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第13話 アルファの巣に連れ込まれたベータ(4)
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虐待⁉
あまりにもあり得ない質問に新は声も出せなかった。虐待。うちの家族に限ってそれは絶対にあり得ない。子どもの頃、自分と母だけがパーティーに連れていってもらえなかった寂しさは心の中に残っているけれど、園遊会に出たときや、学園でアルファの集団に襲われかけたときに、兄がどれほど危険な立場にいるのかはっきり理解できた。家族が子どもの自分を外に出さなかったのは、自分を守るためだ。
絶句している新の表情に気づかず、直樹は続けた。
「ベータのお前が俺に、律の身代わりになると言ってきたときに、気づくべきだった。結婚式前も帰国してからも遅くまで働いているのは、家族に搾取されているんだろう?」
ここまで言われてやっと、直樹の言いたいことがぼんやりとわかってきた。そうか。何も事情を知らない人間からはそう見えるのか。
「つまりあなたは、兄が愛玩子で、俺は搾取子だと思ってらっしゃるんですね」
的外れな心配だと言えず、新は言葉に悩んだ。助け舟を出したのは、松井だった。
「失礼ながら旦那様、それは違うと思われます。昨夜、新様がお召しになっていたスーツは、旦那様が用意されたスーツの何倍もいたします。お靴も百万円以上いたします」
「たかが靴に百万円⁉」
直樹の驚きに、新はいたたまれなくなった。直樹は貧しいベータ家庭に生まれて、新婚旅行先でウォッシュドデニムを穿くぐらい、衣服にこだわりがないタイプだ。だから新婚旅行先では、貴族と思われるアルファに新と結婚したことを知られて、ベータに金で買われたのかと嘲笑された。
そんな直樹が新のために服を選んで、高い金を払って買ってくれたことそのものが、新には嬉しかった。けれど、直樹にとっては屈辱なのだろう。彼は立ち上がると吼えるように「外商を呼べ!」と松井に命じた。
疲れた。
新は用意された小さめのサンドイッチとダージリンティーを口に運んだ。
新の父親が用意するスーツよりもっと高価な服を買おうとする直樹をなだめるのは、大変だった。
「旦那様、外商を呼んでも新様のお召し物と同じクラスのスーツは購入できません。まず生地が違います。新様のスーツの素材はビキューナ、そして縫製からして海外の超一流の職人を呼び寄せて採寸させ、完全手縫いで仕上げてございますので、発注から出来上がるまでにかなりの日数がかかってございますね」
にこやかに「金だけで買える服じゃねーんだわ」と解説する執事は、鬼だと思う。ぐぐぐと押し黙る直樹に、松井から目顔で合図を受けた新は声をかけた。
「俺は、あなたが俺の服を選んでくれたのが嬉しいんです。ありがとうございます」
こんな言葉で、本当にこの人は納得するんだろうか。半信半疑の新の前で、しばらく黙っていた直樹が「わかった」と唸って椅子に腰を下ろす。よかった、わかってくれた。ほっと安心したとき、直樹が執事に「では同じクラスの職人と生地を手配しろ」と命じて、新は(駄目だ、この人わかってない)と頭を抱えた。気持ち悪いベータの男なんかすぐに捨てるんだから、お金と時間のかかるオーダーメイドなんて正気の沙汰じゃない。
服は既にたくさんある、これ以上はいらないと何度も説明して、ようやく説得できた頃、松井が「お疲れになったでしょう、アフタヌーンティーにいたしましょう」とにこやかに言って、美味しそうなアフタヌーンティーセットが運ばれてきた。精神的疲労にぐったりした体に、サンドイッチやキッシュが染み渡る。
デザートまで食べても、まだ難しい顔をしている直樹に、新は話しかけた。
「父は家族を着飾らせるのが、唯一の道楽なんです。オメガの母や兄はともかく、俺には高価な服は似合わないのに」
ベータの自分を天使呼ばわりする父を思い出して、新は微笑んだ。けれどその微笑はすうっと消えた。
