ソードゲーム

妄想聖人

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インスブルックの惨劇 5

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ドイツ バルト海

 東の空から太陽が昇り、光が海を照らす。反射する光によって海は、キラキラと宝石箱のように輝く。遠くのほうで魚が飛び跳ねた。一瞬のことで種類はわからなかった。美しい光景と相まってどこか神秘的な光景であった。
「綺麗だな……」
 真白は自然が作る宝石の輝きを時が経つのを忘れて魅入った。しかも周りには船が見当たらないので、この美しくも雄大な光景を独り占めできた。早起きは三文の得と教わったが、三文がどれほどの価値なのかわからない。はっきりしているのは、この景観には金では買えない価値がある。カメラがあったらすぐに撮影していた。森の中にある隠れ里で育ったので、初めて海を見た時は感動した。その時の感動が甦ってきた。裸足になって足首まで海に浸かり、海水を手で掬って舐めたら、塩辛かったことを思い出した。世界はこんなにも美しいものに溢れているのに、簡単に見ることも触れることもできない。それもこれも今の状況のせいだ。そう考えるとふつふつと怒りが湧いてきたが、すぐに海に投げ捨てた。折角の景色を自分で台無しにすることはない。
「飯だぞ」
 船室から一路が声をかけてきた。クルーザーは自動操縦中で、ヴァルネミュンデという街へ向っている途中だと真白は聞いた。
「今行く」
 この光景を目に焼き付けて心のアルバムに収めてから船室へ向かった。
 食欲をそそる良い匂いが鼻腔を刺激した。食卓の上には厚切りハムとレタスを挟んだサンドイッチが二つ、ハムエッグが一枚、コーンポタージュだけだった。二人とも同じメニューだ。乗船前に一路が買っておいた食糧で作られた料理だ。席について手を合わせて「いただきます」と言うと「召し上がれ」と答えた。サンドイッチを取った。パンに挟まれた厚切りハムが存在感を主張しており、見た目にはボリュームがある。早速、サンドイッチにかぶりついた。
「どうだ?俺の料理は」
 興味津々な表情で聞いてきた。
「普通だな」よく噛んで飲み込んでから答えた。それ以外の感想が出なかった。これならヌイの作ったサンドイッチのほうが美味い。
「そこは嘘でも美味いって言ってもらいたかった」ぼやいてから一路も食事を始めた。
「俺は相手が誰であれ絶対に嘘を付かないのを信条にしている」
 むきになって言い返した。
「嘘でも会話が弾むかもしれないだろ」
「俺は絶対にしない」語気を強めて否定した。
「……それが敵でもか?」
「そうだ」
「色々と損をしそうだな。お前さんは」一路は真白をじっと見つめてから言った。
「仲間からも言われるよ。交渉事には向いていないと」
「仲間か……」一路は真白の様子を窺うように見ながら、おずおずと切り出した。「その仲間なんだが、聞いてみたいことがあるんだ。いいか?」
「答えられる範囲で頼むぞ」何を聞かれるのか予想できず、真白は僅かに身構えた。
「それじゃあ――」一路は少し躊躇った。「エイリアンって話は本当なのか?」その顔に僅かな赤みが差した。真面目に聞くのが恥ずかしいようだ。
そんなことか。と真白は肩の力を抜いた。「向こうからすれば俺たちがエイリアンだと思うが」
「そうじゃなくて、人間の主観で答えてくれ」
 真白には一路の真剣な態度が理解できなかった。どうしてここまで真剣になる必要があるのだろう。今日の天気について話すぐらい、気楽に聞いていい質問のはずだ。
「そうだ」
「マジでエイリアンなのか……」
「おい」少し気分が悪くなった真白は、一路に非難の目を向けた。「エイリアン。エイリアンと連呼しないでくれ。あいつ等も人間と変わらない人型なんだから。俺からすると差別言葉に聞こえる」遠回しに仲間を侮辱されているような感覚になってきた。
「以後気を付ける。しかしマジでそうなのか……」一路の食事の手が止まった。「じゃあよ。この宇宙の外側にある別な宇宙のとある惑星から連れて来たって話も本当なのか?」
「本当だ」
 一路がその話を知っているのは不思議でも何でもなかった。将監に仲間のパスポートを用意してもらう時に、そのように説明していたのだ。心山の同僚ならその話を聞いていただろう。ただ将監は信じ切れていない様子だったが。
「その外側にある宇宙って言うのは、いわゆる並行宇宙って奴なのか?」
「並行宇宙か。まだ行ったことがないな」指摘されて初めて気づいた。自分の置かれている状況のせいか好奇心の虫は強く疼かないが、一度ぐらい行ってみてもいいかもしれない。頼めば連れて行ってもらえるだろう。「宇宙の外側とは、物理的な意味だ。この宇宙を突き破った先に広がる世界だ」真白は右手の人差し指を立てて天井を、その遥か先に広がる世界を指した。一路は人差し指の先を目で追った。木目柄の天井で止まった。
「根本的な疑問だが、どうやって宇宙の外側に出たんだ?それも神剣の力か?」
「違う。神剣で――」真白は疑惑の目を向ける。「これは誘導尋問なのか?」
 危うく口が滑るところだった。神剣に関してはどんなに些細なことでも誰にも話したくない。それが仲間であってもだ。これは物部氏に代々伝わる秘術なのだから。
「冤罪だ。折角、異星人、じゃなくて地球外生命体、でもない。ルビを振るとどっちもエイリアンだしな。どうしてこんな時に使える都合のいい言葉がないんだ」
 一路は腕を組んで悩みだした。真白は普通と評価したサンドイッチを何十回と咀嚼してから嚥下した。ヌイか友紀の料理が食いたいな。空腹は満たされるのだが、舌が物足りないと主張している。そんなつもりはなかったのだが、どうやら舌が肥えているようだ。贅沢を言える状況ではないのは理解しているが、恋しくなる。ようやく無難な言葉が見つかった一路は腕を解いた。
「異邦人は人類の夢なんだぞ。実在するのなら知りたいし、会ってみたい」
