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第四章
旅立ち
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(ちょっと……ちょっとお待ちなさい)
流されてしまったわ。
なんでわたくしが、先住民の妻になどならなければならないのかしら。
とりあえず、生贄と処刑はなぜだか免れたけれど。あと、一妻多夫制もダン・カンが回避してくれたけれど。
でも、妻にはなってしまった。
北へ帰りたくないのは確かだ。とは言え、愛してない男の妻になるのはやはり抵抗がある。
ダン・カン云々ではなく、故郷でも同じように思ったものだ。
所領の分割を防ぐために、領地は長兄アレクセイのものになり、自分は持参金と共にどこかに嫁にやられてしまう予定だった。他の多くの貴族令嬢たちと同じように……。
だったら姉のように軍籍に入り、一生独身の方がマシである。
幸い、アレクセイはいつまでもヴェロニカの婚約者を吟味しようとしなかったので──自分の相手すら選ばない──今に至るのだが。
新大陸には居たいけれど、結婚をしてしまえば自由ではいられなくなる。
当初の予定通り、ここから逃げる隙を窺うのよ!
そんなヴェロニカの苦悩にも関わらず、合同結婚式の宴は、すぐに執り行われた。
ダン・カンが族長に呼ばれ、皆の前でヴェロニカを紹介する。誰にでも分かるように手話で。
その横顔は無表情ながら、とても幸せそうなので、複雑な気分だった。なんで分かるかと言うと、ペニスケースがバリ勃ちだからだ。
この人だって、私のことただのパイオツだと思っているわ。妻として相応しいとは思ってないでしょうに……。
でも──。
どうしましょう。これで逃げたら、ダン・カンは恥をかくわね。
困ったわ。
「ニーカ?」
優しい声で呼ばれた。
見上げると、ダンの無表情がわずかに崩れ、穏やかな微笑が浮かんでいる。
ドキッとなった。
こんな可愛らしい顔をするなんて、ハゲのくせに反則じゃないこと? いえ、ハゲではないわね、スキンヘッドね。
スルッと手をつながれ、ますます狼狽える。
ダン・カンは片方の耳に、ヴェロニカがあげたエメラルドのピアスをしている。おそろいだ。
仕方なく、ヴェロニカもダンを見上げ、弱々しく笑い返した。
彼の黒い瞳が見開かれた。笑顔が消える。
あ、まずいわ。わたくしの気持ちがバレてしまうわ。
その時だ。
「ニーカ!?」
呼ばれてそちらに顔を向けた。
焚火を囲むように結婚の儀式を見ていた人々の中から、誰かが立ち上がった。
「うそっ!」
なんと、あれだけその身を心配していた兄だ。
なぜか、ヴァシーリィがこの場に居たのである。あんぐりと口を開けてしまうヴェロニカ。
「先住民と結婚だと? ニーカ、そんなこと許さないぞ!」
ヴァシーリィが怒気も顕に近づいてこようとする。
分かっているわよ、そんなの。
ヴェロニカは唇を噛み、ダンを上目遣いで見上げた。
ダンはそれを見てたじろぐと、一瞬で何かを悟ったような表情になった。
正確には、目の色が死んだのだ。
「……分かっている」
そう言われて、ヴェロニカはさらに困惑する。今度はヴァシーリィの方を見て言った。
「ヴァーシャ、私──」
ところが、次兄はすぐ隣にいた獣の被り物の大男に担がれて、連れていかれてしまったではないか。
「ええええ!?」
生きて再会したのに、束の間であった。
あの大柄な兄を赤子のように担いでいけるなんて、ずいぶん大きな先住民が居たものだ。
そう言えば、先住民にしてはガチムチしていたっけ。まるで故郷の男たちのよう。
ヴァーシャは大丈夫だろうか。
