3 / 62
どうせ結婚するのだから
しおりを挟む
再び涙が零れる。どうしようもなく怖かった。
身に覚えのない婚約や、純潔を失ったことに対してではない。
もっと重大なことを忘れているような、切迫した恐怖だった。
焦燥感……それが何に対してなのか分からず、気持ち悪い。
殿下は濡れたハンカチを取り換え、清潔なものでもう一度目元を拭ってくれる。
予備をポケットに入れているということは、几帳面な方なのかしら……。
昨夜の閨で、彼が欲望に苛まれながらも「順番を守ろう」と訴えてきたことを思い出す。
「俺はずっと君に求婚していたが、何度も断られてきた。しかし昨夜の君は積極的で──こう言ってはなんだが、部屋に入るなり、俺に襲い掛かってきたのだ」
襲いかかった!?
殿下は仰天する私を見て、慌てたように両腕を広げた。
「大丈夫だ、俺は嬉しかった。さあ、この腕に飛び込んでおいで」
「……殿下……恐れ多くて、それはできません」
「む……確かに、君にとって俺は今、ただの知らない男か」
美しい唇から、深いため息が落ちる。
「記憶が無ければ王太子を恐れ多いと思うのは当然のこと……。ただ、以前は殿下ではなくアルフォンス、あるいはアルと呼んでくれていた」
寂しそうな目をされて心苦しいけど──。
「殿下を呼び捨てにするなんて信じられません。ましてやそんな関係を迫るなんて、淑女にあるまじき行為……」
悄然と項垂れる私の耳に、笑いを含んだ声が聞こえた。
「昨夜は淑女ではなかったが? 何度も色っぽい声で俺を欲しがった」
うう……それは覚えている。
だって今も、彼の声を聞くだけで下腹部がきゅっと引き締まり、あの快楽を突きつけてくるのだから。
覚えていないのは閨の前の全て──。
上目遣いに彼の様子を伺うと、目尻を下げて口元を綻ばせた殿下と視線が合った。
うぅうう、殿下って偉そうだけど、見た目が完璧すぎる。それだけじゃない、妙に艶っぽい。
「わたくしは、なんてことをしてしまったのでしょう……」
婚約に至った経緯を置いておいても、まだ正式に結婚もしていないのに……。
「どうということはない」
殿下はヒョイと肩を竦めてみせた。
「どうせ結婚するのだからな。早いか遅いかの違いではないか」
「殿下……ですが──」
「ならぬ。俺と君の体の関係は、無かったことにはできない」
傲慢な琥珀色の瞳が私の下腹部に向けられ、次の瞬間、彼の唇の端が吊り上がった。
「俺の子種が根付くかもしれん」
やはりこの方は王族だ。そう思わせる傲慢な一面を見た気がした。
こんな状態で王太子の子を──この国の世継ぎを妊娠していたらと思うと……。
「ただ……」
殿下の眉間に皺が寄る。
「いつもちょっと冷たいんじゃないかと思うほど理知的だった君が、自制を失い、あれほど淫らに乱れるのは少し妙だ。あんな君を見れば、さすがの俺も初夜まで待つことなど──おっと……」
顔が熱くなり、俯いてしまった私に気づき、殿下は咳払いした。
「それ以上、おっしゃらないで」
昨夜のことを言われるのは恥ずかしい。
「参ったな」
殿下は立ち上がり、窓辺へと歩いた。窓枠に手をつき、しばらく空を眺める。
やがて背筋を伸ばし、またソファに戻ってきた。
「…………?」
一連の行動に、私は首をかしげる。
「ふぅ……。君の近くにいると……股間……その……落ち着かせていたんだ。いや、気にしないでいい」
殿下は苦笑し、腕を組んで宙を睨んだ。
「とにかく、様子が妙だとは思った。……よし──」
王太子は勢いよく立ち上がる。
「あのタヌキめ、宴でやたら俺に酒を注いできたからな。君も泥酔させたのかもしれない」
「タヌキ?」
きょとんとして聞き返すと、彼は王族らしい横柄な口調で告げた。
「これだけは覚えておけ。君は俺と結婚する。それだけは変えられない」
身に覚えのない婚約や、純潔を失ったことに対してではない。
もっと重大なことを忘れているような、切迫した恐怖だった。
焦燥感……それが何に対してなのか分からず、気持ち悪い。
殿下は濡れたハンカチを取り換え、清潔なものでもう一度目元を拭ってくれる。
予備をポケットに入れているということは、几帳面な方なのかしら……。
昨夜の閨で、彼が欲望に苛まれながらも「順番を守ろう」と訴えてきたことを思い出す。
「俺はずっと君に求婚していたが、何度も断られてきた。しかし昨夜の君は積極的で──こう言ってはなんだが、部屋に入るなり、俺に襲い掛かってきたのだ」
襲いかかった!?
