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第35話 どんなことでもできる(後編)
直樹の土下座に、新も、そして優れたアルファの気位の高さを知る忠彦も気圧された。
「あなたの言うとおりです。俺が新にした行いは許されない。それでも俺は新を、新だけを愛しています。彼を奪われたら死んでしまう。お願いです、俺から新を奪わないでください」
応接室がシンと静まり返った。誰も何も言わなかった。直樹がどれほど優れたアルファかは、これまでの実績が証明している。それだけのアルファがプライドを投げうってまで新を奪われまいとする姿に、さすがの忠彦も息を呑んだ。新も直樹と一緒に土下座しようとしたけれど、気配で気づいた直樹に「駄目だ」と制止された。
「こんなことをするのは俺だけでいい。新に土下座させるぐらいなら、俺が死んだほうがマシだ」
その言葉に胸が詰まってソファから立ち上がったまま動けなくなる。忠彦は黙り込んでいたが、やがて続き部屋に控えている『彼』を呼んだ。
「この男を始末しろ」
「申し訳ありません、忠彦様。そのご命令には従えません」
直樹は頭を上げなかった。新は目を見張った。
「拓海!」
新の呼びかけに、彼は軽く頷いた。
「律様から、木南氏に手を出さないよう命じられておりますし、自分もこの男には借りがあります」
頭を床につけていた直樹が、思わず頭を上げる。
「律のことか?」
「律様を呼び捨てにするな!」
その剣幕に直樹だけでなく新も思わず引いた。いつも無口な拓海が、実は中野家の人間以外は排斥するタイプだと初めて知る。そう言えば優れたアルファは独占欲が強いんだった。
「違う。あのとき緊急用抑制剤を俺にもくれただろう。あとローションと避妊具を借りた」
「ああ」
そう言えば兄と拓海は、直樹の家のゲストルームで番の契約をしたんだった。いつのまに、直樹がコンビニで買ってきたのを持っていったんだろう。全く気づかなかった。
新は父と直樹の間に立ち、直樹を庇った。
「父さん、もうやめてください。拓海も下がってほしい」
そう言って直樹を抱き起こそうとしたが、彼は首を振った。
「いいんだ、新。俺が逆の立場ならもっと前に問答無用で始末している。新にしたことを思えば、何をされても仕方ない」
「だってそれは! 俺が律の身代わりでいいって言ったからだ。もっと早くあなたを愛していると繰り返し伝えたらよかった」
「新、そいつから離れなさい。お前にふさわしい相手はいくらでもいる。女と結婚して子どもが欲しいと思わないか。アルファでもベータでもオメガでも、お前が望むなら選り取り見取りだ。男がよければオメガの男を手に入れてやろう」
新は不思議な表情で自分の父親を見つめた。
「父さん。俺はベータだから、兄さんより愛されてないと思ってた。政略結婚の駒にもできないし、アルファじゃないから経営は無理だと言っていただろう。俺がベータでもよかったの?」
「何を言ってるんだ、そんなの当たり前じゃないか!」
忠彦は大股に新に近づいて、息子を強く抱き締めた。
「性別がなんだ。俺も柊もそんなことで差別したつもりはない。だがお前はベータの男だ。オメガとは違う、家を出て独り立ちしたいと願うだろう。それがわかっていたから教育を受けさせ、一人でも生きていけるように家事のスキルも一般的な金銭感覚も身に着けさせた。経営の世界は過酷だ。大切なものを守るために、他者を切り捨てる冷酷さが必要になる。アルファというのは、愛するもののためにはどんなことでもできる人種なんだよ。新、お前はベータとしては飛び抜けて優秀な、私の自慢の息子だ。だが優しい。優しいお前は、経営に参画させたくなかった」
「でも、父さんは兄さんばかり大切にして、連れ歩いていた」
義父が首を振った。
「違う。お前を外に出してやるためには、皆の目を律に集めさせるしかなかった。律は狙われても拓海が必ず守り切る。だがお前は? 一人で中野家を出た新を、恐ろしい目に合わせるわけにはいかない。だから皆で新のことは隠し通した。それほど努力しても、この男と結婚したことで、お前の存在は知れ渡ってしまったから、いずれにしろあのタワーマンションは近々引き払わせるつもりだった」