「誰も自分を知らない企業で、一般社員として仕事をしたいと父に頼み込んだのは俺のほうです。でも父は過保護で、子飼いの部下がいる企業じゃないと駄目だって。学生時代に起業したあなたには、お笑い草でしょうね」
「職場では結婚したことを言っていないのか」
「ええ。内密に旧姓使用申請を出しました。だから婚姻期間が短くても詮索されることはありません」
いつでも離婚できるから安心してほしいと言いたくて、笑顔を作る。直樹は厳しい顔で新を見つめた。
「あなたには心から感謝しています。でも俺にお金をかける値打ちはない。オーダーメイドで服を作るのは、心から愛する人にしてあげてください」
「結婚を秘密にしているから、結婚指輪を外しているのか」
あ。左手を掴まれて、ようやく指輪を外していたことを思い出す。そうか、何回も「本当に残業か」と尋ねていたのは、指輪を外して独身と偽って遊び歩いていると思われていたのか。
「あの、一応、肌身離さず持ってはいるんです」
ポケットから薄いケースに入れた結婚指輪を取り出して見せる。直樹はケースから指輪を取り出すと、本物かどうか確認した。わざわざ席を立って新の前に片膝をつき、新の左手を取って薬指に指輪を嵌める。
新は息を詰めた。
ああ、この人に指輪を嵌めてもらうのは、これで3回目だ。
同じことを直樹も思ったのだろう、「お前に結婚指輪を嵌めるのは3回目だな」と呟き、立ち上がった。
「まあいい。お前が外すなら何度でも嵌め直してやる」
どすんと椅子に座って冷たく言う。新は俯き、右手の指先で何度も結婚指輪を撫でた。直樹に嵌めてもらった指輪から、不思議な温かみを感じる。
そのとき、松井が直樹のカップに熱いコーヒーを注ぎながら、「旦那様、そういうときは『せめて自分といるときは指輪をしていてくれ』と言わなくては伝わりません」と穏やかに口を挟んだ。ぐっと言葉に詰まった直樹が、絞り出すように詰問する。
「松井、お前は俺をなんだと思っている」
「これまでお仕えしたなかでも、一、二を争うほど人を見る目のある方だと思っておりますとも」
にっこり。初老の執事の笑顔に、アルファである直樹が気圧されているのがおかしい。新は笑いそうになるのを飲み込んだ。
「新様は本当に魅力的な方ですね。さすが旦那様が惚れ込んだだけのことはございます」
さすがにこの誤解は解かなくては。新は慌てて「違います」と口を挟んだ。
「全然魅力なんかないです。さっきもお聞きになったでしょう、俺はベータなんです。だからこの人の役には立てない」
「役に立つ、とはどういうことでしょうか」
静かだが重みのある問いかけに、新はハッとした。
「私もベータですが、自分を役に立たない人間だとは思いません。それ以上に、人を愛するということは、役に立つとか立たないということとは無関係だと思っております」
穏やかな口調なのに、厳しい叱責に聞こえた。
「出過ぎたことを申しました。旦那様は新様を飾り立てて独占したいのです。そのお気持ちだけは汲み取ってさしあげてください」
「松井!」
アルファのピシリとした叱咤にも初老の執事は動じず、新ににこりと笑いかけた。
「それにしてもお口に合ってよかった。アフタヌーンティーは全部召し上がってくださったのですね」
その表情に、新は言うつもりのなかったことを口にした。
「アフタヌーンティーは俺のために用意してくれたものですから。でも先ほど出していただいた料理は、発情期明けのオメガ向けのものでした。とても美味しかったんですけれど」
「ええ、わかりますとも。料理人にはよくよく伝えます」
料理にオメガ向けとかベータ向けがあるのか⁉と驚いている直樹に冷たい視線を向けた執事が、新に頭を下げる。
新はわだかまっていた気持ちが解放されて、体が軽くなった気がした。そうか、直樹は何もわかってなかったのか。そして自分と顔合わせした料理人も、主人の配偶者がベータだと知って驚いたに違いない。松井が直樹に何事か囁く。初めてのとき、兄の名前を呼びながら自分を抱いた人の表情が、驚きから後悔へと変化していった。
「違う。お前をこの家に連れてきたのは、律の身代わりとしてじゃない」
「はい」
新は頷いた。