まあ……後でまた会えるだろう。ゆっくり話すのだ。今後のことを──。
ところが、その予定は狂ってしまった。兄を探そうとしたのに、翌日にはその集落からいなくなっていたのだ。
幻だったのかと思うほどである。
「貴様の兄はヴォルフ族のティンが攫って行った。……ヴォルフ族が同性婚を認めているとは初耳だが」
ぶっちゃけ逃走したその後は、兄と一緒に中部に行こうと思っていた。
だからそう言われて、ヴェロニカは途方に暮れてしまう。
だって考えてもごらんなさい。一人で逃げたって、迷子になって飢えて、凍えて狼に食われて終わりなのである。
少しずつ逃げるための装備を準備しなきゃ──でも、その前に孕まされたらどうしよう。
避妊薬は肌身離さずカメオに入れて持っているが、いつかは切れる。それまでに中部に逃げて、港の近くに行ければ──。
だか、その先は何も考えていない。いったい非力な自分に何ができるのか。
正直に言うと、この無表情の先住民。思ったより、すごく優しいし、悪くない。
最初が最初だったので、毎日鞭で殴られ、強姦されるのでは、と身構えていた。
ところが妻になったその日の夜から、壊れ物を扱うように、自分に接してくれる。居心地がいいのだ。
結婚の儀はしばらく続くようだった。
この集落にはあちこちから先住民が集まり、にぎわっていて、他の部族の先住民の様子も観察できた。
しばらく一緒に生活して、女が夫らを選ぶらしい。プロスターチンとは違う。
(……逆ハーですわね)
どうやら北部の先住民。一概に男が強いとも言えないようだ。母系制をとっている先住民もいる。
力仕事は基本男だが、狩りなどは好きなものがやればいいとのことで、男性と女性の間にあまり地位的な隔たりがないように思える。
「戦になれば、女は家のことをすべてやらねばならぬ。だから平時は率先して雑用をこなすのだ」
たくさんの薪を切ってきたダンがそう言った。
冬支度は、いくら人手があっても足りない。それでも開拓者のまねをして、効率的な農耕や食品の保存方法など学ぶようになり、冬を越すのが楽になってきたとか。
とくに生活の変化は、鉄器が伝わったのが大きい。それは先住民たちも認めている。鉄鍋や針や刃物などは、もう完全に必需品になってしまったと言う。
しかし、物々交換をして交流を深めていた時期、先住民たちはビーバーの毛を代金にしていたため、川や湖からビーバーが消えたのだ。
ビーバーの下毛は柔らかく、水を弾く。白人の物を買うために、それらを求めて先住民は移動した。結果、他の部族の縄張りに入り、諍いの原因となった。
先住民同士の争いであるが、もとはと言えば原因は、白人の入植のせいである。
さらに、北の大陸のブルゴドルラードとプロスターチン、そして島国アリビアも、この地を奪い合い、よけいに話がこじれたのだ。
「悪いって言う自覚はあるの」
ヴェロニカは、ティピーの中で焚いた炎にあたりながらそう言った。
天井に穴が開いてあって、美味い具合に煙が出ていく。
「私は、侵略者だもの。やっぱりここで生活するには、わだかまりがありすぎる」
ダンは鉄の鍋を持ってきて、火にくべた。匙を寄こしてくる。
「かきまぜろ」
「はい」
大人しく言われたまま作業するヴェロニカ。人の話聞かないんだからこの人。
冬は半分土の中にうまった木造のロッジや大きなロングハウスで過ごすらしい。
襲撃で多くが焼かれてしまったので、新しく作らなければならないとか。雪が積もる前に。
だからダン・カンはいつも忙しそうだ。
一応、ヴェロニカもできることはやろうと、村落の仕事を手伝っている。
おかげで手が荒れてしまった。
お気に入りのハンドクリームがあれば、すぐ治るのだけれど。
