魔法少女♂とヤンデリオ

嶋紀之/サークル「黒薔薇。」

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最終決戦

③-4

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 闇の神の触手が駆け巡り、コウヤやチアキの放つ光の魔法が飛び交う戦場を、サイはふらふらと歩いていく。
 その足取りはふらついてこそいるものの、絶妙な間合いで、降り注ぐ攻撃の余波をかいくぐる。

 そうして、慣れた様子でたどり着いたのは――全ての攻撃の中心部。鎖に縛られながらも、沼の底から這い出ている、闇の神のすぐ足元までやってきていたのだった。


「――神様」
『来たか……! 我が同盟者よッ!! おとなしく、我に命を差し出せぇッ!!』
「ごめん、神様……それはできない」

 闇の神の触手がサイを襲う。しかし彼は、変身もしていない身でありながら、ほんのわずかに身をそらすだけで全ての攻撃を避けてしまう。

『ッッ……!! 小癪な!! よもや貴様までもが、我に逆らうとでも言うつもりか!? ……何故だ!! 貴様は我と同じはずだ、わかるはずだ!! 我のこの怒りが、嘆きが、絶望が……!!』
「……僕、あんたとは似たもの同士だと思ってた。僕はわかるよ、あんたの絶望も、怒りも……不安も」
『何を言っている!?』
「怖いんだろ? こんなワガママな愛を抱いた自分は、正しいあの人に愛されるはずがない。だから、奪って壊して、無理矢理愛させるしか方法がない。……僕も、ずっとそう思ってた。でもそれって、……逃避でしか、なかったんだよ」

 サイは語る。闇の神のことを真正面から見つめて、淡々と。懺悔でもするかのような面持ちで。

「本当にその人のことが好きなら、逃げずに、何度でも何度でも愛を伝えるべきだった。選んでもらえるような自分になるべきだった。……勇気を出して話してたら、もしかしたら、今とは違う未来があったのかな」
『っ、黙れ……、黙れ黙れ黙れぇええ!! 惰弱な人間風情が、貴様らと我を同一に語るな……!!』
「神様……、僕たちは間違えたんだ。その責任は取らなきゃいけない。こんな、『正しくない愛』は……封印されるのがお似合いだよ」

 切なげに笑ったサイは――その身に宿る魔力を開放すると、沼の底へと身を投げた。
 一心同体、という言葉は真実だったようで、サイが沈んでいくのに合わせるように、闇の神の体も沼の底へとじりじり引きずり込まれていく。

「僕とあんたは一心同体だ!! なら、僕が封印されればあんたもそうなる!! このまま共に、沼の底へ……!!」
『ふ……、ふざけるな!! どうして、何故、我がこのような……!!』




 ――突然の展開に、魔法使いたちも混乱していた。

「ケイちゃん!! 魔力一旦止めて!! あのままだと、少年が巻き込まれる……!」
「もうやってるっす!! けど、なぜか、儀式が止まんなくて……!」
「嘘だろ!? あの少年、自分で自分を封印するために、魔力を……!?」

 コウヤの指示よりも先に、ケイたちは封印の儀式を止めて、サイを救い出そうと動いていた。しかし、彼らが魔力を送るのを止めたというのに、儀式は止まってくれなかった。
 サイ自身が、自らに残された魔力を使って、自分ごと闇の神を封じようとしているのだ。



 一方めけは、この状況でもひたすらハルヒコの治療を続けていた。彼さえ救えれば、逆城サイを止められるかもしれない。なんとか目覚めてはくれないか、と、己の信じる光の女神に祈りを捧げた――そのとき。

 空から、闇を切り裂くほどにまばゆい一筋の光が、翠野ハルヒコめがけて降り注ぐ。

「ッ……!? こ、この光……、女神様の……!?」
「まさか……っ、女神様が、この男に加護を与えたのであるか……!?」

 愕然とする妖精たちをよそに、光の中に――ぼんやりと、一人の女性の姿が浮き上がる。それは、太陽の光を集めたような輝く髪と瞳をした、誰もが見惚れるほどの絶世の美女であった。
 彼女は、荘厳さを感じさせる深みのある美声で、皆の脳内へと直接語りかけてくる。

『……ヒトの子たちよ。ここまで、よく頑張ってくれました……。あの人の魔力を封じ込めたことで、そして、奪われていた宝石が闇の支配から抜け出したことで……ようやくわたくしも復活することができました。……わたくしの名は、光の女神。この悲しき事態を招いてしまった、愚かな神の片割れです』
 悲しげに微笑んだ光の女神は、ハルヒコの元に降り立つと、我が子を見る母のような面差しで、彼の頭をそっと撫でる。

