星降る庭で、きみを見た

夜灯 狐火

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第五章 ワルプルギスの夜

43 それが彼の矜持

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 迷宮の中心、闇の色が支配する空間。
 漂う空気は粘りつくように濃く、熱を帯びた魔素が空間そのものを捻じ曲げていた。

 対峙するは、かつての因縁の魔女たち──
 ティシフォネは冷ややかに、メガイラは愉悦に満ちて、アレクトゥは憤怒に顔を歪めている。

「おひとりでのご登壇とは……さすがですわ、先生」
 メガイラが、くすりと喉を鳴らすように笑う。
「ったく、つまんねーな! もっと楽しませろよ!」
 アレクトゥが唇を突き出し、苛立ちを露わにする。

 しかし、彼女たちの嘲弄に、スメラギは一言も返さなかった。

 彼はただ、静かに指先を掲げる。
 その動作一つで、周囲の魔素が引き寄せられるように渦を巻いた。

 その口元が、静かに開く。
 紡がれるは、古の詩文──

「──星々の欠片を数え
 夜を縫い 理を紡げ
 この身 いましめと為し
 混沌 輪へ還れ──」

 詠唱の終わりと同時に、地の底から黒銀の魔方陣が浮かび上がる。
 禍々しいほどに繊細な文様が重なり、空間を縫い合わせるように展開されると、爆ぜるように闇が波紋を描いた。

「ほう……あれは、“識の環”」
 ティシフォネがわずかに目を細めた。
「懐かしい魔法だ。我の記憶が正しければ、……九重封界陣……だな」

 だがスメラギは応じない。

 黙して、ただ一歩、足を踏み出す。

「相変わらず、寡黙でいらして……ステキね」
 メガイラは微笑みながら、手にした日傘を一閃。
 すると、無数の魔弾が雨のように降り注ぐ。

 ──しかし。

 風が裂ける音の後に残ったのは、沈黙だけだった。
 魔弾はすべて、スメラギの立つ魔方陣の外縁に触れた瞬間、音もなく消滅していた。

「……なれど、囲いだけで防げると思うなよ」
 ティシフォネの眼が細まる。
 次の瞬間、彼女は指先を動かした。黒煙のような魔素が渦巻き、蛇のように絡みつく。

「アレク」
「言われなくても!!」

 叫びと共に、アレクトゥが駆け出す。
 鉄杭のような脚力で地を裂き、拳に宿すは紅蓮の咆哮。
 その一撃が、確かにスメラギを捉えるかに思えた──

 ──が、

「……“静かに眠れ”」

 一瞬だけ、低く響いたスメラギの声と共に、彼の周囲の重力が反転したかのように空間が歪んだ。
 アレクトゥの身体が急停止し、反発するように弾かれる。

「なっ……!?」
 アレクトゥが、顔を引き攣らせる。

「断詞詠唱に物理法則無視か。相変わらずデタラメだな、先生」
 ティシフォネの声にも、わずかな警戒が混じる。

「やっぱヤベェってコイツ!!」
 床に転がったアレクトゥが唸る。

 スメラギは剣を抜かない。武器を持たない。
 ただ指先一つで、空間を支配する。
 その姿は、まさしく退魔師の象徴。

 それでも──三魔女の気配は、なお揺るがない。
 彼女たちの魔素は、これしきでは枯れない。

 そして、この戦いは──まだ始まったばかりだった。

 ⸻

 三姉妹のうち、次に動いたのはティシフォネだった。

「……ならば、見せてもらおう。先生の力が、未だ衰えを知らぬかどうかを」

 静かに、けれど確実に、足音を響かせて降りてくる。
 その足元には、踏みしめるたびに冷たい銀の魔素が結晶のように広がっていた。

 スメラギの表情は変わらない。
 手は静かに下ろされたまま。まるで、時を待つかのように。

「“観測せよ、天上の鏡”──」

 ティシフォネの詠唱が始まる。
 それはスメラギと同じく、古語を思わせる文体だったが、響きはどこか冷たい。
 均衡と静寂を尊ぶようなその魔法は、彼女の理そのものだった。

