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妄想聖人

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テンイ編 3

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 おかしい……。
 海斗は自分の身に降りかかった事態に困惑していた。今夜も野宿をすることとなったので、早めに晩飯を食べることになった。草原地帯を抜け、森林がちらほらとあるおかげで、枝を集めて暖を取ることができるようになった。ゴンとアマネが力を使えば、火を熾すのはとても簡単だった。その恩恵で一番大きかったのは、肉や魚を焼けるようになったことだ。相変わらず味はしないが、久しぶりに温かい物を胃の腑に落とすことができて、生き返ったような心地になった。
 食後の談笑を楽しんでから、火を消して三人で固まって就寝したはずだ。真面目な話、壁や天井がないため固まって寝ないと地味に寒い。瞼を閉じてすぐに睡魔が御降臨されたはずなのに、違和感を覚えて目を開けたら、どういうわけか、死者の底にいた。
「……俺は死んだのか?」
 不吉な呼び名なのだから、そう考えても不思議はなかった。
「死者の底とはそういう意味ではない」
 とても弱い波のように音の振動が海斗の全身を優しく叩き、それが言葉として耳朶に届いた。振動の発生源に全身を向けると、木に凭れて座っているカオナシがいた。頭と両肩に、小鳥の番が、仲睦まじそうに乗っており、犬なのか猫なのか不明な不思議な生き物が、膝に顎を乗せて安らかな寝息を立てている。その頭を優しく撫でるカオナシ。
「じゃあどういう意味なんだ?」
「私に由来して、そう呼ばれているに過ぎない。別に死者が訪れる場所ではないし、死者が訪れたからと言って、私が何かをするわけではない。私もまた、テンイの家族の一人だからな」
「それならどうして俺はここにいるんだ」
 カオナシの機微を感じ取ったかのように、小鳥たちは飛び去り、不思議な生き物はむくりと起き上がって、森へと戻っていった。
「翼有る者、アマネの件で私なりに色々考えさせてもらったから呼んだ」
「だったら俺も言いたいことがある」
 カオナシを睨みつけた。名前の通り顔がないので、どういう表情で受け止めているのか不明だが。
「どうしてアマネたちを助けてやらないんだ?彼女の主張は、正しいと俺は思う。あんたは偉いんだろ」
「まず、偉いというのは違う。私はテンイでも最古に入る種族で、皆が古老として慕ってくれるだけだ。ここが聖地と呼ばれているのもそれが理由だ。次に翼有る者たちの件だが、アマネが説明した通り、当時の家族の怒りは凄まじかった。中には、主張を受け入れ、家族として向かい入れるべきだ。と主張する者も僅かながらいた。だがそう言った者たちは、例外なく裏切り者と罵られ、凄まじいリンチの末に絶命した」
「……家族なのにそんなことをしたのか?」
 海斗の想像の遥か上をいく酷い話だった。初めてテンイの住人たちに対して、心からの軽蔑と嫌悪を覚えた。
「矢立兄妹を見ていればわかるのではないか?家族だからといって、暴力を振るい、売春を強要させるのを許せるのか?家族でも、許せないことはあると思うが」
 返す言葉が何も思いつかなかった。
「テンイの家族は、良くも悪くも純朴なのだ。一度、憎悪を覚えると、それは死者の底より深くなる。お前が漠然と理解しているように、これは簡単な問題ではない。仮に私が間に入ったとしても、それで終わる問題ではないのだ。逆に、私の名で感情を抑え付けることになるから、ちょっとしたきっかけで爆発する恐れがある」
「わかった。俺が浅はかだったのは理解できた。それでも理解し合う努力はすべきだと思う。いつかそれが実を結ぶと信じたい」
「誰もが海斗のように考えられたら、この問題は解決できていただろう。私もそれを願うばかりだ」
 この話はここで終わりになった。海斗は本題に移る。
「どうして俺を呼んだんだ?」
 心情的には、身に覚えがないのにいきなり職員室に呼ばれた生徒のようだ。
「アマネの件で、お前から改めて聞こうと思ってな」
 海斗は姿勢を正した。
「お前は本気で、あの子のためにテンイの家族を敵に回す覚悟があるのか?」
「勿論だ。それともあんたは、アマネを見捨てろとでも言いたいのか?」
「そんな訳がないだろ。翼有る者のために、そこまで言ったお前と共に在ることを、私は誇らしく感じたぐらいだ。私も翼有る者は、家族だと思っているから嬉しいのだよ」
 手放しに賞賛されるのは慣れておらず、照れてしまった。
「だがな。正直、お前は軽く考えている気がする。翼有る者は、四鎮守に次ぐ、強力な力を有しているが、あの子は積極的に力を使わないだろう。そしてお前は、脆弱な人間だ。テンイの家族が本気を出せば、お前たち二人を殺すのは、造作もないぞ。逃げると言っても、簡単ではないぞ。翼有る者に及ばずとも、強い力を有する家族は大勢いるぞ。捕まれば、殺してくれと懇願したくなる壮絶な目に遭うぞ。それでも共に在る覚悟があるのか?」
「ある」即答だった。「カオナシの話を聞いて、これが簡単な問題じゃないのは、改めて理解できた。それでもアマネを一人にできない。一人にするくらいだったら、意地でも逃げ切ってみせる」
「だろうな。海斗のこれまでの人生を見守ってきた私としては、そう言うだろうとは思ってはいた。だから、共に在ることを誇らしく感じる。力を貸す気にもなった。改めて良くわかった」
 不思議な森は一瞬にして、太陽が照り付ける更地になった。瞬きする暇もなかった出来事に、海斗は狼狽えた。
「ここは、私の記憶を元に、構築した不思議空間とでも思っておけばよい。それに、もう満足しただろう」
 海斗の頭の上に疑問符が浮かんだ。
「今からお前を鍛える」
「どうしてだ?」
 いきなり話が飛んだので、わけがわからなかった。
「お前が選んだ道は、お前が考えている以上に厳しい。その覚悟を通し続けるためには、力がいる。だが私は、家族に対して力を向けない。言っている意味がわかるか?」
「えっと、危険な目に遭っても、力は貸してくれないってことか?」
 カオナシはゆっくり頷いた。
「私に対して、あれだけの啖呵を切ったのだ。もしお前たちの正体がばれても、ぎりぎりまで私は表に出ないことを約束しよう。だからと言って、お前に死なれては私も嫌だ。だからお前自身を鍛える。自身の身を守れる以上にな。もしアマネを守り通しても、お前が死ねばあの子は泣くぞ。そういった自己満足が好みか?」
