しっぽのないお客さんの恋愛事情

志野まつこ

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17、キャットファイト、ではなくて

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 喉を震わせ低く威嚇の唸り声を上げて対峙する二匹の黒獅子。
 二人とも少し腰を落とすようした姿勢はレスリングの構えみたいで。
 何かの拍子に飛びかかってしまいそうな、緊迫した空気になっちゃってて。

 普段目にしている温厚で、紳士な千秋さんの姿からは想像もつかないようなその姿に声もかけられなかった。

 周囲に集まった皆さんも、ワシザキさんや警察署長さんまで困ったように見守っている。
 兄弟ゲンカだろうしなー
 止めなくてもいっかなー

 とはいえライオンだしなー
 本気出すとヤバいよなー
 でも本気なところに迂闊に手を出すとこっちが怪我するしなー

 え、やっぱりそれって案の定おおごとじゃないですか。
 しかも私の責任による所が大きいというこの状況。

 どうしよう、と思う事もなかった。
 こういう時はアレだ。
 田舎のお祖父ちゃんが武勇伝のように何度も語っていた。
 それを実践するため振り返り、走りだそうとするその先に母がすでにそれを手に待機していた。
 ……さすが同じ話を聞いて来たであろう母。あのお祖父ちゃんの娘。
 わざわざ裏庭の物置に片付けているソレをチョイスしたか。
 しかもそれを選んだだけあって、めいっぱい入れて来てる。

 我が家で一番大きい銀色のソレを、心得たとばかりに母に一つ頷いて受け取ると人垣の輪に戻った。

「ごめんなさい! 通ります!」
 叫んで最前列まで人垣を抜けると周囲の人が気付いて空間を開けてくれる。
 そんなこちらの状況を見て、正面の皆さんもさっと後ろに下がった。
 よし、これで心置きなくやれる。

 右手をフチに、左手を底に添えるなり、私は無言で思い切りバケツの水を緊迫の空気の渦中にいる二人の青年にぶちまけた。

「━━ッ!」
 
 ネコのケンカを止めるには、水をかけるのが一番。
 お祖父ちゃんの知恵袋、間違いなかったよ。
 緊張状態のネコの間に手を突っ込むと人間が血まみれにされるからね。

 ポタポタと雫を垂らしながら驚いた顔をしている二人。
 我に返ってくれたらいいんだけど、と不安になった私の隣をニーニャさんが素早い身のこなしで駆けて行く。

 ━━ああ。
 水浸しの千秋さんに駆け寄るその姿に、胸が痛んだ。
 私にはその背を見送るしかなくて、構えていたバケツをだらりと下ろす。
 その先で、ニーニャさんは夏樹さんの首に両手を掛けた。

 ん?
 そっち、違いますけど。

 そう思った刹那、両腕で夏樹さんの首を引きつけると同時にニーニャさんの膝がみぞおちに入った。
 飛び膝蹴り。
 しかも助走をつける形に加え、両腕で首を引きつけながら威力を増加させ、なおかつ相手の身体を後方へ逃がさず最大限のダメージをみぞおちに叩きこむという、実に効率的かつ容赦ないやり方。

 そこからの。
 自然と前のめりになって下がった夏樹さんの、その顔に右フック。
 完全に腰の入ったその右は、きれいに振り抜かれていた。

 ヒッ……
 私を含め、周囲の人間の顔が痛そうに顔をゆがめて息を飲む。

 これ、チガウ。
 私の知ってる猫キックとか猫パンチなんてもんじゃない。

 ニーニャさんの猫の拳には、「cafeだんでらいおん」で使われていると思しき布巾が巻かれてて、その準備万端な様がまた恐ろしい。
 そんなお可愛らしいニャンコの手で、どうして硬い拳を握りこめちゃうのか非常に不思議なのだけれど、仁王立ちでゾッとするくらい冷たい目で夏樹さんを見下ろしたニーニャさんは、なんだろう、女王様の風格で。

「てめぇ、今まで何やってたんだコラ」

 ドスの利いた声でそう言いながら片手で胸倉をつかむとか、ニーニャさん、それもう完璧すぎです。
 自分の彼氏とケンカしようという相手に、まさかの鉄拳制裁ですか?
 めす猫さんってそんな一面……いやいや、ナイナイ、聞いた事もない。

「ワシザキ、保護条例違反だ」
 千秋さんが厳しい表情でオジロワシのお巡りさんに顎をしゃくって見せると夏樹さんは驚愕の表情を受けべ、ニーニャさんは「あ゛ぁ゛?」と低く不機嫌な声を上げる。これまた素晴らしく巻き舌だった。

「保護条例、ねぇ」
 そう言ってワシザキさんはチラリと私を見下ろす。
 ……へ?
 なんですかその意味ありげな視線。
 えと、保護条例ってなんだっけ?
 ま~えに聞いたような気がしないでもないけど……

