来世で、また

桜姫

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来世で、また

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 人は本当に悲しい時、涙が出ないのだと知った。

 「──ご臨終です」

 それは突然の事だった。
 若くして最愛の人が居なくなると誰が思うのか。

 『お前と出会えて、こうして一緒に居ることができて……俺は幸せ者だ』

 清潔感のある病室で何気ない会話をしていた時、ふと神妙な顔をして恋人──蓮李は言った。
 何事かと問えば『いや、言いたくなっただけ』と出会った頃から変わらない、人懐っこい笑顔でそう言うのだ。


 だからか……信じられなかった。
 数年前まで健康そのものであった蓮李が、病に体を冒されて呆気なく居なくなるなんて。
 もっと一緒に年を重ねられるはずだった。
 沢山の事を話し、いつか来るその時まで一緒に笑い合えるはずだった。
 けれど、こんなに早く別れが来ると誰が思うのだろうか。


 話したい事が沢山あった。行きたい場所が沢山あった。けれども、もう叶わぬ夢となった。
 運命とは時に残酷な決断をするものだ。もし代わりになれるのならば私が──そう願わずにはいられない程、私は君を愛していたのだ。


 日が経つ程に愛しい貴方の面影が薄れるのが怖くて、思い出が無くなるのが怖くて。
 いつしか私はその「記憶」にそっと蓋をした。

 ◆◆◆

 明くる日、蓮李の母親から私に宛てた手紙が出てきたとの知らせが届いた。

 一緒に歩いた道を辿りながら、生前蓮李が暮らしていた生家へ着く。
 すると、通夜に会った時よりも少しやつれたお義母さんからシンプルな封筒を手渡された。
 涙を堪えるような、なんともいえない笑みを浮かべてそれを手渡される。

 「これね、あの子の机の上にあったの。見てやってくれる?」

 その言葉が意図するものを察した私は、震える手を叱咤して無言でそれを受け取った。
 午後の優しい風がさらさらと私の髪を揺らす。ゆっくりと元来た道を辿り、自宅へと戻った。
 その帰路がとても長いもののように感じ、目の奥がツンと痛んだ。

 ◆◆◆

 書き出しは私の名前から始まった。

『これを読んでいるってことは、俺はもうこの世に居ないんだろうね。こうなるって分かっていたはずなのに……何も言わずにいてごめん』

 なんて、優しい筆跡でそう書かれていた。
 最初に謝るなんて蓮李らしい……自然と笑みが零れた。

『あの時、言ってしまったらお前は泣くだろう。飛鳥は泣き虫で、寂しがりだから』

 確かに私は昔、よく泣いて周りを困らせた記憶がある……が、もう大人だ。少なくとも、ちょっとやそっとのことでは泣かないほど強くなった。
 更に読み進めると、こんなことが綴られていた。

『俺は飛鳥の笑顔が好きなんだ。だから、泣かないで。自分を責めないで。笑顔が一番似合う、いつも明るい飛鳥で居て欲しい』

 字体は乱れたものではなかったため、随分前に書いたのだろう。
 端々から蓮李の声で再生され、今までの日々が思い出された。それも相まってか涙腺が崩れそうになった。

『俺が昔言ったこと覚えてる?大人になったら結婚しようね。約束だよ、って指切りしてさ。結局、その約束は叶わないけど』

 昔といっても本当に小さな、幼稚園の頃の話だ。二十年も前のことを覚えているなど、変なところで記憶力がいいんだな、と思う。
 記念日の日は私が言わない限り忘れていたのに。


『どうか、俺以外の奴を見つけて幸せになって。そして俺の分まで生きてほしい』

 今度ははっきりと、生前の心地好い声で再生された。
 私の名前を呼ぶ時のように甘く、それでいて慈しみを込めたあの声で。
 ボロボロと涙が零れた。それは堰を切ったように止めどもなく溢れてくる。
 悲しみのあまり涙が出なかった通夜の時とは違う。

 どうして今なのだろう。どうして今、形に残る「手紙」を私に残したのだろう。
 自問自答しても仕方ないと思いながら、涙腺が崩壊したように後から後から溢れ出す。


 「そんなの、できると思う……?」

 ようやく落ち着いたころ、絞り出すように誰はともなくそう呟いた。
 言葉にした通り、今の私には蓮李を失った悲しみで何も考えられないでいた。
 その時の私は正しく、人生のターニングポイントに立っていたのだろう。


 ◆◆◆

 カツカツと石畳の子気味良い音が響く。
 熱い日差しを浴びながら右手には花を、左手にはたっぷりと水が入った手桶を。その中には柄杓が一つカランコロンと小さく音を奏でていた。
 私はゆっくりといつかの恋人のもとへ向かう。

 やがて、その人と家族達が眠るお墓の前にやってきた。
 軽く墓標やその周辺の掃除をし、最後に線香と貴方が好きだった銘柄の酒を置く。

 「元気にしてる?」

 しゃがみ込んで手を合わせる。もうこの歳になるとしゃがむのも一苦労だ。それ程年月が経った。
 あの後私は二度の結婚をし、二度離婚した。
 一人目の夫との間に長女を儲け、紆余曲折ありながらも彼女が独り立ちするまで育てあげた。
 そんな彼女も結婚し、今は慎ましやかに夫と二人の子供と暮らしている。
 太陽が燦々と照り続ける午後。今頃は日々の家事に追われていることだろう。幸い家は近くなため、季節が落ち着いたら顔を見に行こうと思う。
 二人目の夫は、それはそれは酷かった。
 付き合った時は誠実な人柄に惹かれた。しかし、結婚してからは今で言う亭主関白。あれしろ、これしろ、出来なければ私の頬を叩く、蹴る。
 こういうことが日常茶飯事となり、精神的にも身体的にも限界が来た。結局のところ、夫婦生活は半年も持たなかったと記憶している。

 「毎日が変わり映えしないの。これも年を取ったからね」

 なんて、苦笑混じりに呟く。

 「早く会いたい……って無粋よね。俺の分まで生きろと言われたのに。本当に笑われちゃうわ」

 本当の迎えが来るまで悔い無く生きる。そう、貴方からの手紙をもらった時に誓ったのだから。
 もう少し、あともう少し。そう思い続けてこの年まで生きてきた。今すぐそちらへ行きたい、という思いをぐっと堪えて。

 「──大好きよ、今でも」

 心からの想いを言葉へ乗せる。もう還暦をとうに過ぎているのに、乙女心は色褪せていないらしい。
 そんな自身に苦笑を漏らす。

 「私はね。たとえ貴方がガンであっても受け入れていたわ」

 数十年前は私も若かったため、すぐには信じることも受け入れることもできなかった。あの手紙を貰ってから何日泣いたことか。
 今は年を重ねたからか、物事を落ち着いて見る術を知った。

 「心配しなくても大丈夫よ。私は、あの時からずっと貴方の言いつけを守って──いないのよね。……やっぱり、蓮李以外駄目みたい」

 クスクスと誰にともなく言う。こんなことを言ってしまったら怒られるだろうが、何年も思ってきたことだ。
 ただ一人のために生きて、呼吸している。
 私にとっては、貴方からの最初で最後の手紙が生きる力で、残りの人生を楽しもうと思えるのだから。

 「来世で一緒になりましょう。もし記憶を失っていても必ず──見つけ出すわ」

 だからどうか、安らかに。
 貴方の新しい人生が、今世よりも華々しいものでありますように。

 ゆっくりと立ち上がる。見上げた空には虹がかかっていた。
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