 海斗は全力で否定した。そんなのは、海斗の望むところではない。
「では鍛えるとしよう」
 海斗は小さく挙手した。「確認したいんだが」
「何をだ?」
「俺、寝不足にならない?」
 今の自分がどういう状態にあるのかさっぱりわからない。意識ははっきりしているので、起きているような感じはする。現実の体にも影響が出るようなら、もう少し話し合う必要がある。寝不足で仕事をするのはきついのを知っている。
「安心しろ。体は就寝している。今のお前は、夢を見ている状態だと思えばよい」
 それを聞けて安心した。
「それじゃあ、まずは何をすればいいんだ?走り込みとか?」いきなり海斗の目の前の宙に、黒い槍が現れた。海斗は慌てて掴んだ。
「この状態で、走り込みをしても意味はない。というより、体に負担はない。幾ら走っても体力は付かない。それは現実でやれ。私が教えるのは、実戦技術だ。これなら、現実の体でなぞるだけだから役に立つ。さあ。掛かってこい」
 と言われても、海斗は戸惑うばかりで構えない。
「どうした?速くこい」
「カオナシの武器は?」
 武器を持たない相手に、武器を向けるのは抵抗があった。
「無用な心配だ。そもそも、昨日今日、武器を持ったばかりの素人に、私が遅れを取るわけがない。私を侮辱するな」
「すみませんね。平和な国で育ったものですから」
「それは知っている。胸を貸すから、全力でこい」
 カオナシとの実力差を、海斗はその体で思い知ることになった。最小限の動きでかわすカオナシに、何度も何度も地面とキスさせられた。


 海斗の胸に置いていた手が弾かれると同時に、アマネは驚いたように目を開けた。
「いっっったぁ……」小さな声で、弾かれた手を揉んだ。覗き見したことへの罰なのかもしれない。
 就寝するとすぐに、カオナシの力を感じ、海斗は死んだような深い眠りへと落ちた。カオナシの用件が気になったので、力を使って侵入し物陰からこっそり覗いていた。
「カオナシ様は何と?」暗闇の中、ゴンは静かに訊いた。ゴンもカオナシの力を感じたが、彼女と違って、覗き見るような真似はしなかった。
「私のことで話してた」
「……一応、訊くが、海斗は何と答えた?」
「私と一生、一緒に居てくれるって」海斗の言葉とは、かなり違うのだが、彼女的にはそういう理解だった。
「…………物好きか、狂人か。海斗の考えが少しわからなくなったな」それだけ言って、ゴンは本格的に就寝する。
 暗闇の中、アマネは海斗の顔をまじまじと見つめる。徐々に口角が緩くなり、美人が台無しになるだらしない笑みを浮かべた。
 毛皮の中に顔を潜らせ、両手で顔を覆った。自分でもびっくりするぐらい顔が熱い。にやにやが治らない。
 海斗がカオナシに対して、啖呵を切った姿は、嬉し過ぎるし、格好良すぎた。
 ヤバい……。
 今まで感じたことがないぐらい、胸がドキドキしている。今夜は眠れそうにない。


 就寝すると同時に、カオナシに呼び出され、鍛えられる。と言うのが、日課になりつつあった。
 その結果、海斗は成長を実感していなかった。
 実は、秘めた才能が開花し、一気に強くなる。なんていう、都合の良い展開はやはりなかったのだ。加えて相手が悪すぎる。実戦経験豊富で、ゴンの話によれば、強さだけで言うのなら、テンイでは一、二を争うぐらいの強者だ。その証拠に、カオナシは今日も武器を持っていない。まだまだ、武器を使って鍛錬できる相手とは認められていない。海斗にできることがあるとすれば、凡人らしく地道に頑張るしかないのだ。
 海斗は槍を構えてかかっていくが、カオナシは最小限の動きでかわし、しかも足を引っかけられて、無様に地面に転んだ。
 海斗はすぐに立ち上がった。
 音の振動が発せられた。「……相手をしていて気づいたが、お前は優し過ぎる」
「どういう意味だ?」
「海斗の戦い方には、遠慮がある。良いことだと言えるが、場合と相手を考えろ。敵は遠慮などしない」
 カオナシの言葉は、鍛錬に如実に表れていた。明らかに手は抜いているものの、容赦ないスパルタ教育だ。
「そんなつもりはないんだけどな……」
 本当にそんなつもりは微塵もないのだ。
「見ていればわかる。威勢は良いのに、攻撃しようとする瞬間、鈍くなる。そこを改善するだけでも、動きはよくなる。それとも、私が人だから、遠慮してしまうのか?」
 海斗は自分なりに考えてみた。
「多分、そうだと思う。それに、人を傷つけるのは駄目なことだと教えられたし、誰かを傷つけるのは怖いのかもしれない」
「…………陸治に対しては、とても攻撃的だったが。それはどうしてだ?」
「あいつは、日奈に酷いことをした。だから許せない」
「そうそれだ。その気概でかかってこい。私を陸治や突き刺す獣だと思え」
 はい。わかりました。とすぐに行動に移せるほど、海斗は単純でなかった。カオナシを見つめながら、心の中で、カオナシは陸治。カオナシは陸治。と自分を洗脳するように言い聞かせる。不思議なことに、カオナシに対して、攻撃的な衝動が沸き上がってきた。その衝動――心のままにかかっていった。
「やればできるじゃないか」最小限の動きで、回避に徹するカオナシ。「少しだけよくなった。少しだけ力を入れよう」
 カオナシの右手の中に、馬鹿でかい包丁みたいな黒い剣が現れた。剣を薙ぐと、槍は明後日の方に飛んでいった。
「武器はしっかり握れ」
「いきなり武器を使うのはずるくないか?」
「甘えたことを言うな。戦いとはそういうものだ。……いや。私が偉そうに言えることではないな。とにかく、どんなことが起きても、動じない心構えが必要だ」
「具体的にはどうすればいいんだ?」
 効果的なトレーニング法があるのなら、ぜひ知りたかった。
「お前が見ていたアニメで言っていただろう。武士道とは死ぬことと見つけたり。とな。あれで構わん」
「あれって、死ぬことを賞賛する言葉じゃなかったっけ?」
「そういう意味なのか?話の前後から考えた私の解釈では、常に死を意識して行動すれば、いざという時には動じることなく動ける。と思っていたが」
「……多分、カオナシの解釈が正しいと思う」
 あくまで、娯楽と捉えていた海斗は、そこまで深く考えずに見ていた。
「続きを始めよう」
 海斗の目の前の宙に、黒い槍が現れ掴んだ。
「行くぞ!」
「威勢と根性は文句なしなのだがな……」


 海斗は鼻を動かして匂いを嗅いだ。風にほんのりと磯の香りが混じっている気がした。海が近い証拠だろう。それはつまり、青葉特別区が近いことを意味する。
「見て。あれが人間の集落だよ」アマネは遥か遠くにある街を指した。
