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161.雪原の攻防戦

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 ショックを受けたような声のラスプには申し訳ないけど、ここだけは譲ることができなかった。加速していく熱が心に火をつける。

「私ね、生まれて初めて好きって言って貰えたのがラスプで、すごく嬉しかったんだよ。その気持ちを『憧れ』なんて感情にすり替えて欲しくない」

 右頬に添えられている手を両手でそっと包みこみ、驚いたような顔をしている彼を見上げる。

「言って、もう一度ちゃんと言って」

 そうしたら今度こそ、私も自分自身の気持ちを確かめられるような気がするから。

「態度でもいい……から」


 どれぐらい見つめ合っていたんだろう、私たちは自然と引き寄せられるように距離を詰めていく。息がかかりそうなほど近くなり、私はそっと目を閉じて――

「!」

 唇が触れ合う寸前、彼方から聞こえてきた遠吠えに固まった。一度上がったその声に呼応するように複数の声が次々と聞こえてくる。私は狼じゃないけどその遠吠えの意味ぐらい分かった。追跡者たちがこちらの痕跡を見つけたんだ。緊張したように立ち上がったラスプが、手早く焚火を蹴り消した。

「まだそこまで近くない、出るぞ」
「う、うん」

 それまでの柔らかい雰囲気が一気に緊張感に変わった。私も気持ちを即座に切り替え、荷物を背負い彼の後に続いた。雪は止んでいたけれど、ひんやりした空気が火照っていた顔に頬ずりをする。

「陽が沈む前に何としても花を見つけて下りよう、島の反対側にも集落がいくつかあったはずだから」

 そちらにも護送船ほどではないが、海を渡れる船はあるはずだとラスプは言う。頷いた私は相変わらず薄暗い世界へ踏み出した。

 ***

 もし、時間を巻き戻せるならここがいい

 花はもう良いから、今すぐこの島から出ようって引き止めるんだ

 だって、この後はもう……


 ねぇラスプ、私あなたに求めるばかりで、何か返せたことってあったっけ

 伝えたい、伝えたかったよ

 私、あなたのことが――

 ***

 洞窟を出て二十分ほど経っただろうか、右も左もわからない私は少し先で揺れる赤いしっぽを頼りにひたすら付いていく事しかできない。一応、靴はスノーブーツではあるけれど、こんな本格的な雪道を歩くなんて想定していなかったから慎重に一歩ずつ踏みしめる。傾斜がきつくなってきた。呼吸のリズムを崩さず肺に酸素を取り込んでは排出するを繰り返す。余計なことをなるべく考えないよう頭を空っぽにしていると時間の感覚がマヒしてきた。

 辺りには白化粧をした木々たちが立ち並んでいたのだけど、ある地点から急に右手側の視界が開けた。割と急激な坂の下にはだだっぴろい雪原が広がっていて、足跡一つない広場は再び上り坂を描きあちらの峰へと繋がっていた。

「あ……」

 そんな美しい風景に見惚れている暇もなかった。視界の端に赤い点が動いていたのだ。

 ――アォォーン……!

 白一色の世界では隠れられる場所なんてどこにもなくて、いや、隠れたところでこんなに近くではニオイで遅かれ早かれバレていただろう。勝ち誇ったような遠吠えを先頭の三匹が高らかに上げ、雪原の端の森から赤い追跡者たちがどんどん集結し始める。ま、まずい。

「まっすぐ走れ!」

 ラスプに肩を押され、今いる道をそのまま進むよう促される。私は弾かれたように問い返した。

「ラスプは!?」
「ヤツらの狙いはオレだ、引きつける!」

 そう言い残し、止める間もなく雪原へと降りていってしまう。雪煙を巻き上げながら着地した彼は、ぐるっと円を描くようにルートを描いた。

「このまま行けば花の群生地のはずだからっ」

 見れば、こちらの道は右に急カーブを描き、谷間の上を通りさらなる山の上へと続いていた。

 私は非力だ。戦闘能力のない女が居たところでラスプの邪魔になるだろう。そう判断した私は頷いて走り出した――後にこの選択がひどい後悔を産むとも知らずに。

 懸命に走りながら、私は右下の戦闘を見下ろす。どうやらラスプはヒト形態に戻った兵士から長剣を一本奪ったらしく冗談みたいに無双していた。飛びかかって来る敵を片っ端から切り伏せ、白かった雪原が見る間に赤く染め上げられていく。もしかしたらこのまま部隊を壊滅状態に追い込めるんじゃ?