「まぁ、三年も耐えてんだ、分からないでもないけどよ」
 ワシザキさんは苦笑しながら続ける。
「千秋、お前、兄貴しょっぴけってのかよ」
 ワシザキさんは肩をすくめただけだったけど、それを聞いたニーニャさんの行動が怖かった。
 片膝をついた夏樹さんの、立てている方の膝を「ゴスっ」という勢いで踏みつける。
 ああ、地面を水浸しにしちゃったから夏樹さんのスーツはドロドロに。

「てめぇ、保護条例にひかかるような事、奈々にしたのカ」
 ニーニャさんのますます低くなった声に、夏樹さんの耳は完全に伏せ状態に。
 うわぁ。
 完全に怯え切ってる。
 地面に跪かされてるもんだから怯え切った黒ニャンコからの上目遣いさながらの眼差し。
 私だったら悶絶ものだけど、当然のごとくニーニャさんは低く冷たい声でとどめを刺しに行く。

「そのヒゲ、むしるぞ」
 周囲のヒゲのある皆さんは再度「ヒィッ」と小さな悲鳴を上げる。
 中には自分のひげを守るように口元を押さえた人までいた。

 うわ。ニーニャのやつ、むしるって言ったぞ。
 せめて切るだけにしてやれよ。
 むしるのはないわ。

 動揺を隠そうともせず、ひそひそと話すギャラリーの皆さん。
 た、確かにハサミとかで切るだけなら精神的ダメージだけで済みそうだけど、むしるとなると。
 まず激痛で肉体的ダメージを与えてからの、おヒゲ喪失という精神的ダメージ。
 でもって手でむしるという行為を目の当たりにするのは、単に切られるよりもヘビーな精神的苦痛になりそうだ。
 私にヒゲは無いから分からないけど、ネコ科のヒゲが大切なものなのは周知の事実で。
 ━━ものすんごいトラウマになりそう。

「なに、ニーニャって夏樹と付き合ってんの?」
「街の方でたまたま再会して何年も同棲してたんだってよ。それが夏樹の方が急にいなくなったあげく、冬ごもりも春も帰らずにほったらかしだったんだと」
 ああ━━
 そりゃそれぐらいされて当然だわ。
 周囲の皆さんの疑問にワシザキさんはケラケラ笑って答え、それを聞いた方もこぞって深く頷いて納得した。

 ん? という事は。
 思わず千秋さんの様子を伺えば、相変わらず殺意がにじみ出るような風貌で夏樹さんを見据えている。
 これは泥沼の展開ってやつではなかろうか。

「ごめんって、ニーニャ。『お客さん』に会うのが初めてで、ちょっと声かけただけだって。で」
 耳が完全に寝たまま、夏樹さんは腕を組んでいたニーニャさんにそっと右手を差し出した。

「うちの研究室にでかいスポンサーがついたんだ。迎えに来た」
 左手を胸に、右手を乞うように伸ばすそのポーズは、海外仕様ちっくなこっちの求婚に他ならないけれども。
 跪いているのはボディブロー並みの膝を食らった結果であって、跪かされているんであって自分で跪くのとは違うと思わざるをえない。
 と思ったら。

「馬鹿かてめぇ」
 ニーニャさんは間髪入れずバッサリ斬り捨てた。

 突然のプロポーズにその返し。
 さすがニーニャさん。すごい。
 まぁ、ニーニャさんは今千秋さんと付き合ってるはずだし。
 うっかりペロッとそう思って、当然また胸が痛んだ。

「お前、今までほったらかしにしといていきなり何言ってんだ。ニーニャの気持ちとか考えたのか」
「いや、俺もちゃんとしてから迎えに来ようと思ってて」
「だったらせめて仕事の予定くらい言って行けばよかっただろうが。黙って留守にされた方の事考えた事あるか?」
 これまで聞いた事もない厳しい声色で、千秋さんは兄だという人を責めた。

「一分を立てて、かぁ。武士みたいだねぇ」
 父が背後でのんびりとした口調で言っているけど、多分「武士」ってここじゃ通じないだろうな。

「でも女の人からしてみたら、たまんないだろうねぇ」
 父にその気は一切無い。
 けれど思いのほかはよく響いたそれは、黒獅子兄弟の兄をしとめるに十分な言葉だったと思う。
 その言葉に猛々しいはずの黒獅子さんは完全にしゅんとなった。

 無自覚な父、恐るべし。
 でもちょっとカッコイイよ、お父さん!
 でもその後「ライオンなのに『寅さん』って」と背後で父がぼそりと言って一人噴いていた。
 それ、昔の映画のフーテンとかいう職業のおじさんの話だよね? お爺ちゃんのうちにポスターが貼ってあった気がする。
 いやいや、今それ思い出す所じゃないって、おとーさん。
 せっかく見直したとこだったのに。
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