 その光景に、ゴンは言葉を無くした。「…………驚いた。ここからでも見えるぐらい、人間の集落とは巨大なのか……」
 まだまだ先にあるとはいえ、眺める海斗は胸が一杯になった。
 長かった……。
 夢にまで見た故郷に、もう少しで帰れる。家族の皆に会える。ここまで頑張ってきた苦労が、もうちょっとで報われる。
「速く行こうぜ!」嬉しさのあまり、海斗のテンションは一気にマックスに達した。海斗は考えなしに、飛行速度を上げた。
「待ってよ」その後を追いかけるアマネ
「……人間の集落か……。何事もなければよいが……」ゴンは険しい目つきで青葉を見つめた。
 青葉の手前には、警察の一団が検問を敷いており、接近してくる海斗たちに、拡声器を使って止まれと指示を出した。
 海斗は言われた通り、止まった。というか、どうしてこんなところに警察がいるのか、不思議でならなかった。
「現在、青葉特別区は非常事態宣言に基づき、誰も入れないように言われている。帰ってくれないか」
「えっ?俺、青葉の住人なんだけど……」
 警察は胡散臭そうに、海斗とアマネを見つめた。「青葉の住人で、空を飛べる奴が居るとは思えないが」
 あっ。と気付いた海斗は、慌てて地上に降りた。習うようにアマネも降りた。それと同時に翼のようなものも消えた。
「俺がこの街の住人なのは本当だよ」
「それなら、身分を証明できるものはあるか?」そんな物ないだろ。と暗に言いたげだ。
 海斗は財布から、フォークリフトの免許証を提示した。警察は預かって、簡易派出所のパソコンで調べた。
「住民登録されているのを確認した。通って良し。お帰りなさい」
 海斗が胸を撫で下ろしたのも束の間、次の問題が発生した。
「そっちの人も身分証明書を提示してくれるかな」
 アマネは不思議そうに首を傾げた。
 そんな物を持っていないのを海斗は知っていた。
「二人は現地住人で、助けてくれた恩人なんだ。特別に通してもらえないだろうか?」
「さっきも言ったように、非常事態宣言が出されて、身元が確認できない人は、街に入れることはできないんだ」
「そこを曲げて、お願いします」
「勘弁してくれ。落ち着いたとはいえ、まだ混乱している人がいるんだ。不安を増長するような人は入れられない」
 普段であれば、真面目に職務をこなす態度に、安心感を覚えるところだが、今回は引くわけにはいかない。二人を残して、ルンルン気分で帰宅するという、不義理なことはできない。
 簡易派出所から警官が出てきて、海斗と話している警官の耳元で囁いた。
「マジかそれ?」
「ええ。マジです」
 何があったのかわからず、海斗は首を傾げた。
「あぁ……。上の方から連絡があったんだが、一人と一匹は特例として、街に入ることを許可するそうだ」
「ありがとうございます」
 この時ばかりは、顔も名前も知らない誰かに心から感謝した。
「……話は終わったのか?」ゴンが訊いた。
「ああ。二人も入っていいって」
 警察の一団は、海斗とゴンの会話する姿を見て、不思議そうに首を傾げた。
 検問を通って、海斗はようやく青葉特別区に帰ってきた。見慣れた景色が視界一杯に広がり、感動を覚えそうになった。
「これが……、人間の集落か……。確かに建物は高いし大きいな。一体何でできているのだ?」
「凄い!凄い!こんな大きな集落初めて見てよ!」
 はしゃぐ二人をよそに、海斗はポケットから取り出した携帯電話の電源を入れた。青葉以外では使えないので、バッテリーを節約するために落としていたのだ。画面を見ると、思った通り、久しぶりにバリサンになった。ようやく、自分が知る文明に触れた気がした。誰にかけるか既に決めていた。登録帳から美月の番号を選択した。久しぶりに可愛い妹の声が聞こえると思うと、何故か緊張してしまい、通話ボタンを押す指が僅かに震えてしまった。三回目のコールで、可愛い妹が出た。
『お兄ちゃん!!』怒鳴り声のような大声だった。奥の方から、一朗太と日奈の声が聞こえた。三人は海斗のように事故に遭わず無事のようだ。
 久しぶりに声が聞け、感動の余りすぐに返事はできなかった。「久しぶり――」
『今どこにいるの!』
「勝木地区に居るけど」
『迎えに行くから、絶対にそこを動かないでよ!絶対!絶対!絶対だからね!』一方的に告げて、通話は終了した。
 海斗は落ち込んだ。
 久しぶりなんだぜ……。
 兄妹の心温まる会話をしたかった。泣きたくなったので、心の中で泣いた。
「お二人さん。ちょっといいか?」
 このまま放っておくと、どっかに行きそうな二人を呼んだ。
「今から家族が迎えに来るから、ここで待つことになった。勝手にどっかに行かないでくれよ」
「残念だ……」ゴンは肩を落とした。
 アマネの方は、急に身なりを気にしだし始めた。髪を手で梳いたり、服装におかしなところがないかをチェックした。
 海斗は街の様子を観察した。異世界に強制連行されたというのに、住人たちには大きな混乱は見られず、いつも通りの日常を過ごしているように見えた。
「海斗の両親はどんな人なの?」興味津々なアマネ。
「あれ?言ってなかったっけ。両親は他界しているよ」
「ごめんなさい」
「気にしなくていいよ。昔の話だし。まあでも良い機会かもな。俺のことや、今から来る家族のことを説明するよ」
 アマネの秘密を知ったのに、自分のことを何も話さないのは不公平な気がした。
「両親が亡くなってから、俺はひまわり園っていう孤児院に引き取られたんだ」
「孤児院とはなんだ?」ゴンが訊いた。
「俺みたいに、何らかの理由で、子供を引き取って育てる場所」
「テンイとは違うな。テンイでは、保護者を亡くした場合、集落全体で育てる」
「地域差とでも思ってくれ。そこには、俺と同じ理由で、引き取られた子供たちが大勢いた。それが今の俺の家族だ。妹って言っても、血の繋がりはないんだ。義理ですらない。そして妹の前では両親の話はしないでくれ。心の傷が完璧に癒えているのかわからないから」
 二人は頷いた。
 待つこと、数十分。
 海斗の視界に、最愛の妹を筆頭に、一朗太と日奈が、きょろきょろと海斗を探している姿が映った。
 最後に見た時と変わらない元気な姿を見ることができて、涙が出そうになった。
「美月!」
 腹の底から呼んだ。気づいた美月たちは、美月だけ走って海斗へ向かってくる。海斗は両手を大きく広げて受け止めようとする。
 久しぶりの再会。押し倒すぐらいの勢いで、この胸に思いっきり飛び込んできて欲しかった。海斗の願望は、叶わなかった。
 美月は、海斗の胸に飛び込んできたが、鳩尾にエルボーがめり込んだ。海斗は鳩尾を両手で押さえながら、前屈みになり数歩後ずさった。
「おぉ……。激しい挨拶に、お兄ちゃんはとっても痛いです……」
