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妄想聖人

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地球編 4

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 海斗は居間の椅子に座って、死んだような双眸で正面をぼーと眺めていた。目が上手く像を結ばず、正面に何があるのかをちゃんと認識できなかった。
 何もやる気が起きなかった。
何故なら、アニメオタクの後輩がこの世にいないからだ。
 それを知ったのは、会社に電話をした時だ。
 また頭痛に襲われたことで、これでは仕事にならないと思い、休みを延長したい旨を伝え、快く了承してくれた。そのついでのつもりで、達也の体調について訊いた。この時までは、自分と同じように、とりあえず元気だろう。ぐらいに思っていた。だが社長は、とても言い辛そうに亡くなったことを教えてくれた。なんでも、救急車で搬送中に、突然痙攣しだして吐血し、そのまま心肺停止。心臓マッサージを試みたも、蘇生することはできなかった。
 頭が真っ白になり、気付いたら電話は切れていた。
 亡くなる前の状態には覚えがあった。ゴブリンたちに滅多打ちにされたのが関係しているかもしれない。
 たかがゲームじゃなかったのか?
 確かに一朗太は、デスゲームかもしれないと言っていたが、それはあくまでも可能性の話であったはずだ。
 現実にまで影響を及ぼすゲームってなんだよ?人を死なせてまで、運営は何をやりたいんだ?
 様々な疑問が湧いたが、その答えが出ることはなく、ただ達也が死んだという事実だけが、心に重くのしかかる。
 どうして俺は、もっと強く引き留めなかった……。俺が殺したようなものじゃないか……。
 強い自責の念に囚われた海斗は、泣き叫ぶこともなく、怒りを爆発させることもなく、無気力に椅子に座っていた。
 兄の周りでは、美月が家事の一切を行っている。普段であれば、勉学を優先してもらいたいから、海斗が積極的に行い、美月と仕事を取り合っているところだが、何も手に付かない。兄の面子ためにと、強がることもできない。
 海斗の携帯電話が鳴ったが、取る気も一瞥する気も起きず放置した。美月は何かを言いたそうに顔を向けたが、何も言わずに家事に戻った。
 海斗の携帯が鳴り止むと、今度は美月のスマートフォンが鳴った。
「はい。もしもし。――園長先生。お久しぶりです」
 海斗たちからすれば、親代わりの恩人であり、美月は思わず声が弾んでしまい、すぐに海斗の反応を窺った。
海斗は一切の反応を示さなかった。
「どうしたんですか?」
 美月はバツが悪くなり、小声で話しながら部屋に入った。暫くしてから部屋から出てきた。暗い表情を浮かべて、慎重に兄に近づく。
「お兄ちゃん……」
 恐る恐るという感じで声をかけたが、やはり反応はない。今の兄に話していいのか躊躇ったが、意を決した。
「あのね。落ち着いて聞いて欲しいの」美月は言葉にしたくないと言いたげに辛そうな表情を浮かべる。「その……。拓郎が…亡くなったって。園長先生が教えてくれた」
 海斗がその言葉を理解するのに、かなり時間が掛かった。「もう一度、言ってくれ。拓郎がどうしたって?」
「拓郎が亡くなったって」
 海斗の口から笑い声ともいえる声が漏れた。「……どうしてあいつまで亡くなるんだよ?あいつも何をしたって言うんだよ?」
 海斗の目尻から一粒の涙が流れた。
「それでね。園長先生は今、警察に居るから、来れるなら来て欲しいって。警察が事情を聴きたいって」
 海斗の目に光が戻り、静かに立ち上がった。
 家族に最後の別れを言わなくてはならない。


 こんな形で警察に来るなんて……。
 夢にも思わなかった海斗は、漫然と警察署の看板を見上げた。
「速く行こ」
 美月は見上げたまま動こうとしない兄の手を取って署内へ入った。
 待合ロビーには、ひまわり園で育った家族が居た。と言っても全員ではない。
 薄情だな……。
 海斗は漠然と思った。大切な家族が死んだのだ。どうして皆、集まらないのか。頭のどこかでは、本当は理解しているのだ。皆、成人して就職したから、仕事の都合で来たくても来れないというのを。
こんな時でなければ、久しぶりの再会に、家族会を開いて楽しみたいところだ。
 何人かはソファーに座って泣き腫らし、何人かは沈痛な表情を浮かべ、何人かは海斗のように無気力になっている。その中で唯一、例外な態度を取っているのが、一朗太だった。彼は壁に背中を預けて、スマホの画面を眺めていた。
 美月は海斗を連れて一朗太のところへ向かった。
「園長先生は?」
 一朗太はスマホから顔を挙げた。「警察の事情聴取を受けている。それよりも、あいつに会って線香をあげてこい。そして、文句の一つでも言ってやれ。もしかしたら、跳び起きるかもな」
 正直に言えば、海斗は一朗太に対して怒りが込み上げていた。大切な家族が死んだのに、どうして呑気にスマホを弄っていられるのか。どういう神経をしてるんだ?と問い質したかったが、口から発せられた言葉には、いつもの力強さはなかった。多分、これが一朗太なりの悲しみの和らげ方なのかもしれない。
 美月は兄を連れて行こうとしたが、海斗はやんわりと抵抗して手を離した。
「自分で歩ける。済まないな。迷惑をかけて。ごめんな」
 いつまでも情けない兄ではいられない。家族が死んで悲しいのは、皆一緒なのだ。特に家族への愛情が深い美月は、本当は泣きたいのを堪えて、頑張って強がって兄をここまで引っ張ってきた。可愛い妹の頑張りに応えるためにも、無気力なままではいられない。
「気にしないで。お兄ちゃんが悲しいのはわかっているつもりだから」
「ありがとう」
 兄妹は受付で話をすると、担当の人が出て来て、霊安室に案内してくれた。そこはドラマで見たのと同じ構造で、壁一面には遺体用冷蔵庫の引き出しが軒を連ねていた。拓郎がどこで寝ているかすぐにわかった。脇に線香をあげるための一式が揃っているところがある。
「御気持ちを強く持って下さい」担当はそう告げてから引き出しをゆっくり引っ張った。隙間から冷気が漏れ、海斗たちの頬を撫でた。
 簡易ベッドのようなものに、横になっている拓郎は、局部を白い布で隠している以外は裸だった。だからこそ、異様な状態が嫌でも目に焼き付く。はっきり言ってしまうと、二人はその仏が拓郎だとわからなかった。
「あの、本当に拓郎なんですか?」海斗は自信が持てずに訊いた。
 体の至る所に水泡ができているし、あちこちが黒く変色している。顔も例外ではなく、見ただけでは誰かわからないぐらい酷い症状だ。間違って、別人の遺体を見せられているかもしれない。
「歯の治療痕が一致したので間違いありません」担当は断言した。
 海斗はまじまじと顔を見つめた。確かによく見ないと、拓郎の面影があることに気付けない。
「馬鹿野郎……。どうして死んじまったんだよ……。本当に馬鹿だな……」
 文句を言ったところで、死者が蘇るわけがないのを知っているが、早すぎる別れに、どうしても言いたくなった。
「昨日まで元気だったのに…、一体何があったの?」美月は拓郎の頬に優しく触れた。
 二人は線香をあげて、静かに合掌した。
 担当は死者との別れが済むまで、部屋の隅で静かに待機する。
 海斗はこれまでの拓郎との思い出を振り返ると、自然と目尻から涙が流れた。隣の美月からは、鼻水を啜る音が聞こえた。
 二人は示し合わせたように合掌を解いた。
「もうよろしいでしょうか?」担当が訊いた。
 二人が頷くと、ゆっくり戻そうとする。
 元気でな。
 海斗は最後の言葉を送った。
 担当に付いて行って、二人は待合ロビーに戻ってきた。そのまま一朗太のところへ向かった。今はスマホを弄っておらず、腕を組んで、海斗たちを待っていた。
「あいつはどうして死んだんだ?あれは交通事故か?」
 あまりにも無残な姿に、海斗は訊かずにはいられなかった。一体どういう死に方をすれば、ああなるのか想像もできない。
「外で話そう」一朗太は、周囲に目を配った。その意味を理解した二人。家族に追い打ちをかけるような話をするのなら、場所を選んだ方がいい。