『……心優しきヒトの子よ。その美しき魂が果てぬよう……命の灯火が消えぬよう、わたくしの加護を授けます。……だからどうか、わたくしに力を貸してくださいませんか。わたくしの、大切な片割れによく似た子を愛する、ヒトの子よ……』

 女神の指先から、暖かく優しい光が溢れ出す。光はハルヒコの体を包んでいき――止まっていたはずの心臓が、固く閉じられていた瞼が動き出す。

「っ……、さか、しろ……」
 ゆっくりと目を開け、そして、あたりを見回して。サイがすぐ隣にいないことに気がついた彼は――女神の加護で、瞬時に状況を理解した。

 誰かが静止する暇すら与えずに、ハルヒコは、サイと闇の神の沈んだ沼まで駆け抜けて。

「……逆城ッ!!」

 光の女神を引き連れて――沼の底へと、飛び込んでいったのだった。



 どぷり、と、水の音がする。ここは沼の中。本来ならばとっくに窒息死してもおかしくはないのだが、闇の魔力に守られたサイは、呼吸をすることができていた。
 もっとも、それは死なないというだけで――このまま時が経てば、サイの魔力で発動させた魔法陣により、この沼に闇の神もろとも封印されてしまうのだが。
(……ま、でもそれも……悪党の僕には似合いの末路かもね。最初から、僕は間違ってたんだ。……僕なんかが、先生を好きになるべきじゃなかった。……このまま……封印されて、ずっと、一人ぼっちで生きるのかな……)

 それも自業自得だと、サイが自嘲した……そのとき。

「逆城……、死ぬな、勝手に死ぬな!!」
「……え?」

 空から、飛び込んできた一つの影。彼は必死にサイに手を伸ばして、沈みゆくその手を掴み、強引に引き上げようともがいている。

「せん……、せい? なんで……!?」
 生きていたのか、無事だったのか。そうだとしてなぜ、こんなところに来ているのか。なぜ、一度ならず二度までも己を助けようとしてくれるのか。
 そんな思いの詰まった問いかけに、ハルヒコは答えない。
 代わりに返ってきたのは――なにがなんでもサイを生かそうとする言葉だった。

「いいか逆城!! 封印される、なんてのも駄目だ!! 俺は……おまえが好きだ、好きになってしまったんだ!! ……もう、おまえなしでは生きていけないんだよ……!!」
「ッッ……!?」
「俺を……俺を置いていかないでくれ!! 俺はっ、他の何を失ってでも、おまえだけは失いたくないんだ……!!」



 ――そして、同時に、闇の神の元では。
『ようやく会えましたね……闇の神。私の半身……』
『何故だ……、なぜ貴様がここにいる!? 光の女神!?』
『わたくしは……かつての過ちを正しに、やってきたのです』
 そう笑う、光の女神は――己も闇の神と共に、沈んでしまおうとしているように見えた。



「逆城!! 『正しさ』なんて求めなくてもいい!! 正しくなくたって、おまえの愛は……たしかに俺を、『ハル』だった俺を救ってくれた!! たとえ世界中が認めなくても、俺だけは、おまえの愛を認めてやる!! だから……っ、死ぬな、生きてくれ、逆城……!!」



『……わたくしは、ずっと後悔しておりました。神としての正しさに従い、貴方の手を取れなかったあの日のことを』
『う、嘘だ。そなたは……我を、拒絶して……』
『この世界のニンゲンたちを見て、気づいたのです。愛とは、正しさで図れるものではないのだと。たとえ世界中のすべてが正しくないと拒絶しても……愛し愛される者たちだけは、相手の愛を、受けいれてしまっていいのだと』



 翠野ハルヒコは、光の女神は、語りかける。臆病者で頑なな目の前の相手に、歪な愛を抱えて苦しむ人に、たとえその愛が『正しくない』ものであろうとも――己だけは、それを、受け入れ受け止める覚悟があるのだと。


『闇の神よ。わたくしは……貴方を、愛していました。貴方が封印された数億年、寂しくて寂しくて、気が狂ってしまいそうでした。……ごめんなさい、貴方を選ぶ勇気がなくて。世界のすべてを捨ててでも、貴方を選ぶ強さがなくて』

 そっと目を伏せる女神を前に――闇の神は、思い出す。彼女のこういうところが好きだったのだと。
 ずっとずっと忘れていた、女神に恋した瞬間に抱いていた、甘くとろけるような優しい気持ちを。

『……違う。そなたは気高く……美しいのだ。私欲を律して、己の職務に励むその誠実さにこそ、我は惹かれたのだから』
『わたくしは……あなたの自由さに惹かれておりました。わたくしにはできないことを成し遂げる、貴方の苛烈さを、今でも愛しているのです』
『……愛?』