 海斗の抗議を無視して、美月は右手を振り上げた。次は平手打ちが来るとわかったが、頬に痛みが走ることはなかった。
 アマネが美月の右手首を掴んでいた。美月は、アマネをきっ!と睨みつけた。アマネもきっ!と睨み返す。両者の間で、激しい火花が散るのが見える。美月は手を解こうとするのだが、アマネは決して離さない。
「お姉ちゃん……。怖い……」追い付いた日奈は怯える。
「当然だろうな……」一朗太は、アマネを一瞥した。
「離してやってくれ」海斗は鳩尾を擦りながら、姿勢を正した。
 今まで、連絡を取らずに心配をかけさせていたのだ。怒るのも無理はない。甘ったるい兄妹の再会を期待する方が馬鹿だったのだ。
「この子は、海斗を叩こうとしているよ」
「いいんだ。頼むよ」
 アマネは嫌がりながら、渋々手を離した。
 その瞬間、海斗の頬に熱い痛みが走った。口の中が切れたと思えるぐらいの痛みだったが、声を出さずに耐えた。これぐらいのことをされて当然のことをしでかしてしまったのだ。
「馬鹿っ!」美月は海斗に掴みかかるが、双眸は涙ぐんでいた。「今まで何してたの!?心配したんだからね!」
「ごめんなぁ……。圏外で連絡を取れなかったんだよ……」
「本当に…、本当に心配したんだから……。でも、無事で良かった……」
 美月は海斗の胸に顔を埋め静かに泣く。海斗は可愛い妹の白い頭を優しく撫でる。また家族がいなくなるかもしれないという恐怖と戦っていただろう。本当に申し訳ないことをしてしまった。
「おかえりなさい」
「ただいま」
 日奈と挨拶を交わした海斗は、その姿に魅入ってしまった。暫く会わない間に見違えていた。初めて会った時と比べると、とても健康そうで溌溂としている。一瞬、誰かわからなかったぐらいだ。日奈も元気そうで何よりだ。
「半年近くも何をしていたかと心配していたが、女とよろしくやっていたとは思わなかった。心配した俺が馬鹿だったよ」
「ちげぇよ馬鹿」
 一朗太とのそんなやり取りが楽しくてしょうがなかった。
 美月が泣き止んだところで、海斗はゴンとアマネの二人を紹介した。「二人のおかげで、俺は無事に青葉まで戻ってくることができた。二人は恩人なんだ」
 美月が二人の前に出て、深々と頭を下げた。「兄がお世話になりました。心から感謝します。本当にありがとうございました」
「…………海斗。この子は何と言っているのだ?」ゴンは不思議そうに首を傾げた。
「えっ?普通に感謝の言葉を述べているけど」
「人間の言葉は、不思議な響きなのだな」
 海斗は首を傾げた。
「海斗」今度は一朗太が呼んだ。「お前、いつの間に狐と喋れるようになったんだ?」
「何言ってんだお前?普通に日本語を話しているじゃないか?」
「お前こそ、何を言っている?この狐もその女も、呪文みたいな言葉を喋っているぞ」
「どういうことだ?」
 海斗は訳がわからなくなった。海斗は普通に日本語で話し、ゴンたちの言葉も日本語として聞き取れることができる。
(私がテンイの言葉を日本語に翻訳しているからだ)カオナシが説明する。(逆に、日本語をテンイの言葉になるように、空気を振動を調節していた。だから、お前は不自由することなく会話ができるのだ。ちなみに、お前を通して日本語を習得した)
「そうだったのか。ありがとうよ」
 一人で喋る海斗に対して、美月と一朗太と日奈は心底から不安な表情を浮かべた。
「速く帰ろ。お兄ちゃんは疲れているんだよ」美月は促した。
 それは魅力的な提案だった。久しぶりに熱い風呂に入りたいし、何より温かいベッドで寝たい。だがその前に、ちゃんと双方を紹介した。
 愛しの我が家へ戻るために、路面電車を利用するのだが、問題が発生した。
 ゴンが車内に入った瞬間、乗り合わせていた乗客たちから驚きの声が上がった。なんだありゃ。という感じで、一斉にスマートフォンのカメラやビデオを起動させ、無遠慮に写真を撮ったり、動画を撮影する。更に車掌が出てきた。
「お客様。大変申し訳ありませんが、ペットの乗車は御遠慮願います」
「ペットじゃないです」
 ゴンが日本語を理解できなくて良かった。ペット扱いされていることを知ったら、ブチギレてしまう。
「ですが――」
「ペットじゃないです」
 ゴンが車掌をぎろりと睨みつけると、車掌は怯えておずおずと引き下がった。
 アマネは路面電車を楽しんでいるのだが、百人中百人が美人と答える容姿をしているので、隠し撮りされていることに気付いていない。
 次の駅では、子供の手を引いた母親が乗車するのだが、ゴンを見た瞬間、驚きのあまり肩が撥ねた。
「ママ。大きな狐がいる」子供は無邪気に指した。
「そっ、そうね……」
 座席は空いているのだが、親子はゴンから距離を取り、立って目的地を目指す。だが子供は、ゴンに興味津々で近づこうとするのだが、その度に母親に引き戻される。
「何なのだ一体!」とうとうゴンの我慢が限界を迎えた。「何故、私を珍獣みたいに見るのだ!私は見世物ではないのだぞ!」
 と、乗客たちに言うのだが、言葉は通じず、一部の客がビビった程度だ。
 それは仕方ないよね。
 と、海斗は心の中で呟いた。
「ゴンはなんて言ったんだ?」一朗太が訊いた。
「見世物ではないって」
「仕方ないだろ」
 海斗は、心の中で激しく同意した。見た目は狐に見えるが、吻の先から尻尾の先まで二メートルを超える巨躯に、十三本の尻尾。海斗たちからすれば、ファンタジーの住人が飛び出してきたようなものだ。
「諦めてくれ」海斗は宥める。「俺たちの世界に、思慮深き者はいないんだ。初めて見てびっくりしてるんだ」
「だからと言って、いい気はしないぞ」
「慰めになるかわからないけど、バズる――人気者になるから」
 既にゴンの情報は凄い勢いで、拡散されており、いいね。が沢山ついていそうだ。
「人気など要らん!」
 ゴンを宥め続け、ようやく目的の停留所で降りた。ここから、社営団地に向かうのだが、やはりゴンは注目の的だった。少し離れた位置から撮影されたりする。中には、犬の散歩中の女性がいて、ゴンに強い興味を示した。リードで繋がれた柴犬は、ゴンに鼻先を近づけようとしたが、ゴンに睨まれ尻尾を股に挟んで伏せた。
「凄いですね。触ってもいいですか?」飼い主は触りたくて――抱き着きたくて、うずうずしている。
 俺じゃなくて、本人に聞いて。と言いたかったが、言葉は通じない。海斗は飼い主のお願いを伝えた。
「ふざけるな!」当然だが、ゴンは切れた。
 飼い主は驚き、柴犬は伏せたまま器用に後退した。
「クソッ!人間の集落は不愉快極まりない!」
「後もう少しの辛抱だから我慢して」
