272 / 272
閑話集 四季折々
花の中の花(ディーのお節介、あるいは平和の定義)
しおりを挟む
王太子の執務室には、外の季節をあしらって、所々に豪華に草花が飾ってある。
春風の心地よいその日、生けられたのは、王太子殿下の目の色によく似た瑞々しい若葉と、白と黄色の花々だった。
これまで、そんなものはひっくり返って書類が水浸しになるのがオチだと、殿下を筆頭にむさくるしい男どもが邪険にしてきたのだったが、殿下の結婚を機に、共に部屋で過ごすことの多い妃殿下を慮って、そんな殺伐とした風潮も改められたのだった。
……そう。例えば、こんな時のためにと。
根を詰めた仕事に一区切りがつき、二人は執務机を離れ、ソファに座った。護衛や補佐官も退室し、ようやくくつろいだ気分になったところで、妃殿下はおもむろに封筒を取り出した。
「なんだそれは?」
「さっき、ディーに、二人きりになったら読んでくださいと言われて渡されたんです」
妃殿下は封もされていないそこからカサカサと手紙を抜き出して、開いて見た。怪訝な顔をする。
「『声に出して読んでください』?」
「ふうん。で、なんと?」
妃殿下は一枚めくって、あ、と言った。
「『あ』?」
「ええ。それだけです」
彼女は夫にその紙を渡し、その下から現れた文字に、首を傾げる。
「次は、『な』だけですね」
「その次は?」
殿下は面白そうに、『な』と書かれた紙を妻の手から抜き取った。
「『た』? これで終わりです」
「そのようだな。順番に続けて読んでみろ」
「あ・な・た?」
たどたどしく言った彼女の頬に手を伸ばし、殿下は自分へと向けさせた。
「ああ。なんだ?」
呼ばれたかのように応えられ、それでようやく鈍い妃殿下も、これが何を指しているのか気付き、どぎまぎとした表情で、目を泳がせた。
「そうだな。私ばかりが『おまえ』呼ばわりでは釣り合わぬな。夫婦となったのだから、おまえも私を『あなた』と呼ぶといい」
「……ありがとうございます」
妃殿下は礼を口にしたが、嬉しそうではなく、むしろ逃げ出したそうだった。
殿下は、困り顔で沈黙した妻の手から、残りの手紙も奪って投げ捨てて、彼女の頬を撫でながら、それはそれは楽しげに囁きかけた。
「どうもこれは特訓が必要なようだな。さりげなく『あなた』と呼べるようになるまで、しっかり付き合ってやろう」
そう勝手に宣言すると、まずは右の頬にやさしく口付け、それから彼女の瞳を覗きこもうとした。
彼女は心中、困惑とも憤慨とも諦めともつかないものに、めまぐるしく翻弄されていた。
なにしろ夫である殿下は、言い出したら聞かない人である。しかも羞恥心の少ない人でもあった。人前でそれは恥ずかしいだろうということでも、平気で要求する。嫌だと言っても、どうしてかと逆に問い返してくる始末だった。
彼女にとっては、『あなた』などという呼び名は、親密さが過ぎて、恥ずかしい限りでしかない。他の者も時々使う『アティス様』と呼ぶのさえ、まだどきどきとして苦しいのだ。もう少しそれに慣れるまで、とても次の段階にはすすめなかった。心臓がもつとは思えなかったのだ。
だから彼女は、精一杯の抵抗で、視線で強要されないように、けっして目を合わせようとしなかった。
彼はそんな彼女の様子に、人の悪い笑みを浮かべて、今度は左の頬に口付けた。そうして再びまなざしで催促をしようとしたのだが、彼女は必死に拒んで、ぎゅっと目をつぶってしまったのだった。
それにも彼は躊躇わず、続けて左右の瞼に、順番に丁寧な口付けを落とす。そんなことで怯む神経を、彼は持ち合わせていないのだ。
ただただ妻の答えを求めて、次々と白くすべらかな肌をついばんでいく。鼻の頭、額、こめかみ、耳たぶ、顎の線にそって。幾度も、幾度も。
そしてとうとう唇に辿り着いたところで、ぴくりと震えて、ついに妃殿下は目を開けた。少し体を引いて離れ、夫を非難を込めたまなざしで見る。
面白がって、からかっているでしょう、と。
彼はそれに、くっ、と笑った。
妻が怒ったふうをして見せてはいても、こうされるのが嫌なわけではないと、見抜いたからだった。