蒸し風呂に行ってきたのか、綿布で水滴を拭きながら戻ってきたダン。
見慣れたけれど、やっぱりこの細身からは考えられないほどすごい筋肉をしている。
ぶっちゃけ、ドキドキしてしまう。
あの屈辱のうっふん拷問のあとから、まったく手を出してこない、にわか夫に戸惑っていた。
実はその後処女を奪われているのだが、覚えていないヴェロニカである。
ほぼ裸の男と二人でいる緊張感には慣れたつもりだが、やはり気まずい。
「あのね、聞いてダン」
ダン・カンが無言で目をこちらに向けた。
「わたくし、逃げるかもしれませんわよ?」
目を伏せ、小さい声で告げた。
ダンは変わらず、穏やかながら無表情にこちらを見つめている。
何を考えているのか分からない。
殺されるかも。
ドキドキする。
「だって、あなたのこと好きか分からないもの。妻にして助けてもらったし、見かけのわりにすごく優しいし──あ、見た目も好きなのよ、意外にも。ツルツルしててかっこいいと思うわ……でも」
ヴェロニカは、しょんぼりした。罪悪感だろうか。情だろうか。しかし、恐怖はなかった。緑の瞳からぽろっと涙がこぼれる。
「あのままお兄様が居たら、たぶん一緒に逃げたわ。無理なのよ。先住民と白人の間には、確執がありすぎる。文化も違うし、考え方だって違うわ。故郷には帰りたくないけど、やっぱり、あなたの妻になる覚悟は無いわ」
ダンはじっと見ている。約束を違えたから、殺されてもおかしくない。だけど、たとえ命を守るためとは言え、妻の座を了承しておきながらこっそり逃げるのは、憚られたのだ。
それくらい、ダン・カンを好ましく思っていた。
だが、彼はとくに怒っている感じでは無い。ヴェロニカは涙を見られたくなくて下を向く。
やはり怖いと言うより、申し訳なさが先に立つ。
「どこに行きたい?」
ダンが唐突にそう尋ねた。ヴェロニカは、え? と顔を上げる。ダンは微笑を浮かべた。
「ニーカ、貴様の気持ちなど分かっている。顔に出やすいからな。コマネチ族の戦士なら蔑まれるレベルで顔に出る」
「ダン」
「俺が送っていく。故郷が嫌なら、中部でいいか?」
ダン・カンに、赤毛を一房握りしめられた。その手が震えている。ヴェロニカはそれを驚いて見つめた。この人は──?
「分かって……いたんだ」
ダンが低い声でもう一度そう呟いた。ヴェロニカはハッとなる。
「貴様はあの場では、妻になるしか無かった」
生贄だったのだから。
「少し夢を見たのだ」
ほとんど聞こえないほどの、小さな囁き。ヴェロニカは目をまんまるにした。ダンはそんな彼女の髪の束をスルッと手放し、背中を向けた。
「俺も、心を手に入れていないのに妻にするのは、どうかと思う。精霊に申し訳が立たぬからな」
翌日には、集落を発っていた。
中部部族のマチンカ・パイパイが、北部の白人の捕虜を中部に移送することになっていたからだ。
大勢連れて行くのだから、マチンカ・パイパイだけでは足らない。いくつかの部族から数名ずつを、護送にあてがうこととなっていた。行ったり来たりすると服が汚れるから嫌だ、とマチンカは嘆いている。
集まった部族の娘たちの婚姻はほぼまとまり、次の花嫁を待つばかりであった。マチンカは、帰りに中部からの花嫁候補たちを連れて来ることになっていた。
ヴェロニカは、出発する一団を見て、ポカンとした。なかなかの大所帯である。
あちこちで捕虜となった者たちが集められていたのだ。そこには、開拓者たちだけでなく、北の砦から出る船に乗り遅れた軍人たちもいた。
そうなのだ。
けっょく北のエーデルバ砦は降伏。あっさり陥落した。プロスターチン軍は北部から完全に撤退することになったのである。
本国への船に乗り遅れた者たちは、抵抗する物は殺され、投降したものたちが順次中部に送られることになっていた。