 警察署から少し離れた場所で、一朗太は口を開いた。「あれは重度の凍傷患者に見られる症状だ」
 二人の頭の上に、特大サイズの疑問符が浮かんだ。
「あいつは誤って冷凍室にでも閉じ込められたのか?」海斗は言った
「どういう理由で、どういう状況でそうなった?」美月は聞き返した。
「それはわからないけどさ。それぐらいしか考えられなくね?」
「あいつの発見場所は、往来のど真ん中だ」
 またも二人の頭の上に、特大サイズの疑問符が浮かんだ。
「どういうこと?」美月が訊いた。
「今が真冬だったら、ああなってもおかしくないだろうが、一四年目の黒い残暑まで一週間を切っている。季節は関係ない。あまりにも不可解過ぎる死に、警察は事故と殺人の両方で捜査を行うようだ。園長先生が事情聴取を受けているのは、そういう理由だ。俺に言わせれば、殺人しかありえないがな」
「どうしてそう思った?」海斗が訊いた。
「忘れたのか?俺たちは不思議な力を手に入れたんだぞ。だったら、季節に関係ない殺人ができてもおかしくないだろ?」
 乾いた砂に水がゆっくり滲み込んでいくように、海斗は言葉の意味を理解した。肚の底から怒りの火がゆっくりと燃え上がってくるのと連動するように、顔の表情がゆっくり歪んでいった。
「ふざけるなっ!」怒りの感情が爆発した。「どうしてあいつが殺されないといけない!」
 感情を抑えきれずに、一朗太に食って掛かった。
 達也もそうだった。どうして、誰も彼もが理不尽な最後を迎えなければならないのか。もう、わけがわからなかった。
「当たりはつけた。話してもいいが、まずは冷静になれ」
「俺は冷静だ!」
「冷静ではないから言っている」
 睨み合う二人。
「お兄ちゃん」美月は海斗の腕を引っ張った。「お願い。落ち着いて」
「だけど――」
 海斗は美月に顔を向けて、はっとした。美月も怒りに燃えているが、必死に感情を抑えて辛抱強く一朗太の話を聞こうとしている。
 何をやってるんだ俺は。
 駄目駄目過ぎる自分に呆れた。妹が我慢しているのに、堪え性のない兄。今日の自分はあまりにも無様だった。
 ゆっくり息を吐いて気持ちを落ち着けた。「頼む。教えてくれ」
「拓郎は仕事上のトラブルで殺された。そう思う根拠は、あいつの遺留品だ。財布とスマホと鍵。そして、ネタ帳がなかった。あいつはあれで、一介のジャーナリストだからな。飯の種になるネタ帳までないのだから、強盗殺人の類ではないな」
「……俺はあいつの記事は読んだことないけど、誰かの恨みを買うような記事を書いたのか?」
「俺はあいつの相談によく乗っていたが、頻繁にこう愚痴ってた。『書きたい記事を書けなくて辛い』ってな。不本意に書いた記事で、恨みを買ったという可能性はある」
 海斗はまた怒りの炎が噴き出しそうになるのを堪えた。「それって逆恨みだろ」
「書かれた本人が、あいつの心情を知るわけがないだろ」
「そんなの理不尽過ぎるだろ……」海斗は怒りの感情を必死に抑えた。
「……一つ提案なんだが、俺は今から犯人に会いに行って、話を聞くつもりだ。お前らはどうする?」
 二人は驚愕した。
「もう犯人が特定されているの?」美月が訊いた。
「だったらどうして警察は捕まえに行かないんだ?」海斗は言った。
「警察の方針はまだ定まっていない。俺が個人的に特定しただけだ」
「凄い奴なのは知っていたけど、本当に凄いな、お前……」
「俺を誰だと思ってる?お前たちの参謀殿だぞ」
「でも、どうやって?」美月は首を傾げた。
「俺たちの家族は方々に就職しただろ?だったら後は簡単だ。携帯会社に居る家族に、あいつの死亡推定時刻を伝えて、GPS機能を利用して足跡を調べてもらった。次に、移動経路から、ある店に勤める家族に、店舗前にある監視カメラで拓郎たちの映像を送ってもらった。最後に、警察になった家族に、拓郎を尾行していた連中の顔データを分析してもらった。簡単に人を殺せるようなろくでなしだ。警察のブラックリストに載っていてもおかしくないだろうと読み、見事に的中。犯人の住所は割り出した。今の御時世、人脈とスマホと、少々の頭脳があれば、犯人の割り出しは簡単だな」
 凄い話をさらりと言ったように聞こえた。
「……俺さ。お前は凄く頼りになる家族だと思っていたけど、今日、初めて怖い奴だと思った。お前が家族で本当に良かったって、心の底から思えた」
 美月も、うんうん。と頷いた。
「誉め言葉として受け取っておこう。改めて聞くが、お前らはどうする?」
「聞くまでもない。拓郎のためにも、犯人をぶん殴りたい」
「私だってそうだよ。拓郎のためにも、犯人を問い詰めたい」
 血気に逸る兄妹を、一朗太は冷めた目で見つめる。
「先に言っておくべきだった。拓郎を言い訳に使うな」
「どういう意味だ?」海斗が不思議そうに聞き返した。
「死者の便利で厄介なところは、自分好みの言い訳を捏造し、自分を正当化できる点だ。あいつが普段、どう思って生きて、何を思って死んだのかは、あいつ自身にしかわからない。それなのにあいつを言い訳に使うのは、それはあいつの人生を否定しているように感じるし、死者の冒涜のように思える。俺としては、自分の頭で考えた答えを聞きたい。俺の考えは、どうして殺したのか?まずはそれを知りたい。知った上で、白日の下に晒し、法的手段で裁きたい。どんな理由があるにせよ、俺が許せないからだ」
 海斗と美月は、顔を合わせてから、気持ちを落ち着けた。
 一朗太が言ったように、家族のこれまでの歩みを否定するような真似はしたくない。死んでまで鞭を打つような真似だってしたくない。安らかに眠って欲しい。だから自分がどうしたいかを考える。
 先に美月が口を開く。「私も一朗太と同じ考えかな。私もどうして殺したのか、まず知りたい」
「俺も許せないよ。でもまずは、話を聞きたいかな」
「そうか。俺と同じ気持ちで嬉しい。最後にもう一つ、言わせてもらおう」
「じれったいな。速く行こうぜ」
「まあ、落ち着け。最終確認みたいなものだ。この件は、相当やばいかもしれない。最悪、俺たちの人生が滅茶苦茶になるかもしれない」
「どうしてその考えに至ったの?」美月が訊いた。
「問題解決の手段として、殺人を執ったからだ。そんなことをすれば、嫌でも世間の注目を浴びてしまうし、当然、警察は動く。素人の俺が犯人を特定できたように、警察はすぐに犯人を特定する。逮捕されるのは、時間の問題だ。それは同時に、身の破滅を意味する。それだけのリスクを負うにも関わらず、殺人という手段に踏み切ったということは、そもそもそんなのは意に介さないのかもしれない。真犯人は、相当な権力の持ち主とも考えられる。それこそ、警察やマスコミを黙らせられるレベルかもしれない。そして、この街でそんなことができるとすれば、あそこだけだ」
 一朗太が向けた視線の先を追った。
 そこには、この街のシンボルであり、この街の住人なら誇りに思う、ニューイーラ本社ビルが、堂々と建っている。
「俺たちが今から会いに行くのは、ただの実行犯だろう。大した話は聞けないだろうが、最悪、ニューイーラを敵に回す。お前たちにその覚悟はあるか?」
 二人は黙って、しばしビルを見つめる。
「……でもよ」海斗は口を開いた。「それはお前の想像だろ?」
「そうだな。俺としても、発想の飛躍であって欲しい。あそこを敵に回すなんて恐ろしいからな」
「まずは行ってみよう。見えない誰かに怯えて後悔したくない」美月は言った。
「それもそうだな」海斗は頷いた。
 美月のおかげで、漠然とした不安を抱えていた二人の肚も座った。
 三人は警察署を後にした。路面電車に乗った。近くの停留所で降りて、暫く歩いた。目的地に近づくと、やけに上機嫌な、禿げ頭のおっさんとすれ違った。しかも汗臭かったので、三人は顔を一瞬、歪めた。
「ここだな」
 一朗太はスマホで確認しながら建物を見た。二人も釣られるように見た。それは築数十年レベルの、二階建ての木造アパートだった。頑張って上品に言えば、趣がある。と、言えなくもない。ほとんどの人は、こう言うだろう。ボロアパート。建物全体にカビのようなものが浮いており、木造扉の表面は剥がれて、垂れている。二階へ上がる金属の階段は、錆びだらけだ。
「ここの二〇四号室で暮らしているようだ」
 三人は、錆びだらけの階段を上るのだが、重量オーバーです。とでも言いたげな悲鳴を挙げる。
 落ちないよな?
