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第2部 父と娘
第3話 麻酔のあとで
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静寂のなかに、薄く、誰かの声が響いていた。
遠くから水を通して聞こえるような、かすれた声。
なにかを呼ぶように、なにかを諭すように、やさしい声だった。
「……ノア……よくがんばったね」
わたしはその声を知っていた。
だけど、その響きがやけに遠く、現実から少し浮いているように思えた。
視界はまっしろだった。
身体の感覚はなく、目を開けようとしてもまぶたは動かない。
代わりに、頭の奥でやけに冷たい波のような感触が、ふわりふわりと揺れていた。
そのあと、意識はすとんと落ちた。
光も音も消えた。
**
目が覚めたとき、部屋の天井は白かった。
それは、家のものとは違う、無機質で静かすぎる天井。
壁の隅に設置された機械の小さな光が、リズムを刻んでいた。
わたしは、手を動かそうとした。
──動いた。
見下ろした手には傷一つなかった。
ほんの少し前まで砕けていたはずの腕は、嘘のように整っていた。
「……治ってる……」
つぶやいた声はかすれ、喉の奥に乾いた痛みがあった。
感覚がひとつずつ戻ってくるにつれ、
次第に、記憶の空白の存在に気づいていく。
屋上のあの瞬間、あの高さ、落ちた衝撃──
そこまでは確かに覚えている。
でもそのあと、どうしてこの部屋にいるのか、
誰に運ばれ、誰に治療され、どれだけ眠っていたのか──
なにも、覚えていなかった。
**
扉が音もなく開いた。
その先に立っていたのは、お父さんだった。
白い上着を着ていて、瞳にはいつも通りの優しさがあった。
けれど、その優しさの奥にある何かを、わたしは言葉にできなかった。
「ノア、目が覚めてよかった。安心したよ」
わたしは、胸の奥にひっかかった違和感を、抑えるように微笑んだ。
「……ありがとう。でも、どうやって……?」
お父さんは微かに目を伏せ、それからまた優しく笑った。
「麻酔をかけて、丁寧に治療したんだ。
ノアはちょっと特別な子だから、治療中に起きてしまうと危ないんだよ。
だから、しっかり眠ってもらった」
その説明は、理にかなっているようだった。
けれど、その言葉の裏側が、どうしてもひっかかった。
“眠った”?
──本当に、それだけだったのだろうか?
**
家に戻ると、わたしの部屋には花が飾られていた。
お姉ちゃんたちが飾ってくれたらしい。
九番目のお姉ちゃんは、「無事でよかった」と微笑んでくれた。
でも、その輪の中には──
六番目も、七番目も、八番目も、もう、いなかった。
六番目は、静かにいなくなった。
七番目は、わたしの手のなかで「ありがとう」と言ったあと、自らを断った。
八番目は、わたしと一緒に落ちた……はずだった。
そして今、三人のことを覚えているのは、わたしだけだった。
誰も彼女たちの名前を口にしなかった。
食卓の話題にのぼることもなく、まるで最初から存在しなかったみたいに。
**
その夜、わたしはお父さんに尋ねた。
「……ねえ、お父さん。
六番目、七番目、八番目のお姉ちゃんは……どこに行ったの?」
お父さんは、少しだけ黙っていた。
やがて、静かな声で答えた。
「遠くへ行ったよ。
もう、あの子たちは……大丈夫だ」
その言葉は、優しかった。
でも、優しすぎて、なにも答えていなかった。
わたしの中に、小さなノイズのようなざわつきが残った。
**
夜更け。
部屋に戻ったわたしは、ベッドの上でじっと天井を見ていた。
眠れなかった。
胸の奥が、何かを叫びたがっていた。
だから、わたしは起き上がった。
階段をそっと降り、家の奥へ。
そこにある、“お父さんの部屋”へ。
扉の前に立ったとき、指先が震えた。
怖かった。でも、知りたかった。
けれど、そのとき、なぜかふと──頭の奥で誰かの声が聞こえた気がした。
それは、とても懐かしくて、あたたかくて、切ない声。
「──あの子を、愛してあげて」
誰の声だろう?
