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第一話「追跡」
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感情というものは複雑で難しいものだ。よく、『喜怒哀楽』という言葉で感情を表すが、実際にはもっと多くの感情が存在しているだろう。それこそ、言葉では言い表せない様な複雑な感情が。怒りを遥かに凌駕する感情、喜びという言葉では足りない程の大きな感情、愛憎が入り乱れた形容し難い感情。
いずれにせよ感情というものは、かけがえのない大切なものである事には間違いない。特に我々『魔女』にとっては、絶対に無くてはならないものだ。
強い感情があってこそ初めて叶えられるものがある。しかし感情が無ければ、叶える事など出来ないだろう。いや、叶えようとも思わないだろう。
叶えなければ・・・。もう一度、貴女に会う為に・・・・・・。
とある街の中に、黒い柵で囲われた孤児院があった。中世を思わせる様なその建物には、身寄りの無い幼い子供達が保母達と共に住んでいる。皆、保母達を親とし、共に過ごす者達を家族と呼び、毎日和気藹々と平和に暮らしていた。
ただ一人を除いては・・・。
少女には誰一人近寄らない。部屋も少女だけ一人部屋。保母達も放任している。何故そんな状況になっているのか。
皆、少女を恐れていた。その可憐さ、美しさとは裏腹に、内に膨大な怒りと憎しみを抱えていた。保母達ですらまともに近付けない。大人ですら彼女の事を恐れているのだ。皆、「気が付けば意識を失っていた。恐怖が頭から離れない。」と口にする。だから少女には、最低限の接触しかしない。出来る限り遠ざけている。ただ一人、ある保母を除いては・・・。
彼女は、少女に唯一近付くことの出来る人間だった。彼女の前では、少女も少しだけ心を開く。彼女はその少女の専属世話係として、少女が六歳の時から世話をしていた。
しかし彼女はある日、突然孤児院を去った。少女が十歳になる直前で。
少女はまた、一人になった。だが、悲しそうな表情は一切しない。別に悲しみを隠している訳ではなく、本当に悲しくないからしないだけである。
当然だ。少女には感情が無いのだから。残ったのは、怒りと憎しみの感情だけなのだから。それ以外の感情はもう、失われてしまったのだから・・・。
白銀の色をした美しい髪の毛。少し傷んでボサボサになってしまっているその髪の毛は、後少しで引きずりそうな程伸びている。まるで宝石のパイロープガーネットを思わせるかの様な、美しい真紅の瞳。孤児院で配られている素朴な白いワンピースを着た、美しく可憐な少女。
彼女の名は『エミー』。感情を失ってしまった少女である。
孤児院では、天気の良い日は昼になると皆公園に出て遊ぶ。しかしエミーは周りの子供達に混ざる事無く、一人隅で座り込んでいた。それがいつもの彼女の過ごし方。建物と、敷地を囲む柵の丁度角の部分で、ただ何をする訳でもなく過ごす。以前まではずっと顔を沈めていたが、最近は顔を上げている事が多い。とは言っても、何を見る訳でもなく、ただ柵の外をぼーっと見つめているだけで、焦点も合っていない様子なのだが。行き交う人々は多く居れど、エミーが関心を持つ事は無い。もし関心を持つとしたら・・・。
それは『ハヴァー』だけだろう。
エミーの母『アン』を殺した女。エミーが七歳の時に、復讐を誓った相手。かつて専属世話係だった『ミア』から貰ったハヴァーの写真はボロボロになってしまいもう無いが、今でもその顔はエミーの脳裏に焼き付いている。
灰色の髪の毛で片目が覆われていて、その眼はまるでブラックスピネルの様な漆黒をしている。耳には黄色い宝石で出来たピアスをしており、息を呑むほどの美しい女性。