「その気持ちは分かる。広い世界を知ってからは、もっと色んなところに行ってみたい欲求が強くなった」おかげで見識がとても広がった。そこで得た答えの一つに、他の人型と比較すると、人間は特別な生き物ではない。人間がどれだけ努力しても、辿り着けないぐらい優れた身体能力を持っている人型がいれば、人間世界よりも遥かに高度な文明世界もある。
「話を戻すが」一路は自分の食事を再開した。「どうやって宇宙の外側に出たんだ?」
「不可能がない知り合いがいてな。そいつに連れて行ってもらっている」
「その人を紹介してもらうのは可能か?」
「紹介するのは構わないが、会話はできないぞ。あいつは興味を抱いた相手としか話をしない。仲間内では俺としか話さない。仲間たちのことは視界に映っていないかのように振る舞う」
「それじゃあ俺にも興味を抱けば、宇宙の外側に連れて行ってもらえるのか?」
「そうだな」
「お前さんはどうやって興味を引いたんだ?」
 真白の食事の手が止まった。うんざりした顔で一路を見つめる。
「聞いちゃいけないことだったのか」一路は若干たじろいだ。
「何度も聞かれているから、辟易しているだけだ」仲間たちやその他から必ずされる質問で、答えるのが面倒になってきた。それが原因でやらなくていい殺し合いをやる羽目になったこともあった。
「いやいや。お前さんの事情を汲み取れなんて、どんな無茶ぶりだ。これは誰だって疑問に思うぞ」
「それはそうだが……」少なくとも、一路とは殺し合いに発展する心配はない。別に隠すことではないので、答えるのはいいのだが内容は決まっている。
「わからん」
「……はっ?」
 身を乗り出して拝聴しようとしていた一路は間抜けな声を上げた。
「だからわからん。ただあいつの言い分では、あいつの居るところまで俺の声が届いたそうだ。それで興味を抱いたらしい」
「簡単そうに聞こえるが、難しいのか?」
 真白は馬鹿な質問をする一路を呆れ果てた目で見つめる。
「お前は自分の声を、道具を使わずに宇宙に届けることができるか。あいつは普段この宇宙にいないから、最低でもこの宇宙を突き破る大声を出さないといけない」
「それは……無理だな。というか、仮に…諸々の事情を無視してできとしても、宇宙の端に届く前に俺の寿命が先に尽きる」
「つまりそういうことだ」普通に考えれば、不可能なことであり、真白自身そんなことをやった覚えはないし、できるとも思っていない。向こうの言い分に従うなら、下等種族であるホモ・サピエンスがやってみせたから、興味を抱かれたことになるが、どうやったのか未だに謎なのだ。
「残念だな……」一路は肩を落としてサンドイッチをちょびちょび食べるが、すぐに気を取り直した。「お前さんの仲間に美人さんはいるのか?」
「美人?」
 真白の眉が吊り上った。
「そう美人さんだ」
 目を輝かせている一路を、冷めた目で見つめ返す。先ほどの質問より、興味があるように見える。
「念のために聞くが、性別は女だよな?」
「当たり前だ。俺は異性愛者(ストレート)だ」
「どうしてそんなことを知りたがる?」
「そらお前さん。人間と異邦人の恋愛はロマンスがあるじゃないか」
「その相手はお前か?」
「俺でもいいし、俺以外の誰かでもいい」
「そういうものか……」
 確かに仲間たちは、遺伝子レベルで人間とは異なる人型だが、見た目は人間と変わらないので、一路のように思えない。
 真白は仲間(女性限定)の顔を思い浮かべた。困ったことに一部は純粋な女性とは言えないので、女性に組み込むかどうか悩んだ。一応女性に組み込んだ。全員の顔を横に並べて眺めてから結論を出した。
「居ると思うぞ」
「なんではっきりしない答えなんだよ」
「俺が美人と感じてもお前が美人と思うかは分からないからだ」
「参考までに、お前さんにとって美人はどんな女性だ」
「そんなの決まっ――」
答えかけた口を慌てて閉ざした。一路の目が怪しく光った。
「ほほう」美味しそうな獲物を見つけた肉食獣のような目つきになった。「決まっているのか。それは誰だい。仲間内にいるのか?」
「いないし。答えたくない」これ以上は聞くなと、全身で示すが向こうは無視して畳みかけてきた。
「もしかしてティアか?略奪愛するつもりか。やるねぇ」小さく口笛を吹いた。
「あいつも違う。というかティアを知っているのか?」
「六派とヴァチカンは昔から交流があってな。今も交流会が開かれているんだよ。その時に知り合った友達だ。知らなかったのか?」
 真白は頷いた。新魔術成立の背景を思い出せば、交流があってもおかしくなかった。ヴァチカンは長い間、魔術を独占していた。そのため欧州魔術を学ぶための手っ取り早い方法は入信することだ。
「ほらお兄さんに話してみ。ここだけの話にしてあげるから」
 でばがめ根性丸出しで身を乗り出して来た。
「いいかげん黙れ。答えたくないと言っているだろ」
「その頑なな態度から察するに、振られたんだな」
「それは……」真白は右手を動かして慈しみながら瞼の上から目に触れた。「分からない」
「なんだ告白してないのか?」
 意外そうに聞き返した。
「そうだよ。もういいだろ」
「よくないな。ここは経験豊富なお兄さんの出番だ。恋愛講座をしてやるから。もっと教えな。ほら」
「必要ないし答えたくない。そして黙れ」
 二人の朝食は思いのほか賑やかに過ぎて行った。


「……疲れた……」
朝食後、真白は机に突っ伏した状態で漏らした。一路は二人分の食器を持って調理室に向かった。
戦闘以外でこんなに消耗したのは初めてかもしれない。精神的な意味で。生まれた時から戦士として育てられてきたので、恋愛は知らずにいた。里には女性も当然いたが、あくまで氏族の一員という印象しかなかったので、女性として意識したことはない。それらの環境が相まって、初恋を迎えたのは山囲戦争の時だ。そして、この恋は今も継続している。それなのにあの男は、根掘り葉掘り聞こうとする。恋愛経験値の低い真白には、終始不利な戦いだった。ノーガードのところをタコ殴りされたような感覚だ。しかもそのせいで、今も愛している女を強烈に思い出してしまった。