「新は俺が守ります。守らせてください。もう週末婚なんかやめだと言って、新は受け入れてくれました。決して一人きりになんかさせません」
必死に言い募る直樹を、忠彦は虫けらを見る目で見下ろした。
「新を何よりも愛すると誓うか」
「誓う」
「……立て」
物凄くイヤそうに彼は言葉を続けた。
「君と養子縁組しよう」
新は言葉が出なかった。直樹と一緒にいることを許されただけじゃない、彼を中野家の一員として認めてもらえたことを理解して、喜びがこみあげる。
「ありがとうお父さん」
忠彦は優しい顔で新に頷いたけれど、再び直樹を見下ろして眉を寄せた。
「だが次に新を泣かせたら今度こそ容赦しない」
「もちろんです」
直樹はゆっくりと立ち上がり、姿勢を正して深々と義父に頭を下げた。ああそうだ、と義父は人の悪い笑顔で言った。
「新を引き抜いて自分の側近く、秘書として働かせようと考えてるならやめたほうがいい。性欲と嫉妬に狂って、仕事も何もできなくなる」
驚く新の前で、直樹が赤面した。
「いけませんか」
「一度やってみたらわかる。愛する相手を前にして、冷静に仕事ができるかどうか。まあベータである新の自主性を阻害したくないなら、仕事ではある程度の距離感を保つことだ」
「わかりました。肝に銘じます」
直樹は人生の先輩の言葉に頷いた。
「ただし。新はまったく気づいてないが、この子を狙っているのは男女問わず、バース性問わずたくさんいるぞ。手を出されたくないなら、今日と同じぐらい毎日、マーキングしておくことだな」
「え?」
俺を狙う人がいる? 狼狽する新を、直樹はまったく眼の笑っていない笑顔で見下ろした。
「そうなのか、新?」
「君にも責任がある。日曜の午前でこの子を解放してるんだ、そりゃ月曜の朝には匂いも取れてる。なのに新婚生活の色気だだ漏れで仕事に行っていれば、誰だってこの子を欲しくなる」
直樹が大きく息を吸う。新の顔色が悪くなったが、直樹はそんな新に、表面だけにこやかに笑って言った。
「身に覚えがあるんだね」
「いや、でも! 飲み会に誘われたり、ちょっと手を握られるぐらいで」
「お義父さん、新は我が家で暮らします。別宅は必要ありません」
「えっ! ちょっと待って!」
目を見張る新に、直樹は取り付く島もなかった。忠彦は溜め息をついた。
「直樹。君の経営手腕を認めていると言ったのは本心だ。私の後、中野グループを君に率いてもらいたい。しかし君の次の代は、拓海と律の子か、その配偶者が引き継ぐことになる。君は自分の子を作ることに未練はないのか」
「ありません。その代わり、新の子を見たいという夢は諦めてください。俺は新を、決して誰にも渡しません」
新は動けなくなった。父である忠彦の殺意は凄まじかった。そしてそれを真っ向から受け止めて動じない直樹も恐ろしかった。二人のフェロモンがゆっくりとやわらぐ。ほっと息を吐いた新に、直樹は向かい合った。
「すまない。最初に新に言うべきだった。俺は新のことになると異常に心が狭くなってしまう。もし新が不倫したら、俺は絶対に相手を殺すだろう。だから新も自分の子は諦めてほしい」
新はたまらない気持ちになって、直樹の胸に顔を埋め、くぐもった声で言った。
「何回も言ったよ。俺はあなたを裏切らない、浮気なんかしないって。ベータだから信じられないってひどい。だいたい女の人とセックスなんてもう無理だよ。あんな恥ずかしいこといっぱいして、直樹以外とはできない身体にしたんだから。責任とって」
新は濡れた瞳でたった一人、伴侶として選んだアルファを見上げた。義父と拓海の前なのに、直樹がごくりと生唾を飲み込む。
不意に笑い声が響いて、席を外していた拓海がコンビニ袋を投げてきた。直樹は危なげなくそれをキャッチした。新の家に行く前に、コンビニで買ってきた避妊具とローションが入っている。
「返す。忠彦様、もう律様のところに戻らせていただいても?」
「駄目だと言っても離れられないだろう。新、お前の部屋はそのまま残してある。直樹を案内してやりなさい。それから直樹、明日は仕事だ。新の体に無理はさせるなよ」
直樹は最愛の配偶者を見下ろした。新の頬は紅潮している。こんなにも愛する相手に無理をさせない。難問だ。
