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第1章

アニス、王都へ行く①

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 二一一三年 八月某日 王の日記より
 この国は、神の加護がないという。
 そんな世界で、どうすればすべての国民が幸せに過ごせるのか。わたしの仕事は、我が国の国民G総幸N福量Hを増やすことだ。
 見解を募るべく、まずは身近な侍女に聞いてみた。

 
 二一三〇年 六月
「アニス!」
 足音を立てずにそっと入ったのだが、部屋に辿り着く前に頓狂な声に止められた。
 舎監であるこのシスターはいったいいつ休んでいるのか、寮生の行動に逐一目を光らせている。
 薄灯りの廊下でアニスは肩をすくめふり向き、きまり悪そうに頭を下げた。

「──シスター・シキミ、こんばんは」
「こんばんは、じゃありません。こんな夜遅くに何をしていたんです、アニス」
 シスター・シキミの鋭角な色眼鏡が、手に持ったランタンの灯に反射する。
「すみません、ちょっと眠れなくって」
「眠れないと、どうしてそんな格好になるのかしら」
 アニスの白いナイトウェアは、ホラー映画の悪霊のように裾が泥だらけだった。
「いえ、あの、これは……」
 
 中庭にある一晩しか花を咲かせないサボテンの一種を観察に行っていたんです、と一晩かけて説明したところで、彼女には一生わかってはもらえないだろう。
 小さく開いたいくつかの個室のドアから、少女たちがくすくすと笑い声をもらしのぞいている。
「消灯時間はとっくに過ぎてますよ。みんな早くお休みなさい!」
 シスターの手を打つ合図に、一同があわててベッドへもぐり込む。寄宿舎の誰もが、この「変わり者」のクラスメイトと距離を置いて近づこうとしなかった。

「アニス、あなたは後で舎監室にいらっしゃい」 
「あっ、お話なら今……」
 じろりと眼鏡の奥から睨まれ、やはりお説教なのか……とアニスは肩を落とした。
 舎監室に呼ばれるのは、もういったい何度目だろう。この部屋をノックするのもすっかり慣れてしまった。
「お入りなさい」
 中から抑揚のない声がしてドアを開けると、意外にもあまい香りに迎えられアニスは驚いた。
 舎監室はいつも、つんとしたハーブの清涼な香りが漂っているのに。
 
 あたたかなカップが目の前に置かれ、アニスはいささか面食らって目をまるくする。
「どうしたの? お飲みなさい」
 シスターはアニスが戸惑いながらもカップを口へ運ぶのを見ると、ホットミルクの湯気にため息を混じらせ、口を開いた。

「──アニス・リィ、あなたは成績優秀で真面目な生徒です。正直、普通教科で教えることはもうありません。今は女性も自立する時代、大変結構。土地を手放す没落貴族もいることですし、殿方に頼る世の中でもありません」
 ほめられて照れるアニスを、三角眼鏡がきらりと睨む。
「普通教科だけです。今日はマナーの授業でしたね?」
 
 お客さまにお茶を出すという、実践の授業。茶托を湯呑みにくっつけたまま出し、担当教師に注意されたアニスは、意気揚々とその理由と改善策を述べたのだ。
「接着は、茶托と湯呑みの間の温度の上昇によって起こります。これを回避するためには、お茶の温度と茶托の形状を考える必要があり、これによって効率のよい──」
 教室は失笑の嵐だった。
 憤慨する担当教師が報告した状況を安易に想像できたシスター・シキミは、額に手を当て言った。

「……そう、あなたは奇行が目立ちすぎるの。こんな夜更けまで起きているのは、今夜だけのことではないでしょう。いつも顔色が悪いですからね」
 自分が不健康な生活をしているのは、重々承知だ。「顔色が悪い」頬をぽりぽりとかくアニスに、シスター・シキミは淡々と続ける。
「わたしはあなたの母親ではありませんが、ここを卒業するからには、わたしはあなたを品行方正なレディに躾けるつもりですよ」
 
 アニスは、小さな頃から知識欲の高い子だった。
 唯一の家族である母親は、彼女が生まれてすぐに亡くなり、教会裏の墓地で眠っている。身よりのないアニスは、教会の援助金で成り立つこの女学院の寄宿舎で育てられた。
 見るものすべてに「なぜ、どうして」を連発するので、手を焼いたシスターたちはついに六法全書ほどの厚さのある辞典を、わずか六歳の少女に買い与えた。
 