真白はもう一度右手を動かして、慈しみながら瞼の上から目に触れた。口を動かし、言葉を発さずに名前を呼んだ。その声、容姿、仕草や匂いの全てを今も克明に覚えているが、二度と会えない。急に寂しさに襲われた。この両手で抱きしめたい。声を聴きたい。それは――叶うかもしれない願いだ。あいつには不可能がない。無から死者を生き返させることも可能だ。しかし、果たして自分の都合で死者を生き返させていいのかわからない。死者の冒涜ではないだろうか。はっきりと断ってくれたら、諦めがつくかもしれないが、もし聞き入れてくれたらと思うと、この願いは口に出せない。葛藤に悩まされている中でも、慰めがあるとすれば、この体の一部として今も生き続けていることだろう。
「何やってんだ」
上から声がした。真白の顔の前にセラミック製のマグカップと十本のシュガースティックが置かれた。疲れた目を上に向けると、同じセラミック製のマグカップを持って口を付けている一路と目が合った。すぐに上体を起こして距離を取って戦闘に備えるかのように身構えた。あれ以上、この男とは恋の話をしたくなかった。寂しさから、しばらく眠れなくなりそうだ。
「露骨に警戒されるとさすがに傷つくぞ」
「自業自得という言葉を送ろう」
「あんなの親睦を深めるためのコミュニケーションだぞ」
「誤解を招きそうなコミュニケーションだったぞ」
 ぶっきら棒に答えたが、ちょっとだけ楽しいやり取りではあった。山囲での頃を思い出してしまった。多分、兄弟子だったというのが大きいと思う。性格は全然違うが、あいつと所縁のある人間だから、心の距離感というものが他の人間よりも近いのかもしれない。口が裂けても正直に言う気はない。そんなことを言ったらこの男は、調子に乗りそうだ。
「お互い未来志向でいこうや。飲みな。食後の一杯だ」
 真白はマグカップの取っ手を掴んで引き寄せた。湯気が上がる中身を見て顔を顰めた。
「黒いな」
「コーヒーだからな」
 辛い料理を食べられないが、苦い物も苦手だ。一路は平然と飲んでいる。どうしてこんな墨汁みたいな苦い黒汁を好んで飲むのか理解できない。初めて見たときは、飲み物とは思えなかった。ブラックコーヒーの存在を否定するかのようにシュガースティックを十本全部入れた。マグカップを持ち上げて円を描きながら振って砂糖を溶かした。一口すすると、口の中一杯に甘さが広がった。それは黒色砂糖水と呼べる代物だった。
「美味いな」
 顔の筋肉が緩みしみじみと呟いた。口の中に広がる幸福感(糖分)。この瞬間だけは、嫌なことを全て忘れられる。人生とはこの一杯のためにあると言っても過言ではない。欲を言えば、デザートもあれば良かった。甘い物は別腹でいくらでも食える。
「話に聞いていたが、本当に甘い物が好きなんだな」
「こんな美味い物を嫌いになれる奴はいないだろう」
 里を出て良かったことの一つだ。
「そんなに甘い物が好きなら、日本に戻ってきたらどうだ。ミシュランに載るスイーツの名店に連れてってやるぞ」
「本当か?」
 真白は色めき立った。だがすぐに思案顔になった。
「問題でもあるのか?」
「スイーツ巡りは魅力的だが、日本はちょっとな……」
「何を悩む。お前さんの故郷でもあるんだぞ」
 真白からすれば故郷という感じはない。真白の知る日本とは、奈良~平安初期ぐらいの日本であって、今の日本は異国だ。
「日本人という民族が俺には理解できないところがある」
「例えば?」
「そうだな……、日本人の多くは武士が好きだろ」一路は頷いた。「それと同じぐらい、戦前の軍人を否定するだろう」
「まあ、そうかもな」
「そこがわからない。どちらも軍人階級だぞ。何が違う。戦時中の軍事政権にしても、日本人が好きな武士の時代に逆戻りしただけだろ。言ってることが矛盾している。その点、ヨーロッパ人はそういうところがあまりない。俺からすると、ヨーロッパ人の方が付き合いやすい」
「そこか。確かに日本人じゃないとわかりづらい部分だな」
 真白は一路に目で説明を求めた。
「それは日本人の特性だ。日本人は矛盾や曖昧さに対する許容度が高いんだ。だから自然と矛盾を口にする。本人は矛盾を言っても気づかない。指摘したら大真面目に反論するがな。ヨーロッパ人の場合は、アリストテレスが矛盾を許容してはならない。という教えを欧米人に残したんだ。日本ではこの手の教えが影響力を持ったことはないがな」
「それは良いことなのか?それとも悪いことなのか?」
「俺も日本人なんで、単純な善悪では語れない」
「やっぱり日本人は理解しづらい」
 熱心に拝聴していた真白の感想である。
「スイーツ巡りはどうする?」
「ヨーロッパの全スイーツを制覇してないから、そっちが先だ。それと俺を取り巻く状況が落ち着いたら、その時に頼むかもな」
「そうか」
 会話が途切れた。
 丸型の舷窓から、何気なく外の景色を眺める。海は宝石箱のようにキラキラ輝いていないが、雄大な景色であることには違いない。海を眺めながら黒色砂糖水を啜る。何かをする訳ではない。ただ海を眺めて、ただ多糖コーヒーを啜るだけ。時間の流れが緩やかになったような感覚になる。たったそれだけで全身から余計な力が抜け心が落ち着く。
 こういう時間の使い方もいいな。こんな状況なのに、驚くほど心身のリフレッシュが図れた。
 テーブルに空になったマグカップを置くと、もう一つ空になったマグカップが視界に入った。
 見える範囲で探してみたが、一路はどこにもいなかった。
「どこに行った?」


 遠目に港町が見えてきた。舵を握る一路はGPS装置で位置を確認した。目的地のヴァルネミュンデで間違いなかった。ここまで天候にも恵まれ、無事に到着しそうで安堵の息を漏らした。もう少しで、このクルージングが終わろうとしていた。潮風が気持ちいいので少し名残惜しかった。まさか物部真白とクルーザーで逃避行をするとは思わなかった。同じ逃避行なら惚れた女との、愛の逃避行をしてみたかった。