そうでないなら、なんだというのだろう。
彼女の頬は色づき、瞳は潤み、体のそこかしこから色気がたちのぼっている。まるで、花開き、甘い香りで蝶や蜜蜂を誘う、大輪の花そのものだ。
彼が口説いているつもりだったのに、いつのまにやら反対に誘惑され、口説かれているに等しい状態だった。しかもそれが、彼女は全部無意識なのである。
「おまえは本当に」
性質が悪い。それが本音だったが、殿下は別の言葉に置き換えた。
「強情だな。私がこんなに望んでいるのに、いいかげん呼んでくれてもよかろう?」
彼にはよくわかっていた。頭ごなしに言っても、彼女は聞かない。だが、懇願されれば弱いのだ。
「ソラン?」
呼べば、迷った瞳でうつむく。
殿下はしばらく妻を見守った。
彼女は気難しげに柳眉を顰めながら、時折唇を開いては、また閉ざすのを繰り返している。はくはくと、意味もなく、何度も。
彼は、妻のそんな葛藤ぶりがいじらしく、愛おしくてたまらない気持ちになった。
「……まったく。どうしようもなく可愛いな、おまえは」
殿下は、くすりと笑って、もう一度頬に口付けた。先程よりももっと優しく、思いを込めていくつものキスを落としていく。
新妻が根負けして彼の望む呼び名を口にするまで。いや、彼の熱に蕩けて、素直に呼べるようになるまで。
彼は甘く容赦のない要求を続けたのだった。
そして、休憩の終わりを告げ、仕事の再開を催促しにきたディーに、半ば押し倒されている場面を目撃された妃殿下が、圧し掛かったまま退いてくれない殿下を思わず投げ飛ばしたのは、当然といえば当然の成り行きで。
……つまりは、今日も、ウィシュタリアは平和なのだった。
**********
以上ですべて終わりです。お付き合いありがとうございました!
春風の心地よいその日、生けられたのは、王太子殿下の目の色によく似た瑞々しい若葉と、白と黄色の花々だった。
これまで、そんなものはひっくり返って書類が水浸しになるのがオチだと、殿下を筆頭にむさくるしい男どもが邪険にしてきたのだったが、殿下の結婚を機に、共に部屋で過ごすことの多い妃殿下を慮って、そんな殺伐とした風潮も改められたのだった。
……そう。例えば、こんな時のためにと。
根を詰めた仕事に一区切りがつき、二人は執務机を離れ、ソファに座った。護衛や補佐官も退室し、ようやくくつろいだ気分になったところで、妃殿下はおもむろに封筒を取り出した。
「なんだそれは?」
「さっき、ディーに、二人きりになったら読んでくださいと言われて渡されたんです」
妃殿下は封もされていないそこからカサカサと手紙を抜き出して、開いて見た。怪訝な顔をする。
「『声に出して読んでください』?」
「ふうん。で、なんと?」
妃殿下は一枚めくって、あ、と言った。
「『あ』?」
「ええ。それだけです」
彼女は夫にその紙を渡し、その下から現れた文字に、首を傾げる。
「次は、『な』だけですね」
「その次は?」
殿下は面白そうに、『な』と書かれた紙を妻の手から抜き取った。
「『た』? これで終わりです」
「そのようだな。順番に続けて読んでみろ」
「あ・な・た?」
たどたどしく言った彼女の頬に手を伸ばし、殿下は自分へと向けさせた。
「ああ。なんだ?」
呼ばれたかのように応えられ、それでようやく鈍い妃殿下も、これが何を指しているのか気付き、どぎまぎとした表情で、目を泳がせた。
「そうだな。私ばかりが『おまえ』呼ばわりでは釣り合わぬな。夫婦となったのだから、おまえも私を『あなた』と呼ぶといい」
「……ありがとうございます」
妃殿下は礼を口にしたが、嬉しそうではなく、むしろ逃げ出したそうだった。
殿下は、困り顔で沈黙した妻の手から、残りの手紙も奪って投げ捨てて、彼女の頬を撫でながら、それはそれは楽しげに囁きかけた。
「どうもこれは特訓が必要なようだな。さりげなく『あなた』と呼べるようになるまで、しっかり付き合ってやろう」
そう勝手に宣言すると、まずは右の頬にやさしく口付け、それから彼女の瞳を覗きこもうとした。