それが、中部との契約らしい。
「なんでも、入植者が足りなくて西部の開拓に駆り出されるらしいぞ」
「中部はアリビア植民地軍のやつらが居るんだろう? 俺たち敵だぜ? 殺されないのか?」
「なんでも帰国希望者には船を出してくれるそうだ」
「マジか、え? やさしっ! 残ってアリビア植民地軍に乗り換えてもいいの?」
「なんなら、さらに南部に行ってもいいらしいぜ。コロンディア植民地軍は白人なら受け入れるらしい」
「暖かい国で暮らしてみたかったんだオレ!」
上官が居ないので、言いたい放題である。
あちこちから来ている開拓者ならともかく、兵士たちまで愛国心皆無だった。
ヴェロニカは面食らった。
これは……やはり、本国の体制崩壊も近い気がする。そう、アリビアのように。
(お兄様も、軍の船には間に合わなかったと思うのだけれど……)
合同結婚式のときに確かに居た。幻では無いはず。
(今はどこにいるのかしら)
この場にいないことは確かだった。
念のため、白人たちからは全員武器を取り上げてあったが、彼らにはもう、戦う気力は無かった。
「中部に渡ったら、すぐに祖国に渡るおつもりですか? 少尉補」
ヴェロニカが居たことを思い出し、キャッキャしていた顔見知りの士官が気まずそうに聞いてきた。
今は開拓者用の綿のブラウスに、毛織のベストとスカートを着ているが、すぐに彼女が何者か分かったようだ。
軍に居る若い女性士官は稀有なため、ヴェロニカは有名人であった。
彼女は少し考えてから、弱々しく首を振る。
「分からないわ」
兵士たちはほっとして顔を見合わせる。祖国のために戦うわ、とか言われたら、彼らの立つ瀬がない。
農奴上がりの歩兵だろうか、くたびれた顔の男が口を挟んで来た。
「兵役はごめんです。二十五年は長すぎる。今度はブルゴドルラードと戦うのでしょう? あの……極寒の地で。できれば家族を呼び寄せて、中部で暮らしたい」
軍に居た頃は、とても口にできないことだ。みなもう、心はかの国を離れている。ヴェロニカと同じく。心残りは本国の家族だけであろう。ヴェロニカには、それすらない。
だけどヴァシーリィはどうであろうか。父親を尊敬し、あの若さで騎兵中隊長にまでなりあがったのだ。そう簡単に、国を見捨てるだろうか。
あの人、すごく生真面目だし、祖国に戻って戦おうとするかもしれない。
チラッとペニスケースの先住民ダンに目をやる。彼は、ほとんどこちらを見なくなった。
彼の中で、ヴェロニカはもう彼の捕虜でもないし、妻でもない。あかの他人だ。だから興味を失ったのだろう。
心に隙間風が吹く。
まだ冬の訪れには間があるのに、なんだかすごく寒かった。
流されてしまったわ。
なんでわたくしが、先住民の妻になどならなければならないのかしら。
とりあえず、生贄と処刑はなぜだか免れたけれど。あと、一妻多夫制もダン・カンが回避してくれたけれど。
でも、妻にはなってしまった。
北へ帰りたくないのは確かだ。とは言え、愛してない男の妻になるのはやはり抵抗がある。
ダン・カン云々ではなく、故郷でも同じように思ったものだ。
所領の分割を防ぐために、領地は長兄アレクセイのものになり、自分は持参金と共にどこかに嫁にやられてしまう予定だった。他の多くの貴族令嬢たちと同じように……。
だったら姉のように軍籍に入り、一生独身の方がマシである。
幸い、アレクセイはいつまでもヴェロニカの婚約者を吟味しようとしなかったので──自分の相手すら選ばない──今に至るのだが。
新大陸には居たいけれど、結婚をしてしまえば自由ではいられなくなる。
当初の予定通り、ここから逃げる隙を窺うのよ!