その姿を、エミーは一時たりとも忘れる事無く今まで過ごしてきた。いつか復讐を果たす為に。
孤児院の前にある道を沢山の人が行き交う。色んな人がいる。だが、そのどれもが、エミーの求めている人とは違う。
敷地の中央部分に当たる公園を挟んで、エミーは隅の方からぼーっと柵の外を見つめ続ける。敷地内の両脇には幾つか木々が立っており、エミーはいつも木々の生えていない門の部分から外を眺めていた。木々が視界の邪魔をせず、外が良く見えるその部分。しかし、元々何も考えず、ただ単に眼をそちらに向けているだけのエミーにとっては、わざわざ外の道が比較的見えやすくなっている門の部分から眺める必要などまるでないのだが・・・。だが、心の奥底、無意識の中でエミーは探していたのだ。復讐を誓った相手を。脳裏に焼き付いたその顔を。
今日も、いつもの様に外の道を眺め続ける事、小一時間。特に変化は無い。いつもと大して変わらない光景が流れ続けている。が・・・・・・。
その時・・・・・・。
沢山の人が行き交うその道に、ただ一人、立ち止まっている人が居た。黒いコートを着て、フードを深く被っている、高身長の人が遠くに立っている。孤児院との距離を考えれば、とても顔が認識出来る範囲では無い。
だが、何の因果か、今まで焦点の合っていなかった様なエミーの眼は、その人物にのみ急速に向けられた。
エミーはそれが誰なのかを直ぐに理解した。顔はよく見えていない。例えどれだけ眼が良くても、フードを深く被っている為、個人を特定する事など出来ないはずだ。しかし、エミーには確固たる確信があった。空気の流れ、通り過ぎる人々の息遣い、会話、心臓の音。空間に流れる目に見えない何かが、今のエミーには見えていた。そこにある全てを感じ取っていた。
瞬間、黒いコートを着たその人物が孤児院から遠ざかる様に走り出す。
「ハ・・・ヴァァァァァァァァァァァ!!!!!」
突然エミーは立ち上がり、叫ぶ。すると、その瞬間・・・。
その声に呼応するかのように、辺り一帯の大気が震え出す。先程までの心地良いそよ風がまるで嘘だったかのように、嵐の様な暴風に豹変する。太陽は一瞬にして雲に覆われ、あらゆるものに影が差す。
「きゃーーーー!」
「うわぁーーーー!」
嵐の様な暴風と体が痺れる様な大気の震えに、人々が悲鳴を上げる。まともに立ち上がれる人間は誰一人として居らず、皆その場にしゃがみこみ、何かそこら辺にある物にしがみつこうとする。
しかし、そんなものをまるで感じさせないかの様な出で立ちで、エミーは走り出した。少女、いや、人間とは思えない程の驚異的な速さで。まるで風に乗るかの様に。
エミーはものの数秒で、孤児院と外を分ける黒い柵の門にまで辿り着く。エミーは立ち止まる事無く黒い柵を手で薙ぎ払う。鉄製の柵は、まるで細い枝の様に簡単に壊れた。エミーは孤児院の外に出て、逃げていった人物を道なりに追って行く。
エミーにはもはや、周りが一切見えていなかった。今エミーの視界に入るのは、前を走るその人物だけ。
しかし、その人物もまた、驚異的な速さでエミーから逃げていた。その速さはエミーとほぼ同等か、中々距離が縮まらない。二人は風を切りながら、風を超える速さで街を駆け抜ける。
誰一人として二人を視認出来る者はいなかった。ただでさえ眼を開けられない程の暴風と大気の震えに加え、その驚異的な速さを捉える事の出来る者などいないだろう。
どれだけ走ったか。前を行く黒いコートの人物は突然道を外れた。
その人物は、建物と建物の間にある狭い隙間に逃げ込んだ。エミーも同様にその隙間へと入り込んで行く。
その道は、ずっと続いていた。本来なら有り得ない長さで。周りには何も無く、本来ある筈の両側の壁も消えている。エミーとコートを着た人物は、まるで別次元の様な真っ白い空間を走っていた。
