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第十六話
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――ルーカスは最後に「じゃあ僕は先に戻っているから、また後で」と告げて、控室を出て行った。
おれは、彼に罵倒を浴びせることも、その背中を追いかけることも出来なかった。
ルーカスの唇から出た言葉の一つ一つが、心臓を切り裂くような痛みを与えたのにもかかわらず、不思議と涙は出なかった。むしろ、頭の中がぼうっとしていて、呆然と立ちすくむばかりだった。
「……いい家庭が築けると思ってる、か。まさか、ルーカスがそんな風に思っていたとは、夢にも思わなかったな……」
冗談めかした独り言を呟き、苦笑いを浮かべるも、言葉尻が震えているのが分かった。
そもそも、今の自分は本当に笑えているのだろうか。なんだか、もう何もかも分からなくなってしまった。
本当なら、おれももう大ホールへと戻らなければいけない頃合いだ。大ホールでの五人の代表生徒たちの発表が終わったら、小ホールでの昼食会が行われ、その次は大広間でのダンスパーティーが行われる。
おれはルーカスの婚約者だから、昼食会は彼と隣同士の席が用意されているはずだ。それに、ダンスパーティーではルーカスと踊らなければいけない。おれが出席しなければ、彼の面子を潰すことになる。そうなれば両親にも迷惑がかかるかもしれない。
だから、もう戻らないといけないのに……どうしても、足が動かない。
今は、ルーカスの顔なんて見たくなかった。彼とともに大勢の人の前で昼食をとって、一緒にダンスをするなんて、鳥肌が立つ。
でも、おれの立場では、そうせざるを得ない。
彼の婚約者で、オメガというおれの立場では。
「……っ」
気が付けば、おれは自身の腕に思いきり爪を立てていた。ルーカスに掴まれた痕が、くっきりと赤黒く残る皮膚に。染みついた彼の痕跡を、上書きして消し去るように。
ぎり、と食い込んだ爪によって皮膚が破れ、うっすらと血が滲んだ、そんな時だった。ゆっくりと部屋のドアが開いたのだ。
おれは反射的に顔をあげて、慌てて自身の腕から手を離して扉の方へ顔を向けた。てっきり、おれが来ないことに焦れたルーカスが、戻ってきたのかと思ったのだ。
だが、控室に入ってきたのはルーカスではなかった。
日に焼けた小麦色の肌に、銀色の髪、釣り目気味の赤い瞳――そう、部屋に入ってきたのはレックスだった。
彼がここに現れるとは想定していなかったため、彼と目があった瞬間、おれは何を言っていいのか分からず、ぼんやりと彼の顔を見返すばかりだった。
レックスは後ろ手でドアを閉めると、真っ直ぐにこちらに歩み寄ってきた。そして、目の前まで来ると、珍しく気遣わし気な表情でおれの顔を覗き込んできた。
「先輩、大丈夫か? いや、大丈夫じゃねーか」
「レックス……お前、なんでここに? 発表は?」
「俺の発表は終わったよ。先輩が出て行って、アイツだけ一人で戻ってきたからさ。すぐ見つかって良かった」
彼の言葉に、おれはハッとした。ここでルーカスと言い争いをし、呆然としている間に、レックスの発表が終わってしまったらしい。
「あ……すまない。お前の発表、聞けなかったな」
「いいって、そんなの。そんなことより、先輩――」
「おれは別に、大丈夫だから。はやくホールに戻れよ。お前はうちの学院の代表なんだから、ちゃんと席にいないと」
「だから、そんなのはいいって。あんな発表を聞かされて、先輩を一人にしておけるかよ」
「レックス……」
彼の言葉と眼差しは、傷ついた心にじんわりと沁み込んでくるようだった。
思わず、おれは先ほどのルーカスとの会話を、薬の研究内容を奪われたことを、このままこの後輩に打ち明けてしまおうかと思った。
だが、唇を開きかけたところで、再び口を閉ざした。
だっておれは、レックスにまだ謝っていない。おれは彼にひどい言葉を投げつけてしまった。それなのに、彼はおれを心配して探しにきてくれたのだ。
このまま、何ひとつ謝罪せずに相談をするのは、ひどく卑怯な行為のように思えた。
でも、どう謝ればいいのか分からない。謝らなければいけないうのは分かってるし、おれはずっと、彼に謝りたいと思っていた。
けれど、どうしても言葉が出てこない。一歩が踏み出せない。
レックスはアルファだ。もしも彼が、ルーカスと同じような考えを持っていたら?