そんなヴェロニカの苦悩にも関わらず、合同結婚式の宴は、すぐに執り行われた。
ダン・カンが族長に呼ばれ、皆の前でヴェロニカを紹介する。誰にでも分かるように手話で。
その横顔は無表情ながら、とても幸せそうなので、複雑な気分だった。なんで分かるかと言うと、ペニスケースがバリ勃ちだからだ。
この人だって、私のことただのパイオツだと思っているわ。妻として相応しいとは思ってないでしょうに……。
でも──。
どうしましょう。これで逃げたら、ダン・カンは恥をかくわね。
困ったわ。
「ニーカ?」
優しい声で呼ばれた。
見上げると、ダンの無表情がわずかに崩れ、穏やかな微笑が浮かんでいる。
ドキッとなった。
こんな可愛らしい顔をするなんて、ハゲのくせに反則じゃないこと? いえ、ハゲではないわね、スキンヘッドね。
スルッと手をつながれ、ますます狼狽える。
ダン・カンは片方の耳に、ヴェロニカがあげたエメラルドのピアスをしている。おそろいだ。
仕方なく、ヴェロニカもダンを見上げ、弱々しく笑い返した。
彼の黒い瞳が見開かれた。笑顔が消える。
あ、まずいわ。わたくしの気持ちがバレてしまうわ。
その時だ。
「ニーカ!?」
呼ばれてそちらに顔を向けた。
焚火を囲むように結婚の儀式を見ていた人々の中から、誰かが立ち上がった。
「うそっ!」
なんと、あれだけその身を心配していた兄だ。
なぜか、ヴァシーリィがこの場に居たのである。あんぐりと口を開けてしまうヴェロニカ。
「先住民と結婚だと? ニーカ、そんなこと許さないぞ!」
ヴァシーリィが怒気も顕に近づいてこようとする。
分かっているわよ、そんなの。
ヴェロニカは唇を噛み、ダンを上目遣いで見上げた。
ダンはそれを見てたじろぐと、一瞬で何かを悟ったような表情になった。
正確には、目の色が死んだのだ。
「……分かっている」
そう言われて、ヴェロニカはさらに困惑する。今度はヴァシーリィの方を見て言った。
「ヴァーシャ、私──」
ところが、次兄はすぐ隣にいた獣の被り物の大男に担がれて、連れていかれてしまったではないか。
「ええええ!?」
生きて再会したのに、束の間であった。
あの大柄な兄を赤子のように担いでいけるなんて、ずいぶん大きな先住民が居たものだ。
そう言えば、先住民にしてはガチムチしていたっけ。まるで故郷の男たちのよう。
ヴァーシャは大丈夫だろうか。
まあ……後でまた会えるだろう。ゆっくり話すのだ。今後のことを──。
ところが、その予定は狂ってしまった。兄を探そうとしたのに、翌日にはその集落からいなくなっていたのだ。
幻だったのかと思うほどである。
「貴様の兄はヴォルフ族のティンが攫って行った。……ヴォルフ族が同性婚を認めているとは初耳だが」
ぶっちゃけ逃走したその後は、兄と一緒に中部に行こうと思っていた。
だからそう言われて、ヴェロニカは途方に暮れてしまう。
だって考えてもごらんなさい。一人で逃げたって、迷子になって飢えて、凍えて狼に食われて終わりなのである。
少しずつ逃げるための装備を準備しなきゃ──でも、その前に孕まされたらどうしよう。
避妊薬は肌身離さずカメオに入れて持っているが、いつかは切れる。それまでに中部に逃げて、港の近くに行ければ──。
だか、その先は何も考えていない。いったい非力な自分に何ができるのか。
正直に言うと、この無表情の先住民。思ったより、すごく優しいし、悪くない。
最初が最初だったので、毎日鞭で殴られ、強姦されるのでは、と身構えていた。
ところが妻になったその日の夜から、壊れ物を扱うように、自分に接してくれる。居心地がいいのだ。
結婚の儀はしばらく続くようだった。
この集落にはあちこちから先住民が集まり、にぎわっていて、他の部族の先住民の様子も観察できた。
しばらく一緒に生活して、女が夫らを選ぶらしい。プロスターチンとは違う。
(……逆ハーですわね)
どうやら北部の先住民。一概に男が強いとも言えないようだ。母系制をとっている先住民もいる。
力仕事は基本男だが、狩りなどは好きなものがやればいいとのことで、男性と女性の間にあまり地位的な隔たりがないように思える。
