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エウル、公主を介抱する
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坂の突端に来たところで、赤い頭が少し動いて、下を見た。
「ひっ!?」
悲鳴混じりに息を吸い込み、もっとぎゅっとすがりついてくる。ところが、布の下の簪――だよな?――がコツリと胴鎧に当たったら、我に返ったように体を起こして距離を取った。
……気に入らない。
腰を抱えていた腕を背中にまわし、ぐいと引き寄せる。ぴたりと公主の体が胴鎧にくっつき、そのままおとなしくなった。
よし。
「行け」
こちらの逡巡を感じて足を止めていた馬が、坂を下りだした。
うわ、なんだ、なんだ、ずいぶん荒っぽいな。やる気満々なのはありがたいけど、尻が何度も突き上げられて跳ね上がる。公主は悲鳴にもならないみたいで、がっちがちの置物みたいになってしまっていた。もっとも、そうしていた方が舌を噛まない。俺よりポンポン跳ねる体が落ちないように、しっかり抱えてやっていた。
坂の終わり、林の中に入ったところで、一度馬を止めた。公主が、はっはっと浅い息を繰り返していたのだ。だいぶ怖い思いをさせてしまったようだった。
「耀華公主、一番の難所は終わったぞ。大丈夫か?」
背を何度か撫でてやると、ゆらりと赤い頭が上向いた。しかし、この布、本当に中が良く見えない。その「ゆらり」は何だ? 俺を見ているのか、声がしたから反応しただけか、それよりなにより、怖い思いをして大丈夫だったのか?
ぺらりと布をめくってみた。
茶色い瞳がまん丸に見開かれる。小さな白い花みたいな顔に、明らかな怯えが浮かんでいた。
俺も、思ったより幼い様子に、うろたえる。え? 嫁に寄こしたんじゃなかったのか? これ、まだ子供を産ませられなくないか?
みるみるうちに公主の頬が赤くなっていき、目に涙が溜まっていった。俺はあわてて布を戻した。
「エウル、どうした!?」
「おーい、大将、無事かー!?」
いつまでも留まる俺に、林の奥から、腹心達が迎えに出てきた。五人全員いる。異常はないようだった。
「ああ、無事だ。エニとマニは?」
「どっちかわからないけど、片方、あそこで遊んでる」
ウォリが顎でしゃくった方に目をやれば、林の奥の方で、マニが藪に鼻面を突っ込んで、ガサガサ何かしていた。近場の安全は確認できているようだ。エニはもっと遠くの方まで見に行ってくれているんだろう。
「マニ! エニのところまで案内してくれ!」
マニが藪から顔を出して、えー、今すぐ? という顔をしたが、じっと見つめていると、トットットットと歩きだした。
静かだった。のどかな鳥の声が遠くでするばかり。なだらかに下る道なき道を、マニを追って、ゆっくり行く。
公主も静かだった。チラチラと窺ってみるが、ずっとうつむいている。どんな顔をしているのかまた見たくなったけれど、もう一度布をめくり上げて確かめてみようという気にはなれなかった。
これ以上怯えさせたくない。泣かれたら困る。どんなに泣いたとしても、帝国には帰してやれないのだから。
とりあえず、叔母上のところまで行けば、叔母上が何とかしてくれるだろう。怖い顔の男より、女相手の方が、この子だって気が楽なはずだ。
少し気楽になって、馬を進めた。腹心達も公主が気になっているようだったが、目線で遠ざける。揃いも揃って体がでかい上に、内二人は強面だ。見たら公主は怯えるに違いない。
何事もなく、林を抜けた。エニとマニが、広い平原に向かって突っ走り、はしゃいでころげまわっている。あたりに怪しい人影もない。
ほっと気がゆるんだ、その時だった。何の前触れもなく、ずるりと公主の体がくずおれた。馬から滑り落ちていきそうになるのを、あわてて引っ張り上げ、両腕で抱える。
「公主? 公主?」
呼んでみるが、くったりとして返事がない。俺は急いで、彼女を馬から下ろした。
「エウル、公主がどうかしたのか?」
腹心達も馬を止めて寄ってきた。