ルーカスとの間に起きた出来事を打ち明けた時……もしもレックスが、ルーカスに同調するようなことを言ったら、おれは二度と立ち直れない。
「先輩……その、俺」
何を言えばいいのか分からず、立ち尽くしてしまう。そんなおれに、レックスが手を伸ばそうとした。いつもしているように、こちらの肩を抱こうとしてきたらしい。だが、指先が触れる寸前でぴたりと動きを止めて、その手を再び下におろした。
それきり、彼は何も言おうとせず、困ったような表情でおれを見つめている。
その顔に、いっそう不安を掻き立てられた。もしかして、レックスもとうとうおれが嫌になったのだろうか。この状況になっても謝罪一つしないおれに呆れているのだろうか。
だが、レックスの唇から出てきた言葉は、予想とは真逆のものだった。
「……先輩。その、この前は本当にすみませんでした……」
「え」
「この前の、その……ほんと、最初はあんな言い方をするつもりじゃなくて。先輩がなんであんな奴と婚約してんのかって、無理やり聞き出そうとしたんすけど、完全に言葉選びに失敗して……その、ほんとに、先輩を侮辱するつもりはなかったんです」
おれは目を真ん丸に見開いて、きまりが悪そうなレックスをまじまじと見つめた。
「レックス、お前……敬語使えたんだな」
「え、そこ!?」
「だってお前、普段は教授たちにさえタメ口で喋るから……おれにも出会った時からタメ口だったし。だから今日の学院交流会、ちゃんとできるのか少し心配してたんだ。でも、その調子なら大丈夫そうだな」
「いやいや、今そこはどうでもいいよな!?」
珍しくわたわたとしているレックスに、おれはつい、笑みが零れてしまった。こんな風に微笑ましく、心があたたかな気分になったのは、何日ぶりだろうか。
そう考えた時、おれの唇からはするりと謝罪の言葉が出ていた。
「おれの方こそ、すまなかった。お前がそんな奴じゃないって、ちゃんと分かってたのにな」
ずっと胸につかえていた暗澹とした気持ちが、一気にほどけたようだった。
先ほどのルーカスの言葉も、今このひと時だけは、すっかりと忘れることができた。そんなことよりも、この後輩と仲直りできたことのほうが嬉しかった。
「せ、先輩が謝る必要なんかねーって! 今回のは、俺が全面的に悪いからさ」
おれが頭を下げて謝ると、レックスはさらに面食らったように慌て始めた。
こんなに動揺した彼の姿は、出会ってから初めて見る。おれはついつい笑ってしまった。
「なんだ、レックス。お前でも、そんなに慌てることがあるんだな……ふふっ」
「ちょっ、先輩。そんなに笑うこと……先輩?」
しかし、どうしたことか、おれは笑ったつもりだったのに、うまく笑えていなかった。それどころか、視界がじわりと滲みだす。
慌てて、手の甲で目じりを擦ったが、涙は勝手に、次から次へとあふれ出てくる。
「あれ? おかしいな……ちょっと待ってくれ、すぐに止まるから……」
なぜだろうか。こんなにあたたかい気持ちなのに、涙が止まらない。安心して肩の力が抜けてしまったせいだろうか。
とめどなく流れる涙に慌てて、手の甲で目尻を擦り続ける。すると、レックスがおれに再び手を伸ばすし、そのまま自身の胸元におれの身体を抱きすくめた。
「レックス?」
「……我慢しなくていいよ。つらかっただろ、先輩」
「で、でも、お前はもう戻らないと……」
「うちの教授には、今日はもう俺は戻らないって伝えてあるし、口裏合わせてくれる予定なんで。この部屋の内鍵もかけたから誰も入ってこねーし。だから……先輩はなにも心配しなくていいから」
「っ……」
レックスはそう言うと、おれの身体をぎゅうっと強く抱きしめた。
あたたかな両腕の中に抱きしめられて、優しい声音で囁かれて――おれはますます、涙を止めることができなくなった。蓋をして堰き止めていたものが、一気に決壊したかのように、熱い涙がぽろぽろと零れ続ける。
泣きながら、おずおずとレックスに腕をまわして、ぎこちなく抱きしめ返す。すると、背中に回る腕の力がさらに強まった。
そうして、レックスはおれが泣き止むまで、ずっと抱きしめてくれていたのだった。