いつかこの人の隣には、美しいオメガが立つのだろう。けれど今だけは、自分が兄の身代わりとしてここに連れてこられたわけじゃないという言葉を、信じていいような気がした。
あまりにもあり得ない質問に新は声も出せなかった。虐待。うちの家族に限ってそれは絶対にあり得ない。子どもの頃、自分と母だけがパーティーに連れていってもらえなかった寂しさは心の中に残っているけれど、園遊会に出たときや、学園でアルファの集団に襲われかけたときに、兄がどれほど危険な立場にいるのかはっきり理解できた。家族が子どもの自分を外に出さなかったのは、自分を守るためだ。
絶句している新の表情に気づかず、直樹は続けた。
「ベータのお前が俺に、律の身代わりになると言ってきたときに、気づくべきだった。結婚式前も帰国してからも遅くまで働いているのは、家族に搾取されているんだろう?」
ここまで言われてやっと、直樹の言いたいことがぼんやりとわかってきた。そうか。何も事情を知らない人間からはそう見えるのか。
「つまりあなたは、兄が愛玩子で、俺は搾取子だと思ってらっしゃるんですね」
的外れな心配だと言えず、新は言葉に悩んだ。助け舟を出したのは、松井だった。
「失礼ながら旦那様、それは違うと思われます。昨夜、新様がお召しになっていたスーツは、旦那様が用意されたスーツの何倍もいたします。お靴も百万円以上いたします」
「たかが靴に百万円⁉」
直樹の驚きに、新はいたたまれなくなった。直樹は貧しいベータ家庭に生まれて、新婚旅行先でウォッシュドデニムを穿くぐらい、衣服にこだわりがないタイプだ。だから新婚旅行先では、貴族と思われるアルファに新と結婚したことを知られて、ベータに金で買われたのかと嘲笑された。
そんな直樹が新のために服を選んで、高い金を払って買ってくれたことそのものが、新には嬉しかった。けれど、直樹にとっては屈辱なのだろう。彼は立ち上がると吼えるように「外商を呼べ!」と松井に命じた。
疲れた。
新は用意された小さめのサンドイッチとダージリンティーを口に運んだ。
新の父親が用意するスーツよりもっと高価な服を買おうとする直樹をなだめるのは、大変だった。
「旦那様、外商を呼んでも新様のお召し物と同じクラスのスーツは購入できません。まず生地が違います。新様のスーツの素材はビキューナ、そして縫製からして海外の超一流の職人を呼び寄せて採寸させ、完全手縫いで仕上げてございますので、発注から出来上がるまでにかなりの日数がかかってございますね」
にこやかに「金だけで買える服じゃねーんだわ」と解説する執事は、鬼だと思う。ぐぐぐと押し黙る直樹に、松井から目顔で合図を受けた新は声をかけた。
「俺は、あなたが俺の服を選んでくれたのが嬉しいんです。ありがとうございます」
こんな言葉で、本当にこの人は納得するんだろうか。半信半疑の新の前で、しばらく黙っていた直樹が「わかった」と唸って椅子に腰を下ろす。よかった、わかってくれた。ほっと安心したとき、直樹が執事に「では同じクラスの職人と生地を手配しろ」と命じて、新は(駄目だ、この人わかってない)と頭を抱えた。気持ち悪いベータの男なんかすぐに捨てるんだから、お金と時間のかかるオーダーメイドなんて正気の沙汰じゃない。
服は既にたくさんある、これ以上はいらないと何度も説明して、ようやく説得できた頃、松井が「お疲れになったでしょう、アフタヌーンティーにいたしましょう」とにこやかに言って、美味しそうなアフタヌーンティーセットが運ばれてきた。精神的疲労にぐったりした体に、サンドイッチやキッシュが染み渡る。
デザートまで食べても、まだ難しい顔をしている直樹に、新は話しかけた。
「父は家族を着飾らせるのが、唯一の道楽なんです。オメガの母や兄はともかく、俺には高価な服は似合わないのに」
ベータの自分を天使呼ばわりする父を思い出して、新は微笑んだ。けれどその微笑はすうっと消えた。
「誰も自分を知らない企業で、一般社員として仕事をしたいと父に頼み込んだのは俺のほうです。でも父は過保護で、子飼いの部下がいる企業じゃないと駄目だって。学生時代に起業したあなたには、お笑い草でしょうね」
「職場では結婚したことを言っていないのか」