だがこれはこれで悪くない。
神降ろしの魔術が現代まで残っていたことに、世界中の魔術関係者は腰を抜かす程驚いたらしいが、日本ではそれほど驚かれなかった。物部氏の祖である邇藝速日命(にぎはやひのみこと)は、天皇家の祖である瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)と同時代を生きた国津神だ。ついでに言うと、天孫以前の日本の旧支配者の一柱だ。御先祖様は神様なのだから、神の力を使えても何ら不思議ではないと言うのが、日本術界の総意だ。それに世が世なら、相手は地面に額を擦り付けないといけない大貴族の一員だ。有名な藤原氏よりも家格は上だ。仰ぎ見ることすら恐れ多い。神の直系の子孫で大貴族の物部と、普通人で庶民の自分が一緒に行動するのは面白い。
 一晩経ったが、自分でも驚くほど物部とは普通に接していられる。悪ノリしてからかいはしたが。弄ると面白い奴というのは個人的な収穫だ。物部本人を前にしたら、自分でも抑えきれない負の感情が爆発して、罵声の一つでも出て来るかもしれないと危惧していたがそんなことはなかった。心に荒波は立たなかった。それっぽい言動は取ったが、あれは真白を納得させるための、本当に方便だった。弟弟子の死は完全に整理がついたと判断していいだろう。それ以前に真白に罵声を言える立場にない。山囲戦争があった頃は、日本にいなかったのだ。一路の前職は旅行代理店の旅行プランナーだった。当時はウズベキスタンに居て、旅行計画を練っていた。山囲戦争という大事件が遭ったのを知ったのは帰国した後だ。日本にすら居なかったのに、どうして文句を言えるだろうか。弟弟子の死を知った時は悲しんだ。その感情が落ち着くと今度は激しい後悔の念に襲われた。あの時どうして日本にいなかったのか。日本に居れば、一緒に山囲に行っていれば弟弟子は死なずに済んだかもしれなかった。死の運命を回避させるだけの力は持っている。力を持っていても必要な時に行使しなければ意味がない。だから魔術現象調査対策室にスカウトされた時は、もう二度と後悔したくないから応じた。そのおかげで、弟弟子の死について自分なりの答えを得た。それだけでも入隊した価値があった。
戦争後に真白が提出した報告書。ところどころ黒く塗り潰されていたが、それを弟弟子の人となりを思い出しながら読んだ限りでは、それなりに満足して逝ったように思えた。それに弟弟子を殺した奴は、真白が殺してくれたので、既に復讐は完了している。そういう意味では、真白には感謝している面がある。八つ当たりしたいなど微塵も思っていない。それなのにあの言い回しは謎だった。
謎と言えばもう一つある。空母打撃群を圧殺したあの大規模魔術だ。術師の常識から言えば、あれは本来数十人の術師がいなければ成立しないような物だった。単体でやろうとすれば、想像もつかいない大量のA物質を放出しなければならないはずだ。それだけ体に負荷がかかるし、最悪死に至る。とてもではないが、個人で行使できるような魔術ではない。それなのに物部は平然としている。これは幾ら考えても分からないし、聞いても答えてくれなさそうなので諦めることにした。
 一路はポケットから仕事用の携帯電話を取り出した。途中経過を報告するために室長に電話した。二回目のコールで出た。
「一路です。現在物部と共にキールを脱出して、ヴァルネミュンデに向かっている途中です」
「わかった。それと――」雄一は言葉を探した。「神剣との関係は良好か?」
 一路は室長が何を尋ねたいのかすぐに察した。弟弟子のことがあったから、神剣の監視候補にすら挙がらなかったのだ。
「イジリ倒せるぐらいすこぶる良好です」
 どう言っても、向こうが安心するとは思えなかったので事実をそのまま伝えた。雄一は判断に迷いすぐに言葉を紡げなかった。
「問題は起きていないのだな?」
「はい」
「……それなら引き続き監視を頼むぞ」
「わかりました」
 通話を切ってからポケットに戻した。しばらく操縦に集中していると、足音が近づいてきた。
「ここにいたのか?」
 後ろを振り向くと真白がいた。
「俺が居なくて寂しかったのか?」わざとふざけてみた。
「いきなりいなくなったら、心配ぐらいするだろ」
 一路は素直に驚いたが顔には出さなかった。人間は全て敵と言って憚らないこの男が、この身を案じてくれた。自分で思っているよりも、厚い信頼を寄せられている。弟弟子の遺功だな。と結論付けた。日本に帰ったら、墓前の前で話すことがまた一つ増えた。
「そいつは済まなかった」
 真白の心配は的外れな物でもなかった。ベテランの船乗りでさえ、突然の大波に襲われて船外に投げ出されることがある。もし一人で航海していた場合、それは死に繋がる。
 真白の熱烈な視線を感じる。と言っても、それは一路が握っている舵に注がれている。触ってみたいと静かに主張している。今まで舵に触れさせなかったのは、見張りをしてもらうためと素人だからだ。さすがに素人に舵を触らせるのは不安がある。でも傍に付いている状態なら少しぐらいいいか。という気持ちになった。
「操縦してみるか?」
「いいのか」
 凄い食い付きだった。子供みたいに目をキラキラと輝かせている。ふとやっぱり駄目と断ったらどんな顔をするのか見てみたくなった。そんな意地の悪いことは、本当にやる気はないが。
 真白を手で招いて場所を開けた。おっかなびっくりに舵に触れると「おぉ」と感激したような声を漏らした。子供のように無邪気にはしゃぐ真白に対して、微笑ましい気持ちになってきた。あいつもこんな気持ちになったのかな。残虐な事を平然とやるが、それはこの男が持つ一面に過ぎず、こっちが自然体なんだろうと漠然と思った。


 ドイツ ヴァルネミュンデ

