異世界執事

伊簑木サイ

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第七章 結

終わり良ければ総て良し

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「では、共にお屋敷にお戻りいただけますね?」
「はい。……あっ、いたっ」

 急に足の裏にズキッと痛みが奔った。さっき何か踏んづけたせいだろう。今の今まで痛みなんか気にならなかったのに、思い出したら、なんだか両足ともズキズキしだした。

「お怪我をされていましたね。……失礼いたします」

 ふわりと高く抱えあげられ、お尻のあたりを左腕一本で支えられる。それから足首をつかまれ、膝を折られた。
 彼の肩に手をつき、ちょっと振り返って私も覗いてみる。……ぎゃっ!? 血塗れになっている!?
 木屑にまみれた靴下は、血の染みだらけだった。木屑がいくつか縦に布地から飛び出していて、その先はどうなってるんだろうと考えたら、痛みが増した。猛烈に増した。
 八島さんは、痛みで涙目になっている私を見上げ、お姫様抱っこに抱きかえた。

「痛くて我慢ならないのですね」

 うん、と頷く。虚勢を張る余裕はなかった。

「承知しました。では、少しお眠りを。痛みも遠のきますゆえ」
「え……」

 急激に体の奥底から力が抜けていく。生気を奪われているのだとわかる。体の自由が利かなくなり、意識が遠のいていく。
 八島さんたら、また勝手なことをー!! まだ、皆さんにご迷惑をかけた謝罪もしてないのに!!
 そう考えたところで、ふつりと意識がなくなった。



 ぶおーっと空気が唸っていた。頭にほどよい熱風が当たり、地肌をすくようにして指を通されるのが心地いい。
 おや? 頭を乾かしてもらっているうちに居眠りしちゃったのかな。それにしては変な体勢のような。
 うっすらと目を開ければ、白いシャツに頬を寄せていた。

「お目覚めになりましたか」

 ぼんやりと声の出所へと目を向ける。八島さんが、にこりと微笑む。
 近っ、近あああっ!! 
 あまりの近さにのけぞったら、肩を抱く腕に、がっしりと阻まれた。お尻の下の感触は、どう考えてみても八島さんの膝の上で、いったいなにがどうなってるのか見当がつかない。あたふたとあたりを見まわすと、さらに泡を食う事態に直面した。

「なんで私、バスローブ!?」
「はい」

 と答えになってるのかなってないのかわからない返事で悠然と応えて、彼はぱちりとドライヤーの電源を切った。手を伸ばして小テーブルに置く。その腕が珍しく上着を脱いで袖もめくっているのは、私がバスローブ姿なのと無関係とは思えない。
 空いた手がひるがえり、するりと頬に触れてくる。くすぐったさに肩をすくめれば、一筋顔にかかっていた髪が、サラリと後ろへ流れていった。
 うわ。びっくりした。何かと思ったら、髪を払ってくれたんだ。この格好でこの体勢だから、ちょっと身構えちゃったよ。自意識過剰で恥ずかしい。……って、

「んんっ」

 頬から、つつつと耳の下を指が這っていく感覚に、ぞくぞくっときて、思わず声がもれた。
 なに、この高くて妙に甘ったるい声!? 私、どこから出したの、どうやって出したの、なんでこんな声が出るのー!? だから首はダメって、いつも言ってるのに、なんでくすぐるのかな、わざとだよねー!?
 真っ赤になって非難するまなざしを向ければ、彼はクスリと笑い、髪の中に差し入れたところで指を止めた。

「血痕と、頭からかぶった埃や木屑を落とすために、湯にお入れしましたので」

 ああ、そうだった、思い出した! 家出して、迎えに来てもらって、女神様のお屋敷の一部屋を壊してしまったんだった。床も壁も天井も穴だらけで、確かに埃も木屑もすごかった。靴下は血だらけだったし。
 足の指をそっと折り曲げてみる。もうどっちも全然痛くない。よかった。手当は終わってるみたい。一安心だ。が、他にも猛烈に気になることがあった。
 恐る恐る自分の胸元をさぐってみる。
 わあああっ、やっぱり、ブラジャー着いてない! パンツも履いてないいーっ!!