「わからない。急に意識を失った」
意を決して布を剥ぐと、苦しそうに眉根を寄せた真っ青な顔が現れた。辛うじて息はしているが絶え絶えだ。少し服をゆるめてやる必要がありそうだったが、帝国の服の構造がよくわからない。こんな所で、帯をといたら全部ばらばらになったなんて事になったら、いくら子供でも相手は女だ、……叔母上に殺される。
「ホラム、スレイ、公主を休ませるテントを張れ。ナタル、野営の準備だ。ウォリ、宿営地から叔母上を連れて馬車を持ってきてくれ。リャノ、警戒を頼む」
エニとマニも、異変を察して戻ってきた。ふんふんと公主の匂いを嗅ぎ、服の端をぺろりと遠慮がちに舐める。新しく群れに入った仲間を心配しているのだろう。俺は苦笑して、二匹に話しかけた。
「この子を休ませなきゃならない。危ないことがないように、おまえたちもリャノの手伝いをしてくれるか? そのよく利く鼻で、知らないのが近付いてきたら教えるんだ。わかったか? さあ、頼んだぞ!」
それ以上は打つ手がなくて、俺は彼女を抱え込み、用意が整うのを待った。
外交官が最後にしつこく、大切に扱ってやってくれと繰り返していたのはこれだったのだ。まさかこれほど体が弱いとは思わなかったから、ただの常套句だと思って聞き流してしまった。
だって、そうだろう? 女っていうのは、男が放牧している間、家や年寄り、子供を守る、たくましく、怒らせるとやっかいな、子熊を連れた母熊と大差ない存在だ。狼だって必要とあらば殴り殺す。……閻では。帝国の女は、そうはいかなかったのだ。
己の愚かしさに歯噛みする。事態を甘く見ていた俺の失態だ。そのせいで、こんな子供に、辛い思いをさせてしまった。
「エウル、できたぞ」
ホラムとスレイに呼ばれて、公主をテントに運び込んだ。兜は入り口でつかえたので、脱いで脇に放った。
彼女を横たえると、無防備に手足が転がった。頭がのけぞって白い喉が見え、どきりとする。……なんだか、しどけなく見えたのだ。ふいに子供に見えなくなる。小さいけれど、女。
俺は困って、自分の顎をひっかいた。
「ええと、耀華公主、その、なんだ、とにかく、父祖の英霊にかけて、あんたを大切にすると誓う。だから、勝手に帯をとくのは許せ」
聞いてないとわかっていても、一応、一言断りを入れずにはいられなかった。それから、まず髪飾りに手をつけた。何はともあれこれを取らないと、じゃらじゃらと下がっている首飾りが引っ掛かって頭から外せそうにない。そしてその首飾りをどうにかしなければ、その下の服をどうこうするなど無理そうだった。
簪も髪留めも黄金でできていて、一つ一つがずっしりと重かった。それが、これでもかと髪に挿してある。どれも宝玉が惜しげもなく象眼されており、その価値はいかほどになるのか、そういうものに疎い俺にも、とんでもなく高価であろうことは察せられた。だから、外した物は慎重に隅の方に置いていった。
「うわっ?」
中央の大きな髪留めを外したら、ばらりと髪がほぐれた。……まずい。ちょっと元に戻そうとしてみたけど、よけいにぐしゃぐしゃになっただけだった。
「……まあ、いいだろ、命に別状はないし……」
急ぐことが先決だ。
ぼろぼろと抜け落ちかけている真珠や翡翠の付いたピンを次々抜いて、首の後ろで首飾りを纏めて握った。そおっと頭をくぐらせ、いっぺんに引き抜く。
「よし」
会心のできだった。手や足首に着いてるのは、そのままでもいいだろう。
帯にも諸々提げられていたが、それごとはずした。そうしてようやく服をくつろげてやった彼女の体は、とても薄いものだった。胸のふくらみは申し訳程度、むしろあばらの感触の方がよくわかる。手足など棒っきれだった。
そんな体に、これでもかというほど重ねて、重い金や宝石でできた装身具を纏わされている姿は、それがたとえ輿入れの持参金だったとしても、哀れを誘うものでしかなかった。
……まるで装身具が主で、それを飾り付けるために、彼女が用意されたような。
そうなのかもしれないと、ひび割れた彼女の指先を見つけて、思った。爪は綺麗に真っ赤に塗られていたが、それを囲む皮膚は固く、割れて痛々しいものだったのだ。