おれは、彼に罵倒を浴びせることも、その背中を追いかけることも出来なかった。
ルーカスの唇から出た言葉の一つ一つが、心臓を切り裂くような痛みを与えたのにもかかわらず、不思議と涙は出なかった。むしろ、頭の中がぼうっとしていて、呆然と立ちすくむばかりだった。
「……いい家庭が築けると思ってる、か。まさか、ルーカスがそんな風に思っていたとは、夢にも思わなかったな……」
冗談めかした独り言を呟き、苦笑いを浮かべるも、言葉尻が震えているのが分かった。
そもそも、今の自分は本当に笑えているのだろうか。なんだか、もう何もかも分からなくなってしまった。
本当なら、おれももう大ホールへと戻らなければいけない頃合いだ。大ホールでの五人の代表生徒たちの発表が終わったら、小ホールでの昼食会が行われ、その次は大広間でのダンスパーティーが行われる。
おれはルーカスの婚約者だから、昼食会は彼と隣同士の席が用意されているはずだ。それに、ダンスパーティーではルーカスと踊らなければいけない。おれが出席しなければ、彼の面子を潰すことになる。そうなれば両親にも迷惑がかかるかもしれない。
だから、もう戻らないといけないのに……どうしても、足が動かない。
今は、ルーカスの顔なんて見たくなかった。彼とともに大勢の人の前で昼食をとって、一緒にダンスをするなんて、鳥肌が立つ。
でも、おれの立場では、そうせざるを得ない。
彼の婚約者で、オメガというおれの立場では。
「……っ」
気が付けば、おれは自身の腕に思いきり爪を立てていた。ルーカスに掴まれた痕が、くっきりと赤黒く残る皮膚に。染みついた彼の痕跡を、上書きして消し去るように。
ぎり、と食い込んだ爪によって皮膚が破れ、うっすらと血が滲んだ、そんな時だった。ゆっくりと部屋のドアが開いたのだ。
おれは反射的に顔をあげて、慌てて自身の腕から手を離して扉の方へ顔を向けた。てっきり、おれが来ないことに焦れたルーカスが、戻ってきたのかと思ったのだ。
だが、控室に入ってきたのはルーカスではなかった。
日に焼けた小麦色の肌に、銀色の髪、釣り目気味の赤い瞳――そう、部屋に入ってきたのはレックスだった。
彼がここに現れるとは想定していなかったため、彼と目があった瞬間、おれは何を言っていいのか分からず、ぼんやりと彼の顔を見返すばかりだった。
レックスは後ろ手でドアを閉めると、真っ直ぐにこちらに歩み寄ってきた。そして、目の前まで来ると、珍しく気遣わし気な表情でおれの顔を覗き込んできた。
「先輩、大丈夫か? いや、大丈夫じゃねーか」
「レックス……お前、なんでここに? 発表は?」
「俺の発表は終わったよ。先輩が出て行って、アイツだけ一人で戻ってきたからさ。すぐ見つかって良かった」
彼の言葉に、おれはハッとした。ここでルーカスと言い争いをし、呆然としている間に、レックスの発表が終わってしまったらしい。
「あ……すまない。お前の発表、聞けなかったな」
「いいって、そんなの。そんなことより、先輩――」
「おれは別に、大丈夫だから。はやくホールに戻れよ。お前はうちの学院の代表なんだから、ちゃんと席にいないと」
「だから、そんなのはいいって。あんな発表を聞かされて、先輩を一人にしておけるかよ」
「レックス……」
彼の言葉と眼差しは、傷ついた心にじんわりと沁み込んでくるようだった。
思わず、おれは先ほどのルーカスとの会話を、薬の研究内容を奪われたことを、このままこの後輩に打ち明けてしまおうかと思った。
だが、唇を開きかけたところで、再び口を閉ざした。
だっておれは、レックスにまだ謝っていない。おれは彼にひどい言葉を投げつけてしまった。それなのに、彼はおれを心配して探しにきてくれたのだ。
このまま、何ひとつ謝罪せずに相談をするのは、ひどく卑怯な行為のように思えた。
でも、どう謝ればいいのか分からない。謝らなければいけないうのは分かってるし、おれはずっと、彼に謝りたいと思っていた。
けれど、どうしても言葉が出てこない。一歩が踏み出せない。
レックスはアルファだ。もしも彼が、ルーカスと同じような考えを持っていたら?