しかし、エミーには前を走る人物以外何一つとして見えてはいない。ただ、怒りと憎しみのままに走り続けていた。
少しずつ、少しずつ、距離が縮まっていく。気が付けばエミーは、黒いコートに手の届く範囲にまで追いついていた。
エミーは手を伸ばし、黒いコートを掴む。しかし、コートを捨て、その人物は走り続ける。
その瞬間、見えた。その人物の全貌が。美しく輝く灰色の髪。キラキラと光る黄色いピアス。首筋程の髪は少し跳ねている。
その時彼女はエミーの方をチラリと振り向いた。髪の毛で片目が隠れたその顔はとても美しく、しかしどこか悲しそうな表情だった。その漆黒の瞳には、怒りと憎しみに歪むエミーがしっかりと映り込んでいた・・・。
突然、彼女はまるで空気に溶けるかの様に姿を消した。エミーは懸命に手を伸ばす。決して逃がさない為に。だが、もう遅かった。手が届きそうなところまで近付けたが、しかし、その手が届く事は無かった。
「・・・・・・・・・・・・・・・ッ!!」
気が付けばエミーは、彼女が残した黒いコートを握り締めたまま立ち尽くしていた。
さっきまでの追跡が嘘だったかのように、エミーは静まり返る。あと少しだったのに・・・。その表情には、そんな悔しさが滲み出ている。
その瞬間、周りの景色がエミーの瞳に一斉に入り込んでくる。さっきまでの白い空間が溶け出すかの様に。
サーーーーーーーーーーーーーーー・・・・・・・・・・・・
そこは、エミーの知らない世界だった。レンガで造られた建物が並び、見た事の無い花々が、道横に沢山置いてある鉢に咲き誇っている。そこは、どこか幻想的な石造りの美しい街だった。
エミーのすぐ傍をスっと影が通る。ハッとしてエミーが空を見上げると、そこには箒に乗って飛んでいる美しい女性がいた。
「ハッ・・・・・・!」
エミーは慌てた様に周りを見渡す。数人の人物が目に飛び込んでくる。その誰もが、宝石の様にキラキラと輝く瞳を持った美しい女性だった。
エミーにはまるで状況が把握出来ないでいた。思い返せばさっきまでの事も、まるで嘘かのような出来事だった。怒りと憎しみに我を忘れていたエミーだが、いざ冷静になって考えてみれば、普通は有り得ないような事が連続して起きていたのだ。
瞬間、エミーに得体の知れない感情が溢れ出す。何故だか涙が溢れ出し、止まらなくなる。エミーは自分が泣いている理由も分からず、その場にしゃがみこんでしまう。
「・・・うぅ・・・ぅ・・・・・・ぐす・・・。」
すると、周りに居た美しい女性達が、エミーの方を振り向く。
「ん?」
「どうしたの?」
「あの子、泣いてる。」
「大丈夫かしら?」
女性達がエミーに近付いてくる。そして、一人の女性がエミーに話し掛ける。
「君、大丈夫?迷子?」
更に、集まってきた別の女性達がエミーに語りかける。
「この辺じゃ見ない顔ね。名前は?どこか痛むとこある?」
「その黒いコート、お母さんの?一緒に探そうか?」
女性達は皆、優しくエミーに語りかけてくる。しかしエミーには今の状況も、さっきまでの状況も何一つ理解出来ず、先程感じた得体の知れない感情が、更に膨れ上がっていく。
エミーは立ち上がり、その場を全力で走り去っていく。
「あっ・・・。」
「走ってっちゃった・・・。」
「怖がらせちゃったかしら?」
「大丈夫かな?」
エミーは一生懸命走り続ける。どこへ向かえば良いのかすら分からないが、それでもとにかく走り続けている。しかし、走れば走る程に見た事の無い景色が続く。得体の知れない感情が、更に増幅していき、涙がどんどん溢れ出てくる。仕舞いには、涙で前がよく見えなくなってきていた。
すると・・・・・・。
ドンッ!