 海斗は漠然とした不安に襲われた。
 無事に上り切った時には、思わず安堵の息を漏らしてしまった。
 部屋の前に到着してから、一朗太は兄妹に顔を向けた。
「念のために言っておくが、冷静に対応してくれ」
「信用してくれ。って言いたいが、今日の俺は駄目駄目だからな。頑張るよ」
 一朗太は美月に目を向けた。
「兄の手綱をしっかり握っておいてくれ」
「任せて」
 一朗太は、控えめに表面が剥がれ垂れているドアをノックした。
「――はい。少々、お待ちください」室内から驚くほど元気のない声があった。
「女の子?」海斗は首を傾げた。独断と偏見によるイメージ像では犯人は、凶暴そうな男だと思っていた。
「家族構成によると妹が一人いるようだ」一朗太は説明した。
「何考えてんだよ」
 海斗のこめかみに青筋が浮かんだ。可愛い妹がいるのに、殺人に手を染めるなど、より一層許せなくなった。
兄の心情を察したのか、美月は兄の腕を引っ張った。「落ち着いて」
「頑張るよ」
 扉が開くと、海斗は咳き込み、美月は吐き気を催した。隙間から汗と何かわからないものが、ブレンドされた異臭が鼻腔を直撃した。すぐにでも、この場から離れたい衝動に駆られる。それぐらいきつい臭いだ。一朗太は眉間に皺を寄せて、何とか耐えようとしている。
 扉が開き、住人が姿を現した瞬間、三人は三者三様の反応を示した。海斗は思考が停止し、美月は目を丸くし、一朗太は開いた口が塞がらなかった。
 歳の頃なら、十代半ばぐらい。中学生ぐらいなのは間違いないだろう。これぐらいの女の子なら、美容に気を付けるようになってもおかしくないのに、長い黒髪はぼさぼさ。栄養状態は悪く、肌の艶は悪い。骨がうっすらと浮き出ている。特徴的なのは、目が死んだ魚のように輝きがない。だが、海斗たちが強い衝撃を受けた理由は、少女が一糸纏わぬ姿だからだ。膨らみかけの胸が露わになっており、股間には陰毛がうっすらと生えている。
 少女は明らかに戸惑っていた。見知らぬ三人の顔をきょろきょろと見回す。美月の顔を見て首を傾げてから、海斗と一朗太の顔を何度も交互に見た。
「……えっと、次のお客さんですか?」
「客?客ってなんのことだ?」海斗は動転して早口になった。
「俺たちは――」
「違うでしょう!」美月は一朗太の言葉を大声で遮った。「お兄ちゃんたちは、あっちを向いてて!君はまず服を着ようね」
 美月は少女の裸体を男共の視線から隠すように立ち、室内へと押し戻して扉を閉めた。少女は戸惑い続けた。
「くっさっ!?なにこの部屋!?臭いんだけど!?換気しないと。君は速く服を着て。それまで色々しておくから」
 室内では美月が世話を焼いているようだ。
 海斗たちは、言われた通りにした。
「流石に……、これは予想外だったわ……」海斗は欄干の上に両腕を置いて、遠い目で街を眺める。
「同感だな。予想できる奴が居るなら、ぜひお目にかかりたい」一朗太は、海斗と一緒に街を眺める。
 待つこと、十分ぐらい。ようやく美月から許可が下りた。二人は室内へと入った。窓を全開にしているとはいえ、相変わらず異臭が鼻腔を刺激する。室内は殺風景という言葉以外に、表現しようがないぐらい物がない。本当に必要最低限の物しかない。古びた畳が敷いてある居間の真ん中には、古びたちゃぶ台が置かれており、かなりくたびれた服を着ている少女が、ちょこんと座って、海斗たちと向かい合う。
「えっと……、飲み物は水しかありませんけど、大丈夫ですか?」
「お構いなく」海斗が言った。衝撃映像を見た影響で、話を聞こうという気勢がすっかり削がれてしまった。
「何か買ってこようか?」美月が二人に訊いた。
「後でいいだろ。まずは――自己紹介しようか」
 まずは一朗太が名乗ってから、海斗と美月も続いた。
「私は矢立日奈(やだちひな)です。えっと、皆さんは、お客さんなんですか?」
「違う。話を聞きに来たんだ」一朗太は室内を見回してから、日奈に顔を戻した。「君の兄に――」
 兄。という言葉で、日奈の肩が撥ねた。かたかたと小刻みに震え出した。明らかに怯えている。
 兄妹は訳が分からずに顔を見合わせた。
「……あの、お兄ちゃんに、どのような御用件でしょうか?」
一朗太は日奈を暫し見つめてから口を開いた。「話を聞きに来た。今は留守なのか?」
「はい。昨夜から帰って来ません」
「じゃあ、どこにいるのか、心当たりはないか?」
「わかりません。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめん――」うわ言のように何度も謝罪の言葉を口にした。
「あっ、いや。責めている訳じゃないんだ」一朗太は戸惑いの表情を浮かべる。
 美月は、目で一朗太を非難してから、日奈の隣に座り直して、背中を優しく撫でる。日奈は驚いたように、美月の顔を凝視した。それの効果があったのか、日奈は徐々に落ち着きを取り戻した。
「手掛かりが切れてしまったな。ここで待たせてもらったとして、帰って来る可能性はどれぐらいだろうな?」参謀殿モードに入った一朗太。
 海斗は小さく挙手をした。「話は変わるが、君、今幾つだ?」
「一四歳です」
「なら中学生か。学校には行かないのか?」
「……お客さんの相手をしないといけないので、行けないです」
「さっきも言っていたが、何の商売をしているんだ?」
 日奈はそれには答えたくないらしく、俯いて黙ってしまった。
 一朗太は、深い溜息を吐いた。「察しろ馬鹿。女の子が裸になってする商売は、多くないと思うが」
 少し考えて海斗は思い至った。美月も思い至ったようで、驚いた表情を浮かべる。
「……確認させて欲しい。君の意思でやっているのか?」
 自分の意思でやっているのなら、多分これは外部の人間が、簡単に口を挟んでいい問題ではない気がする。
日奈は首を左右に振った。「お兄ちゃんの命令です」
 海斗のこめかみに青筋が無数に浮かび、腹の底から溶岩が噴き出しそうになった。火山が噴火する三秒前みたいな状態になったが、必死に自制する。「妹にこんなことをさせるなんて、何を考えているんだ?」
 口に出すと、今にも火山が噴火しそうだ。海斗からすれば、そんな兄が存在すること事態、信じられない。
「だって、仕方ないじゃないですか。生活するためにも、借金を返すためにもお金は必要ですから」
 海斗は細く長く息を吐いて、気持ちを落ち着け自分を制御しようとする。「兄は働いてないのか?」
「街でお客さんを見つけて、私を紹介する仕事をしています」
 そんなの仕事の内に入らないだろ。
 それ以前に、仕事ですらなかった。
 この返答は、海斗の怒りの炎に油を注ぐ結果になった。海斗にとっての仕事とは、自分の体を使って、額に汗を掻きながらするものだ。日奈の兄がやっていることは言語道断だ。
「嫌なら嫌って言った方がいいじゃないのか?真っ当に働くように説得するとか」