 桟橋との距離を測りながらクルーザーは徐々に速度を落としていった。スクリューは完全に止まっているが、慣性の法則でゆっくり前進していく。真白はタイミングを計って船首から桟橋に飛び移った。手にはロープが握られている。それを索止めに引っかけた。駆け足で船尾に向かうと、一路はロープを投げて寄越した。二人は力を合わせてクルーザーを、桟橋に横付けししっかり固定した。
 真白は街の様子を眺める。一路の説明によると、ヴァルノウ川がバルト海に注ぐ所にある港町。かつては小さな漁村だったが、今は地方色豊かなレストランやショップが並ぶリゾート地。それがヴァルネミュンデだと教えてもらった。
「きょろきょろするな」桟橋に移った一路が窘める。「観光に来た訳じゃないんだ。目立つぞ。特にお前さんはアルビノで人目を引くんだから気を付けろ」
「そうだったな」
 緩んでいた気持ちを引き締め直した。
「まずは鍵を返してくる」
 一路は鍵を見せながら言った。真白は頷いた。並んで歩きだした二人だが、徐々に二人の距離が開いてきた。長身の一路は足も長く、一歩の歩幅が大きい。十センチ以上も身長の低い真白は歩幅が小さく、駆け足に近い速度を出さないといけなくなった。クルーザーを保有している事務所の前に到着した。
「ここで待ってな」
 一路は事務所の中に入っていった。隙間時間ができた真白は、街をきょろきょろと見回した。ヨーロッパは一つの文化圏であるため、ローマと似たような街並みであったが、ローマから出た。という事実が、真白の好奇心を激しく刺激した。気の赴くままに、歩いて色んな話を聞いてみたいという衝動を抑えながら、街の光景を心のアルバムに収めて我慢する。それと同時に、ローマに戻ったらこの街について調べて、実行未定の世界一周旅行に加える計画を練ることを決めた。
「行くぞ」
 返却を終えた一路に声をかけられて、名残惜しそうに真白は付いて行く。
「ところで」並んで歩く一路に声をかけた。「どうしてこの街を選んだんだ?何か意味があるのか?」
「トラヴェミュンデの方が近かったが、念のため遠いこっちを選んだだけだ」
「それだけか?」
「何を期待したんだ」一路は呆れ気味に真白に目を向けた。「一応お前さんはテロリストってことになってるんだぞ。お前さんに関する情報が、どこまで広がっているのかわからないが、遠くに逃げるに越したことはないだろ」
 真白は低い声で唸った。テロリスト云々に関しては、自覚がないので忘れていたが、一路の言い分は正しいのはわかった。それでもちょっとだけ寄り道しても、罰は当たらない気がした。
「敵。もしくはそれに類する気配は感じるか?」
 一路は尋ねた。
「突然何を言ってるんだお前は」
「いや。戦士なら気配を感じ取るとかできるんじゃないかと思ったんだが」
「どこの超能力者だそれは」
 今度は真白が呆れる番だった。
「大昔の戦士がどういう感じだったのかわからないんでね。そういうことができるものだと思ってたんだよ」
 真白は溜息をついた。恐らく、漫画とかに登場する超人のような戦士と混同しているのだろう。
「俺にできるのは、小さな音を聞き分けたり、匂いを嗅ぎ分けたりすることだ。ただ都会暮らしの影響だと思うが、感覚が鈍り始めているが。後は、視線を感じ取れる。これは里に居た頃より、敏感になった」これは戦士の技能ではなく。狩人としての技能だ。
「視線感知の精度はどれぐらいだ?」
 変な名称を付けたなと思ってしまった。
「見られているのがはっきりわかる」現に今も周囲から視線を感じる。無遠慮に見てくる感じからアルビノが珍しいのだろう。これだから感覚がより敏感になったのだが、珍獣扱いされているようで不愉快だ。
「それでも十分凄いが、敵と一般人を見分けることができるのか?」
「ああ。今は敵対的な視線は感じない」
「人間版敵味方識別信号かよ……」感嘆の呟きを漏らした。
「そこまで器用な真似はできないぞ」
 あくまでもどういう感じで見られているのか、ざっくりとわかる程度だ。
「今は安全圏と考えて大丈夫か」
 一路は言った。
「これからどうするんだ?」
「確認するが、どこまで手伝ってくれるつもりなんだ」
「ローマに帰るまで手伝うつもりだが。余計なお世話か?」
「そんな訳ないだろ。素直に感謝している。ありがとう」
 心からの感謝を込めて頭を下げた。一路がいなければ、キールでずっと逃げ隠れしなければならなかったのだ。最悪、警察を相手に戦争をしていたかもしれないのだ。
「これからの計画は?」
「まずは仲間たちと合流する」
 ポケットから衛星電話を取り出して電源を入れた。キールで隠れている最中、ずっと電源を落していた。バイブレーション機能の振動音が原因で見つかったら笑えない。
「だろうな」
「それにティアが無事かも知りたい」
 仲間たちには全幅の信頼を寄せているが、万が一の可能性は捨てきれない。明るくなった画面の下には、十数件の着信とメールが一通のマークが表示されている。
「てっおい!」一路は驚愕の声を上げた。不思議そうに見上げた。
「ティアまで連れてきたのか?」
「道案内を買って出てくれたんだ」
 一路は口をぱくぱくさせ言葉が出てこなかった。その顔は中々の間抜け面で少し面白い。真白は心の中で小さな笑みを浮かべた。今なら一路の心が手に取るように分かる。ティアはただの学者だ。これは本分を逸脱している領分でもあり、死ぬかもしれない危険を承知で付いてくるなど、普通ならしない。
「手伝う理由がもう一つ増えたな」
 着信履歴を見ると半数以上がヌイからだった。ヌイのスマートフォンにかけ直した。二回目のコールで出た。
「遅い」第一声は文句だった。離れたところから、ティアとネルーとパノの声が聞こえてきた。「どうしてさっさと電話を寄越さなかったの?変な女としけこんでいたの?だったら倍怒るよ。罰として甘味断ちだよ。この…えっと、不良息子!」
 困ったことにどこから突っ込めばいいのか悩んでしまう。とりあえずまずはここから突っ込もう。
「お前の息子になった覚えはない」
 多分ヌイなりの精一杯の悪口なのだろう。