「や、八島さん、ぬが、ぬが、脱がせたんですかっ!?」
「はい。清めるのに邪魔でしたので」
「清めるっ!?」

 脱がされただけじゃないの!? どこか洗われたの、どこ洗ったの、まさか、頭と足の裏以外って、ないよねえええええっ!?
 聞くに聞けなくて口をはくはくしている私を見て、彼はただただ笑みを深める。……その意味深な微笑みはなんですか、まさか、全身くまなく洗ったとかああああっ!?
 裸見られるだけでも恥ずかしいのに、脱がされたとか(下着まで!)、洗われたとか(く、くまなく?)、考えたくないーーーーっっっ。
 いたたまれなさに縮こまって、強く目をつぶった。
 彼にやましさなんて欠片もないってわかってる。なにしろ人間じゃない。脱がせて湯船までお運びしますって、何でもないことのように言われたこともあったし、私が服を着てようが着てまいが、彼にとってはたいした違いじゃないんだろう。
 だけど、わかってても、私はかまうんだよ、恥ずかしいんだよ、あああ、もう、地面にめりこんで隠れてしまいたいよ……。

 あまりの恥ずかしさに精神的に虫の息になっているところへ、唐突に首を撫でおろされ、体がびくんと反応した。反射的に彼を見あげる。
 だけど抗議は口にできなかった。バスローブの縁に沿って、指がゆっくりと前へと肌の上を辿りはじめたのだ。その、けっして中には入ってこないのに、簡単にはだけられてしまいそうなきわどい感じに、体がすくむ。
 指は鎖骨を過ぎても止まる気配もなくゆるゆると動き続け、とうとうV字に重なり合った襟を下りだした。
 えええええ? えええええええええ? ちょっと待ってええええ!?
 制止したいのに、瞳に浮かぶ狂おしい色に気おされて何も言えない。ざわざわしたものが漣のように体のはしばしに伝わり、また今にもおかしな声が出てしまいそうで、きつく唇を噛んだ。
 彼は合わせ目の突端、胸の谷間でようやく止めると、そこに指を置いて、口を開いた。

「お顔も、お手も、腕も、おみ足も、……ここも。他のモノどもに触れられた場所は、全部、洗い清めました」

 襟ぐりの開いたTシャツ着てたからって、いくらなんでも、こんなところまで触れてないよ!!
 そう思うのに、むきだしで突きつけられた独占欲に、ドドッと変な感じに心臓が波うった。まさに心臓の上、彼の指先が触れているところから、カーッと熱が全身に広がっていく。
 は。
 彼が、色っぽくかすれた笑い声をこぼした。

「そう。このお顔が見たかった」

 そうして、ほんの少し指先をバスローブの下にもぐりこませてくる。ざわりとした感覚が胸の頂に向かってはしり、息を吞んでかたまる。

「ここに触れると、ひときわ心の臓が騒ぐのですね」

 八島さんは私の反応を眺めて、色気がしたたり落ちるような笑みを浮かべた。あまりの色気に、くらりとする。
 なっ、なんなの、このロマンス小説みたいな展開!!
 ところが一転、彼がふっと微笑みを消した。何もかも見通しそうななまざしで見つめられて、たじろぐ。その次の瞬間に、すうっと落下感がして八島さんを見失い、体をこわばらせたら、ぽふんと頭が柔らかいものに埋まった。正面に天井らしきものが見えていて。
 何? 何? どうなったの!?
 どうやら籐長椅子に寝かされたらしい、と理解が追いつき、視界の端をよぎった八島さんの姿を追って視線を下ろせば、いつのまにやら彼が上になっていた。
 近づいてくる彼の体が、電気の光を遮る。彼が黒く大きな影に見えて、急になんだか怖くなる。とっさに体をねじって逃げようとしたのに、足の間に突かれた彼の膝がバスローブの裾を押さえていて、身動きがままならない。
 目を瞠る先で、彼がさっきまで指を置いていた場所に顔をうずめてきた。ちゅっと肌に吸いつく柔らかな感触。甘い疼きが体の深いところで湧きだし、驚いて私はもがいた。