 ──うろを刻み裂き、
 偽り剥ぎ取り、たまさらす。
 ことわり穿ち、まことを穿て──テオリア・スペクトラム

 頭上に現れたのは、巨大な水晶のような魔法陣。
 そこから放たれるのは、観測と分析のための光――だが、それは敵の魔術すら分解し、解体する力を持っていた。

 スメラギが軽く息を吸う。

 彼は詠唱を行わず、ただ一つ指を鳴らした。

 ──ズ、と音を立てて空間が落ち込む。

 観測の光が降り注ぐ直前、そのすべては無音のまま沈んでいった。
 まるで、この場に存在することすら赦されなかったかのように。

 ティシフォネの眉が、わずかに動く。
「なるほど。……“断絶”か。ならば」

 メガイラが前へ出る。
 軽やかなステップ、日傘の一振りで周囲の空気が香るように変わる。

「次はわたくしの演目ですわね?さあ、センセ。わたくしとの狂気乱舞、を思い出していただけるかしら?」

 足元から立ち上るのは、錯覚と狂気を帯びた毒々しい魔素。
 花弁のように舞いながら、周囲の構造が歪んでいく。

 見上げた天井は、もはや天井ではなかった。
 壁はねじれ、床が空へと変わり始める。
 物理法則が、理性が、崩れていく。

「“錯視領域”」
 スメラギの目が、微かに細まった。

 ──再びの詠唱。

「──裂け目より湧きし泡沫うたかた
  虚を覆いしは偽りの海
  誓約の鎖よ いま此処に結び鎮めよ──」

 その瞬間、空間の中心に収束点が生まれた。
 空虚を穿つ一点の光。それが花弁の舞う錯覚空間を引き裂き、濁流のように構造を呑みこんでいく。

「くっ……!」

 メガイラが笑いを引っ込め、後退する。
 だが、そこへさらに飛び込んできたのは、アレクトゥ。

「せんせー!!意地悪しないであそぼーぜ!!!!」

 炎を纏った拳が唸りをあげて振り下ろされる。
 だが、それを受けたスメラギの掌から、不可視の衝撃波が拡がった。

“衝撃”そのものを吸収・変換する、結界式。
 姿は見えずとも、空間が軋み、魔力の奔流が壁を砕いた。

「やっぱせんせーは……一人で戦ってた方がよっぽど化け物じみてらッ!!」

 吹き飛ばされながらも、アレクトゥは笑う。
 その目には確かに、かつての記憶がちらついていた。

「さあて──お喋りはここまでですわ。
 ……そろそろ、本気で“潰し”ましょうか?」

「焦るな。奴の手札はまだ見えていない。……だが、今のうちに削る」
 ティシフォネの口調は冷たくも確信に満ちている。

 三人の魔女の魔素が収束し、陣を成し始める。
 それは、あの日と同じ構えだった。

 そして、スメラギもまた、静かに構える。
 彼のコートの裾が揺れ、その眼が、闇の奥を射抜いていた。

 ⸻

 砕けた床には赤黒い魔素の焼け跡が滲み、空気には濃密な重圧が渦巻いている。
 ティシフォネ、メガイラ、アレクトゥ――三人の魔女の魔力はそれぞれ異質でありながら、確かに一つの陣を成していた。
 それは“過去”に幾度となくスメラギを窮地へ追いやった構え――その再演である。

 対するスメラギは、黒のクロークコートを翻し、ただ静かに、すべてを見据えるように立っていた。

 彼の掌には未だ冷静さが宿る。だが、その足取りはわずかに重い。

 眼差しの奥。
 魔素の奔流の内側。
 深く深く沈んだ海の底のような、静かな流れのなかに――微かに、軋む何かがあった。

(……長引くと、まずい)

 脈打つように疼く胸の奥。
 中心にあるモノが熱を帯び、鈍い痛みとなって意識を掠める。

 視界の端が、時折わずかに揺らぐ。
 魔素の制御に、小さな乱れが生じはじめていた。

 それでもスメラギは、一言も発さず、ただその身一つで陣を保ち続ける。
 敵を観察し、次の詠唱の余白を計算する。
 彼の魔素は本来、極めて強力なものであった。
 だが今は、不規則な脈動が淡く影を落とし、その色は澱み、燻んでいる。


“供給”を拒んでから、どれほどの時が過ぎただろうか。
 そんな思考が、彼の脳裏を掠めた。


 ──今の彼には、何もない。ただ、削られるのみの“消費”。


 けれど、それを悟らせることはすなわち、忌むべき相手への“屈服”を意味する。
 だからこそスメラギは、鋭い痛みを呑み込み、ただ静かに立ち続けていた。
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