「勢いで言ってんだから突っ込まない」
 くすくすという笑い声が聞こえてきた。そちらに目を向けると、一路は爆笑しそうな口元を手で押さえている。「愉快な仲間だな」笑いを堪えながら言った。どうやらイタリア語を理解できるようだ。
「分かってて言うな」
 嘆息交じりに言い返した。ヌイはこちらの事情を理解できないような鈍い奴ではないのは知っている。
「さんざん待たされたんだから、これぐらいの文句は許してくれるでしょ」
「許すに決まってるだろ。済まなかった。だから甘味断ちは止めてくれ」
「そっちはどういう状況なの?まだキールにいるの?」
「協力者のおかげでキールは脱出した」
 通話口の向こうにいるヌイからすぐに返答はなかった。「協力者?」難解な問題に頭を悩ませているような呟きが聞こえた。それからたっぷり一分ぐらい経ってからようやく納得した。
「あぁ。あれね。そうでしょ?」
 声には明確な嫌悪が含まれていた。
「違う」
 ヌイが言っている協力者とは不可能がない存在のあいつなのだと察した。ヌイが知っている範囲ではあいつぐらいしか知らない。そして仲間たちのほとんどが嫌っている相手でもある。確かに融通は利ないところもあるが、色々なところに連れてってもらっているし、助けて貰った事もあるので恩を感じている部分が真白にはあるで、嫌いになれない。
「じゃあ誰?」
 心底不思議そうに訊いた。
「友人の友人だ」
「そこは普通に友人でよくないか?」一路は日本語で呟いた。
「それって他人って言わない。信用できるの?」
「名前は勇士一路。ティアの友人だから聞いてみろ」
「ちょっと待ってね」
 ヌイはスマートフォンを離したが、会話は漏れ聞こえてくる。「ユーシイチロって知ってる?」「イチロ…?知ってるけど」「その人と一緒にいるみたい。友達なの?」「友達だよ。ローマに来た時に時間が合えば食事をするし」そこで二人の会話は終わった。
「確認を取ったよ。友達で間違いないね。信用しても大丈夫そうだね」
「そいつのおかげで、今はヴァルネミュンデという港町にいる」
「ヴァルネミュンデね。パノ。ヴァルネミュンデを調べて。少しだけ待って」
 パノのスマートフォンで真白の現在位置を調べている最中なのだろう。少ししてからヌイとの会話が再開した。
「まだ北部に居るんだね」
「そっちはどこに居る?」
「今は南部のウルムって街で真白待ち。……忘れそうになったけど、護衛対象は無事だから」
「今からそっちに向かう」
 護衛対象の無事が分かったことに安堵したが、感覚的にはとても高価な荷物が無事だったぐらいのものだった。
「ちょっと待って。ティアに変わるから」
「その前に確認したいんだが、甘味断ちは止めてくれるよな?」
「……ティアに変わるから」
「ヌイ」
 抗議は無視された。合流したら真っ先に確かめないといけないことができた。
「ビャンコ」
「ああ」
 聞き慣れた声が鼓膜を震わせ脳を刺激すると、真白は心から安堵できた。
「怪我はしてないか?」
「それはこっちの台詞。ビャンコこそ怪我はしてないの?」
「痣ができたぐらいだ。心配は要らない」
 聖ニコライ教会前で大量の銃弾の直撃を受けた時のことを言っている。クルーザーでシャワーを浴びようと裸になったら、無数の青痣ができていたことに気が付いた。
「心配するに決まってるでしょ」
怒っているのか呆れているのか判断に迷う口調だった。
「でもその程度で済んで良かったと思うべきなのかな」
 問い掛けではなく独白だった。真白は返答に窮する。ティアは心配しているだろうなと思っていたが、想像を軽く超えるぐらい不安にさせてしまったようだ。一緒に地下戦争を経験したので、そこまで心配していないだろうと思っていた。こういう時、どう声をかければいいのか分からない。どうしてこういう時に気の利いた台詞を言えないんだ。大切な親友を安心させることができないことに自己嫌悪に陥りそうになる。空いている手で苦悩する頭を抱える。必死に言葉を探す。
「その、心配をかけて本当にすまなかった。俺は無事だ。口で言っても信じてもらえないなら写真か動画を送ればいいのか?その、だからその、安心して欲しい」
「ビャンコは嘘を付かないよね?」
「それが信条だからな」
「だったら速く無事な姿を直接見せてもらいたいな」
 即答できないお願いだった。状況を考えると、無事な姿は約束できない。かと言って、不誠実に思える曖昧な返事はしたくない。どう答えればいいのか必死に考える。沈黙を破ったのはティアの方だった。
「傍にウーノはいる?」
「ウーノ?」
 誰か分からずに聞き返した。
「イチロの名前をイタリア語に直すと一(ウーノ)と路(ストラーダ)になるから、兄さんがウーノって呼んでいたの」
 ティアの友人なら、その兄とも友人であってもおかしくない。実際、山囲戦争で協力してくれた六派の連中とティアの兄は友人であったことを思い出した。真白は納得した。
「変わってもらえる?」
「わかった」
 一路に衛星電話を差し出す。俺?と自分を指しながら不思議そうに目で尋ねてきた。頷くと受け取った。
「ウーノだ。どうした?――おう。――最大限の努力をするよ。――責任を持って送り届ける。任せとけ」
 電話が返ってきた。
「待ってるから速く来てね」
「わかった」
 通話が切れ衛星電話をポケットに戻した。
「ティアたちはウルムという街で待っている。ここからどう行けばいいんだ?」
「ノイ・ウルムじゃなくて、ウルムで間違いないんだな?」
「そう言われたが」
「ちなみに電車と車のどっちがいい?」
「車だな。電車では万一の時に身動きがとり辛い」
「だったらそうだな」一路は頭の中でドイツの地図を思い浮かべた。「ここでレンタカーを借りて、ベルリン寄りに南下していくのがいいだろう」
 二人はすぐに行動に移った。二人は並んでレンタカーショップを探す。
「お前さんはどうしてローマを出たんだ?」
 唐突に一路が尋ねてきた。
「心山から聞いてないのか?」