「戦になれば、女は家のことをすべてやらねばならぬ。だから平時は率先して雑用をこなすのだ」
たくさんの薪を切ってきたダンがそう言った。
冬支度は、いくら人手があっても足りない。それでも開拓者のまねをして、効率的な農耕や食品の保存方法など学ぶようになり、冬を越すのが楽になってきたとか。
とくに生活の変化は、鉄器が伝わったのが大きい。それは先住民たちも認めている。鉄鍋や針や刃物などは、もう完全に必需品になってしまったと言う。
しかし、物々交換をして交流を深めていた時期、先住民たちはビーバーの毛を代金にしていたため、川や湖からビーバーが消えたのだ。
ビーバーの下毛は柔らかく、水を弾く。白人の物を買うために、それらを求めて先住民は移動した。結果、他の部族の縄張りに入り、諍いの原因となった。
先住民同士の争いであるが、もとはと言えば原因は、白人の入植のせいである。
さらに、北の大陸のブルゴドルラードとプロスターチン、そして島国アリビアも、この地を奪い合い、よけいに話がこじれたのだ。
「悪いって言う自覚はあるの」
ヴェロニカは、ティピーの中で焚いた炎にあたりながらそう言った。
天井に穴が開いてあって、美味い具合に煙が出ていく。
「私は、侵略者だもの。やっぱりここで生活するには、わだかまりがありすぎる」
ダンは鉄の鍋を持ってきて、火にくべた。匙を寄こしてくる。
「かきまぜろ」
「はい」
大人しく言われたまま作業するヴェロニカ。人の話聞かないんだからこの人。
冬は半分土の中にうまった木造のロッジや大きなロングハウスで過ごすらしい。
襲撃で多くが焼かれてしまったので、新しく作らなければならないとか。雪が積もる前に。
だからダン・カンはいつも忙しそうだ。
一応、ヴェロニカもできることはやろうと、村落の仕事を手伝っている。
おかげで手が荒れてしまった。
お気に入りのハンドクリームがあれば、すぐ治るのだけれど。
蒸し風呂に行ってきたのか、綿布で水滴を拭きながら戻ってきたダン。
見慣れたけれど、やっぱりこの細身からは考えられないほどすごい筋肉をしている。
ぶっちゃけ、ドキドキしてしまう。
あの屈辱のうっふん拷問のあとから、まったく手を出してこない、にわか夫に戸惑っていた。
実はその後処女を奪われているのだが、覚えていないヴェロニカである。
ほぼ裸の男と二人でいる緊張感には慣れたつもりだが、やはり気まずい。
「あのね、聞いてダン」
ダン・カンが無言で目をこちらに向けた。
「わたくし、逃げるかもしれませんわよ?」
目を伏せ、小さい声で告げた。
ダンは変わらず、穏やかながら無表情にこちらを見つめている。
何を考えているのか分からない。
殺されるかも。
ドキドキする。
「だって、あなたのこと好きか分からないもの。妻にして助けてもらったし、見かけのわりにすごく優しいし──あ、見た目も好きなのよ、意外にも。ツルツルしててかっこいいと思うわ……でも」
ヴェロニカは、しょんぼりした。罪悪感だろうか。情だろうか。しかし、恐怖はなかった。緑の瞳からぽろっと涙がこぼれる。
「あのままお兄様が居たら、たぶん一緒に逃げたわ。無理なのよ。先住民と白人の間には、確執がありすぎる。文化も違うし、考え方だって違うわ。故郷には帰りたくないけど、やっぱり、あなたの妻になる覚悟は無いわ」
ダンはじっと見ている。約束を違えたから、殺されてもおかしくない。だけど、たとえ命を守るためとは言え、妻の座を了承しておきながらこっそり逃げるのは、憚られたのだ。
それくらい、ダン・カンを好ましく思っていた。
だが、彼はとくに怒っている感じでは無い。ヴェロニカは涙を見られたくなくて下を向く。
やはり怖いと言うより、申し訳なさが先に立つ。
「どこに行きたい?」
ダンが唐突にそう尋ねた。ヴェロニカは、え? と顔を上げる。ダンは微笑を浮かべた。
「ニーカ、貴様の気持ちなど分かっている。顔に出やすいからな。コマネチ族の戦士なら蔑まれるレベルで顔に出る」
「ダン」
「俺が送っていく。故郷が嫌なら、中部でいいか?」
ダン・カンに、赤毛を一房握りしめられた。その手が震えている。ヴェロニカはそれを驚いて見つめた。この人は──?