ルーカスとの間に起きた出来事を打ち明けた時……もしもレックスが、ルーカスに同調するようなことを言ったら、おれは二度と立ち直れない。
「先輩……その、俺」
何を言えばいいのか分からず、立ち尽くしてしまう。そんなおれに、レックスが手を伸ばそうとした。いつもしているように、こちらの肩を抱こうとしてきたらしい。だが、指先が触れる寸前でぴたりと動きを止めて、その手を再び下におろした。
それきり、彼は何も言おうとせず、困ったような表情でおれを見つめている。
その顔に、いっそう不安を掻き立てられた。もしかして、レックスもとうとうおれが嫌になったのだろうか。この状況になっても謝罪一つしないおれに呆れているのだろうか。
だが、レックスの唇から出てきた言葉は、予想とは真逆のものだった。
「……先輩。その、この前は本当にすみませんでした……」
「え」
「この前の、その……ほんと、最初はあんな言い方をするつもりじゃなくて。先輩がなんであんな奴と婚約してんのかって、無理やり聞き出そうとしたんすけど、完全に言葉選びに失敗して……その、ほんとに、先輩を侮辱するつもりはなかったんです」
おれは目を真ん丸に見開いて、きまりが悪そうなレックスをまじまじと見つめた。
「レックス、お前……敬語使えたんだな」
「え、そこ!?」
「だってお前、普段は教授たちにさえタメ口で喋るから……おれにも出会った時からタメ口だったし。だから今日の学院交流会、ちゃんとできるのか少し心配してたんだ。でも、その調子なら大丈夫そうだな」
「いやいや、今そこはどうでもいいよな!?」
珍しくわたわたとしているレックスに、おれはつい、笑みが零れてしまった。こんな風に微笑ましく、心があたたかな気分になったのは、何日ぶりだろうか。
そう考えた時、おれの唇からはするりと謝罪の言葉が出ていた。
「おれの方こそ、すまなかった。お前がそんな奴じゃないって、ちゃんと分かってたのにな」
ずっと胸につかえていた暗澹とした気持ちが、一気にほどけたようだった。
先ほどのルーカスの言葉も、今このひと時だけは、すっかりと忘れることができた。そんなことよりも、この後輩と仲直りできたことのほうが嬉しかった。
「せ、先輩が謝る必要なんかねーって! 今回のは、俺が全面的に悪いからさ」
おれが頭を下げて謝ると、レックスはさらに面食らったように慌て始めた。
こんなに動揺した彼の姿は、出会ってから初めて見る。おれはついつい笑ってしまった。
「なんだ、レックス。お前でも、そんなに慌てることがあるんだな……ふふっ」
「ちょっ、先輩。そんなに笑うこと……先輩?」
しかし、どうしたことか、おれは笑ったつもりだったのに、うまく笑えていなかった。それどころか、視界がじわりと滲みだす。
慌てて、手の甲で目じりを擦ったが、涙は勝手に、次から次へとあふれ出てくる。
「あれ? おかしいな……ちょっと待ってくれ、すぐに止まるから……」
なぜだろうか。こんなにあたたかい気持ちなのに、涙が止まらない。安心して肩の力が抜けてしまったせいだろうか。
とめどなく流れる涙に慌てて、手の甲で目尻を擦り続ける。すると、レックスがおれに再び手を伸ばすし、そのまま自身の胸元におれの身体を抱きすくめた。
「レックス?」
「……我慢しなくていいよ。つらかっただろ、先輩」
「で、でも、お前はもう戻らないと……」
「うちの教授には、今日はもう俺は戻らないって伝えてあるし、口裏合わせてくれる予定なんで。この部屋の内鍵もかけたから誰も入ってこねーし。だから……先輩はなにも心配しなくていいから」
「っ……」
レックスはそう言うと、おれの身体をぎゅうっと強く抱きしめた。
あたたかな両腕の中に抱きしめられて、優しい声音で囁かれて――おれはますます、涙を止めることができなくなった。蓋をして堰き止めていたものが、一気に決壊したかのように、熱い涙がぽろぽろと零れ続ける。
泣きながら、おずおずとレックスに腕をまわして、ぎこちなく抱きしめ返す。すると、背中に回る腕の力がさらに強まった。
そうして、レックスはおれが泣き止むまで、ずっと抱きしめてくれていたのだった。
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