「ッ!」
「きゃ!」
エミーは、大きな荷物を持った一人の女性にぶつかった。
「いてて・・・。はっ!だ、大丈夫!?」
「ぐすっ・・・ぐすっ・・・。」
「い、痛かった!?ごめんね!荷物で前がよく見えなくて!怪我は無い!?」
別に痛くて泣いてる訳じゃない。そう伝えようとしても、声が出ない。上手く出せない。何も出来ない・・・。
「と、取り敢えず治癒魔法をかけるわね!?痛みは無くなると思うから!」
・・・・・・・・・・・・魔法?魔法って何だ?エミーは聞き慣れない言葉に疑問を持つ。
「・・・・・・ま・・・・・・ほう・・・?」
エミーは顔を上げ聞き返した。・・・もしかしたら何かが分かるかも知れないと思った。この現状が一体何なのか、さっきまで何が起こっていたのかを。
「・・・・・・っ!」
その瞬間、エミーは女性の姿に見蕩れた。
群青色をした、風になびく、美しい髪の毛。とても長いその髪は踵の上辺りまであり、まるで夜空の様に輝いている。瞳はまるでアウイナイトの様な輝く青をしており、真っ直ぐにエミーを見つめている。とても美しい女性だった。
エミーにはその女性が色鮮やかに映って見えた・・・。
この出会いが、エミーにとってかけがえのないものになる事を、彼女自身はまだ知らない。
いずれにせよ感情というものは、かけがえのない大切なものである事には間違いない。特に我々『魔女』にとっては、絶対に無くてはならないものだ。
強い感情があってこそ初めて叶えられるものがある。しかし感情が無ければ、叶える事など出来ないだろう。いや、叶えようとも思わないだろう。
叶えなければ・・・。もう一度、貴女に会う為に・・・・・・。
とある街の中に、黒い柵で囲われた孤児院があった。中世を思わせる様なその建物には、身寄りの無い幼い子供達が保母達と共に住んでいる。皆、保母達を親とし、共に過ごす者達を家族と呼び、毎日和気藹々と平和に暮らしていた。
ただ一人を除いては・・・。
少女には誰一人近寄らない。部屋も少女だけ一人部屋。保母達も放任している。何故そんな状況になっているのか。
皆、少女を恐れていた。その可憐さ、美しさとは裏腹に、内に膨大な怒りと憎しみを抱えていた。保母達ですらまともに近付けない。大人ですら彼女の事を恐れているのだ。皆、「気が付けば意識を失っていた。恐怖が頭から離れない。」と口にする。だから少女には、最低限の接触しかしない。出来る限り遠ざけている。ただ一人、ある保母を除いては・・・。
彼女は、少女に唯一近付くことの出来る人間だった。彼女の前では、少女も少しだけ心を開く。彼女はその少女の専属世話係として、少女が六歳の時から世話をしていた。
しかし彼女はある日、突然孤児院を去った。少女が十歳になる直前で。
少女はまた、一人になった。だが、悲しそうな表情は一切しない。別に悲しみを隠している訳ではなく、本当に悲しくないからしないだけである。
当然だ。少女には感情が無いのだから。残ったのは、怒りと憎しみの感情だけなのだから。それ以外の感情はもう、失われてしまったのだから・・・。
白銀の色をした美しい髪の毛。少し傷んでボサボサになってしまっているその髪の毛は、後少しで引きずりそうな程伸びている。まるで宝石のパイロープガーネットを思わせるかの様な、美しい真紅の瞳。孤児院で配られている素朴な白いワンピースを着た、美しく可憐な少女。
彼女の名は『エミー』。感情を失ってしまった少女である。
孤児院では、天気の良い日は昼になると皆公園に出て遊ぶ。しかしエミーは周りの子供達に混ざる事無く、一人隅で座り込んでいた。それがいつもの彼女の過ごし方。建物と、敷地を囲む柵の丁度角の部分で、ただ何をする訳でもなく過ごす。以前まではずっと顔を沈めていたが、最近は顔を上げている事が多い。とは言っても、何を見る訳でもなく、ただ柵の外をぼーっと見つめているだけで、焦点も合っていない様子なのだが。行き交う人々は多く居れど、エミーが関心を持つ事は無い。もし関心を持つとしたら・・・。
それは『ハヴァー』だけだろう。
エミーの母『アン』を殺した女。エミーが七歳の時に、復讐を誓った相手。かつて専属世話係だった『ミア』から貰ったハヴァーの写真はボロボロになってしまいもう無いが、今でもその顔はエミーの脳裏に焼き付いている。
灰色の髪の毛で片目が覆われていて、その眼はまるでブラックスピネルの様な漆黒をしている。耳には黄色い宝石で出来たピアスをしており、息を呑むほどの美しい女性。