「ならば早く案内しろ。力を使って私の恐ろしさを、身を持って教えたくなるぞ」
「ほんとそれだけは止めて。思い留まって。お願いだから」そんなことをされては、この街に居られなくなる。「ごめん皆。ちょっと急ぐぞ。ゴンが御立腹だ」
 皆を急かすのだが、一人だけ空気を無視した人物がいた。
「ねえ海斗。あれは何?」
 アマネは、喫茶店を興味深そうに指した。行ってみたくて、うずうずしている。
「後で教えるから、今は急いで」
「そんなことを言わずに今行こうよ」
 アマネは海斗の左腕を引いて、連れて行こうとする。海斗は抗議しようとしたが、口を開く前に、反対の右腕が引かれた。腕を引いているのは、美月だった。
「お兄ちゃんは疲れているの」アマネを睨みながら、我が家へと連れて行こうとする。
「速く行こう」美月を睨みながら、喫茶店へと連れて行こうとする。
 両者はまたも睨み合う。お互いに何を言っているのか通じないが、お互いを敵と認識しているかもしれない。
 傍から見れば、両手に華かもしれないが、当の本人は堪ったものではない。両人共に、力一杯引っ張るので、肩が外れそうになるぐらい痛い。
「マジ痛いから離して!」
 という、海斗の心からの願いは、妹と女の戦いの前では無視される。
「これが……。モテ期到来……」日奈は興味津々に観察する。
 一朗太はゴンの肩にちょんちょんと触れた。言葉は通じないのを理解しているので、身振り手振りジェスチャーで意思の疎通を測る。ゴンは理解したらしく頷いた。一朗太は、美月の後頭部にチョップを入れ、ゴンは立ち上がり海斗とアマネの間に入って引き離した。
「いい加減にしろ」言語は違えど、二人は同じ言葉を発した。
「速く行くぞ」
 この隙に、海斗はさっさと進んだ。一朗太とゴンは黙って続く。美月とアマネは暫く睨み合ってから続いた。日奈は名残惜しそうに続いた。
 我が家へと続く扉を開けた海斗は、本当に帰ってくることができたと胸が一杯になった。
「速く入れ」一朗太が促した。
「もうちょっと余韻に浸らせてくれ」
 久しぶりの愛しの我が家というだけで感動する。
「いいから速く入れ」
 一朗太に背中を押されて入った海斗。色々なものが台無しにされた気分だった。海斗はアマネに靴を脱ぐのが、文化だと教えて脱いでもらった。ゴンは常に裸足の状態なので、近くにあったタオルで足裏を綺麗に拭いてからあがってもらった。
「お風呂を入れてきてもらえる」美月は日奈にお願いした。
「はい。お姉ちゃん」日奈は素直に返事をして風呂場へ向かった。暫く会わない内に、二人はすっかり仲良しになっていた。
「凄い。色んな物が置いてある」アマネは小物などを手に取って観察する。一方ゴンは、興味深そうに室内を見回す。
「なあ。美月」海斗は声をかけた。「飯、作ってくれないか?」
「えっ?」美月の両目が大きく開いた。「私が作っていいの?」
「久しぶりに美月の料理を食べたいから頼むよ」
「任せて。腕によりをかけるから」
「手の込んだものはいらない。普通に卵焼きとか、そういうのが食べたい」今は珍しい料理よりも、家庭料理が無性に食べたい。
「作っている間に、お兄ちゃんはお風呂に入ってきて」
「そうするわ」
 海斗は自室へと向かった。久しぶりの部屋は、最後に出た時と何も変わっていなかった。留守中でも、ちゃんと掃除をしていたようで綺麗だ。
 出来の良い妹には感謝だな。
 後でお礼を言うことを決めて、着替えを持って脱衣所へ向かった。着っぱなしだった服は、全て洗濯機の中へ投入し洗剤を入れてスタートした。そして風呂へ入った。まずは熱いシャワーを全身で浴びる。それが気持ち良くて、汗や汚れが落ちていくのと同時に、全身の筋肉が和らいでいく。
 ようやく生き返った気がした。今日は長風呂と洒落込むことにした。


 クリストファーは、ニューイーラ本社ビルの社長室で、各所に配置してある監視カメラに映っていたローブ・オブ・オーダーを観察した。その映像は、壁に取り付けてある大きなハイヴィジョンテレビに映っている。
 生きていたか……。
 正直に驚きが隠せない。
 テンイへの転送時に、何らかのアクシデントが遭ったのか、ローブ・オブ・オーダーのように、行方不明者の報告が数十件あった。中には力の因子の定着者もいたが、尊い犠牲と切り捨てが、その中にローブ・オブ・オーダーもいたのは驚いた。そして死んだと思っていた。テンイの空気は人間にとって、猛毒以外の何物でもない。既にワクチンは開発済みだが、欠点は、一度発症しないと接種しても効果がないのだ。ワクチンを接種できないから、どこかで野垂れ死んでいたと思っていた。ところが、映像を見る限り、自力で抗体を獲得したようだ。それだけで、興味深い。生きているのなら、後はローブ・オブ・オーダーという印籠が活躍し、テンイで行動するのは簡単だったろう。無事に戻って来たのも納得だ。
 クリストファーはリモコンを操作して、街に入る際の警察とのやり取りの最初の部分を映し出した。簡易派出所に設置してある監視カメラの映像だ。ローブ・オブ・オーダーにくっ付いてきた、一匹と一人。この映像を見た、生理科学班は狂喜乱舞した。
 一匹は希少種族である思慮深き者。この標本は、まだ手に入れていない。テンイへの転送可能時期に、何度も部隊を送り込んだが、ついぞ手に入れることが叶わなかった。だが希少性で言うのなら、原始人の方が比べ物にならないぐらい高い。絶滅したと思っていた翼有る者だからだ。伝説上の種族だと諦めていた。
 生理科学班は、この二つのサンプルを手に入れて欲しいと懇願してきた。日本人のように土下座をしそうな勢いでだ。クリストファーにしても反対する理由はなかった。テンイに住む原始人たちには、まだまだ可能性がある。ニューイーラがここまで発展したのは、この世界のあらゆるものが関係している。問題は、ローブ・オブ・オーダーを刺激しないで、どうやって安全に手に入れるかだ。暫し黙考してから、妙案を思い付いた。


 久しぶりにさっぱりし、溌溂とした海斗が居間に戻ってきたら平和な光景が広がっていた。
 台所に立つ美月は、鼻歌を奏でながら、上機嫌に料理をしている。一朗太とゴンは、床の上に座り、向かい合って色々な物を指しながら喋っている。勉強会をしているような雰囲気だ。日奈と背後から抱き着くアマネはじゃれ合っている。どうやら、この短い時間ですっかり仲良しになったようだ。美しい光景だ。
 平和っていいな……。
 しみじみと思った。ここだけゆっくり時間が流れているような気がした。
 海斗は台所へ入って、マイ茶碗を持った。炊飯器を開けた。白い輝きを発する白米の匂いを一杯に嗅いだ。ほぼ無臭なのだが、美味しそうな匂いがした。自然と腹の虫が鳴った。
「もうちょっと待っててね。もう少しで全部できるから」卵焼きを作っている美月。
「お兄ちゃんは待てません」
「じゃあ先に、はい」
 美月は鮭の塩焼きと、わかめと油揚げの味噌汁を出した。口の中に涎が溜まっていくのがわかった。
 海斗は食卓に着いて、両手を合わせて、いただきます。をした。まずは味噌汁を口に付ける。驚きで目を見開いた。僅かな量の汁が舌に触れた瞬間、強烈な刺激が走ったのだ。
「いってぇ…、なんだこれ?」
「どうかした?」美月は不思議そうに顔を向けた。
「なんでもない」
「そう」美月はうんと美味しい卵焼きを作ろうと、料理に集中する。
「どうなってんだ?」
 味を感じ取れ、可愛い妹の手料理ということで美味しさが万倍に増幅され、懐かしさも相まって、感動すると思い描いていたのだが、根本的に違っていた。二口めを含むには、少しばかり勇気が要る痛みだった。
(今まで、味を感じ取れない物ばかり食べていたから、舌の機能が健全に働いていなかった。そこにいきなり、味噌汁を飲んだから、舌が驚いたのだ。まず、舌の機能を回復させるために、白米から食べろ)
「わかった」
 白米を普段以上に噛んでから嚥下した。これを数回やってから、味噌汁に手を付けた。ぴりっとした痛みはあったが、普通に飲める。こういう形で、食事に苦労する日が来るとは思わなかった。
「はい。卵焼きお待ち」美月はニコニコしながら、小皿に乗った卵焼きを差し出した。
「待ってました」
 早速、一つを食べた。ほんのりとした甘さが口内に広がった。稲郷家では、甘口の卵焼きが好まれている。
 これだよ。これ。
 懐かしい味に、胸が一杯になった。そんな兄を美月はニコニコしながら見守る。
 卵焼きの余韻に浸っていると、脇にアマネが立っていた。視線は、卵焼きに向けられていた。
「美味しいのそれ?」
「食べてみるか」
 海斗は皿ごと卵焼きを差し出した。美月はむっと面白くない顔になったが、何も言わなかった。アマネは一つを、指で掴んで口の中に入れた。咀嚼している内に、アマネの眉間に皺が寄り、首を傾げながら飲み込んだ。
「味がしないよ。本当に美味しいの?」
「実を言うとだな。テンイの食べ物を食べても、味がしなかったんだ。カオナシが言うには、テンイには人間の味覚に合う食べ物はないらしい。その逆もあるってことじゃないか?」
「そうだったの?なんかごめんね」
「こればっかりは仕方ないよ」
 日奈はアマネの袖をくいくいと引っ張った。「元気を出して」
 言葉は通じないが、励ましているのは通じているらしく、アマネは笑顔を浮かべ、日奈を抱きしめる。「日奈は可愛いな」
 二人はまたじゃれ合う。
 海斗の向かいの席に、一朗太が座った。傍にはゴンがいる。
「お前ら仲良しになったんだな」類は友を呼ぶ。という奴だろうか。あまり意外には感じなかった。
「ゴンは頭が良いぞ。俺の意図を察して、すぐに真似をして日本語を覚え始めた。近い内に、片言の会話はできるだろう。俺もこの世界の言葉を、幾つか覚えた」
「流石だよ。参謀殿」
 自分にはできないだけに、心から尊敬した。
「飯を食ったままでいいから、聞いてくれ。お前が居なかった間の街についてだ」
「是非、聞かせてくれ」
 街に居なかった間に、何が起きたのか知りたい。
「気付いているとは思うが、俺たちは異世界に強制的に連れて来られたようだ。街は混乱したが、それどころではなくなった。いきなり原因不明の病気に罹って倒れた」
「それな。カオナシが言うには、この世界――テンイの空気は人間には猛毒らしいぞ。何でも、テンイは人間が存在しないから、生存するのに適さないだと」箸で鮭を切り分け、ご飯と一緒に食べた。
「カオナシって誰だ?」
「俺と共に居る、テンイの古老だ」
 一朗太と美月は驚愕し、顔を合わせたが、何も言わなかった。
「初めて知る情報ばかりだ。医者からは原因不明と言われていたからな。それなのに、すぐに治療は完了し、一週間もしないで退院した。街は混乱したものの、ニューイーラの迅速な対応によって、表面上はいつも通りになった。だが、お前がいない間に、一つだけ大きな変化が起きた。防衛軍の存在だ」
「なんだそりゃ?」
 海斗は首を傾げた。生まれた時から、青葉で暮らしているが、その言葉は初めて聞いた。
「ニューイーラが所持している軍隊だ」
「企業が軍隊を持っているのか?」
「ざっと見た感じでは、統率の執れた軍隊だった。昨日今日、かき集めた集団ではないだろう。表に出てこないだけで、隠し持っていたようだ。だがまあ、住民の大半は、流石、万事に備えるニューイーラと賞賛していたが。治療薬に軍隊。ニューイーラの連中は、この世界の存在を知っていた上で、事前に準備していたのは、疑いようはない。今の話をゴンに通訳してくれ。彼の意見も聞きたい」
 海斗は言われた通り通訳した。
「状況的に考えれば、そのニューイーラとかいう連中は、テンイの存在を知っていたのは間違いない。というより、何度もテンイにやって来た人間たちと関係があるとしか思えん」
 海斗はゴンの意見を訳した。
「世紀の発見を秘し、避難を呼びかけるわけでもない。目的はわからないが、いきなりきな臭くなってきたな」
 電話が鳴った。美月が受話器を取って耳に当てた。
 海斗は興味がそそられ、美月に顔を向けた。
「そう言えば、園長先生に海斗の無事を教えてなかったな……」一朗太は、スマートフォンを取り出して、メールを打つ。「意外と、お前のとこの社長かもしれないぞ」
「やべっ!?」
 すっかり忘れていた。半年近くに亘る無断欠勤。普通の会社であれば、とっくの昔にクビだ。美月はまだ卒業していないし、日奈の明るい未来のためにはクビになるわけにはいかない。土下座する勢いで謝罪すれば、首の皮一枚が繋がると信じて、携帯電話を取り出した。
「お兄ちゃん」美月は受話器を静かに戻した。「保健衛生局から連絡が来たよ。今日中に指定された病院に行って、検査を受けて欲しいって。連れて来た二人も一緒に」
「どうしてだよ?」
 正直、こっちはそれどころではない。二人の未来が掛かっているのだ。
「当然だろうな」一朗太は言った。「お前は外の世界で過ごしていた。どんな病原菌を持っているかわからない。検査した方が、お前自身のためになるぞ」
 今まで何ともなかったのに、そんな風に言われては、海斗は急に不安になった。テンイの空気は猛毒であるというのを、身を持って知っているだけに、その気持ちは強まる。会社への連絡は後回しにして、急いで残りを平らげた。


 人間って、頭おかしいんじゃない?
