怖い話集 ホラー

台風

薄暗い空が低く垂れ込め、風がざわめく夜。小さな漁村、青波町では、台風の接近を告げる緊急放送が響いていた。村人たちは、あわてて家の窓を閉め、外に出ないようにと注意された。

しかし、翔太は何かに引き寄せられるように、海岸へ向かった。昔から、台風の夜には奇妙な現象が起きると言われていた。誰もが恐れ、避けるその時間帯に、彼は好奇心を抑えきれなかった。

海岸に着くと、波は荒れ狂い、風は耳をつんざくような音を立てていた。その中で、翔太は不意に見た。薄暗い海の中から、何かが浮かび上がってきたのだ。暗い影が、波間に漂っている。それは人の形をしていた。

翔太は恐怖を感じたが、どうしても目が離せなかった。影は徐々に岸に近づき、無数の海藻のようなもので覆われた顔が見えてきた。それは、村で失踪した少女、涼子だった。翔太は驚愕し、逃げ出そうとしたが、足がすくんで動けなかった。

「翔太…助けて…」

彼女の声は、海の音にかき消されそうだったが、翔太にははっきりと聞こえた。彼女の目は濡れた海藻のように、深い暗闇を映していた。翔太は、彼女がこの世の者ではないことを理解した。涼子は、台風の夜に何かに飲み込まれ、今はその影として漂っているのだ。

「もう行かないで…一緒に帰ろう…」

翔太は恐怖と同時に、彼女を助けたいという衝動に駆られた。彼は水の中に足を踏み入れ、涼子に手を伸ばした。だが、その瞬間、猛烈な風が吹き荒れ、波が彼を飲み込もうと襲いかかった。まるで、彼女が戻ることを許さないかのように。

「翔太！」

涼子の声は、急に冷たくなった。翔太は振り返り、彼女が自分を見つめているのを見た。その目には、苦しみと恨みが宿っていた。彼女はかつて、村に不幸をもたらした者たちを恨んでいたのだ。そして今、彼女は翔太にその運命を引き継ごうとしていた。

「もう帰れないんだよ、翔太。あなたも私と一緒に…」

翔太は恐怖に駆られ、全力で逃げ出した。しかし、台風の力は彼を引き寄せ、再び海へと押し戻そうとする。彼は命をかけて、浜辺を走り抜けた。背後では、涼子の冷たい声が耳をつんざくように響いた。

「また台風が来るよ…私のところに戻っておいで…」

村に戻ると、翔太は必死で叫んだ。「みんな、台風の夜は危ない！行っちゃダメだ！」しかし、誰も彼の声を聞かない。村人たちは、台風の恐ろしさを知りながらも、日常を取り戻そうとしていた。

数日後、村は台風の爪痕にさらされ、静寂に包まれていた。しかし、翔太は一人、海を見つめ続けていた。彼の心には、涼子の言葉が焼き付いて離れなかった。

その夜、再び台風が訪れた。村人たちが避難する中、翔太は海岸に向かっていた。彼はもう、逃げることはできなかった。涼子の声が再び耳に響く。波がざわめき、風が彼を包み込んでいく。

「おいで、翔太…一緒に帰ろう…」

翔太は振り返らず、海の中へと踏み出した。台風の恐怖は彼を飲み込み、彼は影となって、永遠に涼子のそばで漂うことになった。