 光の女神が、闇の神を抱きしめる。荒れ狂っていたはずの魔力はすっかり落ち着き、闇の神の心にも、冷静さが戻りつつあった。

『貴方の力が弱まって……ようやく、きちんと話すことができた。ごめんなさい、身勝手なわたくしを憎んでくれてもかまいません。……それでもわたくしは……、今度こそ、あなたの側に侍りたくて……』
『ッッ……!! その言葉、誠か? 嘘ではないのだな? 本当に……、我を選んで、くれるのか……?』
『後進たる妖精たちも育ちました。もう、わたくしが神として君臨し続ける必要もないでしょう。……闇の。わたくしの愛しき半身。どうか……わたくしを、愛してください。わたくしも貴方を愛します』
『嗚呼……!! 光の!! そなたさえあれば、我はもう、何も要らぬ!! 愛している……! もう二度と、離しはせぬぞ……!』

 二柱の神が抱きしめあった――途端。沼の中心部に、爆発的な魔力が渦巻いた。それらはくるくると渦を描き、闇と、光が混ざり合い、まるで星空の輝く夜空のような色を映して――ハルヒコとサイの二人を、沼の外へと打ち上げていた。


『ヒトの子よ……、そして、わたくしの可愛い妖精たちよ。わたくしたちの都合に巻き込んでしまい、本当に申し訳ありませんでした……。この償いは、いつか、かならず……』
 光の女神の声が響いた――かと思えば、彼女は、闇の神と共に沼の底へと姿を消していた。
 最後に浄化の力を使ったのだろうか。あたりに立ち込めていた魔力はきれいさっぱり無くなり――逆城サイの胸に埋め込まれていたエメラルド、闇の神と彼を一心同体にしていた呪いの力も、ただの石となり、彼の胸からぽろりとこぼれ落ちていた。

 残されたのは、呆然と立ち尽くすしかない魔法使い……と、3人の妖精たちである。


「これ……、つまり、どういうことだ……?」
 思わずチアキが問いかけを零せば、渋い顔をしたコウヤが、首を傾げながらも答えを告げる。

「……えー、多分、だけど……。数億年に渡る痴話喧嘩が解決して、闇の神様と光の女神様が仲直り。で、めでたしめでたし……ってコト、かな……?」

 それを聞いた面々は、まさかの展開に絶句して――。
「はぁあああ~~~~ッッ!?」

 ――困惑に満ちた絶叫が、穏やかになった沼地に響き渡った。


「ちょ、ま……っ、それ、メチャクチャじゃないっすか!! 巻き込まれたオレたちってなんだったんだよ!? あ、いや、コウヤ様は全然悪くないっすけどぉ……!!」
 しごく真っ当なツッコミをしつつ、コウヤのことを気遣うケイ。

「こ、これまでの戦いは……なんだったんだ……?」「せ、先輩っ! 気を確かに!!」
 肩透かしとも言える展開に、へなへなと座り込んでしまうノブユキ……と、それを支えるチアキ。

「……ま、細けえことはいいんじゃねえか? ドタバタしたが、俺は、おかげで可愛い恋人ともーっと仲良くなれたワケだしよ! ……なぁ、タイチ?」
「ひ、人前でからかわないでください。……ですが、そう……ですね。八雲くんも阿神くんも……逆城くんも。この騒動のおかげで、恋しく思う方と接近できたのでは? 悪いことでもないでしょう。……きっと」
 思うところはあれど、大人としてなんとか飲み込んで、納得しようとしているユウゴとタイチ。


「……先生。本当に僕で、いいの? あんたに、たくさん酷いことしたんだよ? それなのに……」
「それでもいい。……いや、そんな逆城だから、いいんだ。……無事で良かった」
「っ!! 先生、も……! 生きてて、よかった……!!」
 子供のように泣きじゃくるサイと、それを抱きしめて笑うハルヒコ。


「どぉおおするのであるか!? 女神様が、父上と共に消えてしまったのである!?」
「あははは……あとは任せた、的なこと、言ってたよね……。ボクたちが次の女神になる、ってことなのかな……?」
「んがーー!! 荷が重すぎるのであるっ!! ……というか父上も女神様も、人騒がせにもほどがあるであろうが……!! もっと周りの迷惑を考えるべきであるぅううーッッ!!」
 これからのことを案じて、頭を抱えるめけとノコ。



 ――なにもかもドタバタした終わりであったが、しかし、彼らは誰一人欠けずにこの場にいる。
 闇の神の洗脳を乗り越えて、互いの愛を確かめあって、ここにいる。

 なにはともあれ、ひとまずの、一件落着に相成ったようであった……。
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