わからない。でも、知っている気がする。
わたしは、そのまま、ドアノブに手をかけた。
けれど、その夜は開けなかった。
まだ、勇気が足りなかった。
遠くから水を通して聞こえるような、かすれた声。
なにかを呼ぶように、なにかを諭すように、やさしい声だった。
「……ノア……よくがんばったね」
わたしはその声を知っていた。
だけど、その響きがやけに遠く、現実から少し浮いているように思えた。
視界はまっしろだった。
身体の感覚はなく、目を開けようとしてもまぶたは動かない。
代わりに、頭の奥でやけに冷たい波のような感触が、ふわりふわりと揺れていた。
そのあと、意識はすとんと落ちた。
光も音も消えた。
**
目が覚めたとき、部屋の天井は白かった。
それは、家のものとは違う、無機質で静かすぎる天井。
壁の隅に設置された機械の小さな光が、リズムを刻んでいた。
わたしは、手を動かそうとした。
──動いた。
見下ろした手には傷一つなかった。
ほんの少し前まで砕けていたはずの腕は、嘘のように整っていた。
「……治ってる……」
つぶやいた声はかすれ、喉の奥に乾いた痛みがあった。
感覚がひとつずつ戻ってくるにつれ、
次第に、記憶の空白の存在に気づいていく。
屋上のあの瞬間、あの高さ、落ちた衝撃──
そこまでは確かに覚えている。
でもそのあと、どうしてこの部屋にいるのか、
誰に運ばれ、誰に治療され、どれだけ眠っていたのか──
なにも、覚えていなかった。
**
扉が音もなく開いた。
その先に立っていたのは、お父さんだった。
白い上着を着ていて、瞳にはいつも通りの優しさがあった。
けれど、その優しさの奥にある何かを、わたしは言葉にできなかった。
「ノア、目が覚めてよかった。安心したよ」
わたしは、胸の奥にひっかかった違和感を、抑えるように微笑んだ。
「……ありがとう。でも、どうやって……?」
お父さんは微かに目を伏せ、それからまた優しく笑った。
「麻酔をかけて、丁寧に治療したんだ。
ノアはちょっと特別な子だから、治療中に起きてしまうと危ないんだよ。
だから、しっかり眠ってもらった」
その説明は、理にかなっているようだった。
けれど、その言葉の裏側が、どうしてもひっかかった。
“眠った”?
──本当に、それだけだったのだろうか?
**
家に戻ると、わたしの部屋には花が飾られていた。
お姉ちゃんたちが飾ってくれたらしい。
九番目のお姉ちゃんは、「無事でよかった」と微笑んでくれた。
でも、その輪の中には──
六番目も、七番目も、八番目も、もう、いなかった。
六番目は、静かにいなくなった。
七番目は、わたしの手のなかで「ありがとう」と言ったあと、自らを断った。
八番目は、わたしと一緒に落ちた……はずだった。
そして今、三人のことを覚えているのは、わたしだけだった。
誰も彼女たちの名前を口にしなかった。
食卓の話題にのぼることもなく、まるで最初から存在しなかったみたいに。
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その夜、わたしはお父さんに尋ねた。
「……ねえ、お父さん。
六番目、七番目、八番目のお姉ちゃんは……どこに行ったの?」
お父さんは、少しだけ黙っていた。
やがて、静かな声で答えた。
「遠くへ行ったよ。
もう、あの子たちは……大丈夫だ」
その言葉は、優しかった。
でも、優しすぎて、なにも答えていなかった。
わたしの中に、小さなノイズのようなざわつきが残った。
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夜更け。
部屋に戻ったわたしは、ベッドの上でじっと天井を見ていた。
眠れなかった。
胸の奥が、何かを叫びたがっていた。
だから、わたしは起き上がった。
階段をそっと降り、家の奥へ。
そこにある、“お父さんの部屋”へ。
扉の前に立ったとき、指先が震えた。
怖かった。でも、知りたかった。
けれど、そのとき、なぜかふと──頭の奥で誰かの声が聞こえた気がした。
それは、とても懐かしくて、あたたかくて、切ない声。
「──あの子を、愛してあげて」
誰の声だろう?
わからない。でも、知っている気がする。
わたしは、そのまま、ドアノブに手をかけた。
けれど、その夜は開けなかった。
まだ、勇気が足りなかった。
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