「最初は嫌だって言いました。でも、従わないと、殴るんです。痛いんです。怖いんです。嫌でも従わないといけないじゃないですか」
 徐々に日奈の口調が荒々しくなってきた。
 これは海斗の中で盛大に燃えている炎に、大量の油を注ぐ結果になった。彼の中で、何かがプツンと音を立てて切れた。
「妹に手を挙げるたぁどういう了見だ!!妹の幸せを第一に考えるのが兄だろうが!!俺だったら、そんなことは絶対にしねぇ!!」
 今度は日奈が海斗に対して、怒りの目を向けた。何も知らない赤の他人が、自分たちの事情にずかずかと入って来るのが癇に障るようだ。
「勝手なことを言わないで!それとも、あんたは私を助けてくれるの!!」
「助けるに決まってるだろ!いいよな。美月?」
「勿論だよお兄ちゃん。私だってこの子は放っておけないよ」
 美月も、日奈の兄の所業に怒り心頭だった。
「簡単に言うな。お前にだって生活はあるだろう」一朗太は諫めた。
「お前はこの子を放っておけって言うのか?知った以上、俺にはできない。だから助ける。生活に関しては、俺に掛かる経費を切り詰めればいい。俺だけが苦労して、この子が笑顔になるなら、安いもんだ」
「そこまで言うのなら、これ以上、口は出さんよ」
海斗たちのやり取りを日奈は目を丸くして見ていた。「本当に、助けてくれるの……?」
「当然だ」海斗は力強く頷いた。
「本当に本当?」
「知り合ったばかりの俺を信じられないのは無理かもしれないが、俺はお前を助けたい。だから、聞かせて欲しい。君はどうしたい?」
「私は……」日奈の両目に光が戻り、涙が溢れ落ちてきた。鼻水を啜った。「お願いします。助けて下さい。こんな生活はもう嫌です」
 海斗は膝を叩いた。「決まりだ。今日から家で暮らそう」
 美月は日奈と一緒に引っ越しの準備をする。と言っても、くたびれたナップザックに日奈の着替えを入れるだけだ。
「海斗。先に言っておくが、お前、最悪、犯罪者になる恐れがあるぞ」
「どうしてだよ?」不思議そうに聞き返した。
「あの子の保護者は、兄だからな。保護者の同意なしに、連れ出したら、誘拐だと騒がれても文句は言えんぞ」
「騒がれても、怖くねぇよ」
「そういう問題じゃない。あの子が正式に稲郷家の一員になるために、ちゃんと手順を踏めと言っている。そうだな。まずは園長先生に相談してみるといい。あの人なら、この手の問題の専門家だろうしな」
「わかった。後で連絡してみる」
 流石に今日は無理だろう。息子のように思っている一人が亡くなり、警察の事情聴取も受けている。更に、悲しみに暮れる家族のフォローもあるだろう。年齢も加味すると、今日は一杯一杯で、快く相談を受けてくれる余裕はないだろう。
「準備できたよ」美月は言った。彼女の隣には、くたびれ満杯状態のナップザックを背負った日奈が居る。
 四人は二〇四号室を後にした。
「これからどうする?」一朗太が訊いた。
「もう、話を聞く気分じゃないな。それよりも、まずは色々買い揃えないとな」海斗は、新しい家族の生活必需品を思い浮かべた。
「私としては、まず美容院に行きたいけど」美月が提案した。「最後にお風呂に入ったのはいつ?」
 あのアパートの間取りには、お風呂は存在しない。
「えっと……」日奈は思い出そうとする。「お風呂じゃないけど、台所で体を洗ったりしてました」
「美容院に行こう」すかさず一朗太が決定した。
「服も新調しないとな」海斗は同意した。
 一朗太がスマホを使って、近場の美容院を調べてから、路面電車に乗った。乗客はちらほらと乗っており、顔を顰めて海斗たちからできるだけ距離を取ろうとする。海斗たちは異臭の影響で、鼻が麻痺しているから気づかないが、実は日奈の体は臭うのだ。
 美容院は空いており、すぐに対応してもらえることになった。美月が前に出て、日奈の髪を洗髪し、綺麗に整えて欲しいと注文した。美容師はプロである。日奈は臭うにも関わらず、営業スマイルを崩さずに仕事に取り掛かった。
 仕事が終わるまで、男二人は何となく置いてある雑誌を眺めるのに対し、美月は熱心に読む。
 仕事は一時間と掛からずに終わった。
 日奈は椅子に座ったまま、正面にある鏡を凝視する。まるで、今日初めて自分の姿を見たかのような反応だ。
「へぇ。綺麗じゃないか」海斗は正直な感想を漏らした。髪を綺麗にして、整えただけなのに、印象ががらりと変わった。今なら十人中半分ぐらいは、美少女と答えそうだ。
「……今、思い出した。私はこうだったんだ……」日奈の目から涙が零れ、感動に打ち震えていた。
「これからはいつでも、本来の自分でいられるさ。今日はその一歩だな」
 洗髪し整えるのは、自分でもできる当たり前のことだ。その当たり前ができない環境に置かれていたことに、海太は腸が煮えくり返りそうになったが自制した。日奈の感動を害する無粋な真似はしたくなかった。
 日奈は手の甲で涙を拭いながら頷いた。
「支払いは俺がする」会計を済ませようとすると、一朗太がポケットから財布を取り出した。
「それは悪いよ」海斗は遠慮した。
「住人が増えるということは、経済的な負担が増えるということだ。日奈が独り立ちできるまで責任を持つのなら、今からちゃんと先を考えろ。だから、こういう時は、素直に甘えておけ。ちなみに俺は、お前より高給取りだぞ」
「素直に感動したのに最後の言葉で台無しだ。俺の感動を返せ」
 一朗太は微笑を浮かべて会計を済ませた。
 次は、近場のデパートへ向かった。目的地は衣料店だ。エスカレーターで二階に上り、店内へ入った。すぐに女性従業員が来たが、美月がやんわりと拒否した。
 そして、東郷美月は戦闘モードに入った。日奈の意見に耳を傾けつつ、ちゃっかり自分の趣味も交えて服を選ぶ。
「……こういう時、美月が居てくれて本当に助かる」
 少し離れたところで、眺める海斗。あそこは女子の女子による女子のための、神聖不可侵な絶対空間であり、男である海斗は近寄れない。男と女では、センスに違いがあるのぐらいは、わかっているつもりだ。特に海斗は、仕事が恋人状態であるため、そういう感性を磨いてこなかった。もし、可愛い妹がいなかったらと思うと、恐ろしい。もし海斗のセンスで選んだら、最悪泣かれていたかもしれない。
「それはわかる。女性用下着や生理用品も買わないといけないからな。男の俺たちには難易度が高過ぎる。しかしあいつは何を考えているんだ?」
 海斗の隣で眺める一朗太は、眉をひそめた。
「これもいい。あれもいい。これも捨てがたい。あれも捨てがたい」と、美月は次々と服を合わせる。着せ替え人形状態にして、遊んでいるようにも見える。
「いいんじゃね?美月が楽しそうなら、それでいいだろ」
 ひまわり園では、自然と年上の子が、年下の子の面倒を見るようになっていた。普通に笑えるようになった美月も、年下の子の面倒を見ていたのだ。久しぶりに、お姉さん、になれて楽しんでいるのかもしれない。