「分かって……いたんだ」
ダンが低い声でもう一度そう呟いた。ヴェロニカはハッとなる。
「貴様はあの場では、妻になるしか無かった」
生贄だったのだから。
「少し夢を見たのだ」
ほとんど聞こえないほどの、小さな囁き。ヴェロニカは目をまんまるにした。ダンはそんな彼女の髪の束をスルッと手放し、背中を向けた。
「俺も、心を手に入れていないのに妻にするのは、どうかと思う。精霊に申し訳が立たぬからな」
翌日には、集落を発っていた。
中部部族のマチンカ・パイパイが、北部の白人の捕虜を中部に移送することになっていたからだ。
大勢連れて行くのだから、マチンカ・パイパイだけでは足らない。いくつかの部族から数名ずつを、護送にあてがうこととなっていた。行ったり来たりすると服が汚れるから嫌だ、とマチンカは嘆いている。
集まった部族の娘たちの婚姻はほぼまとまり、次の花嫁を待つばかりであった。マチンカは、帰りに中部からの花嫁候補たちを連れて来ることになっていた。
ヴェロニカは、出発する一団を見て、ポカンとした。なかなかの大所帯である。
あちこちで捕虜となった者たちが集められていたのだ。そこには、開拓者たちだけでなく、北の砦から出る船に乗り遅れた軍人たちもいた。
そうなのだ。
けっょく北のエーデルバ砦は降伏。あっさり陥落した。プロスターチン軍は北部から完全に撤退することになったのである。
本国への船に乗り遅れた者たちは、抵抗する物は殺され、投降したものたちが順次中部に送られることになっていた。
それが、中部との契約らしい。
「なんでも、入植者が足りなくて西部の開拓に駆り出されるらしいぞ」
「中部はアリビア植民地軍のやつらが居るんだろう? 俺たち敵だぜ? 殺されないのか?」
「なんでも帰国希望者には船を出してくれるそうだ」
「マジか、え? やさしっ! 残ってアリビア植民地軍に乗り換えてもいいの?」
「なんなら、さらに南部に行ってもいいらしいぜ。コロンディア植民地軍は白人なら受け入れるらしい」
「暖かい国で暮らしてみたかったんだオレ!」
上官が居ないので、言いたい放題である。
あちこちから来ている開拓者ならともかく、兵士たちまで愛国心皆無だった。
ヴェロニカは面食らった。
これは……やはり、本国の体制崩壊も近い気がする。そう、アリビアのように。
(お兄様も、軍の船には間に合わなかったと思うのだけれど……)
合同結婚式のときに確かに居た。幻では無いはず。
(今はどこにいるのかしら)
この場にいないことは確かだった。
念のため、白人たちからは全員武器を取り上げてあったが、彼らにはもう、戦う気力は無かった。
「中部に渡ったら、すぐに祖国に渡るおつもりですか? 少尉補」
ヴェロニカが居たことを思い出し、キャッキャしていた顔見知りの士官が気まずそうに聞いてきた。
今は開拓者用の綿のブラウスに、毛織のベストとスカートを着ているが、すぐに彼女が何者か分かったようだ。
軍に居る若い女性士官は稀有なため、ヴェロニカは有名人であった。
彼女は少し考えてから、弱々しく首を振る。
「分からないわ」
兵士たちはほっとして顔を見合わせる。祖国のために戦うわ、とか言われたら、彼らの立つ瀬がない。
農奴上がりの歩兵だろうか、くたびれた顔の男が口を挟んで来た。
「兵役はごめんです。二十五年は長すぎる。今度はブルゴドルラードと戦うのでしょう? あの……極寒の地で。できれば家族を呼び寄せて、中部で暮らしたい」
軍に居た頃は、とても口にできないことだ。みなもう、心はかの国を離れている。ヴェロニカと同じく。心残りは本国の家族だけであろう。ヴェロニカには、それすらない。
だけどヴァシーリィはどうであろうか。父親を尊敬し、あの若さで騎兵中隊長にまでなりあがったのだ。そう簡単に、国を見捨てるだろうか。
あの人、すごく生真面目だし、祖国に戻って戦おうとするかもしれない。
チラッとペニスケースの先住民ダンに目をやる。彼は、ほとんどこちらを見なくなった。
彼の中で、ヴェロニカはもう彼の捕虜でもないし、妻でもない。あかの他人だ。だから興味を失ったのだろう。
心に隙間風が吹く。
まだ冬の訪れには間があるのに、なんだかすごく寒かった。
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