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本編
第2話(金)
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まぶたを上げると、目の前に白い毛玉があった。
周囲はすっかりと明るくなっており、車の走る音がちらほらと聞こえてくる。
手足を伸ばして硬くなっていた筋肉をほぐすと、毛玉がもぞりと動いてにゃあと鳴いた。ところどころ毛羽だった身体をこすりつけてきて、抜け毛がシャツに絡みついてくる。白猫に催促されるままに、頑丈な袋からドライフードをひとつかみ取り出して与えた。
餌に食いついている背中をひと撫で。すると、嫌そうに身体を捩られた。
橋桁に切り取られた空には、薄い水色が広がっていた。点々と浮かぶ雲がゆっくりと横切っていく。今日は天気がよさそうだな、とミノルは思った。白猫が食事を終えて、毛づくろいをし始める。無防備な姿勢でぺろぺろと身体を舐める姿を、なんとはなしに見守る。
日が昇り、周囲がどんどんと明るくなる。次第に人の気配がするようになってきて、ミノルは手早く後始末をすると、その場を離れるために立ち上がった。
都会はお金がかかる。
大人になって街へと繰り出すようになってから知ったことだ。
まずなんとも知れない、利用されているのかよくわからない土地がない。パズルのように空間の隙間を縫って建設されるビルやマンション、庭のない狭小の一軒家が所狭しと乱立する。座って休憩する場所は少なく、自由におにぎりを頬張る場所もない。だから、自由に出入りできて椅子にも座れるコインランドリーは、ミノルにとってそれなりに重宝する場所だった。
「おう、嬢ちゃん」
店内は閑散としていた。”指導員募集中!”と書かれた近所の道場の張り紙が、湿気を吸ってしなびている。あとは、挨拶するように手を挙げた、無精ひげのじいさんが一人だけ。
「やっと洗濯する気になったんだ」
「冬物を仕舞わんといかんけんね」
酒焼けしただみ声が店内に大きく響く。癖のようにごま塩頭を手でこすりつけながら、彼はミノルの方を見て笑っている。
七十は超えているだろうか。最近耳が遠くなってきたのか、以前よりも声を張ってしゃべるようになったから少しうるさかった。見た目もしぐさも老人に見えるけれど、雨の日も風の日も精力的にアルミ缶を集めて駆け回る体力は老人のそれではないなと、ミノルはひそかに思っていた。
ビニール袋に詰めて持ってきていた洗濯物を適当に機械の中に入れてから、人一人分をあけてじいさんの隣に腰を下ろす。途端、なにかが放り投げられてきて、慌てて受け取った。
「若者はもっと大きくならにゃいけん」
訳知り顔で頷くじいさんを横目に、またいつものお節介かと溜息をつく。
「どうせならベーコンとか生ハムとか食べたいんだけど」
「そげな高いもん買えるか」
手の中に納まったのは見慣れた缶詰だった。へこんだ側面に”いわし水煮”と大きく印字されたラベルが巻き付いている。
「まあ、ありがと」
ミノルの心の籠らない言葉に、それでもじいさんは満足そうに頬を緩めた。
年を取ると、人にものを上げたくなるらしい。特に、お腹を空かせていそうな子どもや若者には顕著だった。じいさんはそういう意味で、この近辺では有名な人だった。ホームレスを始めた当初は必要ないと断っていたけれど、そのたびにじいさんが悲しそうな顔をするものだから、いつからか絆されてしまった。
じいさんが用は済んだとばかりに立ち去っていく。きっとまたどこかのゴミ箱へ向かうのだろう。ホームレスになってからも、隙間時間を使ってあくせくと動くその姿には敬意すら湧いてくる。けれど、それだけ真面目でいてなぜ家がないのか、ミノルにはそれもよくわからなかった。