 それに、最初は戸惑っていた日奈であったが、徐々に買い物の楽しさを思い出したのか、美月と調子を合わせて楽しそうに選んでいる。
「……もし、全部欲しいって言われたらどうするつもりだ?」
 美月の左腕には、服がどんどん積み上がっていく。
 海斗の頬を嫌な汗が流れた。美月たちに気付かれないように、こっそり財布の中身を確認した。「……ごめん。助けて」
「ここの支払いも俺がしておく。美月がそこまで考えなしとは思えないからな。……信じて大丈夫だよな?」
 今の美月は、普段よりもずっとテンションが高く、家族同然に育った仲とはいえ、さしもの参謀殿でも読み切れない。
「次は試着しよ。試着」美月は試着室へと促した。
「試着は楽しいですよね」日奈のテンションも自然と上がってきた。
「わかってくれるか同志。うちのお兄ちゃんは、適当に服を選んで、お洒落を楽しまないから」意味ありげに海斗に視線を送った。
 だって、着れればなんでもいいし。
 単純に経済的な理由から、こういう考えに至ったのだが、これを口にすると、妹は臍を曲げてしまうので、何も言わない。一度、臍を曲げた、可愛い妹の御機嫌を取るのは、大変なのだ。
 一朗太は腕時計を見た。「……なあ。この買い物はいつまでかかるんだ?」
 美月は大量の服を持っているので、試着するだけでも相当な時間が掛かるだろう。
「俺が知ると思うか?」
「愚問だったな」
「一つだけ確かなのは、美月――いや、二人の気が済むまで終わらないということだ」
「経験者は語る。か……」
 二人の男は、同時に溜息を漏らした。
 ただただ待ち続けるという苦行を終え、会計をする頃には、海斗と一朗太は気持ち、やつれてしまった。
 海斗は日奈を一瞥した。
 くたびれた服から、新しい服に着替え、紙袋に入った購入したばかりの服を、とても大切そうに両手で抱きしめる日奈は、心から嬉しそうだった。
 この顔を見られたのなら、待った甲斐はあったよ。
 などと、心がほっこりする海斗であったが、現実は甘くない。何故なら、もう一ラウンド待っていたからだ。
 今度は、その足で女性用下着を買いに行く。
 救いがあるとすれば、恥ずかしいから入れない。と言うと、美月は理解を示してくれた。これには本当に助かった二人。これで買ってこい。と一朗太はお金を渡した。再び、ただただ待つという苦行を終えた。
「えっと次は――」買い物リストを頭の中で思い浮かべる美月。
「待て」一朗太が止めた。「買い物は一旦中止して、食事にしよう」
「賛成だ」
 海斗は力強く頷いた。
 どうして買い物になると女性(海斗は美月しか知らない)は、疲れ知らずになるのか謎だ。こっちはクタクタで、休憩を挟みたい。
「もうそんな時間か。何を食べたい?」
 日奈はしばし考えた。「あったかいご飯を、皆で囲んで食べたいです」
 海斗、美月、一朗太は、なんとも言えない空気になってしまった。各々に覚えがあったからだ。黒い残暑で家族を亡くし、一家団欒という日常を永遠に失った。今なら、それがどれだけ、幸福だったかを身に染みてわかる。
俺たちは恵まれていたんだな……。
 ふと、海斗はしみじみと思った。
 二度と手に入らないと思っていたものが、ひまわり園で再び手に入れることができた。そういう意味では、日奈よりは、恵まれた環境だった。
「それならファミレスはどうだ?」海斗は普段以上に優しい口調になった。「メニューは豊富で、日奈の要望に応えられる」
「だったら、評判の良いところに行こうじゃないか。大きくなった時に、良い思い出として振り返られるように」一朗太はすぐにスマホで調べた。
 検索の結果、四人はデパートを出て目的地へと向かう。ありがたいことに、デパートの近くだったので、徒歩で行ける。
 歩いている途中で、人込みを乱暴にかき分けて走ってきた男性と、海斗の肩がぶつかった。
「謝罪はなしかよ」
 海斗は苛ついたが、すぐに忘れることにした。今はどこぞの礼儀知らずよりも、日奈との思い出作りが大切だ。
 日奈はその人物を凝視していた。「お兄ちゃん……」
 海斗たちの歩みが止まり、後ろを振り返った。本能ともいえるような衝動で、海斗は走って追いかけていた。
 拓郎を殺して、日奈に酷いことをさせた奴。
 海斗にとっては、怒りと憎しみの対象だった。
 後方で一朗太たちが、何かを言っているが、海斗の耳には届かなかった。
 人込みの中に交じっているので、後姿は捉えられないが、大体の位置はわかる。というのも、「邪魔だ!どけ!」と、言いながら乱暴に人をかき分けているからだ。押し倒された人は、文句を放つので、それが誘導灯のような役割になっている。
 後姿を捉えたと思ったら、路地裏に逃げ込んだ。そのまま追いかけ続けた。
「くそっ!」壁にぶつかり、悪態を吐いた。振り返って海斗の姿が視界に入った時、一瞬だけ驚いた後にメンチを切る。「てめぇ……。なにもんだよ?」
 兄の名前は、矢立陸治(やたてりくじ)。日奈より少し年上ぐらいで、恐らく高校生ぐらいだ。男と女の違いはあるが、日奈と似た顔立ちをしているが、こちらは近づく相手を、容赦なく傷つける危うい雰囲気がある。
 陸治を前にして、海斗は静かに怒りの炎が燃えていた。
「お前は何を考えている?」
 拓郎や日奈のこと。どうしてこの男は、誰かを平然と傷つけられるのか。どうして、それをなんとも思わず、堂々と生きているのか。どうして、真っ当な生き方ができないのか。海斗にとっては、未知との遭遇に等しい存在だ。
「何言ってんだてめぇ?」不機嫌に言い返した。
 と、一朗太たちも追い付いた。
「今日の海斗は、情緒が不安定過ぎないか」一朗太は呟いた。
「ちょっと、ね……」美月は言葉を濁した。
 人数が増えたことに、陸治は警戒しながら一人一人にメンチを切る。そして、日奈に目が留まった時に、しばし見つめた。
「お前、もしかして日奈か?」
「お兄ちゃん……」日奈は怯えながらも兄を見つめる。
「おいおい。どうしてお前が、そっち側にいるんだ?」陸治の双眸に怒りの炎が灯った。
 日奈は耐えられずに海斗の背中に隠れた。「私は、この人たちに助けてもらうから」
「ふざけんなぁ!!」陸治の怒りに呼応するように、周囲の建物が凍った。日奈は更に怯えて、海斗の服を掴んだ。
「……この力で拓郎を……」一朗太は白い吐息を漏らしながら分析した。路地裏とはいえ、十分暑いのだが、ここだけ急に寒くなった。
「お前は俺の物だ!誰にも渡さねぇ!」
「ふざけるなっ!」今度は、海斗が感情に任せて吼えた。「日奈は物じゃない!一人の人間だ!どうしてそれがわからない!」
「気安く妹の名前を呼ぶな!人の家庭に他人が首を突っ込むな!」
「いいや突っ込むね。お前は兄だろ。どうして妹の幸せを第一に考えられない。それができないお前に、日奈は任せられない」
