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本編
第9話(火)
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雨が降り続く。これで三日目だった。
昨夜は身体を拭いて寝たけれど、やはり汗臭さは否めなかった。ついでに服からは生乾きのような臭いも漂ってき始めて、ミノルは顔をしかめた。
いつものようにネコがやってきて、足元に絡みついてくる。ネコにとってミノルの体臭は悪臭ではないらしい。いつも通りの様子に、いっそ猫になれたらよかったのにと非現実的なことを思った。
今日はなんとしても銭湯にいかなければならない。
けれども、身体が動かなかった。億劫だと叫ぶ本能が、文明的な生活をしようとする理性を容易に打ち負かす。
いっそのこと、雨の中に身を晒してしまえばいいのではないかと思った。着ている服も洗濯できて一石二鳥かもしれない。その甘い誘惑に抗えず、ミノルはふらりと立ち上がった。まずは手を伸ばして、降りしきる雨を手のひらで感じとる。
「冷た……」
全身を濡らすには低すぎる水温だった。とてもではないけれど、水浴びする気になれる温度ではない。それでも身体に感じる痒みとべたつき、さらには臭いがいっぺんに消えるという誘惑が、ミノルの思考を汚染する。ちょっとだけなら。誘惑に勝てないミノルの理性が、少しだけなら大丈夫じゃないかと甘くささやく。
逡巡して、空を見上げて、特別な決意もなく頭の先を橋の下から出そうとして。視線をぐるりと巡らせたその時、見知った顔を見つけてしまった。けれども動き出した身体はすぐには止まらない。慣性に従って橋の下から飛び出た頭には、容赦なく雨水が降り注いだ。
水滴がミノルの髪を勢いよく濡らす。思ったよりも強い雨だったため、一瞬でびしょびしょになった。
「なにしてるの!」
アズサがいた。濡れた髪もそのままに、ぼんやりと佇むミノルの腕をとって、橋の下に引っ張り込まれた。状況が理解できなくて、横に寝かせていた頭を持ち上げると、冷たい水が首筋を流れ落ちていってぞくりとする。アズサがカバンから取り出したらしきタオルを持って、ミノルの髪の毛と濡れた肌を乱暴に拭っていく。わしわしと飼い犬にするかのように頭を撫でまわされて、その手から逃げるように後ずさった。
「なに?」
彼女はいつもの、だらしのない恰好ではなかった。街中を歩いても違和感がないような、動きやすく小ぎれいな恰好をしている。彼女はミノルの問いかけには答えず、ワイド気味のゆったりとしたパンツを揺らしながら近寄ってくる。きっと、彼女からはミノルはひどく薄汚れて見えるだろう。特に体臭はごまかしようがないから、近付かれるのも遠慮したい気分だった。
アズサが詰める距離と同じ分だけ、ミノルは後ろに下がった。間合いを保つのは得意だった。まともに生きていた頃の、区切られたコートの中で逃げまわった経験も無駄ではなかったらしい。捕まえようと伸びてくる手をひょい、ひょいとステップを踏みながら躱す。
「なんで逃げるの!」
捕まらないミノルにしびれを切らしたのか、アズサが大きな声を出した。少し動いただけなのに、既に息が上がっている。見た目通り運動に縁がないのだろうな、と他人事のように思った。
「こっちに来て」
「今臭うからイヤ」
「いいから」
手招きする彼女にしぶしぶと従うと、手首をがっちりと握られた。逃がさない、という意思を強く感じる。けれども、ミノルにとってその手から逃れるのは簡単なことだった。人は軟体動物ではないということを、アズサにわかってもらうのもいいかもしれない。そんなことを考えていると、彼女が息を整え終えたのか口を開いた。
「もう二、三日雨が降ってるよね?」
「そうだね」
「川も増水してるよね?」
横目に見た川は茶色く濁っている。よく見れば、確かに記憶よりも高い位置で白波が立っていた。
「警報は出てなかったけど」
「普通の家にいてくれればそれでよかったんだけどね。ここは河川敷だから警報はあてにならないよ」
そうなんだ、とミノルは思った。
ここに住み始めて数か月。問題なく過ごせたと思っていたのは、ただ単に運がよかっただけらしい。
「だから行くよ」
「どこへ?」
アズサが腕を強く引っ張ってきた。綱引きするようにミノルも抵抗を示す。うち、と予想通りの答えが返ってきて、ミノルは眉間にしわを寄せた。
「嫌だ」
理由は、リミの時と同じだった。返せない借りを作る気にはなれない。それに、この場所にいなければいいだけなら、行先などいくらでもあるのだ。
ミノルの返事を聞いたアズサの顔が、いよいよもって怒りに歪み始めた。最初から怒鳴っていたから今更な気がしなくもないけれど、それでも彼女の苛立ちがこうして露骨に表現されたのは初めてのことだった。彼女が殴りかかってきたら逃げようと心に決めて、ミノルはその行動を見守ることにする。
彼女は苦々し気にミノルを睨み上げると、への字に曲げられていた口を嫌そうに開いた。
「タクシー待たせてるからつべこべ言わずに来なさい。今もメーターが上がり続けてるの」
追いかけっこをしている間も、止め処なく数字が上がり続けていたのだろうか。想像してぞっとした。