殿下は仰天する私を見て、慌てたように両腕を広げた。
「大丈夫だ、俺は嬉しかった。さあ、この腕に飛び込んでおいで」
「……殿下……恐れ多くて、それはできません」
「む……確かに、君にとって俺は今、ただの知らない男か」
美しい唇から、深いため息が落ちる。
「記憶が無ければ王太子を恐れ多いと思うのは当然のこと……。ただ、以前は殿下ではなくアルフォンス、あるいはアルと呼んでくれていた」
寂しそうな目をされて心苦しいけど──。
「殿下を呼び捨てにするなんて信じられません。ましてやそんな関係を迫るなんて、淑女にあるまじき行為……」
悄然と項垂れる私の耳に、笑いを含んだ声が聞こえた。
「昨夜は淑女ではなかったが? 何度も色っぽい声で俺を欲しがった」
うう……それは覚えている。
だって今も、彼の声を聞くだけで下腹部がきゅっと引き締まり、あの快楽を突きつけてくるのだから。
覚えていないのは閨の前の全て──。
上目遣いに彼の様子を伺うと、目尻を下げて口元を綻ばせた殿下と視線が合った。
うぅうう、殿下って偉そうだけど、見た目が完璧すぎる。それだけじゃない、妙に艶っぽい。
「わたくしは、なんてことをしてしまったのでしょう……」
婚約に至った経緯を置いておいても、まだ正式に結婚もしていないのに……。
「どうということはない」
殿下はヒョイと肩を竦めてみせた。
「どうせ結婚するのだからな。早いか遅いかの違いではないか」
「殿下……ですが──」
「ならぬ。俺と君の体の関係は、無かったことにはできない」
傲慢な琥珀色の瞳が私の下腹部に向けられ、次の瞬間、彼の唇の端が吊り上がった。
「俺の子種が根付くかもしれん」
やはりこの方は王族だ。そう思わせる傲慢な一面を見た気がした。
こんな状態で王太子の子を──この国の世継ぎを妊娠していたらと思うと……。
「ただ……」
殿下の眉間に皺が寄る。
「いつもちょっと冷たいんじゃないかと思うほど理知的だった君が、自制を失い、あれほど淫らに乱れるのは少し妙だ。あんな君を見れば、さすがの俺も初夜まで待つことなど──おっと……」
顔が熱くなり、俯いてしまった私に気づき、殿下は咳払いした。
「それ以上、おっしゃらないで」
昨夜のことを言われるのは恥ずかしい。
「参ったな」
殿下は立ち上がり、窓辺へと歩いた。窓枠に手をつき、しばらく空を眺める。
やがて背筋を伸ばし、またソファに戻ってきた。
「…………?」
一連の行動に、私は首をかしげる。
「ふぅ……。君の近くにいると……股間……その……落ち着かせていたんだ。いや、気にしないでいい」
殿下は苦笑し、腕を組んで宙を睨んだ。
「とにかく、様子が妙だとは思った。……よし──」
王太子は勢いよく立ち上がる。
「あのタヌキめ、宴でやたら俺に酒を注いできたからな。君も泥酔させたのかもしれない」
「タヌキ?」
きょとんとして聞き返すと、彼は王族らしい横柄な口調で告げた。
「これだけは覚えておけ。君は俺と結婚する。それだけは変えられない」
84
あなたにおすすめの小説
伯爵は年下の妻に振り回される 記憶喪失の奥様は今日も元気に旦那様の心を抉る
新高
恋愛
※第15回恋愛小説大賞で奨励賞をいただきました!ありがとうございます!
※※2023/10/16書籍化しますーー!!!!!応援してくださったみなさま、ありがとうございます!!