「ええ。内密に旧姓使用申請を出しました。だから婚姻期間が短くても詮索されることはありません」
いつでも離婚できるから安心してほしいと言いたくて、笑顔を作る。直樹は厳しい顔で新を見つめた。
「あなたには心から感謝しています。でも俺にお金をかける値打ちはない。オーダーメイドで服を作るのは、心から愛する人にしてあげてください」
「結婚を秘密にしているから、結婚指輪を外しているのか」
あ。左手を掴まれて、ようやく指輪を外していたことを思い出す。そうか、何回も「本当に残業か」と尋ねていたのは、指輪を外して独身と偽って遊び歩いていると思われていたのか。
「あの、一応、肌身離さず持ってはいるんです」
ポケットから薄いケースに入れた結婚指輪を取り出して見せる。直樹はケースから指輪を取り出すと、本物かどうか確認した。わざわざ席を立って新の前に片膝をつき、新の左手を取って薬指に指輪を嵌める。
新は息を詰めた。
ああ、この人に指輪を嵌めてもらうのは、これで3回目だ。
同じことを直樹も思ったのだろう、「お前に結婚指輪を嵌めるのは3回目だな」と呟き、立ち上がった。
「まあいい。お前が外すなら何度でも嵌め直してやる」
どすんと椅子に座って冷たく言う。新は俯き、右手の指先で何度も結婚指輪を撫でた。直樹に嵌めてもらった指輪から、不思議な温かみを感じる。
そのとき、松井が直樹のカップに熱いコーヒーを注ぎながら、「旦那様、そういうときは『せめて自分といるときは指輪をしていてくれ』と言わなくては伝わりません」と穏やかに口を挟んだ。ぐっと言葉に詰まった直樹が、絞り出すように詰問する。
「松井、お前は俺をなんだと思っている」
「これまでお仕えしたなかでも、一、二を争うほど人を見る目のある方だと思っておりますとも」
にっこり。初老の執事の笑顔に、アルファである直樹が気圧されているのがおかしい。新は笑いそうになるのを飲み込んだ。
「新様は本当に魅力的な方ですね。さすが旦那様が惚れ込んだだけのことはございます」
さすがにこの誤解は解かなくては。新は慌てて「違います」と口を挟んだ。
「全然魅力なんかないです。さっきもお聞きになったでしょう、俺はベータなんです。だからこの人の役には立てない」
「役に立つ、とはどういうことでしょうか」
静かだが重みのある問いかけに、新はハッとした。
「私もベータですが、自分を役に立たない人間だとは思いません。それ以上に、人を愛するということは、役に立つとか立たないということとは無関係だと思っております」
穏やかな口調なのに、厳しい叱責に聞こえた。
「出過ぎたことを申しました。旦那様は新様を飾り立てて独占したいのです。そのお気持ちだけは汲み取ってさしあげてください」
「松井!」
アルファのピシリとした叱咤にも初老の執事は動じず、新ににこりと笑いかけた。
「それにしてもお口に合ってよかった。アフタヌーンティーは全部召し上がってくださったのですね」
その表情に、新は言うつもりのなかったことを口にした。
「アフタヌーンティーは俺のために用意してくれたものですから。でも先ほど出していただいた料理は、発情期明けのオメガ向けのものでした。とても美味しかったんですけれど」
「ええ、わかりますとも。料理人にはよくよく伝えます」
料理にオメガ向けとかベータ向けがあるのか⁉と驚いている直樹に冷たい視線を向けた執事が、新に頭を下げる。
新はわだかまっていた気持ちが解放されて、体が軽くなった気がした。そうか、直樹は何もわかってなかったのか。そして自分と顔合わせした料理人も、主人の配偶者がベータだと知って驚いたに違いない。松井が直樹に何事か囁く。初めてのとき、兄の名前を呼びながら自分を抱いた人の表情が、驚きから後悔へと変化していった。
「違う。お前をこの家に連れてきたのは、律の身代わりとしてじゃない」
「はい」
新は頷いた。
いつかこの人の隣には、美しいオメガが立つのだろう。けれど今だけは、自分が兄の身代わりとしてここに連れてこられたわけじゃないという言葉を、信じていいような気がした。
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