「お互い様か」
彼女の元々の出自がなんであっても、皇帝が指名した外交官が、公主だと言って差し出してきた女だ。その証に、すべての装身具に、皇帝を示す竜印が彫り付けられている。彼女はそういう役割を担った存在。それに変わりはなかった。
だいたい俺も、帝国側が期待しているような、次期王としての地位はない。優秀な兄が二人いるし、弟だってもう少し育てば不足はない。いずれにしても、その時が来れば、親父様が後継を決める。その前に、その候補から抜け出るために、この婚姻を引き受けたのだ。
俺は、なによりも家畜を育てるのが好きだ。政にはまったく興味がないし、戦など大嫌いだ。命を奪うのは一瞬だが、そこまで育て上げるには、膨大な手間暇がかかっている。それをすべて無駄にする戦になど、出たくない。殺すのも、殺されるのもごめんだった。
もちろん、一族の危機となれば、俺だって戦う覚悟はある。それでも、戦に一族を駆り立てなければならない役には、どうにもなれそうになかった。
親父様も兄弟も、俺のそんな性格はよく知っている。それで、皇帝の血を引く者が閻の王位に就くことがないようにし、血を理由に帝国に支配される危険を減らすためにも、――帝国から馬を奪って一触即発の状況を作った責任もあったし――公主の夫には俺がいいだろうとなったのだ。
だから、栄耀栄華は彼女に約束してやれない。それでも、天地に抱かれた、父祖伝来の生活は保障してやれる。食うに困ることだけはないはずだった。
マントをかけてやって彼女を見守っていると、ふるふると震えはじめた。首筋に触ってみれば、怖くなるような熱さになっていた。
これはいけない。
俺は鎧もはずし、テントの外へ放り出した。二人で横になるとすると、もう置く場所がなかったからだ。火を焚いて暖めてやりたかったが、煙が上がって目立つため、密かに行動したい今は、してやれない。
剣だけを手元に置き、俺は下着になって、幾重にもなった彼女の服をいくつか脱がし、彼女を抱き寄せた。その上から自分の服とマントを羽織る。
小さな体だった。ぐったりとした熱い体を抱いていると、内から燃え尽きてしまうんじゃないかと心許なくなる。
俺はしっかり抱き込んで、彼女の額に唇を当てた。魂は頭から抜けていくという。どうか体にとどまってくれと、願わずにはいられなかった。
「蒼天よ、どうか彼女をお守りください」
俺はまんじりともせず、祈り続けた。
「ひっ!?」
悲鳴混じりに息を吸い込み、もっとぎゅっとすがりついてくる。ところが、布の下の簪――だよな?――がコツリと胴鎧に当たったら、我に返ったように体を起こして距離を取った。
……気に入らない。
腰を抱えていた腕を背中にまわし、ぐいと引き寄せる。ぴたりと公主の体が胴鎧にくっつき、そのままおとなしくなった。
よし。
「行け」
こちらの逡巡を感じて足を止めていた馬が、坂を下りだした。
うわ、なんだ、なんだ、ずいぶん荒っぽいな。やる気満々なのはありがたいけど、尻が何度も突き上げられて跳ね上がる。公主は悲鳴にもならないみたいで、がっちがちの置物みたいになってしまっていた。もっとも、そうしていた方が舌を噛まない。俺よりポンポン跳ねる体が落ちないように、しっかり抱えてやっていた。
坂の終わり、林の中に入ったところで、一度馬を止めた。公主が、はっはっと浅い息を繰り返していたのだ。だいぶ怖い思いをさせてしまったようだった。
「耀華公主、一番の難所は終わったぞ。大丈夫か?」
背を何度か撫でてやると、ゆらりと赤い頭が上向いた。しかし、この布、本当に中が良く見えない。その「ゆらり」は何だ? 俺を見ているのか、声がしたから反応しただけか、それよりなにより、怖い思いをして大丈夫だったのか?
ぺらりと布をめくってみた。
茶色い瞳がまん丸に見開かれる。小さな白い花みたいな顔に、明らかな怯えが浮かんでいた。
俺も、思ったより幼い様子に、うろたえる。え? 嫁に寄こしたんじゃなかったのか? これ、まだ子供を産ませられなくないか?