そのしっかりとした背中を見送りながら、手の中の缶詰の形をした善意を弄ぶ。
真面目でいたいと思ったこともあった。実際に努力して切り開けた未来もあった。けれど、ミノルは真面目に日々を生きることも、未来のために努力することも、もう嫌になってしまっていた。努力して、いろんなものを犠牲にしながら頑張った先にあるものが素晴らしいものだとは、もう信じられなくなっていた。
ごうんごうん、と大きな音を立てて回るドラムを見つめながら、ミノルは今日という時間をどうやって潰そうかと思案し始めた。
◇
信号待ちをしていると後ろから手が伸びてきて頬を挟まれた。特に反応しないでいると、両手が怪しく動き出し、耳や首筋をマッサージするようにくすぐってくる。
赤いランプが消え、青いランプが点灯する。しつこく肌を這う手を引き剥がして、アクセルを踏み込んだ。前方に伸びる白線に気を付けながら、バックミラー越しにやめろと訴えても、背後から漂ってくる不穏な気配は収まる兆しを見せない。周囲をちらりと見れば、どこも真っ暗で近くに車はいない。事故る可能性の低い場所を選んで仕掛けてきたリミに、思わず舌打ちしそうになった。
「今日も寄ってくでしょ?」
耳元でささやかれて、慌ててブレーキを踏んだ。びくりと反応した身体にまた指先が伸びてくる感触がして、迷いなくハザードランプを灯す。
「運転中はやめて」
「車も人もいないじゃん」
垂れていた前髪を払いつつ不敵に笑ったリミは、どう見ても自制する気がなかった。
大げさに溜息をついて不満を示すも、どこ吹く風と彼女の表情は変わらない。
「やめて」
シートベルトを外して後ろを睨みつける。
それでも、リミはにやにやと笑いながら、ミノルの頬に手を伸ばしてきた。逃げられないように固定されて、ゆっくりと顔を近づけてくる。流れるように口づけられそうになって、ミノルは慌てて隙間に手を差し込んだ。
「嫌だって前に言ったよね」
迫った顔を遠ざけながら文句を言うと、リミも不満そうに顔をしかめる。
「キスぐらいさせてよ。そしたら手は出さないし」
「だから、キスは嫌いなんだって」
ぐいぐいと近付こうとする顔を力づくで押し返す。力比べでは負けない自信はあったけれど、彼女に言うことを聞かせられるかどうかはまた別の話だった。
引く気のない相手を、怪我させずに大人しくさせるにはどうしたらいいのか。リミと出会ってからずっと突きつけられてきた問いだけれど、ミノルはその答えを未だに見つけられずにいた。
「キスしてくれたら五千円あげる」
相手が引かないのなら、自分が折れるしかない。今夜もまた、ミノルは白旗を上げる以外の道を見つけることができなかった。ただ、それはそれとして譲れないものは、ちゃんと守らなければならない。
「キスはしない。……そんなに我慢できないなら、今ここで相手してあげる」
瞬間、彼女の瞳が暗闇の中で輝いた。好色そうにゆがめられた唇から舌先がちらりとのぞき、それに少しだけあてられる。
サイドブレーキをしっかりと引いて、後部座席に乗り込んだ。座面に膝立ちするように促して、背後から性急にスカートを捲る。
いつから期待していたのだろう。思った以上にどろどろになっていたそこを、配慮も遠慮もなく刺激していく。
リミが背もたれにしがみつきながら身悶えする。今車内をのぞかれたら絶対に通報されるだろうな、と思った。彼女を喜ばせながら、絶え間なく周囲にも視線を走らせる。人気はないけれど、いつ誰かが来てもおかしくはない状況だ。手早く終わらせるために、逃げようとする腰を抑え込んで深く穿っていった。
汗にまみれながら二人で車を揺らすこと十数分。
なんとか通報されず、また車を汚さずに事を終えた。
満足げな表情をした彼女から、またしようね、と言われたけれど、ひどく疲れたので二度としたくはなかった。けれど、彼女がそう望めばきっとその通りになってしまうんだろう。そう思って、ミノルは大きく溜息をついた。