彼女は心中、困惑とも憤慨とも諦めともつかないものに、めまぐるしく翻弄されていた。
なにしろ夫である殿下は、言い出したら聞かない人である。しかも羞恥心の少ない人でもあった。人前でそれは恥ずかしいだろうということでも、平気で要求する。嫌だと言っても、どうしてかと逆に問い返してくる始末だった。
彼女にとっては、『あなた』などという呼び名は、親密さが過ぎて、恥ずかしい限りでしかない。他の者も時々使う『アティス様』と呼ぶのさえ、まだどきどきとして苦しいのだ。もう少しそれに慣れるまで、とても次の段階にはすすめなかった。心臓がもつとは思えなかったのだ。
だから彼女は、精一杯の抵抗で、視線で強要されないように、けっして目を合わせようとしなかった。
彼はそんな彼女の様子に、人の悪い笑みを浮かべて、今度は左の頬に口付けた。そうして再びまなざしで催促をしようとしたのだが、彼女は必死に拒んで、ぎゅっと目をつぶってしまったのだった。
それにも彼は躊躇わず、続けて左右の瞼に、順番に丁寧な口付けを落とす。そんなことで怯む神経を、彼は持ち合わせていないのだ。
ただただ妻の答えを求めて、次々と白くすべらかな肌をついばんでいく。鼻の頭、額、こめかみ、耳たぶ、顎の線にそって。幾度も、幾度も。
そしてとうとう唇に辿り着いたところで、ぴくりと震えて、ついに妃殿下は目を開けた。少し体を引いて離れ、夫を非難を込めたまなざしで見る。
面白がって、からかっているでしょう、と。
彼はそれに、くっ、と笑った。
妻が怒ったふうをして見せてはいても、こうされるのが嫌なわけではないと、見抜いたからだった。
そうでないなら、なんだというのだろう。
彼女の頬は色づき、瞳は潤み、体のそこかしこから色気がたちのぼっている。まるで、花開き、甘い香りで蝶や蜜蜂を誘う、大輪の花そのものだ。
彼が口説いているつもりだったのに、いつのまにやら反対に誘惑され、口説かれているに等しい状態だった。しかもそれが、彼女は全部無意識なのである。
「おまえは本当に」
性質が悪い。それが本音だったが、殿下は別の言葉に置き換えた。
「強情だな。私がこんなに望んでいるのに、いいかげん呼んでくれてもよかろう?」
彼にはよくわかっていた。頭ごなしに言っても、彼女は聞かない。だが、懇願されれば弱いのだ。
「ソラン?」
呼べば、迷った瞳でうつむく。
殿下はしばらく妻を見守った。
彼女は気難しげに柳眉を顰めながら、時折唇を開いては、また閉ざすのを繰り返している。はくはくと、意味もなく、何度も。
彼は、妻のそんな葛藤ぶりがいじらしく、愛おしくてたまらない気持ちになった。
「……まったく。どうしようもなく可愛いな、おまえは」
殿下は、くすりと笑って、もう一度頬に口付けた。先程よりももっと優しく、思いを込めていくつものキスを落としていく。
新妻が根負けして彼の望む呼び名を口にするまで。いや、彼の熱に蕩けて、素直に呼べるようになるまで。
彼は甘く容赦のない要求を続けたのだった。
そして、休憩の終わりを告げ、仕事の再開を催促しにきたディーに、半ば押し倒されている場面を目撃された妃殿下が、圧し掛かったまま退いてくれない殿下を思わず投げ飛ばしたのは、当然といえば当然の成り行きで。
……つまりは、今日も、ウィシュタリアは平和なのだった。
**********
以上ですべて終わりです。お付き合いありがとうございました!
0
この作品の感想を投稿する
みんなの感想(1件)
あなたにおすすめの小説
はじめまして、私の知らない婚約者様
有木珠乃@『ヒロ弟』コミカライズ配信中
ファンタジー
ミルドレッド・カーマイン公爵令嬢は突然、学園の食堂で話しかけられる。
見覚えのない男性。傍らには豊満な体型の女性がいる。
けれどその女性から発せられた男性の名前には、聞き覚えがあった。
ミルドレッドの婚約者であるブルーノ王子であることを。
けれどミルドレッドの反応は薄い。なぜなら彼女は……。
この世界を乙女ゲームだと知った人々による、悪役令嬢とヒロイン、魔女の入れ替え話です。
悪役令嬢を救いたかったはずなのに、どうしてこんなことに?
