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【第二話】上洛へ向けて
しおりを挟む1560年正月
駿府館での年始挨拶を終えてわが家へ戻り・・・先年元服を済ませて、幼名竹千代から名を改めた松平元信は自室で物思いにふけっていた。
「我が殿、お館様はいよいよ上洛を御決意為された由にて…」
「おう、数正か。それであるが、ワシは気が進まぬ」
「されど、姪御様の婿である松平が加わらずには居られますまい。何をそこまで懸念為されておられますので?」
「禅師様が生きておられたら…必ずや反対為されるであろうからのぅ」
「左様でござりますか?」
「うむ。その上にじゃ、禅師様から伝授された卜占(ぼくせん)をしてみたのだが…どうも、時節が良く無さそうなのでな」
「卜占にござりますか?…」
「やはり、ソチも卜占では納得できぬか」
「申し訳無き事にござりますが…」
「良いのだ。我等は神仏ではない故、先々の事は断定できぬから当然じゃ」
「もしや、吉法師様の事を懸念なされて居られるので?」
「しっ!!!申すでない!そなたが思っておる意味での懸念ではない。確かに吉法師殿の事は好きであるがのぅ…好きであるからこそ、ワシは尊敬を以て、全力で戦いたいのじゃ。しかしのぅ…戦の相手として考えると、何をしてくるのか?解らぬところが恐ろしゅうてな」
「そう言えば、吉法師様は信長と言われるそうにて。殿は此度の戦…信長様と手合わせを為されたいと?」
「そうじゃ!勝って生き残るにせよ、敗れて命を落とすにせよ…ワシの手で仏の世へお送りしたいし、兄とも思う信長殿の手で送って貰いたいのじゃ」
「そのお覚悟ならば、何故、先程の懸念をお持ちになられますので?」
「ワシを透かして本隊へ打ち掛かられては、その機会も与えて貰えぬ故…」
「ならば、我等の勝ちを予測されてるので?好いではありませぬか!」
「吉法師殿と接していたから感じるのじゃ…我等が滅びるかも?とな」
「なれど、我が方は万を優に超える兵数、織田方は五千も動員できますまい」
「それよ!その心さえも吉法師…いや、信長殿は計算に入れて、必勝の策を考え着く人なのじゃ」
「殿には思い付かれませぬので?それが当たり前の人ではござりませぬので?」
「解った解った!もう良い!下がれ!!!」
不思議そうな表情をしながら、石川数正は下がっていった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
それからの元信は表情にこそ出さないが、信長の出方が気になって仕方が無い。そんなある日、義元から呼び出しを受けた。
「お館様、何事にござりましょう?」
「元信…そちの信の字じゃが、信長を慕っておる故、信長から取っておるのではあるまいの?」
「それがしも新田の流れではござりますが、源氏に連なる家系になります故、お館様の同盟相手…武田晴信様、今は信玄様の信の字を頂きましてござります。更には…岡部様も元信の字にござりますれば、あやかりまして、ござります」
「左様か…元信が2人ではややこしい故、そなた信の字を変えるが好い」
「なれば、上洛の戦では織田と当たります故、祖父の名、清康より康の字を使い、以後元康と名乗りましょう」
「おお!織田を苦しめた松平清康の孫が、上洛の戦で松平元康の名を高めるか。好い!良いぞ!」
「ははっ!お褒めに預かり恐悦至極にござります」
元康が平伏すると義元は満足そうに笑い・・・
「好い!ご苦労であった。下がって良いぞ」
と、下がらせた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
妻の実家である関口邸へ戻った元康は、より一層、心中の憂いを深くした。
義元は、上洛についての計画を一切隠そうともせずに、誰かれ構わずに話題にしている・・・という事は、当然信長も上洛の計画を知っていると考えなければならない。
義元を筆頭に今川家重臣一同は「我等が大軍を目にしたら、織田家は早々に降伏し、臣従するであろう」などといった楽観的な観測をしているのである。
一昨年、浄土へ旅立った恩師・太原雪斎禅師が居てくれたら・・・気が付くと、そんな事を考えていた。
「殿…お館様は何用でございましたのか?」
「おぉ…瀬名か。お館様の命により、ワシは名を元康に変えたぞ。呼び出しはその事であった」
「まぁ!もしや義祖父様のお名前から?」
「その通りじゃ」
「街道一の弓取りの異名のお館様と、織田を苦しめた義祖父様…何と良い名前にござりましょう!おめでとう存じます!」
「そなたも喜んでくれるか」
「当然でござります。上洛前の良き証にござりましょう」
「有難い事じゃ。どれ、竹千代の顔でも見に参ろうか」
(信長殿相手に戦えば無事で済まぬかもしれぬ。今のうちに竹千代の顔を目に焼き付けておこうか)
妻を伴い、昨年生まれた長男・竹千代の元へ行くべく、屋敷の奥へと向かうのであった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
奥の部屋には、竹千代をあやす関口氏広がいた。
義父にあたる関口氏広は、元康の器量に惚れ込み「是非に!」と義元に頼み込んで娘の瀬名に娶せた人物である。
「お館様の遣いから聞きましたぞ。元康と名を変えたそうで。元康殿と亡き雪斎様のお陰で、我が屋敷では珍しい食べ物に溢れて居る。誠にありがたい事じゃ。感謝致しますぞ」
・・・と言い、屋敷の南側庭園に建てられてた、板ガラスに囲まれている大きな小屋に目を向ける。
これは元康が元服の折、雪斎と氏広が祝いとして建立した、今でいうガラスの温室である。
ここでは、南方でしか採取できない作物を栽培しており、他の大名がスペインやポルトガルとの貿易を通して手に入れた植物を、廃棄された種子や株分けと、様々な方法で持って来たのであった。
(師匠様からの贈り物が我等を救ってくれるかも知れぬ)
元康は氏広の言葉を聞きながら不意に感じた。
雪斎との温室でのやり取りが蘇ってきたのである。
漸く元康は、近い未来を明るく考える切っ掛けを得た。
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