周囲はすっかりと明るくなっており、車の走る音がちらほらと聞こえてくる。
手足を伸ばして硬くなっていた筋肉をほぐすと、毛玉がもぞりと動いてにゃあと鳴いた。ところどころ毛羽だった身体をこすりつけてきて、抜け毛がシャツに絡みついてくる。白猫に催促されるままに、頑丈な袋からドライフードをひとつかみ取り出して与えた。
餌に食いついている背中をひと撫で。すると、嫌そうに身体を捩られた。
橋桁に切り取られた空には、薄い水色が広がっていた。点々と浮かぶ雲がゆっくりと横切っていく。今日は天気がよさそうだな、とミノルは思った。白猫が食事を終えて、毛づくろいをし始める。無防備な姿勢でぺろぺろと身体を舐める姿を、なんとはなしに見守る。
日が昇り、周囲がどんどんと明るくなる。次第に人の気配がするようになってきて、ミノルは手早く後始末をすると、その場を離れるために立ち上がった。
都会はお金がかかる。
大人になって街へと繰り出すようになってから知ったことだ。
まずなんとも知れない、利用されているのかよくわからない土地がない。パズルのように空間の隙間を縫って建設されるビルやマンション、庭のない狭小の一軒家が所狭しと乱立する。座って休憩する場所は少なく、自由におにぎりを頬張る場所もない。だから、自由に出入りできて椅子にも座れるコインランドリーは、ミノルにとってそれなりに重宝する場所だった。
「おう、嬢ちゃん」
店内は閑散としていた。”指導員募集中!”と書かれた近所の道場の張り紙が、湿気を吸ってしなびている。あとは、挨拶するように手を挙げた、無精ひげのじいさんが一人だけ。
「やっと洗濯する気になったんだ」
「冬物を仕舞わんといかんけんね」
酒焼けしただみ声が店内に大きく響く。癖のようにごま塩頭を手でこすりつけながら、彼はミノルの方を見て笑っている。
七十は超えているだろうか。最近耳が遠くなってきたのか、以前よりも声を張ってしゃべるようになったから少しうるさかった。見た目もしぐさも老人に見えるけれど、雨の日も風の日も精力的にアルミ缶を集めて駆け回る体力は老人のそれではないなと、ミノルはひそかに思っていた。
ビニール袋に詰めて持ってきていた洗濯物を適当に機械の中に入れてから、人一人分をあけてじいさんの隣に腰を下ろす。途端、なにかが放り投げられてきて、慌てて受け取った。
「若者はもっと大きくならにゃいけん」
訳知り顔で頷くじいさんを横目に、またいつものお節介かと溜息をつく。
「どうせならベーコンとか生ハムとか食べたいんだけど」
「そげな高いもん買えるか」
手の中に納まったのは見慣れた缶詰だった。へこんだ側面に”いわし水煮”と大きく印字されたラベルが巻き付いている。
「まあ、ありがと」
ミノルの心の籠らない言葉に、それでもじいさんは満足そうに頬を緩めた。
年を取ると、人にものを上げたくなるらしい。特に、お腹を空かせていそうな子どもや若者には顕著だった。じいさんはそういう意味で、この近辺では有名な人だった。ホームレスを始めた当初は必要ないと断っていたけれど、そのたびにじいさんが悲しそうな顔をするものだから、いつからか絆されてしまった。
じいさんが用は済んだとばかりに立ち去っていく。きっとまたどこかのゴミ箱へ向かうのだろう。ホームレスになってからも、隙間時間を使ってあくせくと動くその姿には敬意すら湧いてくる。けれど、それだけ真面目でいてなぜ家がないのか、ミノルにはそれもよくわからなかった。
そのしっかりとした背中を見送りながら、手の中の缶詰の形をした善意を弄ぶ。