「できるかぎり、善処します」
そう答えて、直樹は新を抱き締めた。
「あなたの言うとおりです。俺が新にした行いは許されない。それでも俺は新を、新だけを愛しています。彼を奪われたら死んでしまう。お願いです、俺から新を奪わないでください」
応接室がシンと静まり返った。誰も何も言わなかった。直樹がどれほど優れたアルファかは、これまでの実績が証明している。それだけのアルファがプライドを投げうってまで新を奪われまいとする姿に、さすがの忠彦も息を呑んだ。新も直樹と一緒に土下座しようとしたけれど、気配で気づいた直樹に「駄目だ」と制止された。
「こんなことをするのは俺だけでいい。新に土下座させるぐらいなら、俺が死んだほうがマシだ」
その言葉に胸が詰まってソファから立ち上がったまま動けなくなる。忠彦は黙り込んでいたが、やがて続き部屋に控えている『彼』を呼んだ。
「この男を始末しろ」
「申し訳ありません、忠彦様。そのご命令には従えません」
直樹は頭を上げなかった。新は目を見張った。
「拓海!」
新の呼びかけに、彼は軽く頷いた。
「律様から、木南氏に手を出さないよう命じられておりますし、自分もこの男には借りがあります」
頭を床につけていた直樹が、思わず頭を上げる。
「律のことか?」
「律様を呼び捨てにするな!」
その剣幕に直樹だけでなく新も思わず引いた。いつも無口な拓海が、実は中野家の人間以外は排斥するタイプだと初めて知る。そう言えば優れたアルファは独占欲が強いんだった。
「違う。あのとき緊急用抑制剤を俺にもくれただろう。あとローションと避妊具を借りた」
「ああ」
そう言えば兄と拓海は、直樹の家のゲストルームで番の契約をしたんだった。いつのまに、直樹がコンビニで買ってきたのを持っていったんだろう。全く気づかなかった。
新は父と直樹の間に立ち、直樹を庇った。
「父さん、もうやめてください。拓海も下がってほしい」
そう言って直樹を抱き起こそうとしたが、彼は首を振った。
「いいんだ、新。俺が逆の立場ならもっと前に問答無用で始末している。新にしたことを思えば、何をされても仕方ない」
「だってそれは! 俺が律の身代わりでいいって言ったからだ。もっと早くあなたを愛していると繰り返し伝えたらよかった」
「新、そいつから離れなさい。お前にふさわしい相手はいくらでもいる。女と結婚して子どもが欲しいと思わないか。アルファでもベータでもオメガでも、お前が望むなら選り取り見取りだ。男がよければオメガの男を手に入れてやろう」
新は不思議な表情で自分の父親を見つめた。
「父さん。俺はベータだから、兄さんより愛されてないと思ってた。政略結婚の駒にもできないし、アルファじゃないから経営は無理だと言っていただろう。俺がベータでもよかったの?」
「何を言ってるんだ、そんなの当たり前じゃないか!」
忠彦は大股に新に近づいて、息子を強く抱き締めた。
「性別がなんだ。俺も柊もそんなことで差別したつもりはない。だがお前はベータの男だ。オメガとは違う、家を出て独り立ちしたいと願うだろう。それがわかっていたから教育を受けさせ、一人でも生きていけるように家事のスキルも一般的な金銭感覚も身に着けさせた。経営の世界は過酷だ。大切なものを守るために、他者を切り捨てる冷酷さが必要になる。アルファというのは、愛するもののためにはどんなことでもできる人種なんだよ。新、お前はベータとしては飛び抜けて優秀な、私の自慢の息子だ。だが優しい。優しいお前は、経営に参画させたくなかった」
「でも、父さんは兄さんばかり大切にして、連れ歩いていた」
義父が首を振った。
「違う。お前を外に出してやるためには、皆の目を律に集めさせるしかなかった。律は狙われても拓海が必ず守り切る。だがお前は? 一人で中野家を出た新を、恐ろしい目に合わせるわけにはいかない。だから皆で新のことは隠し通した。それほど努力しても、この男と結婚したことで、お前の存在は知れ渡ってしまったから、いずれにしろあのタワーマンションは近々引き払わせるつもりだった」
「新は俺が守ります。守らせてください。もう週末婚なんかやめだと言って、新は受け入れてくれました。決して一人きりになんかさせません」