みるみるうちに公主の頬が赤くなっていき、目に涙が溜まっていった。俺はあわてて布を戻した。
「エウル、どうした!?」
「おーい、大将、無事かー!?」
いつまでも留まる俺に、林の奥から、腹心達が迎えに出てきた。五人全員いる。異常はないようだった。
「ああ、無事だ。エニとマニは?」
「どっちかわからないけど、片方、あそこで遊んでる」
ウォリが顎でしゃくった方に目をやれば、林の奥の方で、マニが藪に鼻面を突っ込んで、ガサガサ何かしていた。近場の安全は確認できているようだ。エニはもっと遠くの方まで見に行ってくれているんだろう。
「マニ! エニのところまで案内してくれ!」
マニが藪から顔を出して、えー、今すぐ? という顔をしたが、じっと見つめていると、トットットットと歩きだした。
静かだった。のどかな鳥の声が遠くでするばかり。なだらかに下る道なき道を、マニを追って、ゆっくり行く。
公主も静かだった。チラチラと窺ってみるが、ずっとうつむいている。どんな顔をしているのかまた見たくなったけれど、もう一度布をめくり上げて確かめてみようという気にはなれなかった。
これ以上怯えさせたくない。泣かれたら困る。どんなに泣いたとしても、帝国には帰してやれないのだから。
とりあえず、叔母上のところまで行けば、叔母上が何とかしてくれるだろう。怖い顔の男より、女相手の方が、この子だって気が楽なはずだ。
少し気楽になって、馬を進めた。腹心達も公主が気になっているようだったが、目線で遠ざける。揃いも揃って体がでかい上に、内二人は強面だ。見たら公主は怯えるに違いない。
何事もなく、林を抜けた。エニとマニが、広い平原に向かって突っ走り、はしゃいでころげまわっている。あたりに怪しい人影もない。
ほっと気がゆるんだ、その時だった。何の前触れもなく、ずるりと公主の体がくずおれた。馬から滑り落ちていきそうになるのを、あわてて引っ張り上げ、両腕で抱える。
「公主? 公主?」
呼んでみるが、くったりとして返事がない。俺は急いで、彼女を馬から下ろした。
「エウル、公主がどうかしたのか?」
腹心達も馬を止めて寄ってきた。
「わからない。急に意識を失った」
意を決して布を剥ぐと、苦しそうに眉根を寄せた真っ青な顔が現れた。辛うじて息はしているが絶え絶えだ。少し服をゆるめてやる必要がありそうだったが、帝国の服の構造がよくわからない。こんな所で、帯をといたら全部ばらばらになったなんて事になったら、いくら子供でも相手は女だ、……叔母上に殺される。
「ホラム、スレイ、公主を休ませるテントを張れ。ナタル、野営の準備だ。ウォリ、宿営地から叔母上を連れて馬車を持ってきてくれ。リャノ、警戒を頼む」
エニとマニも、異変を察して戻ってきた。ふんふんと公主の匂いを嗅ぎ、服の端をぺろりと遠慮がちに舐める。新しく群れに入った仲間を心配しているのだろう。俺は苦笑して、二匹に話しかけた。
「この子を休ませなきゃならない。危ないことがないように、おまえたちもリャノの手伝いをしてくれるか? そのよく利く鼻で、知らないのが近付いてきたら教えるんだ。わかったか? さあ、頼んだぞ!」
それ以上は打つ手がなくて、俺は彼女を抱え込み、用意が整うのを待った。
外交官が最後にしつこく、大切に扱ってやってくれと繰り返していたのはこれだったのだ。まさかこれほど体が弱いとは思わなかったから、ただの常套句だと思って聞き流してしまった。
だって、そうだろう? 女っていうのは、男が放牧している間、家や年寄り、子供を守る、たくましく、怒らせるとやっかいな、子熊を連れた母熊と大差ない存在だ。狼だって必要とあらば殴り殺す。……閻では。帝国の女は、そうはいかなかったのだ。
己の愚かしさに歯噛みする。事態を甘く見ていた俺の失態だ。そのせいで、こんな子供に、辛い思いをさせてしまった。
「エウル、できたぞ」
ホラムとスレイに呼ばれて、公主をテントに運び込んだ。兜は入り口でつかえたので、脱いで脇に放った。
彼女を横たえると、無防備に手足が転がった。頭がのけぞって白い喉が見え、どきりとする。……なんだか、しどけなく見えたのだ。ふいに子供に見えなくなる。小さいけれど、女。
俺は困って、自分の顎をひっかいた。
「ええと、耀華公主、その、なんだ、とにかく、父祖の英霊にかけて、あんたを大切にすると誓う。だから、勝手に帯をとくのは許せ」