「仕事と聞いたが内容は知らない」
 真白は少し考えた。仕事内容に関しては猊下から口止めされている訳ではない。それに加えて一路のことは個人的に信用している。話してもいいかと判断した。今回の仕事内容をそのまま説明した。
「それでキールまで来たら敵が待ち構えていたってところか」
「そうなるな。海上封鎖までしていたんだ。その場の思い付きでできる作戦じゃないだろ」
「入念に立てられた作戦なのは間違いないな」
 一路はポケットからスマートフォンを取り出して、文章を少し考えてから将監にメールを送った。
「災難なのは間違いなくその学者だな。ただでさえ命を狙われているのに、お前さんの状況にも巻き込まれるんだ。命が幾つあっても足りないだろ」
「その通りだな。それでも猊下は俺に頼んだ。なら俺は全力で応えるだけだ」
「そこがちょっと分からない」一路は一旦言葉を切った。将監からの返信が来た。文章を入念に読んでからスマートフォンをポケットに戻した。次に仕事用の携帯電話を取り出して、室長にメールを送ってから話を再開する。「自分の置かれている状況を理解しているのなら、どうして引き受けたんだ。巻き込まれて逝くことも十分に考えられる。最悪を想定すればそこは断る所だと思うぞ」
「恩返しをしたいからだ。猊下には地下戦争から救ってもらった。俺はそのことに、深く感謝している」
「義理か。成程ね」
 レンタカーショップの前に到着した。店員への対応は一路がする。一路のドイツ語は真白の日本語訛りのドイツ語と比較すると、ネイティブにかなり近い流暢な言葉だ。一路は目星を付けた車の内外装の傷をチェックし、ガソリンメーターや走行メーターが契約書と同じか確認してから車を決めた。支払いも一路がしようとしたが真白は止めて代わりに出した。協力してもらっているので、せめてこれぐらいはという感謝の気持ちの表れである。二人はベンツに乗り込んで、ウルムへと向かった。


 ドイツ キール

「どこに行った?」
 リアムは両手で頭を抱えながらキールの地図を見下ろしていた。傍ではフィンレンが眉間に皺を寄せながら唇を噛んでいる。
 一晩が経ったが未だに神剣発見の報告はない。地図は×印で埋め尽くされていた。空き家に隠れているかもしれないという目論見は完全に外れた。神剣は地下戦争を戦い抜いた難敵。警察に見つからないように移動している可能性もあると考えてもう一度、一から捜索させている。報告は空振り続きだが。まるでキールから消えたとしか思えない。こちらの想像を超えてかくれんぼが得意らしい。更に悪いことが続いている。未だに艦隊と交信ができない。「艦隊と繋がりません」という報告は、耳にタコができるくらい聞いた。報告する通信兵もこれ以上は勘弁してくれと雰囲気で主張している。リアムはその気持ちを汲んだ。というか、苛立ちが募り過ぎて爆発しそうだったからだ。部下の中でボートを操縦できる一人に直接確認してくるように先程命じたばかりだ。
 想定を遥かに超える長時間待機に、リアムの体は限界を訴えていた。我儘を言う体に対して意志の力で抑え込んでいたが、無視できない疲労感に襲われる。疲労に膝を屈すると、頭痛がしてきた。思っている以上に疲れているようだ。神剣との決戦が控えているのに、今の状態では十分に力を発揮できないと判断する。熱いコーヒーを飲んで気持ちをリフレッシュさせて、仮眠を取ろう。
「私は少し休む。その間は君に任せるぞ。何かあったら叩き起こしてくれ」
「その時は水をかけて起こします」
 リアムは冗談に対して力無い笑みを浮かべた。彼なりに気遣ってくれた。剣帯から二振りのサーベルを抜いて、壁に立て掛けた。中世ではないのだ。剣を佩いたまま現代の街を歩くなどしない。ただでさえキールの民衆は、凶悪なテロリストの存在に怯えているのだ。恐怖心を増長するような真似は、彼の望むところではない。
 外に出ようとすると扉が開いた。光が差し込んだが、すぐに扉が閉まり光を遮断した。フランクがリアムの前までやってきた。その手には一枚の紙が握られている。この男らしくない神妙な顔付きをしている。何かあったな。すぐに察したリアムは、残っている気力をかき集めて疲れている顔をできるだけ正した。
「悪い報せだ」
 顔と同じように声も神妙だった。
「何があった?」
 フランクは黙って地図の上に一枚の紙を置いた。リアムとフィンレンは目を落した。A4サイズのそれは、写真をコピーした物だった。そこに写っているのは二人の人物。片方は長身のアジア人で、二人の知らない人物だ。もう一人は見間違いようがなかった。アルビノのアジア人はそういるものではない。
 神剣だ。
 ようやく見つかったか。全ての疲れが吹き飛び、新たに生まれた活力が全身を満たしていく。気の充実を覚えながら二振りのサーベルを手に取った。
「奴はどこにいる?」
 リアムは目に闘志を漲らせながら質した。フィンレンも期待する顔をフランクに向けた。注目の的になった大男は逡巡してから重い口を開く。
「ヴァルネミュンデだ」
「何?」
 大男の答えを理解できなかった。それはキールから遠く離れたリゾート地の名前だ。そしてこの街の名前はキールだ。聞き間違えだと思った。
「悪い報せだと言ったろ。これはヴァルネミュンデで撮られたものだ。観光客あたりが撮ったものがSNSに挙げられていた。これはそれをコピーしたものだ」
 聞き間違えではなかった。フランクの言葉が全身に浸透していくと、激しい混乱に見舞われる。
「ヴァルネミュンデだと。どうやってキールから脱出した。いや。これは本当にヴァルネミュンデで撮影されたものなのか?」
「まずは落ち着け」
 フランクに諭されてリアムは落ち着きを取り戻した。深呼吸を一回した。「見苦しいところを見せてしまった。すまなかった」
「気持ちは分かる。俺も混乱した。だがこれは間違いなくヴァルネミュンデで撮影されたものだ」
「間違いないんだな」
「今なら余裕で百万ドルを賭けられる」
 それ以上の確認は必要なかった。考えなければならない疑問があるからだ。