「うるせぇよ。何も知らないくせに。ああ。そうかよ。だったら死ねよ」
 余裕を取り戻した陸治は力を使った。
 だが、何度も使っても何も起きないことに、首を傾げた。
「どうして力が使えない!?」思い通りにいかないことに癇癪を起した。
 一朗太が一歩前に出た。「お前が手の内を簡単に見せてくれる馬鹿で助かった。俺の力で無効化させてもらった」
「何をしやがった!?」
「俺が二次元のキャラみたく、懇切丁寧に説明してくれる馬鹿に見えるか?あいにく、俺は馬鹿じゃないんでな」
 実は力を使って、空中に漂っている物質全てを不凍性に変質させただけなのだ。力とは使いようであり、一朗太の力をもってすれば、幾つかの力を無効化できてしまう。
「どいつもこいつも俺を馬鹿にしやがって。絶対に許さねぇ」陸治は日奈に憎しみの視線を向けた。「こいつらを殺してでもお前を絶対に取り返す」
「どうしてそうなる?だからお前には――くそ……。こんな時にか……」
 海斗は通算三度目となる、耳鳴りからの頭痛に襲われた。


「どうして俺が怒っているかわかっているか?」一朗太は腕を組み、冷めた双眸を海斗に向けていた。
「はい。わかっているつもりです。はい」海斗はアスファルトの上で正座し、項垂れている。
 陸治から話を聞く千載一遇のチャンスだったのに、海斗の感情に任せた行動の結果、話を聞く前にこのモノクロ化したゲーム世界へとまた強制連行された。折角のチャンスがふいになったのだ。一朗太が怒るのも無理はない。それでも最初は、あいつは~という感じで、言い訳をしたのだが、通じなかった。海斗は大人しく自分の非を認めて、反省のポーズをしている。
「まあ、お前は頑張って兄をやっているからな。あいつを許せないのをわかるつもりだ。だがな。優先順位があるだろう。俺が話を聞き終えた後でも良かっただろ。どう思う?」参謀殿は、大声を挙げず静かに怒るタイプだ。
「はい。それでも良かったと思います。はい」
「わかってくれるのは嬉しい。だが残念なことに、俺たちの力では、時間を巻き戻せないんだ。次はないかもしれない。どう責任を取るつもりだ?」
「はい。え~……。謝罪しかできません。ごめんなさい。はい」
「ごめんなさい。で済めば、警察は要らないんだよ。わかるか?」
「はい。そうですね。はい」
「ねぇ。それいつまでやるつもり?」少し離れた位置にいる美月が言った。
 彼女の傍には日奈が居る。どうやら、日奈はこの世界に来たのは、今回が初めてのようで、一朗太が説教をしている間に、この世界について知っていることを、美月から説明して貰っていた。日奈は、興味深そうにモノクロ化した建物に触れている。
「もう少し絞ったら終わりにする」
 宣言通り、海斗は絞られてから解放してもらった。その頃には、足が痺れて立つのに四苦八苦する。
「矢立陸治か」一朗太は呟いた。「思っていた以上に、あいつは頭の螺子がぶっ飛んでいるな。血の繋がりがない。義理ですらない、仲良し兄妹を知っている分、異常性が際立つ奴だったな」
「昔は優しいお兄ちゃんだったんです」日奈は訥々と喋る。「でも、パパの事業が失敗して多額の借金を背負って自殺して、ママが失踪した頃から、急に暴力を振るうようになったんです」
「……そういうことか」一朗太は一人で納得した。
「過去も大切だが」海斗はようやく痺れが治まり普通に立てるようになった。「俺たちは今も生きている。大人になった時に、生きていて良かった。って思える思い出を沢山作っていこうな」
「私にくれるんですか?」
「一生懸命頑張るぞ。俺はお兄ちゃんだからな」
「……私もお兄ちゃんって呼んでいいですか?」
「おう。いいぞ」
「……おにい、ちゃん……」
 日奈は照れくさそうに言った。
「今の心境は?妹一号」一朗太は意地の悪い表情になった。
「新しい家族が増えて嬉しいよ」
「そうか」期待した答えとは違って、残念そうだった。「海斗。困ったことがあれば、俺を頼れよ。相談に乗れるし、金銭的な援助だってできる」
「相談はありがたいが、援助はさすがに悪いよ。高給取りのお前にだって生活はあるだろ」
「新しい家族が増えて俺だって嬉しいんだ。それぐらいはさせてもらいたいね」
「それなら、にっちもさっちもいかなくなった時に頼らせてもらうよ」
 日奈は自分のことで話し合う大人たちの顔を順に見た。
「今回こそはさっさと終わらせよう」一朗太は話題を変えた。「速く昼飯にありつきたいしな」
「前回みたいにならないのを、願うばかりだよ」美月は前回を思い出して、心底うんざりした。
 まず海斗たちは路地裏から表通りへ向かった。壁に背を付けて、慎重に周囲を探った。
「うわ……」海斗はうんざりした。
 大量ではないものの既にモンスターが街に解き放たれており、徘徊している。今回、初めて見るモンスターもいる。何が面白いのかわからないが、手に持っている武器で街灯を叩いて、げらげら笑っているモンスターまでいる。
「助かった。今回は目的が設定されているようだ」一朗太は言った。「あそこを見ろ」
 一朗太が指した方に顔を向けた。建物で遮られているので、少しわかりづらいが、白い光が見える。
「目的地に向かうのが、今回の課題のようだ」
「課題がはっきりしているのはありがたいが、大量のモンスターにはうんざりするよ」
 これが普通のゲームなら、経験値やアイテムやお金を稼ぎ放題で、喜ぶところかもしれないが、いざ自分が当事者になると、気持ちが凄く萎える。
「できるだけ、戦闘は避けよう。戦ったところで、ゲームのように何かが手に入るわけじゃないかな。基本的には無駄だろ」一朗太は、美月たちに顔を向けた。「戦闘になったら、俺と海斗が戦う。美月は日奈に付いてくれ」
 美月は頷いた。「スカー」
 いきなり赤い甲冑を着た武士が現れたことに、日奈は仰天した。
「ルートに関してだが――」
 入念な打ち合わせをしてから海斗たちは動き出した。


 当然だが、現実はゲームのようにいかない。
 まずフィールドを俯瞰視点で見れない。敵のマーカーが親切に表示されるわけではない。どれだけ慎重に行動しても、敵との接触は避けられない。
 何度目かの戦闘が行われるのだが、最初は怯えていた日奈は、今はもう安心して見ていた。どんな敵が現れても、海斗や一朗太の敵ではないのだ。あっさり全滅させてしまう。せいぜい道端に落ちている石ころみたいだ。時々、背後から敵が現れるが、美月と日奈の背後のスカーが盾となって守ってくれる。
 日奈は、前を歩く頼もしい二人の背中から、隣で歩調を合わせて歩いてくれる美月を見上げた。
 この不思議な世界を除けば、日奈は都合の良い夢を見ているような気持ちになった。
 両親以外で、自分のために一生懸命になってくれる大人たちがいる。その事実が、まだ完全に受け入れられない。