「やっ……」
「お嫌ですか?」

 唇を離し、上目遣いに見つめてくる。嫌って言われたら悲しいけどやめる。と言っているのがありありな表情に、心臓がキュウときて言葉を失う。
 彼はいつでもまっすぐだ。ありのままに心を見せて、駆け引きを知らない。私が嘘をつくとさえ思っていない。
 嫌いと言えば、嫌われていると、嫌だと言えば、拒絶されているのだと、言葉そのままに受け取る。それが、ただの意気地なしの意地っ張りから出たものであったとしても。
 純粋とか無垢っていうのとは少し違うように感じる。もっと透明で強い。ちょっとのことで繕って嘘を言う私みたいな人間とは違う。人ではないからこその透徹した美しさなのかもしれなかった。
 綺麗なそれを、こうして見せられるたびに、私の中の何かが震える。彼のその在り方に、容姿以上に魅入られる。
 ……それを拒みたいなんて、本当の本当は思うわけがないのだ。だって、心底から心惹かれてやまないのだから。

 私は勇気を振り絞って、黙って横に首を振った。彼はかすかに表情をゆるめた。再び肌に顔をうずめてくる。彼の髪が、胸元をくすぐった。
 ちゅ、ちゅ、と何度も繰り返されるキスを受ける。バスローブからのぞく肌を隙間なく。キスの一つごとに体が震え、胸の奥に熱が灯る。体の中が熱でいっぱいになっていく。
 体中の血がフツフツグラグラして、クラクラした。息と一緒に変な声が出そうで、喉元にだけ必死に力を入れるけれど、体が芯から蕩けていくよう。
 胸元の肌が埋め尽くされ、首へとキスがのぼってきた。時々歯を立てられ、その間を這う熱さに、舌の温度は唇より高いことを知る。
 顎の先からこめかみ、そこから下顎をついばまれ、しまいに口をふさがれた。
 息もできなかった。唇も舌もむさぼられて、時折奔る感覚に脳髄が痺れる。ん、ん、と、どこか遠いところで自分の声が聞こえていて、浮遊感に天地がわからなくなる。
 夢中で息を吸ったら、八島さんの唇を吸い寄せ、むぐ、となった。苦しさに口走る。

「待って、」

 とたんに彼はキスをやめ、私の瞳をのぞきこんできた。眉を顰めて苦しそうな表情で。そして、ぐいっと肩を抱き寄せて起こされ、ぎゅうと抱きすくめられた。
 私は力の入らない体を彼にまかせて、しばらく速い息を繰り返した。彼はそれっきり動かない。ぼんやりと物足りなさを感じつつも、安心もする。体の中の沸き立つような熱が、彼の体温に包まれて、混じりあって宥められていく。その穏やかさが、たまらず心地よかった。
 なんだか、すべてが愛しくて、幸せで、泣きそうに切なかった。八島さんが大好きで、大好きで、たまらなくて、私は自分から身を寄せて、彼の服をやみくもに握りしめた。

「……ああ、これ、を」

 八島さんが、たどたどしく苦し気に呟く。さっきより、抱きしめられる力が強くなる。

「何が千世様にもたらしているのですか? 我が腕の中にありながら、何を思っていらっしゃるのですか? この心奪われる生気が、私以外の何かからもたらされたものであるなど、耐えられない……」
「八島さんですよ」

 私もぎゅっとしがみつく。いっぱい触れているはずなのに物寂しくて、もっともっとくっつければいいのにと思いながら。

「ですが、日の女神の屋敷にお迎えにあがった時と同じように感じるのですが」
「そうですよ」
「私を嫌いだとおっしゃって、拒み、去っていかれて、他のモノどもといらっしゃったのに、私のことを考えていらっしゃったと?」

 う、ときた。淡々と並べられた己の所業の酷さに、言葉もない。だけど、

「あれは、八島さんが、何かあったら、私に一人で生きろって言ったと思ったから。だから、どうしたらいいか相談にのってもらいに行ったんです。八島さんと最後まで一緒にいるには、どうしたらいいかって、ずっと、八島さんの話をしていて、だから、」