契約結婚三年目の若き伯爵夫人であるフェリシアはある日記憶喪失となってしまう。失った記憶はちょうどこの三年分。記憶は失ったものの、性格は逆に明るく快活ーーぶっちゃけ大雑把になり、軽率に契約結婚相手の伯爵の心を抉りつつ、流石に申し訳ないとお詫びの品を探し出せばそれがとんだ騒ぎとなり、結果的に契約が取れて仲睦まじい夫婦となるまでの、そんな二人のドタバタ劇。
※本編完結しました。コネタを随時更新していきます。
※R要素の話には「※」マークを付けています。
※勢いとテンション高めのコメディーなのでふわっとした感じで読んでいただけたら嬉しいです。
※他サイト様でも公開しています
黒の神官と夜のお世話役
苺野 あん
恋愛
辺境の神殿で雑用係として慎ましく暮らしていたアンジェリアは、王都からやって来る上級神官の夜のお世話役に任命されてしまう。それも黒の神官という異名を持ち、様々な悪い噂に包まれた恐ろしい相手だ。ところが実際に現れたのは、アンジェリアの想像とは違っていて……。※完結しました
【完結】私は義兄に嫌われている
春野オカリナ
恋愛
私が5才の時に彼はやって来た。
十歳の義兄、アーネストはクラウディア公爵家の跡継ぎになるべく引き取られた子供。
黒曜石の髪にルビーの瞳の強力な魔力持ちの麗しい男の子。
でも、両親の前では猫を被っていて私の事は「出来損ないの公爵令嬢」と馬鹿にする。
意地悪ばかりする義兄に私は嫌われている。
初恋をこじらせた騎士軍師は、愛妻を偏愛する ~有能な頭脳が愛妻には働きません!~
如月あこ
恋愛
宮廷使用人のメリアは男好きのする体型のせいで、日頃から貴族男性に絡まれることが多く、自分の身体を嫌っていた。
ある夜、悪辣で有名な貴族の男に王城の庭園へ追い込まれて、絶体絶命のピンチに陥る。
懸命に守ってきた純潔がついに散らされてしまう! と、恐怖に駆られるメリアを助けたのは『騎士軍師』という特別な階級を与えられている、策士として有名な男ゲオルグだった。
メリアはゲオルグの提案で、大切な人たちを守るために、彼と契約結婚をすることになるが――。
騎士軍師(40歳)×宮廷使用人(22歳)
ひたすら不器用で素直な二人の、両片想いむずむずストーリー。
※ヒロインは、むちっとした体型(太っているわけではないが、本人は太っていると思い込んでいる)
責任を取らなくていいので溺愛しないでください
澤谷弥(さわたに わたる)
恋愛
漆黒騎士団の女騎士であるシャンテルは任務の途中で一人の男にまんまと美味しくいただかれてしまった。どうやらその男は以前から彼女を狙っていたらしい。
だが任務のため、そんなことにはお構いなしのシャンテル。むしろ邪魔。その男から逃げながら任務をこなす日々。だが、その男の正体に気づいたとき――。
※2023.6.14:アルファポリスノーチェブックスより書籍化されました。
※ノーチェ作品の何かをレンタルしますと特別番外編(鍵付き)がお読みいただけます。
[完結」(R18)最強の聖女様は全てを手に入れる
青空一夏
恋愛
私はトリスタン王国の王女ナオミ。18歳なのに50過ぎの隣国の老王の嫁がされる。最悪なんだけど、両国の安寧のため仕方がないと諦めた。我慢するわ、でも‥‥これって最高に幸せなのだけど!!その秘密は?ラブコメディー
勘違い妻は騎士隊長に愛される。
更紗
恋愛
政略結婚後、退屈な毎日を送っていたレオノーラの前に現れた、旦那様の元カノ。
ああ なるほど、身分違いの恋で引き裂かれたから別れてくれと。よっしゃそんなら離婚して人生軌道修正いたしましょう!とばかりに勢い込んで旦那様に離縁を勧めてみたところ――
あれ?何か怒ってる?
私が一体何をした…っ!?なお話。
有り難い事に書籍化の運びとなりました。これもひとえに読んで下さった方々のお蔭です。本当に有難うございます。
※本編完結後、脇役キャラの外伝を連載しています。本編自体は終わっているので、その都度完結表示になっております。ご了承下さい。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる