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石に口を漱ぎ流れに枕す・一
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ああ、頭が痛い。
そんなことを思いながら、ウグイスがささやく声と、破れっぱなしの障子の隙間から漏れ出る日差しで目が覚めた。
昨日ぶりの二日酔いだ。間違いなく昨晩に深酒をやりすぎたせいだろう。よくわからん男に悪態をついたまではなんとなく覚えているのだが、着流しの裾には吐しゃ物が跳ねたてついた汚れがある。これは記憶にない。ああ、頭が痛い。
なんとも寝覚めの悪い日だが、日差しを浴びれば多少はマシになる。重い体を起こして、戸を開けた。
すると、見知らぬ少女がぼうっと突っ立っている。
年は10ぐらいだろうか。身なりはここいらにいるような汚い着物を雑に着ているが、顔立ちはどこか上品さを感じる。
勉学や武術の稽古と、旗本人生を謳歌していた幼いころ、駿河台の剣術道場に通っていた時に、よく見かけた道場主の娘に似ている。淡い初恋を感じた相手にどことなく似ていたのも、そう感じさせた理由の一つかもしれない。
「おい、名は何という。どこの者だ」
髭が伸び放題の顎に手をやりながら聞いたが、少女は何も答えない。
それどころか、変なものを見るかのように俺の顔を見ては、手にした小汚い半紙に目をやっている。数寸経つたびにその行為を繰り返す。
「ああ、たー?」
顔を見ては紙を見るの動作を数回繰り返したのち、言葉にならない言葉で少女はそう言った。なんて言ったのかは二日酔いだからではなく、本当にわからない。
そして手にしている半紙を俺に差し出してきた。俺は身構えたが、ゆっくりと受け取ると、紙には俺の人相絵が書かれていた。月代をそり上げ、眉も鋭角に整えているなど、伸び放題の髪を髷風に紐で結い、髭も眉も伸び放題の今の俺の身なりこそは違えど、目元、鼻、口元はまあ俺だ。十代後半ぐらいのころはこんな風にしていた。
「あ、ああ、た?」
「確かにこれは若いころの俺だろう。どこでこれを手にした」
「いー、いああい」
「いや、何を言ってるか分からんぞ。どこで、これを、手にした、と聞いている」
「いああい」
押せども引けども少女は舌ったらずの言葉で首を横に振り続けている。
弱った。「知らない」とでも言いたいのだろうが、会話にならない。空を見上げると太陽が勢いよく登ろうとしている。もっと遅い時間に起きたと思っていたが、影の長さから察するにそれなりに早い時間だったようだ。
とはいえ、人通りが少ない長屋住まいでも見知らぬ少女と押し問答している姿は、傍から見れば目立つだろう。
「とりあえず家に入れ。そこで突っ立っていると変な風に……」
会話にならない以上、腰を据えて話を聞かなければならない。そう思い少女の手を握り、家の中に引き入れようとした時だった。
ふと路地の先を見ると、少女の顔越しに見知らぬ男二人が懐に手をやりながら近づいてくるのが見えた。
彼らは懐をまさぐり、手を引き抜こうとした瞬間、朝日に照らされて鈍い光がちらっと見えた。
「伏せいっ!」
明らかにおかしい。俺は少女の手を力強く握り、そのまま地面へと突っ伏させ、俺も地面に伏せた。
その刹那、背後で何かが連続して柱に小気味よく突き刺さる音がした。振り返っていないためよくわからないが、きっと飛び道具か何かだろう。
賭博に荒事ばかりの人生だ。恨みを買われる覚えがないわけではない。それに鮫河橋は身寄りの無い無頼漢が集まる町だ。強盗の類がいても何ら不思議ではない。
這いつくばりながらすぐさま腰に手をやり、鯉口を切るとハバキがかちゃりと鳴る。刀の柄を握った。
「恨みは無いが死んでもらう」
二人組のうち、先だって切りかかってきた小柄な一人がそう言ったような気がした。実際にはそんなことを言っていないのかもしれないが、放ってきた暗器、そして小男が大上段に構えた太刀はそう語っていた。
彼と比べると俺の方が頭一つ大きいくらいかもしれない。歩幅は小さく、それだけにこちらが刀を構えなおすだけの時間はしっかりと残されている。
すぐさま中腰になり刀を構え、刃で相手の一撃を受け止めた。
男のひと振り目は思っていたよりも重かった。しかし、この程度の一撃であればはっきりって造作もない。
俺は膝や足首の無駄な力を省きながら、下半身全体を使って相手の力を受け流す。そして、左手を軸に梃子のように右手を起こしてやる。
これだけで、相手がかけてきた力は刀の先へと移動していく。このくらいの喧嘩はいくらでも経験している。やはり、日ごろの鍛錬が生き死にに直結する世界だ。今でこそサボっているが、幼少期の師匠には感謝せざるを得ない。
相手の男も必死に食らいつこうと重心を移動させ、両腕に力を込めようとする。渓谷の急流に逆らえない木の葉のように、彼の刀の切っ先は刀身から滑り落ち、地面にめり込んでいく。
俺は体勢を崩し、前のめりとなった男の腹に蹴りを一発お見舞いしてやった。面白いように後方へと吹っ飛んでいく。すぐさま次の男に備えた。
「おおおおおお!」
憤怒の奥底に焦りも見せた面持ちで襲い掛かってくる大男。凸凹二人組は命知らずではあれど、決して剣術の達者な男ではないのだろう。
先ほどの小男に比べ、振り下ろしてきた刀の切っ先は遅く、腕の振りも粗い。体格に身を任せた荒事ばかりを行ってきたと、刀の振りだけで理解できた。
俺は短く息を吐き、すぐさま半身になって一撃を交わし、横合いから大男の刀目掛けて振りぬいた。
小男と同じように交わされた刃は地面に突き刺さった。勝負ありだ。
刀は刃こそ頑強だが、棟や平の部分は衝撃に弱い。暗器を持っているとはいえ、これだけの近い距離では何もできない。だからこそ、刀だけでも折ってやれば逃げ帰ってくれるだろう。ほんの一瞬で二人ともやっつけたのだ。強盗の類ならそれぐらいで勘弁してやってもいい。それに殺しもせずに済む。俺はそう思っていた。
「ふんっ」
だが、現実はそう上手くいかないらしい。
勢いよくへし折られた刃は、地面で大きく跳ね、大男ののど元に深く突き刺さった。
呻きながら崩れ落ちる大男。横でうずくまっていた小男も、蹴られた位置が悪かったみたいだった。懐に隠していた暗器が運悪く腹に突き刺さったようで、大量の血が路地にあふれ出ている。
「ば、ばか、死ぬんじゃねえよ!」
一瞬正気を失いハッとなったが、急いで奴らの着流しを破り、傷口を止血してやった。だが、いずれも刺された場所が悪かったようだ。数分も経たないうちに男たちは、俺の両腕に抱かれながら呼吸を止めた。息の根を止めたのは連中だが、この時、息が詰まりそうだったのはお前らじゃない。俺だ。
遺体が冷たくなっていくうちに、背中にじっとりとした嫌な汗をかいた。春の暖かな風すらも、上州から吹き晒すからっ風のように冷たく感じてしまう。
本当の意味で弱った。鮫河橋で辻斬りをやるなんて奴がまともな身分ではないのは明らかだ。喧嘩の類なら番所に行くこともないだろうが、殺しとなれば話は変わってくる。
障子の穴から、こちらを見る少女に気が付いた。口を小さく空けながら呆然と俺と遺体の方を眺めている。
こいつさえいなければ。ほんの一瞬そう思ったが、不思議と怒りは沸かなかった。
「お、おい、早く手桶だ。あそこにある井戸から水を汲んできてくれ!」
「あい」
俺がそう呼びかけると少女はあどけなく笑い、戸口に置いてある古ぼけた手桶を両手で抱え、井戸の方へと走って行った。
行き場のない怒りをぶつけるよりも前に、血みどろのここいらを綺麗にしなきゃいけない。死体は馴染みの寺にでも放り投げておけば勝手に処分してくれるだろう。どうせこいつらも身寄りの無い浪人だ。死んだところで悲しむものはそういないだろうし、むしろ新鮮なうちに引き渡せば数日は食べていける。善は急げだ。
止血を解き、雑巾で彼らの傷口を拭うと長屋の中に押し込めた。遺体と過ごすのは不本意だが仕方がない。大八車と、運ぶときに遺体を隠すためのぼろ布を借りてくるまではここに置いておくしかないだろう。
そうやって大男を担ごうとした時だ。彼の懐から、巾着がじゃらりと音を立てながら落ちてきた。
「……迷惑料だ。いただいておくぞ」
それなりに重量感を持った音だった。銅銭とはいえどもそれなりの額だ。遺体と合わせてこのひと月分の家賃と食費が浮く。儲けものだと思いながら二人の遺体を長屋に放り込み、巾着を手にした。そこに描かれた柄を見たら、俺の血の気が一瞬で引いていくのが手に取るようにわかってしまった。
紫地のなめらかな肌触りの絹地には、金糸で刺繍された無数の葵紋。自然と腰が抜け、遺体の脇で無様にしりもちをついてしまう。
葵紋を見て一瞬で頭に思い浮かんだのは将軍家。もしくは東に数町ほど行った場所にある紀州藩。もしくは脇を固める将軍家の御恩を賜る譜代連中か。
脇で横たわる遺体の顔立ちや、さきほどの武芸の腕を見る限り、まず訓練を積んだ大身旗本とは到底思えない。そうなると、どこぞのお偉方に命じられたお粗末な暗殺者か。旗本殺しでないとなれば多少はマシかもしれない。いや、そんなことはないな。
いずれにせよ、困った。困った。本当に困った。荒事でも問題ごとは多数起きたが、これほど致命的なものはない。頭が真っ白になる。
「いっそ、やってしまうか」
「あいお?」
そんな折、よたよたと手桶を抱えた少女が戻ってきた。うまく水が入れられなかったらしい。着物の両袖は水浸しだ。
きっと彼らの狙いはこの子だろう。なら、こんなことになってしまった元凶を正せば遺体3つと銅銭が手に入る。
「いや、なんでもないさ。それよりも、血が付いている場所を、その杓で流してくれ。俺はここいらを掘り返して血の跡を隠す」
「あい」
「あああい」とか抜かしていたさきほどとは打って変わって会話がまともに通じる。こいつ、本当に口がきけないのだろうか。そんな疑問を抱えながら、長屋の中から日雇いで使っていた小さい鋤を取り出し、穴を掘った。
唯一喜ばしいのは、連中がやってきたのが明朝だったことだな。こうして派手な荒事を誰にも見られずに済んだ。
もっとも、連中がここに来なかったことに越したことはないのだが。間違いなく俺は平静を失っている。そんなことを思いながら穴掘りにいそしんだ。
そんなことを思いながら、ウグイスがささやく声と、破れっぱなしの障子の隙間から漏れ出る日差しで目が覚めた。
昨日ぶりの二日酔いだ。間違いなく昨晩に深酒をやりすぎたせいだろう。よくわからん男に悪態をついたまではなんとなく覚えているのだが、着流しの裾には吐しゃ物が跳ねたてついた汚れがある。これは記憶にない。ああ、頭が痛い。
なんとも寝覚めの悪い日だが、日差しを浴びれば多少はマシになる。重い体を起こして、戸を開けた。
すると、見知らぬ少女がぼうっと突っ立っている。
年は10ぐらいだろうか。身なりはここいらにいるような汚い着物を雑に着ているが、顔立ちはどこか上品さを感じる。
勉学や武術の稽古と、旗本人生を謳歌していた幼いころ、駿河台の剣術道場に通っていた時に、よく見かけた道場主の娘に似ている。淡い初恋を感じた相手にどことなく似ていたのも、そう感じさせた理由の一つかもしれない。
「おい、名は何という。どこの者だ」
髭が伸び放題の顎に手をやりながら聞いたが、少女は何も答えない。
それどころか、変なものを見るかのように俺の顔を見ては、手にした小汚い半紙に目をやっている。数寸経つたびにその行為を繰り返す。
「ああ、たー?」
顔を見ては紙を見るの動作を数回繰り返したのち、言葉にならない言葉で少女はそう言った。なんて言ったのかは二日酔いだからではなく、本当にわからない。
そして手にしている半紙を俺に差し出してきた。俺は身構えたが、ゆっくりと受け取ると、紙には俺の人相絵が書かれていた。月代をそり上げ、眉も鋭角に整えているなど、伸び放題の髪を髷風に紐で結い、髭も眉も伸び放題の今の俺の身なりこそは違えど、目元、鼻、口元はまあ俺だ。十代後半ぐらいのころはこんな風にしていた。
「あ、ああ、た?」
「確かにこれは若いころの俺だろう。どこでこれを手にした」
「いー、いああい」
「いや、何を言ってるか分からんぞ。どこで、これを、手にした、と聞いている」
「いああい」
押せども引けども少女は舌ったらずの言葉で首を横に振り続けている。
弱った。「知らない」とでも言いたいのだろうが、会話にならない。空を見上げると太陽が勢いよく登ろうとしている。もっと遅い時間に起きたと思っていたが、影の長さから察するにそれなりに早い時間だったようだ。
とはいえ、人通りが少ない長屋住まいでも見知らぬ少女と押し問答している姿は、傍から見れば目立つだろう。
「とりあえず家に入れ。そこで突っ立っていると変な風に……」
会話にならない以上、腰を据えて話を聞かなければならない。そう思い少女の手を握り、家の中に引き入れようとした時だった。
ふと路地の先を見ると、少女の顔越しに見知らぬ男二人が懐に手をやりながら近づいてくるのが見えた。
彼らは懐をまさぐり、手を引き抜こうとした瞬間、朝日に照らされて鈍い光がちらっと見えた。
「伏せいっ!」
明らかにおかしい。俺は少女の手を力強く握り、そのまま地面へと突っ伏させ、俺も地面に伏せた。
その刹那、背後で何かが連続して柱に小気味よく突き刺さる音がした。振り返っていないためよくわからないが、きっと飛び道具か何かだろう。
賭博に荒事ばかりの人生だ。恨みを買われる覚えがないわけではない。それに鮫河橋は身寄りの無い無頼漢が集まる町だ。強盗の類がいても何ら不思議ではない。
這いつくばりながらすぐさま腰に手をやり、鯉口を切るとハバキがかちゃりと鳴る。刀の柄を握った。
「恨みは無いが死んでもらう」
二人組のうち、先だって切りかかってきた小柄な一人がそう言ったような気がした。実際にはそんなことを言っていないのかもしれないが、放ってきた暗器、そして小男が大上段に構えた太刀はそう語っていた。
彼と比べると俺の方が頭一つ大きいくらいかもしれない。歩幅は小さく、それだけにこちらが刀を構えなおすだけの時間はしっかりと残されている。
すぐさま中腰になり刀を構え、刃で相手の一撃を受け止めた。
男のひと振り目は思っていたよりも重かった。しかし、この程度の一撃であればはっきりって造作もない。
俺は膝や足首の無駄な力を省きながら、下半身全体を使って相手の力を受け流す。そして、左手を軸に梃子のように右手を起こしてやる。
これだけで、相手がかけてきた力は刀の先へと移動していく。このくらいの喧嘩はいくらでも経験している。やはり、日ごろの鍛錬が生き死にに直結する世界だ。今でこそサボっているが、幼少期の師匠には感謝せざるを得ない。
相手の男も必死に食らいつこうと重心を移動させ、両腕に力を込めようとする。渓谷の急流に逆らえない木の葉のように、彼の刀の切っ先は刀身から滑り落ち、地面にめり込んでいく。
俺は体勢を崩し、前のめりとなった男の腹に蹴りを一発お見舞いしてやった。面白いように後方へと吹っ飛んでいく。すぐさま次の男に備えた。
「おおおおおお!」
憤怒の奥底に焦りも見せた面持ちで襲い掛かってくる大男。凸凹二人組は命知らずではあれど、決して剣術の達者な男ではないのだろう。
先ほどの小男に比べ、振り下ろしてきた刀の切っ先は遅く、腕の振りも粗い。体格に身を任せた荒事ばかりを行ってきたと、刀の振りだけで理解できた。
俺は短く息を吐き、すぐさま半身になって一撃を交わし、横合いから大男の刀目掛けて振りぬいた。
小男と同じように交わされた刃は地面に突き刺さった。勝負ありだ。
刀は刃こそ頑強だが、棟や平の部分は衝撃に弱い。暗器を持っているとはいえ、これだけの近い距離では何もできない。だからこそ、刀だけでも折ってやれば逃げ帰ってくれるだろう。ほんの一瞬で二人ともやっつけたのだ。強盗の類ならそれぐらいで勘弁してやってもいい。それに殺しもせずに済む。俺はそう思っていた。
「ふんっ」
だが、現実はそう上手くいかないらしい。
勢いよくへし折られた刃は、地面で大きく跳ね、大男ののど元に深く突き刺さった。
呻きながら崩れ落ちる大男。横でうずくまっていた小男も、蹴られた位置が悪かったみたいだった。懐に隠していた暗器が運悪く腹に突き刺さったようで、大量の血が路地にあふれ出ている。
「ば、ばか、死ぬんじゃねえよ!」
一瞬正気を失いハッとなったが、急いで奴らの着流しを破り、傷口を止血してやった。だが、いずれも刺された場所が悪かったようだ。数分も経たないうちに男たちは、俺の両腕に抱かれながら呼吸を止めた。息の根を止めたのは連中だが、この時、息が詰まりそうだったのはお前らじゃない。俺だ。
遺体が冷たくなっていくうちに、背中にじっとりとした嫌な汗をかいた。春の暖かな風すらも、上州から吹き晒すからっ風のように冷たく感じてしまう。
本当の意味で弱った。鮫河橋で辻斬りをやるなんて奴がまともな身分ではないのは明らかだ。喧嘩の類なら番所に行くこともないだろうが、殺しとなれば話は変わってくる。
障子の穴から、こちらを見る少女に気が付いた。口を小さく空けながら呆然と俺と遺体の方を眺めている。
こいつさえいなければ。ほんの一瞬そう思ったが、不思議と怒りは沸かなかった。
「お、おい、早く手桶だ。あそこにある井戸から水を汲んできてくれ!」
「あい」
俺がそう呼びかけると少女はあどけなく笑い、戸口に置いてある古ぼけた手桶を両手で抱え、井戸の方へと走って行った。
行き場のない怒りをぶつけるよりも前に、血みどろのここいらを綺麗にしなきゃいけない。死体は馴染みの寺にでも放り投げておけば勝手に処分してくれるだろう。どうせこいつらも身寄りの無い浪人だ。死んだところで悲しむものはそういないだろうし、むしろ新鮮なうちに引き渡せば数日は食べていける。善は急げだ。
止血を解き、雑巾で彼らの傷口を拭うと長屋の中に押し込めた。遺体と過ごすのは不本意だが仕方がない。大八車と、運ぶときに遺体を隠すためのぼろ布を借りてくるまではここに置いておくしかないだろう。
そうやって大男を担ごうとした時だ。彼の懐から、巾着がじゃらりと音を立てながら落ちてきた。
「……迷惑料だ。いただいておくぞ」
それなりに重量感を持った音だった。銅銭とはいえどもそれなりの額だ。遺体と合わせてこのひと月分の家賃と食費が浮く。儲けものだと思いながら二人の遺体を長屋に放り込み、巾着を手にした。そこに描かれた柄を見たら、俺の血の気が一瞬で引いていくのが手に取るようにわかってしまった。
紫地のなめらかな肌触りの絹地には、金糸で刺繍された無数の葵紋。自然と腰が抜け、遺体の脇で無様にしりもちをついてしまう。
葵紋を見て一瞬で頭に思い浮かんだのは将軍家。もしくは東に数町ほど行った場所にある紀州藩。もしくは脇を固める将軍家の御恩を賜る譜代連中か。
脇で横たわる遺体の顔立ちや、さきほどの武芸の腕を見る限り、まず訓練を積んだ大身旗本とは到底思えない。そうなると、どこぞのお偉方に命じられたお粗末な暗殺者か。旗本殺しでないとなれば多少はマシかもしれない。いや、そんなことはないな。
いずれにせよ、困った。困った。本当に困った。荒事でも問題ごとは多数起きたが、これほど致命的なものはない。頭が真っ白になる。
「いっそ、やってしまうか」
「あいお?」
そんな折、よたよたと手桶を抱えた少女が戻ってきた。うまく水が入れられなかったらしい。着物の両袖は水浸しだ。
きっと彼らの狙いはこの子だろう。なら、こんなことになってしまった元凶を正せば遺体3つと銅銭が手に入る。
「いや、なんでもないさ。それよりも、血が付いている場所を、その杓で流してくれ。俺はここいらを掘り返して血の跡を隠す」
「あい」
「あああい」とか抜かしていたさきほどとは打って変わって会話がまともに通じる。こいつ、本当に口がきけないのだろうか。そんな疑問を抱えながら、長屋の中から日雇いで使っていた小さい鋤を取り出し、穴を掘った。
唯一喜ばしいのは、連中がやってきたのが明朝だったことだな。こうして派手な荒事を誰にも見られずに済んだ。
もっとも、連中がここに来なかったことに越したことはないのだが。間違いなく俺は平静を失っている。そんなことを思いながら穴掘りにいそしんだ。
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