聞いてないとわかっていても、一応、一言断りを入れずにはいられなかった。それから、まず髪飾りに手をつけた。何はともあれこれを取らないと、じゃらじゃらと下がっている首飾りが引っ掛かって頭から外せそうにない。そしてその首飾りをどうにかしなければ、その下の服をどうこうするなど無理そうだった。
簪も髪留めも黄金でできていて、一つ一つがずっしりと重かった。それが、これでもかと髪に挿してある。どれも宝玉が惜しげもなく象眼されており、その価値はいかほどになるのか、そういうものに疎い俺にも、とんでもなく高価であろうことは察せられた。だから、外した物は慎重に隅の方に置いていった。
「うわっ?」
中央の大きな髪留めを外したら、ばらりと髪がほぐれた。……まずい。ちょっと元に戻そうとしてみたけど、よけいにぐしゃぐしゃになっただけだった。
「……まあ、いいだろ、命に別状はないし……」
急ぐことが先決だ。
ぼろぼろと抜け落ちかけている真珠や翡翠の付いたピンを次々抜いて、首の後ろで首飾りを纏めて握った。そおっと頭をくぐらせ、いっぺんに引き抜く。
「よし」
会心のできだった。手や足首に着いてるのは、そのままでもいいだろう。
帯にも諸々提げられていたが、それごとはずした。そうしてようやく服をくつろげてやった彼女の体は、とても薄いものだった。胸のふくらみは申し訳程度、むしろあばらの感触の方がよくわかる。手足など棒っきれだった。
そんな体に、これでもかというほど重ねて、重い金や宝石でできた装身具を纏わされている姿は、それがたとえ輿入れの持参金だったとしても、哀れを誘うものでしかなかった。
……まるで装身具が主で、それを飾り付けるために、彼女が用意されたような。
そうなのかもしれないと、ひび割れた彼女の指先を見つけて、思った。爪は綺麗に真っ赤に塗られていたが、それを囲む皮膚は固く、割れて痛々しいものだったのだ。
「お互い様か」
彼女の元々の出自がなんであっても、皇帝が指名した外交官が、公主だと言って差し出してきた女だ。その証に、すべての装身具に、皇帝を示す竜印が彫り付けられている。彼女はそういう役割を担った存在。それに変わりはなかった。
だいたい俺も、帝国側が期待しているような、次期王としての地位はない。優秀な兄が二人いるし、弟だってもう少し育てば不足はない。いずれにしても、その時が来れば、親父様が後継を決める。その前に、その候補から抜け出るために、この婚姻を引き受けたのだ。
俺は、なによりも家畜を育てるのが好きだ。政にはまったく興味がないし、戦など大嫌いだ。命を奪うのは一瞬だが、そこまで育て上げるには、膨大な手間暇がかかっている。それをすべて無駄にする戦になど、出たくない。殺すのも、殺されるのもごめんだった。
もちろん、一族の危機となれば、俺だって戦う覚悟はある。それでも、戦に一族を駆り立てなければならない役には、どうにもなれそうになかった。
親父様も兄弟も、俺のそんな性格はよく知っている。それで、皇帝の血を引く者が閻の王位に就くことがないようにし、血を理由に帝国に支配される危険を減らすためにも、――帝国から馬を奪って一触即発の状況を作った責任もあったし――公主の夫には俺がいいだろうとなったのだ。
だから、栄耀栄華は彼女に約束してやれない。それでも、天地に抱かれた、父祖伝来の生活は保障してやれる。食うに困ることだけはないはずだった。
マントをかけてやって彼女を見守っていると、ふるふると震えはじめた。首筋に触ってみれば、怖くなるような熱さになっていた。
これはいけない。
俺は鎧もはずし、テントの外へ放り出した。二人で横になるとすると、もう置く場所がなかったからだ。火を焚いて暖めてやりたかったが、煙が上がって目立つため、密かに行動したい今は、してやれない。
剣だけを手元に置き、俺は下着になって、幾重にもなった彼女の服をいくつか脱がし、彼女を抱き寄せた。その上から自分の服とマントを羽織る。
小さな体だった。ぐったりとした熱い体を抱いていると、内から燃え尽きてしまうんじゃないかと心許なくなる。
俺はしっかり抱き込んで、彼女の額に唇を当てた。魂は頭から抜けていくという。どうか体にとどまってくれと、願わずにはいられなかった。
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