必死に言い募る直樹を、忠彦は虫けらを見る目で見下ろした。
「新を何よりも愛すると誓うか」
「誓う」
「……立て」
物凄くイヤそうに彼は言葉を続けた。
「君と養子縁組しよう」
新は言葉が出なかった。直樹と一緒にいることを許されただけじゃない、彼を中野家の一員として認めてもらえたことを理解して、喜びがこみあげる。
「ありがとうお父さん」
忠彦は優しい顔で新に頷いたけれど、再び直樹を見下ろして眉を寄せた。
「だが次に新を泣かせたら今度こそ容赦しない」
「もちろんです」
直樹はゆっくりと立ち上がり、姿勢を正して深々と義父に頭を下げた。ああそうだ、と義父は人の悪い笑顔で言った。
「新を引き抜いて自分の側近く、秘書として働かせようと考えてるならやめたほうがいい。性欲と嫉妬に狂って、仕事も何もできなくなる」
驚く新の前で、直樹が赤面した。
「いけませんか」
「一度やってみたらわかる。愛する相手を前にして、冷静に仕事ができるかどうか。まあベータである新の自主性を阻害したくないなら、仕事ではある程度の距離感を保つことだ」
「わかりました。肝に銘じます」
直樹は人生の先輩の言葉に頷いた。
「ただし。新はまったく気づいてないが、この子を狙っているのは男女問わず、バース性問わずたくさんいるぞ。手を出されたくないなら、今日と同じぐらい毎日、マーキングしておくことだな」
「え?」
俺を狙う人がいる? 狼狽する新を、直樹はまったく眼の笑っていない笑顔で見下ろした。
「そうなのか、新?」
「君にも責任がある。日曜の午前でこの子を解放してるんだ、そりゃ月曜の朝には匂いも取れてる。なのに新婚生活の色気だだ漏れで仕事に行っていれば、誰だってこの子を欲しくなる」
直樹が大きく息を吸う。新の顔色が悪くなったが、直樹はそんな新に、表面だけにこやかに笑って言った。
「身に覚えがあるんだね」
「いや、でも! 飲み会に誘われたり、ちょっと手を握られるぐらいで」
「お義父さん、新は我が家で暮らします。別宅は必要ありません」
「えっ! ちょっと待って!」
目を見張る新に、直樹は取り付く島もなかった。忠彦は溜め息をついた。
「直樹。君の経営手腕を認めていると言ったのは本心だ。私の後、中野グループを君に率いてもらいたい。しかし君の次の代は、拓海と律の子か、その配偶者が引き継ぐことになる。君は自分の子を作ることに未練はないのか」
「ありません。その代わり、新の子を見たいという夢は諦めてください。俺は新を、決して誰にも渡しません」
新は動けなくなった。父である忠彦の殺意は凄まじかった。そしてそれを真っ向から受け止めて動じない直樹も恐ろしかった。二人のフェロモンがゆっくりとやわらぐ。ほっと息を吐いた新に、直樹は向かい合った。
「すまない。最初に新に言うべきだった。俺は新のことになると異常に心が狭くなってしまう。もし新が不倫したら、俺は絶対に相手を殺すだろう。だから新も自分の子は諦めてほしい」
新はたまらない気持ちになって、直樹の胸に顔を埋め、くぐもった声で言った。
「何回も言ったよ。俺はあなたを裏切らない、浮気なんかしないって。ベータだから信じられないってひどい。だいたい女の人とセックスなんてもう無理だよ。あんな恥ずかしいこといっぱいして、直樹以外とはできない身体にしたんだから。責任とって」
新は濡れた瞳でたった一人、伴侶として選んだアルファを見上げた。義父と拓海の前なのに、直樹がごくりと生唾を飲み込む。
不意に笑い声が響いて、席を外していた拓海がコンビニ袋を投げてきた。直樹は危なげなくそれをキャッチした。新の家に行く前に、コンビニで買ってきた避妊具とローションが入っている。
「返す。忠彦様、もう律様のところに戻らせていただいても?」
「駄目だと言っても離れられないだろう。新、お前の部屋はそのまま残してある。直樹を案内してやりなさい。それから直樹、明日は仕事だ。新の体に無理はさせるなよ」
直樹は最愛の配偶者を見下ろした。新の頬は紅潮している。こんなにも愛する相手に無理をさせない。難問だ。
「できるかぎり、善処します」
そう答えて、直樹は新を抱き締めた。
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