その姿を、エミーは一時たりとも忘れる事無く今まで過ごしてきた。いつか復讐を果たす為に。
孤児院の前にある道を沢山の人が行き交う。色んな人がいる。だが、そのどれもが、エミーの求めている人とは違う。
敷地の中央部分に当たる公園を挟んで、エミーは隅の方からぼーっと柵の外を見つめ続ける。敷地内の両脇には幾つか木々が立っており、エミーはいつも木々の生えていない門の部分から外を眺めていた。木々が視界の邪魔をせず、外が良く見えるその部分。しかし、元々何も考えず、ただ単に眼をそちらに向けているだけのエミーにとっては、わざわざ外の道が比較的見えやすくなっている門の部分から眺める必要などまるでないのだが・・・。だが、心の奥底、無意識の中でエミーは探していたのだ。復讐を誓った相手を。脳裏に焼き付いたその顔を。
今日も、いつもの様に外の道を眺め続ける事、小一時間。特に変化は無い。いつもと大して変わらない光景が流れ続けている。が・・・・・・。
その時・・・・・・。
沢山の人が行き交うその道に、ただ一人、立ち止まっている人が居た。黒いコートを着て、フードを深く被っている、高身長の人が遠くに立っている。孤児院との距離を考えれば、とても顔が認識出来る範囲では無い。
だが、何の因果か、今まで焦点の合っていなかった様なエミーの眼は、その人物にのみ急速に向けられた。
エミーはそれが誰なのかを直ぐに理解した。顔はよく見えていない。例えどれだけ眼が良くても、フードを深く被っている為、個人を特定する事など出来ないはずだ。しかし、エミーには確固たる確信があった。空気の流れ、通り過ぎる人々の息遣い、会話、心臓の音。空間に流れる目に見えない何かが、今のエミーには見えていた。そこにある全てを感じ取っていた。
瞬間、黒いコートを着たその人物が孤児院から遠ざかる様に走り出す。
「ハ・・・ヴァァァァァァァァァァァ!!!!!」
突然エミーは立ち上がり、叫ぶ。すると、その瞬間・・・。
その声に呼応するかのように、辺り一帯の大気が震え出す。先程までの心地良いそよ風がまるで嘘だったかのように、嵐の様な暴風に豹変する。太陽は一瞬にして雲に覆われ、あらゆるものに影が差す。
「きゃーーーー!」
「うわぁーーーー!」
嵐の様な暴風と体が痺れる様な大気の震えに、人々が悲鳴を上げる。まともに立ち上がれる人間は誰一人として居らず、皆その場にしゃがみこみ、何かそこら辺にある物にしがみつこうとする。
しかし、そんなものをまるで感じさせないかの様な出で立ちで、エミーは走り出した。少女、いや、人間とは思えない程の驚異的な速さで。まるで風に乗るかの様に。
エミーはものの数秒で、孤児院と外を分ける黒い柵の門にまで辿り着く。エミーは立ち止まる事無く黒い柵を手で薙ぎ払う。鉄製の柵は、まるで細い枝の様に簡単に壊れた。エミーは孤児院の外に出て、逃げていった人物を道なりに追って行く。
エミーにはもはや、周りが一切見えていなかった。今エミーの視界に入るのは、前を走るその人物だけ。
しかし、その人物もまた、驚異的な速さでエミーから逃げていた。その速さはエミーとほぼ同等か、中々距離が縮まらない。二人は風を切りながら、風を超える速さで街を駆け抜ける。
誰一人として二人を視認出来る者はいなかった。ただでさえ眼を開けられない程の暴風と大気の震えに加え、その驚異的な速さを捉える事の出来る者などいないだろう。
どれだけ走ったか。前を行く黒いコートの人物は突然道を外れた。
その人物は、建物と建物の間にある狭い隙間に逃げ込んだ。エミーも同様にその隙間へと入り込んで行く。
その道は、ずっと続いていた。本来なら有り得ない長さで。周りには何も無く、本来ある筈の両側の壁も消えている。エミーとコートを着た人物は、まるで別次元の様な真っ白い空間を走っていた。
しかし、エミーには前を走る人物以外何一つとして見えてはいない。ただ、怒りと憎しみのままに走り続けていた。
少しずつ、少しずつ、距離が縮まっていく。気が付けばエミーは、黒いコートに手の届く範囲にまで追いついていた。
エミーは手を伸ばし、黒いコートを掴む。しかし、コートを捨て、その人物は走り続ける。
その瞬間、見えた。その人物の全貌が。美しく輝く灰色の髪。キラキラと光る黄色いピアス。首筋程の髪は少し跳ねている。