 アマネはそう思わずにいられなかった。
 指定された病院とやらに到着し、ロビーで受付をしたのだが、既に話は通っていたようで、すぐに担当の人たちが出てきた。ここでアマネは大きな不満を抱いた。海斗とは引き離されたのだ。抗議したのだが、こっちの言葉は通じない。結局は、海斗に諭されて、別行動をとることに渋々承諾した。そして通されたのが、小さな窓口のあるトイレだった。ゴンは隣の部屋に通されたが、恐らく同じ部屋だろう。窓口で説明を受けるのだが、何を言っているのかさっぱりわからない。でも、妙に丸い絵での図解があったので、何を目的にしているのかは理解できた。どうやら、尿が欲しいらしい。
 アマネは顔を真っ赤にして怒鳴りつけた。人間の世界では、当たり前の尿検査であるが、それを知らないアマネからすれば、変態趣味としか思えない。それでも受付は、顔色を変えずに、空の紙コップと、水の入った紙コップを黙って差し出し、図解の通りお願いしますと言わんばかりに指し続けた。
 アマネの怒りは収まらなかったが、水の入った紙コップをひったくるように掴んで、一気に飲んだ。こんな屈辱的なことはさっさと終わらせて、海斗の元に戻ることを優先した。変な味のする水だった。
 空の紙コップを掴んで、腕を組んで壁に寄りかかった。尿意が来るのを待つ。苛々していたが、徐々に気持ちが落ち着いた。そのおかげで、あることに気付いた。さっき飲んだ水には味があった。海斗の話では、テンイの家族が人間の食べ物を口にしても、味はしないと言っていた。事実、卵焼きなるものを食べても、味は一切しなかった。海斗の味覚はおかしいと思ってしまったほどだ。
 どうしてあの水は味がしんたんだろう?
 疑問に思っていたら、急に立ち眩みがした。頭が変に重く、視界がぼやけてきた。瞼が重く、強烈な眠気に襲われる。こんなところで寝るわけにはいかず、睡魔と必死に戦うのだが、アマネは膝を屈してしまった。


 海斗は診察表に目を落とした。
 尿検査はすぐに終わったが、採血は終わるのに、少々時間が掛かった。どれだけ血を抜くんですか?というぐらい、多量の血を抜かれた。立ち上がった時には、軽い立ち眩みを覚えたほどだ。
(海斗)
 次の病室に向かおうとしたら、カオナシが声をかけた。海斗は周囲を見た。病院関係者や患者が廊下を行き来している。これは口から言葉を発して会話するのは無理だ。頭の検査までするつもりはない。
(どうしたんだよ?)
(ゴンとアマネが病院外へ出て行ったぞ)
 海斗の頭の上に疑問符が浮かんだ。というか、何を言っているのか、理解できなかった。今は検査を受けているのだ。病院の外へ出て受ける検査は知らない。
(どうしてそんなことがわかるんだ?)
(わかるから、わかるとしか言えん。これは…移動速度が速いな。車に乗っているのか?)
 この時、海斗の脳裏に浮かんだのは、タクシーに乗る二人。だがそれはありえない。ゴンは人間の検査に興味を抱いていた。アマネは自分と常に行動を共にしたがっていた。勝手に病院外に出る理由はない。
(……もしかして誘拐か?)
 ゴンに教えてもらった、テンイの家族に対して、顔も名前も知らない人間たちがやった非道の数々。目的はわからないまでも、攫われる理由なら存在する。
(それしか考えられんな。実際、多くの家族が、人間によって引き裂かれたのだから。その後はどうなったのか知らないが、私の経験で言わせてもらえば、碌な目に遭わんぞ)
 海斗は反射的に走り出した。看護師から注意されたが、右から左に流れていった。ロビーで、三人は検査が終わるのを、呑気に談笑しながら待っていた。
「二人が攫われた」
 海斗が告げると、美月と日奈は困惑したが、一朗太は瞬時に理解した。
「保健衛生局を動かして病院を指定。大胆な犯行。状況は黒を示している。一応、聞くが犯人に心当たりはあるか?」
「どうなんだカオナシ?」
(犯人が人間なのは間違いないが、どこに向かっているかならわかる。ニューイーラ本社ビルだ)
 心の中では、まだ無邪気に信じたいという思いがあったが、希望は粉々に砕かれた。酷い裏切りにあったような気持ちだ。
「ニューイーラ本社ビルだ」
「すぐに行こう」美月が促した。
 拓郎の件があり、三人はすぐに動いた。状況の変化についていけない日奈は、若干遅れた。病院を出てすぐにタクシーを捕まえて、ニューイーラ本社ビル前にやってきた。
 知っていたつもりだったが、改めて間近で見ると、本当にでかい。街のシンボルとして慕われる威容だ。
「どこにいるんだ?」海斗は訊いた。
 部外者が簡単に入れるような施設ではないことぐらいは知っている。仮にそれが許されたとしても、見つけ出すまで時間がかかる。海斗からすれば、信じられないぐらいの部屋数があるのだから。
(地下に居る)
 海斗はカオナシの言葉を告げて、地下駐車場へと向かった。
「ここにいるのか?」海斗が訊いた。
(ここよりもっと地下だな)
 カオナシの言葉を伝えると、一同の視線は足元のアスファルトに向けられた。軽く蹴ってみたが、普通に硬い道路だ。
「仕事の関係で何度かこのビルにやって来たことはあるが、見取り図では、ここより下はないはずなんだが」一朗太が言った。
「本当にここから下なんだな?」海斗は確認を取った。
(間違いなくここより下だ。父母神に誓ってもいいぞ)
「いや。いい」カオナシの覚悟を感じ取れた。「エレベーターで行けるのか?」
「仕事で訪れた時は、ここより下まで行けるボタンはなかったぞ。どこかに秘密のエレベーターがあるのかもしれないがな」
「それって壊すしか、選択肢がなくね?」
 こうしている間にも、ゴンとアマネがどうなっているのか不明である以上、悠長に探している暇はない。本当に秘密のエレベーターがあるのなら、外部からやってき一般人の目に留まるような場所にあるとも思えない。
「そうなるだろうな」