 だから? 急に言いたいことが思い浮かばなくなって、言葉が宙ぶらりんになった。

「だから?」

 ところが、八島さんに鸚鵡返しに聞き返される。

「……だから、だから、その、……家出して離れている間中、八島さんのことしか考えていませんでした。だから、あの時も、今も、私をこんな気持ちにさせるのは八島さんだけで、八島さん以外、いなくて、」

 どうやったら伝わるんだろう? 焦りに泣きたくなってくる。

「私だけ、なのですか?」

 鼓動がすごくて、胸が苦しかった。彼の首元に伏せた顔が熱くて涙目になってくる。それでも伝えたくて、こくりと一つ頷く。
 八島さんは切なげに、嗚呼とも、溜息ともつかない吐息をもらした。

「……まだ、待たなければいけませんか?」

 待つ? 何のことだろう? 何を言われているのかわからず思わず考え込んだら、お互いの表情がわかるところまで体が引き離されてしまった。
 視線が合わされる。それだけで動けなくなる。心臓ごと、体ごと、心まで、彼の瞳に浮かぶ熱に、縫い留められる。

「今すぐ、あなたに口づけたい」

 舐めるように口元に視線が這わされ、体の奥に、ずくりとした熱が灯った。

「この生気が私がもたらしたものだと言うのなら、もっとこれが欲しい。あなたの中も外も、他の何も忍び入る隙もないほどに私で満たして、私で満たされたあなたに満たされたい。もっと、……もっと」

 八島さんの顔がぼやけた。近づいて、近づいて、唇に吐息がかかる。

「どうか、千世様」

 体の奥の熱が、ずくずくと疼く。鼓動の一つごとに、その疼きが、八島さんが足りない、八島さんが足りない、と言ってるようだった。この耐え難い空虚を、彼に埋めてほしくてたまらなかった。
 目をつぶって、うん、と小さな声で答える。
 唇が重なった。熱がとろりと蕩けて、たぷんとたゆたう。内からくすぐられるような感覚に、甘い吐息をつく。
 内も外も。彼が言ったそのままに満たされていく。
 私は八島さん以外の何もわからなくなるまで、彼を求めて抱きしめた。



 そんなわけで。
 三日後に、私を心配した女神様がお詩さんたちを伴って様子を見に来てくださった時、私は、夜ごとどころか朝だろうが昼間だろうがところかまわずはじまる、少々、というかずいぶん濃いあれこれに堪りかねて、お屋敷に泊りがけで遊びに行かせてくださいと、女神様に泣きついた。
 ……のだが、ごめんこうむる、と即座に断られてしまった。

「小娘、懲りるということを知らんのか。先日、人の屋敷を一部屋駄目にしてくれたばかりじゃろうが」

 それはそうなんだけど、どう感じているのか筒抜けで、体力の限界もないって、頭おかしくなるって言うか、神経焼ききれるって言うか、とにかく初心者には厳しいんです、見捨てないでくださいー!!
 なんてことはまさか口には出せず、思わず女神様の手をつかんですがりついたのだけど、少々あきれたご様子で、ぺしぺしっと振り払われてしまったのだった。

「よくわかっておらんようだから教えておくがの、小娘らの関係は、人の世で言うところの、神とかんなぎぞ。あれは近隣でも有名な気の荒いあらみたまでな、はやく生贄、いや、あるじを見つけて鎮まらんものかと、皆、待ち望んでおったのじゃ。あれを宥められるのは、小娘だけぞ。それが小娘の務め。小娘にしかできぬ、な。よく、よく、励むのじゃぞ」

 女神様はそう言って、うむうむと頷きながら私の両肩を叩き、帰っていかれてしまったのだった。
 ……ちなみに、未だ八島さんは彼氏ではない。大事なことを、つい言いそびれてしまっているので。いつどう言おうかというのが、目下の悩みだ。



 とりあえず、今日も私は、朝から晩まで、異世界産の執事にかしずかれて元気に生きている。
 毎日隙さえあれば抱きしめられ、『私で満たした貴女に満たされたい』のだと囁かれて。
 ……永遠に変わることのない、かぎりなく愛に似た、愛以上のなにかで、口説かれながら。
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