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39.言えなかった、『ありがとう』
しおりを挟む――翌日。
俺は学校から帰宅すると、ミナの家から、ミナの母親が出てきた。
彼女と目が合い、軽く会釈する。
「こんにちは」
「あ、刈谷くん。先日はスープを渡してくれてありがとね」
少し疲れたような顔。
生活の色がにじみ出ている。
「いえ。俺、おばさんに感謝してるんです。……ミナにも助けてもらったし」
昨日は、時計の針が日付を超えるまで風華と話し合った。
俺にはやっぱり、ミナの存在は大きい。
「あらそうなの? あの子ったら、やるわね」
彼女は目尻を細めた。
「……おばさんに出会わなければ、窮屈な人間のままでした。新しい上履きをもらわなかったら、きっと学校にいくことをやめていたかも」
中学生のころ、紗穂をイジメから救った。
それが原因で、次のターゲットは俺に。
ある日、上履きに履き替えようとしたら、布の部分が切り裂かれていた。
心まで切り裂かれたような気がした。
当時清掃員だったミナの母親が、新しい上履きを手渡してくれた。
『負けないでね』と。
「ふふっ、懐かしい。実はあの上履き、買ったのは私じゃないの」
思わぬカミングアウトに、鼓動が早くなる。
「えっ! ……どういうことですか?」
「刈谷くんに恩返しがしたいって子がいてね。でも、自分から渡すことは内緒にしてってね」
「だっ、誰にですか?」
目が泳いで、前のめりになる。
てっきり、おばさんがプレゼントしてくれたものかと。
……気持ちが追いつけない。
「名前は……えっと、ふう……。あー、そうそう。風華ちゃんって言ったかしらね。小柄で可愛らしい女の子よ」
「えっ! 風華?」
心臓がドキンと跳ねた。
風華という名前は、そう多くない。
「あら、知り合い?」
「え……、あ、まぁ」
俺とは2歳差で、当時は中1。
身長も低かった。
それに、風華という名に関わりがあるのは妹だけ。
「名乗らない理由を聞いたら、『恩着せがましくなりたくない』からって」
「……」
「しっかりしてるなって思ったよ」
あいつ、一度もその話をしてこなかった。
てっきり見たままのことが事実だと。
風華は見ていた――俺が苦しんでいた日々を。
そんなことも知らずに……。
中1のお小遣いなんて、たかが知れてるのに。
「その風華って子、実は新しい妹なんです」
思わず声が震え、目線が床を撫でた。
「世の中って狭いわね」
ミナの母親はくすくすと笑う。
「なのに、大切にしてあげれなかった。突き放すだけ。話を聞いてあげなかった。あいつはあいつなりに、守ってくれていたのに」
息が苦しくなって、胸元を掴んだ。
どんな気持ちで、新しい上履きを手にしていたのか、名乗らないと決めたのか、今日まで過ごしていたのか。
「じゃあ、これから大切にしてあげればいいんじゃない?」
彼女のひとことに心臓がトンと反応して、見上げた。
「えっ」
「恩返しをする時間はいくらでもあるでしょ」
視界が歪んだまま空を見上げた。
真っ青な空が、やけに眩しい――。
帰宅してから、風華に当時のことを聞いた。
風華は軽くまぶたを伏せて、呟く。
「お兄ちゃんが苦しんでるところをずっと見てきたから、私なんかじゃ手助けになれないと思って」
俺は返事ができないほど、言葉が詰まった。
「バカ……。そういうのはすぐに言わなきゃ、こっちが『ありがとう』って言えなくなるんだよ」
なにも知らないまま、今日という日を迎えてしまった。
もっと風華の話に耳を傾けてあげれば良かった。
そしたら、お互いこんなに――。
小さく息を整え、風華をまっすぐ見つめた。
「風華、ありがとう」
瞳を揺らしていると、風華の鼻頭が赤く染まり、唇をきゅっと結んだ。
照れ隠しをしているかのように。
俺たちは、近いようで遠い。
でも、ちゃんと向き合うことで、ようやく歩幅を合わせられそうだ。
これからは、少しずつでいい。
言葉で、行動で、ちゃんと向き合っていこう。
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