抵抗する気の失せたミノルはそそくさと荷物をまとめると、心持ち背中を丸めてアズサのあとを追った。
昨夜は身体を拭いて寝たけれど、やはり汗臭さは否めなかった。ついでに服からは生乾きのような臭いも漂ってき始めて、ミノルは顔をしかめた。
いつものようにネコがやってきて、足元に絡みついてくる。ネコにとってミノルの体臭は悪臭ではないらしい。いつも通りの様子に、いっそ猫になれたらよかったのにと非現実的なことを思った。
今日はなんとしても銭湯にいかなければならない。
けれども、身体が動かなかった。億劫だと叫ぶ本能が、文明的な生活をしようとする理性を容易に打ち負かす。
いっそのこと、雨の中に身を晒してしまえばいいのではないかと思った。着ている服も洗濯できて一石二鳥かもしれない。その甘い誘惑に抗えず、ミノルはふらりと立ち上がった。まずは手を伸ばして、降りしきる雨を手のひらで感じとる。
「冷た……」
全身を濡らすには低すぎる水温だった。とてもではないけれど、水浴びする気になれる温度ではない。それでも身体に感じる痒みとべたつき、さらには臭いがいっぺんに消えるという誘惑が、ミノルの思考を汚染する。ちょっとだけなら。誘惑に勝てないミノルの理性が、少しだけなら大丈夫じゃないかと甘くささやく。
逡巡して、空を見上げて、特別な決意もなく頭の先を橋の下から出そうとして。視線をぐるりと巡らせたその時、見知った顔を見つけてしまった。けれども動き出した身体はすぐには止まらない。慣性に従って橋の下から飛び出た頭には、容赦なく雨水が降り注いだ。
水滴がミノルの髪を勢いよく濡らす。思ったよりも強い雨だったため、一瞬でびしょびしょになった。
「なにしてるの!」
アズサがいた。濡れた髪もそのままに、ぼんやりと佇むミノルの腕をとって、橋の下に引っ張り込まれた。状況が理解できなくて、横に寝かせていた頭を持ち上げると、冷たい水が首筋を流れ落ちていってぞくりとする。アズサがカバンから取り出したらしきタオルを持って、ミノルの髪の毛と濡れた肌を乱暴に拭っていく。わしわしと飼い犬にするかのように頭を撫でまわされて、その手から逃げるように後ずさった。
「なに?」
彼女はいつもの、だらしのない恰好ではなかった。街中を歩いても違和感がないような、動きやすく小ぎれいな恰好をしている。彼女はミノルの問いかけには答えず、ワイド気味のゆったりとしたパンツを揺らしながら近寄ってくる。きっと、彼女からはミノルはひどく薄汚れて見えるだろう。特に体臭はごまかしようがないから、近付かれるのも遠慮したい気分だった。
アズサが詰める距離と同じ分だけ、ミノルは後ろに下がった。間合いを保つのは得意だった。まともに生きていた頃の、区切られたコートの中で逃げまわった経験も無駄ではなかったらしい。捕まえようと伸びてくる手をひょい、ひょいとステップを踏みながら躱す。
「なんで逃げるの!」
捕まらないミノルにしびれを切らしたのか、アズサが大きな声を出した。少し動いただけなのに、既に息が上がっている。見た目通り運動に縁がないのだろうな、と他人事のように思った。
「こっちに来て」
「今臭うからイヤ」
「いいから」
手招きする彼女にしぶしぶと従うと、手首をがっちりと握られた。逃がさない、という意思を強く感じる。けれども、ミノルにとってその手から逃れるのは簡単なことだった。人は軟体動物ではないということを、アズサにわかってもらうのもいいかもしれない。そんなことを考えていると、彼女が息を整え終えたのか口を開いた。
「もう二、三日雨が降ってるよね?」
「そうだね」
「川も増水してるよね?」
横目に見た川は茶色く濁っている。よく見れば、確かに記憶よりも高い位置で白波が立っていた。
「警報は出てなかったけど」
「普通の家にいてくれればそれでよかったんだけどね。ここは河川敷だから警報はあてにならないよ」
そうなんだ、とミノルは思った。
ここに住み始めて数か月。問題なく過ごせたと思っていたのは、ただ単に運がよかっただけらしい。
「だから行くよ」
「どこへ?」
アズサが腕を強く引っ張ってきた。綱引きするようにミノルも抵抗を示す。うち、と予想通りの答えが返ってきて、ミノルは眉間にしわを寄せた。
「嫌だ」
理由は、リミの時と同じだった。返せない借りを作る気にはなれない。それに、この場所にいなければいいだけなら、行先などいくらでもあるのだ。
ミノルの返事を聞いたアズサの顔が、いよいよもって怒りに歪み始めた。最初から怒鳴っていたから今更な気がしなくもないけれど、それでも彼女の苛立ちがこうして露骨に表現されたのは初めてのことだった。彼女が殴りかかってきたら逃げようと心に決めて、ミノルはその行動を見守ることにする。
彼女は苦々し気にミノルを睨み上げると、への字に曲げられていた口を嫌そうに開いた。
「タクシー待たせてるからつべこべ言わずに来なさい。今もメーターが上がり続けてるの」
追いかけっこをしている間も、止め処なく数字が上がり続けていたのだろうか。想像してぞっとした。
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