※他サイトにも掲載しています。
【完結】貧乏令嬢の野草による領地改革
うみの渚
ファンタジー
八歳の時に木から落ちて頭を打った衝撃で、前世の記憶が蘇った主人公。
優しい家族に恵まれたが、家はとても貧乏だった。
家族のためにと、前世の記憶を頼りに寂れた領地を皆に支えられて徐々に発展させていく。
主人公は、魔法・知識チートは持っていません。
加筆修正しました。
お手に取って頂けたら嬉しいです。
追放令嬢、辺境王国で無双して王宮を揺るがす
遊鷹太
ファンタジー
王国随一の名門ハーランド公爵家の令嬢エリシアは、第一王子の婚約者でありながら、王宮の陰謀により突然追放される。濡れ衣を着せられ、全てを奪われた彼女は極寒の辺境国家ノルディアへと流される。しかしエリシアには秘密があった――前世の記憶と現代日本の経営知識を持つ転生者だったのだ。荒廃した辺境で、彼女は持ち前の戦略眼と人心掌握術で奇跡の復興を成し遂げる。やがて彼女の手腕は王国全土を震撼させ、自らを追放した者たちに復讐の刃を向ける。だが辺境王ルシアンとの運命的な出会いが、彼女の心に新たな感情を芽生えさせていく。これは、理不尽に奪われた女性が、知略と情熱で世界を変える物語――。
大根令嬢の雑学無双、王弟殿下を添えて。~ 前世を思い出したので、許婚をほったらかして人助けしまくります!!
古森真朝
恋愛
気弱な伯爵令嬢のカレンは、自分勝手な婚約者レナートに振り回されていた。耐え続けていたある日、舞踏会で何者かに突き飛ばされ、階段から落ちてしまう。
その傷が元で儚く……なるかと思いきや。衝撃で前世を思い出したカレンは一転、かの『ド根性大根』みたいな超・ポジティブ人間になっていた。
『モラハラ婚約者の思惑なんぞ知るか!! 今度こそ好きなことやって、目いっぱい幸せに長生きするんだから!!!』
昔ひたすら読書に耽って身に着けた『雑学』を武器に、うっかり採れ過ぎた作物や、開墾しようとすると不幸に見舞われる土地、不治の病にかかった王族、等々の問題をどんどん解決。
領地の内外で心強い友人が出来たり、いつの間にかものすごく有名になっていたり、何かと協力してくれる王弟ヴィクトルから好意を寄せられたり(注:気付いてない)する中、温かい家族と共に仕事に励んでいく。
一方、前世から因縁のある人々もまた、こちらに転生していて――
【完結】転生7年!ぼっち脱出して王宮ライフ満喫してたら王国の動乱に巻き込まれた少女戦記 〜愛でたいアイカは救国の姫になる
三矢さくら
ファンタジー
【完結しました】異世界からの召喚に応じて6歳児に転生したアイカは、護ってくれる結界に逆に閉じ込められた結果、山奥でサバイバル生活を始める。
こんなはずじゃなかった!
異世界の山奥で過ごすこと7年。ようやく結界が解けて、山を下りたアイカは王都ヴィアナで【天衣無縫の無頼姫】の異名をとる第3王女リティアと出会う。
珍しい物好きの王女に気に入られたアイカは、なんと侍女に取り立てられて王宮に!
やっと始まった異世界生活は、美男美女ぞろいの王宮生活!
右を見ても左を見ても「愛でたい」美人に美少女! 美男子に美少年ばかり!
アイカとリティア、まだまだ幼い侍女と王女が数奇な運命をたどる異世界王宮ファンタジー戦記。
侯爵家の愛されない娘でしたが、前世の記憶を思い出したらお父様がバリ好みのイケメン過ぎて毎日が楽しくなりました
下菊みこと
ファンタジー
前世の記憶を思い出したらなにもかも上手くいったお話。
ご都合主義のSS。
お父様、キャラチェンジが激しくないですか。
小説家になろう様でも投稿しています。
突然ですが長編化します!ごめんなさい!ぜひ見てください!
積みかけアラフォーOL、公爵令嬢に転生したのでやりたいことをやって好きに生きる!
ぽらいと
ファンタジー
アラフォー、バツ2派遣OLが公爵令嬢に転生したので、やりたいことを好きなようにやって過ごす、というほのぼの系の話。
悪役等は一切出てこない、優しい世界のお話です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。
お菓子の詰め合わせのように、いろいろな面白さがある小説だと思います。
いつも更新ありがとうございます。
こちらこそ、読んでくださっている方がいて、励みになっています。
後もう少しなので、最後までお付き合いいただけるよう頑張ります!
感想嬉しかったです。ありがとうございました!