 日奈は所謂、お嬢様として育った。父親の会社が安定していた頃は、家族仲は良好で、些細なことで笑っていられた。休みが取れたら、旅行に頻繁に連れて行ってもらっていた。そんな幸せな日々が続くと、あの頃は信じて疑わなかった。
 人生が転落してから、助けてくれる大人は一人もいなかった。父は自殺し、母は失踪し、そして兄からは暴力を振るわれ、やりたくないことを強制的にやらされた。兄が何を考えているのかわからなかった。聞こうと思っても、怖くて聞けなかった。両親と同様に、兄も自分の元から離れてしまったように感じた。家族と呼べる存在が遠くへ行き、孤独に耐える毎日が辛く、なんのために生きているのかわからなくなり、自殺を考えたこともあったが、自分で命を絶つ勇気はなかった。心から助けて欲しい。と思っても、物語のように都合良く救世主は現れなかった。
 今日までは。
 地獄でしかなかった日々から助け出そうとする人たちが現れた。待ち焦がれていた人たちである。兄とのやり取りを見ていた感じでは、兄とは違って家族の一員として迎えてくれようとしている。素直に嬉しいが、この人たちは他人なのだ。いつか面倒を見切れずに、捨てられてしまうのではという不安が付き纏う。
 それでも、本当に助けてくれるのなら、この人たちの力になりたい。家族として接してくれるのなら、同じように苦楽を共にしたい。一緒の時間を過ごして、一緒に笑いたい。もう一人は嫌だ。
 私も力が欲しい。
 海斗たちを取り囲むように、巨大な盾が何枚も現れた。突然の出来事に一行は驚いて、その場で歩みが止まった。
「なんだこりゃ!?」海斗は目を丸くした。
 一枚一枚がとても大きく、成人男性がすっぽりと隠れることができる。
 地上から僅かに浮かんでいる盾は、海斗たちを取り囲んだ状態で、ゆっくり回転する。
「また運営の嫌がらせか?」
「いや……。これは日奈の力じゃないか?」
 日奈はゆっくり回転する盾を凝視した。
 これを自分がやったなど、にわかに信じ難い。これを言ったら、三人の力だって信じ難い。
「ちょっとおかしくない?」美月は首を傾げた。「日奈ちゃんは一回目のゲームに強制連行されなかったんだよ」
「……あくまで推測だが、このゲームは、内容が内容だ。年齢制限が設けられていたんじゃないのか?今回は、何らかの理由で、制限が撤廃されたか、緩められたんじゃないか」
「考えるのは後にしようや」海斗は言った。「さっさと出て飯を食いに行こう。そっちの方が重要だ」
「それもそうだな」一朗太は改めて盾を見回した。「こいつは良いな。安心感が違う」
 これには日奈も同感だった。身を守る道具が存在するというだけで、心に余裕ができる。だから思わず口走る。「守りは私に任せて下さい」
「頼りにさせてもらうよ」海斗が言った。
 こんな風に頼ってもらうのが、嬉しいというのを日奈は思い出した。
 安心して戦うことができるようになった反面、問題が発生した。盾が大き過ぎるために、どこかに隠れるのに不向きであった。敵をやり過ごす。というのができず、逆に目立って戦闘の回数は増えたが、現状では大きな問題にならなかった。
 一行は目的地に到着した。灰色の空間を縦に割くように、白い光が輝いているのだが、驚くほど眩しくない。
「この中に入って終わりだよね?」美月は不思議そうに首を傾げた。というのも、前回と違い、今回はただモンスターを倒して終わっただけで、ドラゴンのようなモンスターが一体も登場しなかった。イベントが一つも発生しなかったことで、拍子抜けした感があった。
「ぐだぐだ考えて、また閉じ込められる前に、さっさと出た方が賢明じゃないか?」一朗太は言った。
「それもそうだね」
 海斗は日奈に手を差し出した。「怖いなら手を繋いでいこうか?」
 日奈は手を伸ばすが、躊躇ってしまう。兄に強制的にやらされていた影響で、男性に対して嫌悪感があるのだが、この人たちは信用したかったし、家族になれるかもしれないから、心を奮い立たせて手を握った。


 目が覚めると、いつもの頭痛に襲われたが、前二回と比較すると、痛みはそこまで酷くなかった。頭痛に耐えつつ、辺りを見回した。灰色の壁に取り囲まれた正方形の部屋だった。広さや高さはそこまでない。天井の四隅には、監視カメラが設置されており、全て中心に向けられている。何度かお世話になった、警察の聴取室を彷彿とさせた。まだあの世界に居るのかと疑ったが、この頭痛が現実に帰ってきた証拠だ。
 部屋の中心に置かれた椅子の上で陸治は身じろぎした。自由はなく、両手両足は機械できつめに固定されていた。正面には外部との繋がりを示す扉がある。
 いつもと違う展開に、わけがわからなかったが、一つだけはっきりしていることがあった。
 日奈を俺から奪いやがった。
 それを思い出すだけで、痛みを上回る怒りの炎が燃え上がる。
 扉が開いた。
 入室してきた相手に、陸治はメンチを切ったが、驚きの余りぽかんとしてしまった。
「こいつは驚いた……」陸治は珍獣でもみるかのように、無遠慮に相手を観察した。「まさかこの国の王様がやって来るとは」
 入室した人物は、高級なスーツを着こなした、クリストファー・クリスティーナだった。この国の住人なら、知らない人間は存在しないだろうという超大物だ。
 クリストファーは陸治の二歩手前で止まり見下ろす。
「矢立陸治。一八歳。矢立商事の長男。父親の新規事業が失敗。多額の借金に耐えられなくなった父親は自殺。母親は子供たちを捨て、男を作って失踪。今ではボロアパートで妹と二人で暮らす。……絵に描いたような転落人生だ。加えて、幼稚で臆病者でもある」
 外国人独特のイントネーションはあるものの、日本語での会話に支障を来すほどではない。
「あっ!?」陸治は凄んだが、効果はなかった。
「妹に手を挙げる理由は、妹までも自分の元から離れるのが怖かったのだろう?だから、暴力で屈服させ支配して、自分の手元に置き続けたいか。子供の発想であり、臆病者のやることだな」
「うるせぇ!」陸治は赤面した。心の内を見透かされたようで、恥ずかしかった。噛み付くことで、なんとか体面を保とうとした。王様をビビらせるために、力を使おうとすると、指の先から脳天まで貫く、痛みが走った。
「愚かでもあるか。その椅子は特別製で、力を使おうとすると、電気ショックが流れるようになっている。私に傷一つ付ければ、二度と太陽は拝めないぞ。大切な妹を取り返せないぞ」
 そう言われては、陸治は大人しくするしかなかった。「それで?王様が俺みたいなごろつきに何の用だよ?」
「彼ら――いや。彼の中にいる人物を刺激して欲しくなかっただけだ。君らは、こちらが依頼した仕事が済めば用済みだった。全く。予想外の接触だ」
 陸治は怪訝な表情を浮かべた。前半部分は意味が全くわからなかった。だが、後半部分に関しては思い当たる節があった。
「あんたが俺たちに殺人を依頼した御本人様か」