「カオナシ。力を貸してくれ」
 不思議なことに、この決断を下すのに躊躇いはなかった。
(よかろう)
「待て」一朗太が制止した。「本気でやる気か?その意味を理解しているのか?」
 意味がわからず、海斗は首を傾げた。
「お前がやろうとしているのは、反逆行為だ。手を出したら最後、街に居られなくなるぞ。引き返すなら、今が最後のチャンスだ。二人を見捨て、何も聞かなかった。何も見なかったことにすれば、元の生活に戻れるぞ」
「悪い。そいつはできない」
 二人は大切な友人だ。そしてニューイーラはもう信用できない。この時の海斗は、自分は正しいことをやっているのだと思っていた。だが、その気持ちはすぐに揺らぐ。
「二人を助ければ――ちゃんと助けられる保証もない。徒労に終わって、二人の人生を潰すかもしれないぞ」一朗太は、美月と日奈に顔を向けた。
「俺が決めたことなのに、二人は関係ないだろ」
「主人公に都合良く展開する少年漫画じゃあるまいし、そんな甘い考えが通じるわけないだろ。ただでさえ、街全体が敏感になっているのに、反逆者の身内がいるんだぞ。警察から事情聴取を受けるのは間違いないし、世間から白い目で見られるぞ。普通の生活は送れなくなるぞ。改めて尋ねる。二人の人生を潰す覚悟はあるか?」
(海斗。私としては、二人を助けて欲しい)
 一朗太に指摘され、カオナシに懇願され、簡単に決められなくなった。
 二人の妹の未来を明るく照らすために頑張ってきたのだ。それを兄の身勝手で、暗いものにしたくない。
 二人の友人は、ここまで沢山のことを教えてくれたし、色々な場面で助けてくれた。二人を放って自分だけ安穏と過ごせない。何より、アマネとは約束したのだ。
 自分がやろうとしていることへの結果を知り苦悩する。
「あのさぁ」美月は呆れ顔だった。「私たちのことなのに、どうして私たちの意見を無視して悩むの?私たちの意見をちゃんと聞いてよ」
「じゃあ、どうしたいんだ?」一朗太が訊いた。
「お兄ちゃんが助けたいと思うなら、助けようよ。私たちはその結果を受け入れるよ」
「簡単に言うな。お前たちの人生が潰れるんだぞ」
「だからさぁ。お兄ちゃんが街を追放されるなら、私たちも一緒に行くって言ってるの。わかる?参謀殿」
 海斗は美月を凝視した。「俺はお前たちの明るい未来を潰したくない」
「明るい未来って何?私たちは黒い残暑で知ってるよね?当たり前の日常は、唐突に終わることを。しかも今は異世界に居るんだよ。明日どころか、今日どうなるのかの保証もない。わからないのなら、後悔しない選択をしたい。お兄ちゃんが追放されるなら、私たちは一緒に行く。ねえ日奈」
「お兄ちゃんとお姉ちゃんと離れ離れになるぐらいだったら、私も一緒に行く」
「その結果、他の家族や友達と二度と会えなくなるかもしれないぞ」一朗太は訊いた。
「それなら一度味わった。そしてあれから成長した。今なら耐えられる。耐えられないのは、お兄ちゃんと、離れ離れになること。信じて待ち続けるのは、本当に辛い日々だった。あの日々をまた味わうぐらいなら、一緒に行く」
「ごめんなぁ。俺のせいで辛い思いをさせて」
「無事に戻ってきて、平手打ちを出来たから、それで許す。それよりも、感謝の言葉を聞きたいな」
「ありがとう。おかげで、決心がついた」
 美月は満足気に頷いた。
「妹たちに覚悟があるのなら、もう何も言わない。俺は最初から、地獄の底まで付き合うつもりだったしな。やっちまえ」
 海斗はカオナシの力を使って、黒い巨大ドリルを出現させた。掘削作業をするのなら、これ以上に優れた道具は存在しないだろう。高速回転を始めたドリルは、アスファルトに穴を穿つ。
「どれぐらい掘ればいいんだ?」
 順調に掘り続けるドリルを見ながら、カオナシに訊いた。
(十メートルぐらいだな)
 エレベーターがチンッ!と鳴り、サラリーマンが降りた。明らかに業者とは異なる海斗たちが、土木作業をしていることにぎょっと驚いた。
「あんたたち何をしているんだ?」
 近づいてきたサラリーマンは、途中でアスファルトの中に、足首まで浸かった。一朗太の力だ。
「悪いね。邪魔しないでくれ」
 サラリーマンは必死に、アスファルトの中から抜け出そうとするが、泥状態になっていたアスファルトは、元の状態に戻っており抜け出せない。スマートフォンを取り出して、どこかに連絡をする。
「急げ。防衛軍でもやってきたら面倒だぞ」一朗太が急かした。
「そろそろか?」
 カオナシに訊いた。
(もうちょっとだ)
 階段へと続く扉が開いた。制服を着た警備員がやってきた。海斗たちの掘削作業を見て、目が全開まで開いた。すぐに通信機を使ってどこかへ連絡してから、海斗たちに近づこうとするが、サラリーマンと同じ状態になった。
「今すぐ馬鹿な真似は止めろ。今なら厳重注意で済まされるぞ」
「んなわけあるか」
 諭す警備員に一朗太は突っ込んだ。間違いなく警察に捕まるし、損害賠償請求される。
 続々と警備員がやって来るのだが、一朗太の力で、アスファルトから抜け出せなくなった。口々に海斗たちを説得するのだが、誰も聞く耳を持っていない。
(もう大丈夫だ)
 ドリルは一瞬で消えた。海斗たちからすれば見慣れた光景であるが、全く知らないサラリーマンたちは素直に驚いた。
 海斗たちは穴の底を覗き込んだ。普通に考えれば、何もなくて真っ暗なはずなのだが、明るかった。光源があるのは間違いなかった。加えて、けたたましい音が、耳朶に届いた。
 地下にある影響なのか、ニューイーラの黒い部分を見たような気がした。
 海斗は、カオナシの力を使って、天井から地下まで伸びる細長い棒を出現させた。それに掴まって地下まで滑り落ちる。
 鬼が出るか、蛇が出るか、誰にもわからない。
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