真面目でいたいと思ったこともあった。実際に努力して切り開けた未来もあった。けれど、ミノルは真面目に日々を生きることも、未来のために努力することも、もう嫌になってしまっていた。努力して、いろんなものを犠牲にしながら頑張った先にあるものが素晴らしいものだとは、もう信じられなくなっていた。
ごうんごうん、と大きな音を立てて回るドラムを見つめながら、ミノルは今日という時間をどうやって潰そうかと思案し始めた。
◇
信号待ちをしていると後ろから手が伸びてきて頬を挟まれた。特に反応しないでいると、両手が怪しく動き出し、耳や首筋をマッサージするようにくすぐってくる。
赤いランプが消え、青いランプが点灯する。しつこく肌を這う手を引き剥がして、アクセルを踏み込んだ。前方に伸びる白線に気を付けながら、バックミラー越しにやめろと訴えても、背後から漂ってくる不穏な気配は収まる兆しを見せない。周囲をちらりと見れば、どこも真っ暗で近くに車はいない。事故る可能性の低い場所を選んで仕掛けてきたリミに、思わず舌打ちしそうになった。
「今日も寄ってくでしょ?」
耳元でささやかれて、慌ててブレーキを踏んだ。びくりと反応した身体にまた指先が伸びてくる感触がして、迷いなくハザードランプを灯す。
「運転中はやめて」
「車も人もいないじゃん」
垂れていた前髪を払いつつ不敵に笑ったリミは、どう見ても自制する気がなかった。
大げさに溜息をついて不満を示すも、どこ吹く風と彼女の表情は変わらない。
「やめて」
シートベルトを外して後ろを睨みつける。
それでも、リミはにやにやと笑いながら、ミノルの頬に手を伸ばしてきた。逃げられないように固定されて、ゆっくりと顔を近づけてくる。流れるように口づけられそうになって、ミノルは慌てて隙間に手を差し込んだ。
「嫌だって前に言ったよね」
迫った顔を遠ざけながら文句を言うと、リミも不満そうに顔をしかめる。
「キスぐらいさせてよ。そしたら手は出さないし」
「だから、キスは嫌いなんだって」
ぐいぐいと近付こうとする顔を力づくで押し返す。力比べでは負けない自信はあったけれど、彼女に言うことを聞かせられるかどうかはまた別の話だった。
引く気のない相手を、怪我させずに大人しくさせるにはどうしたらいいのか。リミと出会ってからずっと突きつけられてきた問いだけれど、ミノルはその答えを未だに見つけられずにいた。
「キスしてくれたら五千円あげる」
相手が引かないのなら、自分が折れるしかない。今夜もまた、ミノルは白旗を上げる以外の道を見つけることができなかった。ただ、それはそれとして譲れないものは、ちゃんと守らなければならない。
「キスはしない。……そんなに我慢できないなら、今ここで相手してあげる」
瞬間、彼女の瞳が暗闇の中で輝いた。好色そうにゆがめられた唇から舌先がちらりとのぞき、それに少しだけあてられる。
サイドブレーキをしっかりと引いて、後部座席に乗り込んだ。座面に膝立ちするように促して、背後から性急にスカートを捲る。
いつから期待していたのだろう。思った以上にどろどろになっていたそこを、配慮も遠慮もなく刺激していく。
リミが背もたれにしがみつきながら身悶えする。今車内をのぞかれたら絶対に通報されるだろうな、と思った。彼女を喜ばせながら、絶え間なく周囲にも視線を走らせる。人気はないけれど、いつ誰かが来てもおかしくはない状況だ。手早く終わらせるために、逃げようとする腰を抑え込んで深く穿っていった。
汗にまみれながら二人で車を揺らすこと十数分。
なんとか通報されず、また車を汚さずに事を終えた。
満足げな表情をした彼女から、またしようね、と言われたけれど、ひどく疲れたので二度としたくはなかった。けれど、彼女がそう望めばきっとその通りになってしまうんだろう。そう思って、ミノルは大きく溜息をついた。
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