 そもそもアニスは変わった子どもだった。
 その年頃の女の子はお人形さんやおままごと、着せ替えゲームなどで遊ぶものだが、彼女の興味の対象は昆虫や草木の生態、空や海など自然に関することで、放っておくと日がな一日夢中で虫を追いかけたり、雲の動きを観察したりして過ごした。
 特に好きなのはもの作りで、時間さえあれば風を計算しながら手作りの凧を上げたり、薬草を使って簡単な薬などを作ることに費やした。
 
 同年代の子どもたちも周りの大人も、そんなアニスを呆れて相手にしなかったが、彼女は十歳で生物学、地球科学、物理、天文など自然科学を学び、中等部を卒業する頃には大学院博士課程を修了した。
 だが白衣で学院内を闊歩するアニスを、クラスメイトたちは「リィ博士」と遠巻きに笑って揶揄した。
 それが、若干十六歳で本物の博士の称号を持つ天才少女に対するやっかみだと、「なぜ」と考えても彼女にはわからなかった。
 自然科学のプロでも、ひとのこころの機微を知るにはまだ幼かったのだ。

「すみません、シスター・シキミ。わたし、育てていただいて感謝しています。でも、わくわくするものを目の前にすると、衝動が抑えきれないんです。もっと、いろんなことを知りたいんです」
 熱弁するアニスにシスターは再びため息をつくと、
「──わかりました。それを飲んだらお休みなさい。明日は墓地の掃除当番ですからね。それから、初夏とはいえ夜はまだ冷えるわ、新しい夜着に着替えて。ひどい格好ですよ」
 と、部屋へ帰るよう促した。
「はい。おやすみなさい、シスター・シキミ」
 
 すごすごと自室へもどり、鏡を見る。
「ほんとだ、ひどい格好──ふわっくしょい!」
 鼻腔を細かな粒子でくすぐられ、続けざまにくしゃみが出た。防具をつけないで外に出たので、目も痛むしのどもイガイガする。
 外は降灰だ。せめてマスクくらいはつけていけばよかった。編み込みをひっつめた髪にも灰が積もって白髪のようだ。
(同じ灰かぶりでも童話のお姫さまとは大違い。こっちは、ただの冴えない女の子だもの)
 身に纏っているのも、レースのドレスなどではなく、ただの着古した木綿のナイトウェア。
(でも──)
 
 闇に浮かび上がる白い優美な花弁と濃厚な香りを思い浮かべ、アニスはうっとりと頬を染めた。
(月下美人、すごくきれいだったな)
 きれいなものを見ると、自分も少しは浄化される気がする。ただおだやかに過ぎてゆく日々の違和感も、身の置き所がない息苦しさも消え、呼吸がスムーズに流れるのを感じる。
 気分がいいので白衣に着替え、実験途中の作業を再開した。どのみち今夜は、開花に立ち会えた興奮で眠れそうにない。
 
 シスター・シキミがまたすっ飛んで来ないよう、灯りはできるだけ絞った。ふんふんと鼻歌を交えながら、唐辛子の入った乳鉢をごりごりと懸命に摺り続ける。
 自分で育てた鉢植えから採ったハーブであたたかなお茶を淹れ、アニスが充実感に浸っていると、いつの間にか薄曇りの朝が明け始めていた。

 
 この国は、灰が降りやまない。
 昼夜を問わずひとはマスクを身に着け、真夏でも砂上を歩くためのマントやブーツが必須である。
 視界はいつも仄白くかすみ、青空を拝めることはまれだ。
 街では火山灰専用の道路清掃車ロードスイーパーが、ゆっくりと滑りながら降り積もった灰を吸引し、その後をついて行くように散水車が道を洗い流してゆく。
 
 灰は、街から湾を隔てた火山の噴火によってもたらされる。
(『丘』なら、降灰に影響を受けることはないのに)
 誰もが羨望のまなざしで見上げた視界の先には、小山にそびえる巨大なドームが砂塵にけぶって建っていた。

『丘』に居住区をかまえる灰桜カイオウ国上位階層区グレーターの住人にとって、おおよその用事はこのドーム内で事足りる。
 企業、学校、病院にショッピングモール。庶民階層区のコミューンにはない、ホテルの屋外プールやオープンテラスのカフェもここでは利用できる。
 地下にはシェルターも設置されているこのドームでは、誰も防具を着ける必要もなく、みなそれぞれ流行りのファッションを楽しんでいる。
 見上げれば、突き抜けるような初夏の青い空。丸天井のモニター映像ではあるが、3Dグラフィックで映し出されたリアルな夏雲の演出と温度設定で、じゅうぶん季節感は味わえる。雨が降らないぶん、湿度調整も完璧だ。
 
