味もなく、何度も。
彼は、妻のそんな葛藤ぶりがいじらしく、愛おしくてたまらない気持ちになった。
「……まったく。どうしようもなく可愛いな、おまえは」
殿下は、くすりと笑って、もう一度頬に口付けた。先程よりももっと優しく、思いを込めていくつものキスを落としていく。
新妻が根負けして彼の望む呼び名を口にするまで。いや、彼の熱に蕩けて、素直に呼べるようになるまで。
彼は甘く容赦のない要求を続けたのだった。
そして、休憩の終わりを告げ、仕事の再開を催促しにきたディーに、半ば押し倒されている場面を目撃された妃殿下が、圧し掛かったまま退いてくれない殿下を思わず投げ飛ばしたのは、当然といえば当然の成り行きで。
……つまりは、今日も、ウィシュタリアは平和なのだった。
**********
以上ですべて終わりです。お付き合いありがとうございました!
春風の心地よいその日、生けられたのは、王太子殿下の目の色によく似た瑞々しい若葉と、白と黄色の花々だった。
これまで、そんなものはひっくり返って書類が水浸しになるのがオチだと、殿下を筆頭にむさくるしい男どもが邪険にしてきたのだったが、殿下の結婚を機に、共に部屋で過ごすことの多い妃殿下を慮って、そんな殺伐とした風潮も改められたのだった。
……そう。例えば、こんな時のためにと。
根を詰めた仕事に一区切りがつき、二人は執務机を離れ、ソファに座った。護衛や補佐官も退室し、ようやくくつろいだ気分になったところで、妃殿下はおもむろに封筒を取り出した。
「なんだそれは?」
「さっき、ディーに、二人きりになったら読んでくださいと言われて渡されたんです」
妃殿下は封もされていないそこからカサカサと手紙を抜き出して、開いて見た。怪訝な顔をする。
「『声に出して読んでください』?」
「ふうん。で、なんと?」
妃殿下は一枚めくって、あ、と言った。
「『あ』?」
「ええ。それだけです」
彼女は夫にその紙を渡し、その下から現れた文字に、首を傾げる。
「次は、『な』だけですね」
「その次は?」
殿下は面白そうに、『な』と書かれた紙を妻の手から抜き取った。
「『た』? これで終わりです」
「そのようだな。順番に続けて読んでみろ」
「あ・な・た?」
たどたどしく言った彼女の頬に手を伸ばし、殿下は自分へと向けさせた。
「ああ。なんだ?」
呼ばれたかのように応えられ、それでようやく鈍い妃殿下も、これが何を指しているのか気付き、どぎまぎとした表情で、目を泳がせた。
「そうだな。私ばかりが『おまえ』呼ばわりでは釣り合わぬな。夫婦となったのだから、おまえも私を『あなた』と呼ぶといい」
「……ありがとうございます」
妃殿下は礼を口にしたが、嬉しそうではなく、むしろ逃げ出したそうだった。
殿下は、困り顔で沈黙した妻の手から、残りの手紙も奪って投げ捨てて、彼女の頬を撫でながら、それはそれは楽しげに囁きかけた。
「どうもこれは特訓が必要なようだな。さりげなく『あなた』と呼べるようになるまで、しっかり付き合ってやろう」
そう勝手に宣言すると、まずは右の頬にやさしく口付け、それから彼女の瞳を覗きこもうとした。
彼女は心中、困惑とも憤慨とも諦めともつかないものに、めまぐるしく翻弄されていた。
なにしろ夫である殿下は、言い出したら聞かない人である。しかも羞恥心の少ない人でもあった。人前でそれは恥ずかしいだろうということでも、平気で要求する。嫌だと言っても、どうしてかと逆に問い返してくる始末だった。
彼女にとっては、『あなた』などという呼び名は、親密さが過ぎて、恥ずかしい限りでしかない。他の者も時々使う『アティス様』と呼ぶのさえ、まだどきどきとして苦しいのだ。もう少しそれに慣れるまで、とても次の段階にはすすめなかった。心臓がもつとは思えなかったのだ。
だから彼女は、精一杯の抵抗で、視線で強要されないように、けっして目を合わせようとしなかった。
彼はそんな彼女の様子に、人の悪い笑みを浮かべて、今度は左の頬に口付けた。そうして再びまなざしで催促をしようとしたのだが、彼女は必死に拒んで、ぎゅっと目をつぶってしまったのだった。
それにも彼は躊躇わず、続けて左右の瞼に、順番に丁寧な口付けを落とす。そんなことで怯む神経を、彼は持ち合わせていないのだ。
ただただ妻の答えを求めて、次々と白くすべらかな肌をついばんでいく。鼻の頭、額、こめかみ、耳たぶ、顎の線にそって。幾度も、幾度も。
そしてとうとう唇に辿り着いたところで、ぴくりと震えて、ついに妃殿下は目を開けた。少し体を引いて離れ、夫を非難を込めたまなざしで見る。
面白がって、からかっているでしょう、と。
彼はそれに、くっ、と笑った。
妻が怒ったふうをして見せてはいても、こうされるのが嫌なわけではないと、見抜いたからだった。
そうでないなら、なんだというのだろう。
彼女の頬は色づき、瞳は潤み、体のそこかしこから色気がたちのぼっている。まるで、花開き、甘い香りで蝶や蜜蜂を誘う、大輪の花そのものだ。
彼が口説いているつもりだったのに、いつのまにやら反対に誘惑され、口説かれているに等しい状態だった。しかもそれが、彼女は全部無意識なのである。
「おまえは本当に」
性質が悪い。それが本音だったが、殿下は別の言葉に置き換えた。
「強情だな。私がこんなに望んでいるのに、いいかげん呼んでくれてもよかろう?」
彼にはよくわかっていた。頭ごなしに言っても、彼女は聞かない。だが、懇願されれば弱いのだ。
「ソラン?」
呼べば、迷った瞳でうつむく。
殿下はしばらく妻を見守った。
彼女は気難しげに柳眉を顰めながら、時折唇を開いては、また閉ざすのを繰り返している。はくはくと、意味もなく、何度も。
彼は、妻のそんな葛藤ぶりがいじらしく、愛おしくてたまらない気持ちになった。
「……まったく。どうしようもなく可愛いな、おまえは」
殿下は、くすりと笑って、もう一度頬に口付けた。先程よりももっと優しく、思いを込めていくつものキスを落としていく。
新妻が根負けして彼の望む呼び名を口にするまで。いや、彼の熱に蕩けて、素直に呼べるようになるまで。
彼は甘く容赦のない要求を続けたのだった。
そして、休憩の終わりを告げ、仕事の再開を催促しにきたディーに、半ば押し倒されている場面を目撃された妃殿下が、圧し掛かったまま退いてくれない殿下を思わず投げ飛ばしたのは、当然といえば当然の成り行きで。
……つまりは、今日も、ウィシュタリアは平和なのだった。
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以上ですべて終わりです。お付き合いありがとうございました!
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お菓子の詰め合わせのように、いろいろな面白さがある小説だと思います。
いつも更新ありがとうございます。
こちらこそ、読んでくださっている方がいて、励みになっています。
後もう少しなので、最後までお付き合いいただけるよう頑張ります!
感想嬉しかったです。ありがとうございました!