 そんな淡い希望を打ち砕くかのように、森の中から援軍が次々とやってくる。ちょっと待ってよ、どれだけ追っ手を差し向けたの!? こんな量まともじゃないよ!

「ラスプ! まずいよどんどん増えてる!」

 峡谷の上に差し掛かった私は走りながら手をメガホンの形にして呼びかけた。そして一歩寄ったところで谷の底が見えて息を飲む。はるか下ではエメラルドグリーンの川がゴウゴウと音を立てて流れていたのだ。これ……触れると死ぬ川だ!

「もう十分だよ! 早くこっちに!」

 こちらの呼びかけに、ラスプはちらりと見上げた。続けて状況を確認するように残りの兵士たちを見回す。敵はようやく打ち止めといったところで、それでもまだ三分の二ほどが標的を追い込もうと包囲をじりじりと縮めていた。多勢に無勢。肩で息をするラスプは崖側へと後退し始めた。剣を油断なく斜め下に構えたまま切り立った崖に追いやられていく。その場所は緑の川が流れる谷底の上にせり出ていた。

「はや、早く、そこから跳んで」

 オオカミの姿に戻っていつもみたいにポーンって。届くはずもないのに、私は橋の上に膝をついて必死にそちらに手を伸ばそうとした。あ、でも、さっきの矢で足ケガしてて……!

「さぁ観念しろ、もう逃げ場はないぞ」

 先頭にいた兵士が剣を向けながら宣言する。距離にすれば十五メートルほど。視線の先でラスプがゆっくりとこちらを振り仰ぐ。

「ラスプ……?」

 妙に落ち着いたその目を見た瞬間、私は彼の意図に気付いてしまった。

「……まさか……そんなっ、うそ! やめて!!」

 恐怖が冷たい手のように心臓をわしづかみにする。谷底からの風が舞い上がり、私の髪を巻き上げた。どんなに叫んでもラスプは無言で、その意志が覆らないと気づいた瞬間、どうにもならない感情が目からポロポロとあふれ出す。そんな私を見た彼は怒号にも近い声で叱責した。

「泣くな! オレ一人の為に泣いてる暇があるんなら早く行け!」
「だって、だってラスプ!」

 再び雪が降り始めた。歪み始めた視界がまたたき一つで押し流される。どんなに手を伸ばしても私なんかの手じゃ全然届かなくて、

 迫りくる追跡者たちに再び向き直ったラスプは、剣を構えて叫ぶ。

「あの勇者を、ハーツイーズを救うんだろ! お前の、オレたちの国を!」

 もはや呼吸さえも苦しくて、口からあぐ、とかうぁ、とか不明瞭なうめき声しか出てこない。だめ、だよ、そんなのぜったい

 何とか思いとどまらせようとした瞬間、彼は穏やかに話し始めた。

「オレさ、お前に魔王は向いてないって言ったよな」

 ――お前さ、やっぱ魔王むいてねーよ

 いつかの言葉がよみがえる。振り仰いだラスプはニッと笑った。

「あれ、取り消すわ」
「っ……!」

 哀しい笑顔。覚悟を決めたようなその表情でもうダメだった。これまでの思い出が次々とよみがえってしまう。

 出会い頭に押し潰して怒らせてしまった顔。最後まで反発しながらも渋々仲間になってくれた時の照れた顔。自警団の部下たちの成長を見守る嬉しそうな顔。かまどの火に照らされた穏やかな横顔。いつだってまっすぐで、素直じゃなくて、だけど本当は優しくて……。

「お前はいい魔王だよ。オレが太鼓判おしてやる」

 続けられた言葉で現実に引き戻される。私は小さく頭を振りながら拒否しかできない。

「だめ……やめて……」

 チャキと、ラスプは剣を逆手に持ち変える。何をするつもりかと兵士たちが一歩下がるのだけど、たぶんもう間に合わない。

 いやだよ、私が守りたいのはみんなが笑顔で居る国なのに、そこにラスプが居てくれなきゃだめなのに……。

「じゃあなアキラ、お前はオレが忠誠を誓った最後の主人で、」

 一瞬、スイッチを切ったかのように、風も音も何もかもが途切れた。その言葉が、確かに届く。


「生涯でただ一人、愛した女だった」
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