 そして、小高い居住区にさらに君臨するように建っているのが、王族の住まう桜城だ。
 ぐるりと堀に囲まれたまっ白で高い壁のてっぺんには、はるか昔の戦いの名残りである矢を射るための狭間が刻まれている。常時、カメラはグレーターを見はるかし、不法に侵入する者がいないか、日夜見はっている。
 そんな完璧な要塞である桜城では今、三人の元老院による首脳会議が、ティーカップを片手に和やかに行われていた。

「──王が崩御されて七日か」
「そろそろ、我が国の嚮後を考えませんと」
「いつまでも玉座が不在では不便ですしな」
「しかしキノコで食中毒とは、まことに残念な死因」
「そうですなあ。あ、お茶のおかわりをいただけますかな」
「ではわたくしも」
 やれやれと、みな肩をすくめお茶を飲む。

「……で、どこで仕入れたキノコでしたっけ」
「確かアレですよ、政府主催のキノコ狩りイベントの」
「何やら陰謀を感じますな」
「誰の陰謀だと言うんだ」
 入って来た長靴ちょうかの音に、一同はさっと口を噤んだ。
「いやいや、別にあなたのことではありませんよ。ウツギ議員」
「いや、もうそういうのはいい。世継ぎのいない王亡き後、王位継承権があるのは確かに彼の実弟であるわたしだ。あらぬ疑いをかけられるのも当然だが……これだけは言っておく」
 ウツギと呼ばれた男性は、コホンと咳払いをするとやおら身を乗り出して言った。

「わたしは政治家で、いっぱいいっぱいなんだ! ぜっったいに国王などやらん!」
「ではご子息のシュウカイドウさまは……」
「あいつはここ数年、自分の縄ばりから一歩も出て来ん。十八にもなって引きこもったままの息子に、国務が務まるか」
「ですが、王家の血を継ぐ者は他におりませんよ。こうして我々を召集されたということは、何か提案がおありなのでしょう」
 
 眉をしかめる元老院のひとりに、何か言いかけてウツギは口を閉じた。
 献身的に政務を司るものの万年疲労気味のウツギ議員は、野心家で我の強い近衛連隊最高司令官、ハオウジュ将軍と対照的にメディアで取り上げられることが多い。
 それゆえ、日々自分に圧をかけて来るこの老人たちが、ウツギは苦手だった。
 国王になどなったら元老院だけではない、貴族の支持も必要とされる。毎日彼らの望む裁決に頭を悩ませなくてはならない。そんな重責にウツギは耐えられる気がしなかった。

「千人目の世継ぎは王国を開く者──」
 ようやくウツギが口にした言葉に、元老院らが顔を見あわせる。
「それは──我々ですら失念しておりました、カビの生えた古い言い伝えですな。どうされました、いきなり」
 国が創生された遠い昔、三賢者が残した言葉を初代国王が城の地下に彫らせたという。三賢者のレリーフとともに石碑に残るその言葉は、重役連も一度は目にしているはずだ。   
 だが地下自体忘れられた場所であり、価値観の目まぐるしい現代において予言のような碑文など、誰も気に留める者はいなかった。

「だから……次に王国を継ぐ者が千人目なのだ」
 ウツギは難しい顔でソファに沈む。
「数えたんですか閣下。ヒマですな」
「そんな眉唾ものの伝説にまですがるとは」
「よほど国王をやりたくないと見える」
 容赦ない突っ込みに、ウツギは顔をまっ赤にして立ち上がった。

「違う! 本当に継承者はいるのだ!」
「どこにそんな者が? 聞いたこともないですぞ」
「初耳なのも無理はない。これはわたししか知らん出来事だったからな」
 会議室にざわめきが走った。

「実は兄は十七年前、おつきの侍女とただ一度、過ちを犯した。彼も若かったのだ。なのになぜかその後伴侶を得ることもなく……」
「モノローグは結構。で、その侍女は今どこに?」
「確かスイレンといったか──彼女はコミューンで女児を生んだ後、姿を消した。スイレンの娘は、生きていれば十六になる」
「それだけでは、名前も行方がわからんではないですか」
 元老院の面々は、呆れて目配せをした。

「だからなんとかして、その子を捜し出すのだ!」
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