その時彼女はエミーの方をチラリと振り向いた。髪の毛で片目が隠れたその顔はとても美しく、しかしどこか悲しそうな表情だった。その漆黒の瞳には、怒りと憎しみに歪むエミーがしっかりと映り込んでいた・・・。
突然、彼女はまるで空気に溶けるかの様に姿を消した。エミーは懸命に手を伸ばす。決して逃がさない為に。だが、もう遅かった。手が届きそうなところまで近付けたが、しかし、その手が届く事は無かった。
「・・・・・・・・・・・・・・・ッ!!」
気が付けばエミーは、彼女が残した黒いコートを握り締めたまま立ち尽くしていた。
さっきまでの追跡が嘘だったかのように、エミーは静まり返る。あと少しだったのに・・・。その表情には、そんな悔しさが滲み出ている。
その瞬間、周りの景色がエミーの瞳に一斉に入り込んでくる。さっきまでの白い空間が溶け出すかの様に。
サーーーーーーーーーーーーーーー・・・・・・・・・・・・
そこは、エミーの知らない世界だった。レンガで造られた建物が並び、見た事の無い花々が、道横に沢山置いてある鉢に咲き誇っている。そこは、どこか幻想的な石造りの美しい街だった。
エミーのすぐ傍をスっと影が通る。ハッとしてエミーが空を見上げると、そこには箒に乗って飛んでいる美しい女性がいた。
「ハッ・・・・・・!」
エミーは慌てた様に周りを見渡す。数人の人物が目に飛び込んでくる。その誰もが、宝石の様にキラキラと輝く瞳を持った美しい女性だった。
エミーにはまるで状況が把握出来ないでいた。思い返せばさっきまでの事も、まるで嘘かのような出来事だった。怒りと憎しみに我を忘れていたエミーだが、いざ冷静になって考えてみれば、普通は有り得ないような事が連続して起きていたのだ。
瞬間、エミーに得体の知れない感情が溢れ出す。何故だか涙が溢れ出し、止まらなくなる。エミーは自分が泣いている理由も分からず、その場にしゃがみこんでしまう。
「・・・うぅ・・・ぅ・・・・・・ぐす・・・。」
すると、周りに居た美しい女性達が、エミーの方を振り向く。
「ん?」
「どうしたの?」
「あの子、泣いてる。」
「大丈夫かしら?」
女性達がエミーに近付いてくる。そして、一人の女性がエミーに話し掛ける。
「君、大丈夫?迷子?」
更に、集まってきた別の女性達がエミーに語りかける。
「この辺じゃ見ない顔ね。名前は?どこか痛むとこある?」
「その黒いコート、お母さんの?一緒に探そうか?」
女性達は皆、優しくエミーに語りかけてくる。しかしエミーには今の状況も、さっきまでの状況も何一つ理解出来ず、先程感じた得体の知れない感情が、更に膨れ上がっていく。
エミーは立ち上がり、その場を全力で走り去っていく。
「あっ・・・。」
「走ってっちゃった・・・。」
「怖がらせちゃったかしら?」
「大丈夫かな?」
エミーは一生懸命走り続ける。どこへ向かえば良いのかすら分からないが、それでもとにかく走り続けている。しかし、走れば走る程に見た事の無い景色が続く。得体の知れない感情が、更に増幅していき、涙がどんどん溢れ出てくる。仕舞いには、涙で前がよく見えなくなってきていた。
すると・・・・・・。
ドンッ!
「ッ!」
「きゃ!」
エミーは、大きな荷物を持った一人の女性にぶつかった。
「いてて・・・。はっ!だ、大丈夫!?」
「ぐすっ・・・ぐすっ・・・。」
「い、痛かった!?ごめんね!荷物で前がよく見えなくて!怪我は無い!?」
別に痛くて泣いてる訳じゃない。そう伝えようとしても、声が出ない。上手く出せない。何も出来ない・・・。
「と、取り敢えず治癒魔法をかけるわね!?痛みは無くなると思うから!」
・・・・・・・・・・・・魔法?魔法って何だ?エミーは聞き慣れない言葉に疑問を持つ。
「・・・・・・ま・・・・・・ほう・・・?」
エミーは顔を上げ聞き返した。・・・もしかしたら何かが分かるかも知れないと思った。この現状が一体何なのか、さっきまで何が起こっていたのかを。
「・・・・・・っ!」
その瞬間、エミーは女性の姿に見蕩れた。
群青色をした、風になびく、美しい髪の毛。とても長いその髪は踵の上辺りまであり、まるで夜空の様に輝いている。瞳はまるでアウイナイトの様な輝く青をしており、真っ直ぐにエミーを見つめている。とても美しい女性だった。
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