 間抜けな話だから、あまり思い出したくなかった。
 殺人なんて如何にもヤバい臭いがプンプンしたが、都合良く力を手に入れたばかりだった。この力があれば警察だって怖くない。あの時は、なんでもできる万能感に包まれていた。だから仕事を引き受けた。殺して言われていた物を回収。それを持って指定された場所へ向かい、残りの報酬を貰うはずだったが、口封じに殺されそうになった。こちらは力が使えるから、返り討ちにできると思っていたが、向こうにも力の使い手がいた。しかもこちらと違って、力の使い方が洗練させており、連携も取れていた。仲間たちを見捨てて、無様に逃げることしかできなかった。
「正直に話すってことは、俺はもうここから生きて出られないってことじゃないか。負け犬を嘲笑いに来たのか?王様は良い趣味をしているよ」
「実際に会って、考えが変わった。私の元で働く気はないか?」
「どういうつもりだ?」
 予想外の言葉だった。
「お前にとっては、二度とないチャンスだぞ。日本語では確か……勝ち組。とやらに戻れるチャンスを与えてやると言っているのだ」
「俺が自由になったら、あんたに依頼されて人を殺したって騒ぎ立ててやる」
「まだ噛み付くとは、大した度胸だ。だが、無駄なことだ。お前には社会的信用がない。お前がいくら騒ぎ立てようが、私には痛手にならない。それ以前に、それどころではなくなるがな。改めて聞こう。私の犬になる気はあるか?」
 考えるまでもなかった。というか、これは交渉の類ではなく、命令と一緒でこちらに拒否権はない。拒否したら、無残な末路が待っているだけだ。しかし大人しく返事をするのも癪に障る。考えようによっては、これは別な意味でまたとないチャンスだった。
「条件を一つだけ飲んで欲しい」
「内容次第だな」
「俺から大切な妹を奪ったあいつを殺す機会をくれ。これを飲んでもらえるのなら、犬だろうが奴隷だろうが、御主人様と仰いでやる」
「……いいだろう。契約成立だ。解放してやれ」
 機械が自動で外れた。陸治は固定されていた部分を擦りながら、静かに復讐の炎を燃やす。それは大切な妹を奪ったあいつに向けられていた。
 待っていろよ日奈。必ずお兄ちゃんが取り返すからな。


「それじゃあ行ってくる」
「いってらっしゃい」
 と、海斗は二人の妹に送り出してもらった。日奈が稲郷家の一員になって数日が過ぎた。美月と二人で暮らしていた頃より、一・二倍ぐらい賑やかになった。彼女にはまだ遠慮があるものの、これは時間が解決するはずなので、気長に見守るつもりだ。
 海斗はA4サイズの茶封筒を手に、路面電車に乗った。この中には、稲置海斗という社会人についての書類が入っている。
 日奈のことで、園長先生に相談したら、信頼できる児童相談所を紹介してもらった。園長先生とも面識のある担当の人に、話を聞いてもらったら、海斗の行為は、保護。と認められた。日奈を引き取りたい旨を伝えたら、面接や書類審査があると言われて、急いでまとめたのだ。書く内容が細かくあって大変だったものの、日奈が正式に家族の一員になる未来を思えば、そこまで苦にならなかった。
 児童相談所に到着し、受付で話をすると、すぐに担当の人が出て来て、別室に案内された。担当は渡された書類に不備がないか入念に確認した。これなら大丈夫です。と満足してくれた。面接日はまた後日連絡する。ということで、海斗は児童相談所を後にした。
 その足で、弁護士事務所に向かう。日奈が抱えている借金について相談するためだ。こちらも園長先生が紹介してくれたので、信頼できる弁護士なのは、会う前から間違いなかった。
 海斗はポケットからメモ用紙を取り出した。事務所までの道程を描いた地図だ。この事務所がある地区には、まず来ないので道順がわからない。加えて、お手製なので、ちゃんとした地図よりわかりづらい。
 スマホに買い替えた方がいいのかな?
 とか思ってしまう。確か、スマホには地図機能があるから、こういう時は便利なはずだ。お手製の地図を片手にきょろきょろしていると、周囲がざわめいていることに気が付いた。人々は、その場で立ち止まり、同じ方向を見ている。人差し指を向けたり、スマホで撮影をしている。
釣られるように海斗も見上げ仰天した。ニューイーラ本社ビルの頭上に真っ赤に輝く円盤があるのだ。
「なんだよあれ……」
 呆然と見つめる海斗。
 円盤から凄まじい速度で赤い光線が降って、ニューイーラ本社ビルを一瞬で飲み込んだ。光線は凄まじい速度で円状に拡大していき、街を無慈悲に飲み込んでいく。
 人々がパニックを起こして赤い壁から少しでも逃げようとする中、海斗は過去の記憶を呼び起こされた。
 この光景には見覚えがあった。
 それまで当たり前だと思っていた日常。ともすれば退屈ともいえるような日常を唐突に奪ったあの日に目撃した非現実。
「黒い残暑かよ……」
 海斗は迫り来る赤い壁を睨みつけた。
 今はもうあの時と違って無力な子供ではない。心身ともに十分に育った大人だ。それどころか、偶然にも力という非現実なものを手に入れた。
 今ならできることがある。
 この力を使えば、一人でも多くの人を助け、少しでも当たり前の日常を守れる一助になれる。今なら、この時にために力を手に入れたのではないかとさえ思える。
 海斗は黒い壁を出現させ、少しでも逃げるための時間稼ぎをしようとした。
 だが、何も起こらなかった。
 何度も何度も力を使うが、現実には何も起きない。
「この力は現実でも使えるんじゃなかったのか!?」
 現に陸治は現実でも力を使っていた。どうして使えないのか、わけがわからなかった。
(――そういうことか……)
 驚きの余り海斗の体が撥ねた。頭の中で声がはっきりと聞こえた。今まで聞いたことのない声だ。
「誰だ!?」
(どうやって人間たちがやって来たのか疑問だったが、ようやく解けた。お前か)
 海斗は逃げ惑う一人に押され、尻もちをついた。尻全体に痛みが走って呻き声を挙げた。
(―――る者よ。お前が招き入れたのか)
 次から次へと謎が増えるばかりであったが、できることは一つしかなかった。
 海斗は心から悔しそうに顔を歪めながら、人々と一緒に赤い壁に背を向けて走り出した。
 くそっ!くそっ!くそっ!
 海斗は心の中で叫んだ。
 成長し力を手に入れ、あの時とは何もかも変わっていると思っていたのに、現実は何も変わっていない。周囲の人々と同様に、非現実に立ち向かうことができない無力な大人の一人に過ぎなかった。
 その事実が悔しくて悔しくて、自然と涙が溢れてきた。
 赤い壁は無慈悲に、街を人々を飲み込んでいく。その速度は走って逃げ切れるものではなく、人々と一緒に海斗も飲み込まれた。


地球編 終わり
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