「どうやって脱出したんだ?」
「ブレインジャックを使ったんじゃないのか?」
 フランクが答えた。残念ながらフィンレンにはイヴマーカーがないため、魔術は使えない。魔術の話には口を出せない。
「それも考慮して検問には監視カメラを設置している。検問に当たっている警察をやり過ごせても、カメラは騙せない。それにヴァルネミュンデに向かう理由が分からない」
「それなら海だな」
「単純な疑問なのですが」フィンレンが口を挟む。「神剣は船を操縦できるのですか?」その質問には誰も答えられない。誰も知らないからだ。
「操縦できる方向で話を進めよう」
 リアムが方針を決めると二人は頷いた。
「ボートを使ったとしても峡湾は艦隊が封鎖している。どこの誰であれ提督が航行を許すとは思えない。提督はこの作戦の重要性を理解している。強行突破しようものなら、迷わず撃沈する」
三人が頭を悩ませていると通信兵が報告する。「司令。艦隊の確認に向かった者からの報告です」丁度良いなとリアムたちはそちらに顔を向けた。
「艦隊はいない。そうです」
「いない?いないとはどういうことだ?」
「影も形もないそうです」
 リアムたちの頭の上に大きな疑問符が浮かんだ。直ぐに思い付いたのは撤退だったが、頭を振って馬鹿な考えを否定した。ベイカー提督はこの作戦の重要性を理解しているのだ。独断で撤退するなどありえない。命令もなくそんなことをすれば、敵前逃亡と見なされ銃殺だ。
「本部から何か命令があったのか?」
「いえ。本部から通信はありません」
 三人はまたも頭を悩ませた。しばらく頭を突き合わせて考える。艦隊が独断で撤退するのはありえない。フランクが言ったように、この考えには百万ドルを賭けられる。かと言って本部から命令の変更があった訳でもない。艦隊はセイレーンの歌にでも誘われたかのように忽然と消えた。
 消えた。その言葉がリアムの脳裏にある可能性を閃かせた。「神剣……」顎に手を当ててぼそりと呟いた。
「何だと?」聞き取れなかったフランクが聞き返した。
「神剣だ。神剣を使ったのなら全ての辻褄が合う」
 艦隊と連絡が付かないのも、神剣がヴァルネミュンデにいるのにもそれで全て説明がつく。艦隊はいなくなったのではない。山囲の大穴のように文字通り消滅したのだ。地中海艦隊はもうこの世に存在しない。
 その可能性に思い至った二人も納得し、無言で支持した。だがそれは同時に、ハリー・ベイカーを始めとする多くの同胞が戦死したことを意味する。三人の間に沈痛な空気が横たわった。
「神剣討伐の理由がもう一つ増えたな」
 沈黙を破ったのはリアムだった。いつまでも悲しんでいられない。まだ何も終わっていないのだ。この悲しみを力に変えて神剣討伐を果たす。それで同胞たちの死に報いる。その思いは二人も同じだった。三人は顔を合わせて、決意を新たにした。だが直面している問題が、三人を三度悩ませる。それは作戦の根幹が崩れてしまったことだ。この作戦のために決戦の候補地を選出しキールを選んだ。それからドイツ卿には多大な労力を払ってもらった。一芝居を打って神剣をローマから引っ張り出した。神剣がキールを脱出し艦隊が消滅した今、現行の作戦続行は不可能と言っていいだろう。
まず作戦を中止するか続行するかを決めなければならない。
救いの手は悪い意味での実力主義ではないので中止にしても問題はない。作戦目標を完遂できなかったからといって、すぐに処刑するような組織ではない。勿論、敵前逃亡のような軍規に反する行動を採った場合は別だ。作戦を中止にした理由をきちんと説明すれば理解してくれる。それでも何らかの罰は免れないが、全ての責はリアム一人が引き受けるつもりだ。続行する場合は時間との勝負になる。そもそも神剣をキールまで誘き出したのは、ローマには他国の目が多過ぎるからだ。救いの手は秘密結社なのだ。他国の諜報機関に探られて、表の顔に迷惑をかける訳にいかない。今後の活動に支障をきたしてしまう。ローマに到着する前に作戦を完遂しなければならない。それも迅速に。許容できる限界はイタリアと隣接している国境近辺だろう。イタリアに入ったら諦めるしかない。時間的制約があるため、援軍を呼んで到着を待つ余裕もない。
 リアムは中止と続行を天秤にかけて頭をフル回転させた。そして現場責任者として決断を下す。
「作戦を続行する」時間はないが勝機はまだある。二人に作戦を説明した。どういう訳か、神剣はフィンレン隊に神の力を使わなかった。使っていたら全滅させることも可能だったのに。その理由はこの際、脇に置いておく。今はそれを利用させてもらう。「神剣はまだヴァルネミュンデにいるのか?」
「この写真を見つけたのは三十分前だ。もう街を出ただろう」
 念のため事実確認をさせたかったが、今は一分一秒が惜しい。神剣一党の目的は護送だから、いつまでも同じ街に逗留していない可能性を示唆するフランクの意見を受け入れた。
「その後の行方は分かっているのか?」
「探らせている最中だ」
「目的地はウルムだな」エイリアン(神剣の仲間)たちがウルムで待機している報告は既に知っていた。
「警察のヘリをこちらに回せ」部下に命じてからフィンレンに顔を向けた。「ヘリが到着次第、君の部隊は先行してエイリアンたちを追い払ってくれ。可能なら殺して構わない。とにかく邪魔が入らないようにしてくれ。ドイツ卿に連絡して装備は現地に届けさせる」
「了解」
 部下たちを纏めるべく、フィンレンは素早く車内を後にした。これで横やりが入る心配は減る。残る問題は時間だ。もし神剣が先に合流していたら、準備が間に合わずフィンレン隊だけで神剣一党と決戦に望まないといけない。艦隊と同じ運命をたどるかもしれない。それだけは避けたい。フィンレンたちが先に到着するのを祈るばかりだ。
「車を発進させろ。目的地はウルムだ。全速で迎え」


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