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第三話  春のスペシャル!

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 私の脳内スクリーンに怪しげな残像を残して去っていった大倉氏は、その後、全然姿を見せなかった。
 
 年が明け、冬休みも終わりに近づいた平日のお昼過ぎ。「ポイント倍増! 新春スペシャルフェア」というポップが踊る店内は、家族連れや、制服姿の中高生などで賑わっている。そろそろ受験シーズン本番だ。大学入学共通テスト、それから私立中学校の入試へと続くこの時期、ブッカーズの参考書売り場にも、なんとなく緊張した空気が漂い始める。

 書棚の前で真剣に品定めする少年少女たちを前にして、今年も考えてしまうのだ。私は、あんなに必死で、何かに食らいついたことがあったかなぁ。だけど、体力と運だけで乗り切った受験勉強なんて、思い出しても冷や汗が出る。二度とごめんこうむりたい。なのに、初々ういういしい緊張感に満ちた彼らの横顔を目にすると、尊敬の念と羨ましさとが同時に湧き上がってくるのを感じるのだ。甘酸っぱいような、かすかにつん! とするような……これって、まるで、青春アニメの観客みたいじゃん! 二十三歳って、もうそんな年齢なんだろうか。
 
 ブッカーズのスタッフとしては、業務中に、思考があらぬ方向にれてしまった。
 
 とにかく、何種類もの参考書を新刊で揃えるとしたらかなりの高額になるし、数年前からの過去問を幅広く取り揃えているのも強みだし、その上、資源のリユースという社会貢献にも大いに役立っているのだ、私達は。何だか、田中店長の受け売りみたいになってしまった。……そういえば、今朝の朝礼の時の店長は、いつにも増して気合い十分だった。


「いいか、君たち。新春フェアが終わったら、二月なんかあっという間に過ぎ去って、最繁忙期の三月・四月に突入だぞ。寒い寒いとか言いながら縮こまってる暇はないからな」
 
 またまた本社のお偉いさんから、全店舗一斉の発奮はっぷんメールでも届いたかな? ——そう言いたげな顔で、同じ売り場の岡本君がこっそりこちらに目くばせをする。

——やれやれ、長くなりそうだ。

「卒業、入学、そして就職シーズンの春先は、この業界にとってもかき入れ時だ。人生の大きな節目に当たって、お客様は、みな、できるだけ無駄なく、そしてよりに、身の回りのお片付けや新生活への準備をしようとする。だからこそ、我がブッカーズの腕の見せ所なんだ。いいか、君たち。春の商機は、春になってから慌ててつかもうとしても、おっそーーーーーーーいんだ!」

「そうです、そうです」と神妙な顔をして、居並ぶスタッフたちは大げさにうなずく。

「そして、ここからが一番大事なところだ。いくら春のスペシャルセールだとかなんだとか大々的にうたってみても、全国に八百店舗もあるブッカーズの売り場が、皆同じ顔つきをしてちゃつまらないだろう。我が店は、どのコーナーも、独自の戦略で攻めていくぞ! 書籍、ソフトメディア、アパレル、家電、トレカ……えーっと、それからそれから……とにかく全ての商材部門ごとに、最低でも一つ、なテーマを考えてくれ!」
 
 店長の荒い鼻息は、演説が終了してからも、なかなかしずまりそうにはなかった。みんながそそくさと持ち場に散ろうとしているのにもお構いなく、誰彼となく捕まえては、さらにはっぱをかけている。私は、ゲーム売り場の山田さんが犠牲になってくれている間に、この上なく慎重に二人に背中を向けた。助かった! と思ったのが甘かった。

「酒井さん、酒井さん!」 

 店長の力強い声が、背後から迫ってくる。

「書籍には、特に期待してるぞ。何しろ、全体の売り上げの三割以上も占めてるんだから。君たちは、さきたま店の、いや、ブッカーズ全体のえあるといっても過言じゃないんだからね」

「は、はい。書籍スタッフ一同で、せいぜい知恵を絞ります!」

「ダメダメ。そんな仲良しクラブみたいなこと言ってないで、一人一人がアイデア出さなきゃ。春は、新しい年度のスタートライン。桜の蕾が膨らみ始めると、誰でも、何となく気分が浮き立ってくる。新しい趣味でも始めてみようかなとか、苦手だったことを学び直してみようかなとか。そこが君、ビッグチャンスなんだよ」

——ああ、今度は完全に、私が囚われの子羊だ。

「酒井さん、何か、得意分野ってないの?」

「は、はあ、そう言われましても、特には、何も」

——店長、勘弁してくださいよ。通常の業務をこなすだけでも十二分に忙しいのに、これ以上、無い知恵を絞れと言われましてもねぇ……。
 
 暖簾のれんに腕押し、的に全く手応えのない私の様子に、店長は極めて不満げだ。

「いいんですか、これを語らせたら、一晩やそこらじゃとても時間が足りませんよ」なんて言えるような特別な趣味は、私には無い。ただ本が好きだから、というだけの理由でここにいるようなものだし、それがまた群を抜くほどの遅読派なのだ。一行一行をのんびりと味わいながら、ちょっとど忘れしたことがあったりすると、何度もページを遡ってしまう。超速で本を読みこなし、レビューなんかもばんばん書けちゃうような、鉄壁の書店員でなくて、すみません。

「うーん、たとえば……最近流行はやりのとか恐竜好きのちびっ子とか、そういう層をターゲットにしてみるのも面白いんじゃない?」

 不甲斐ない私に愛想を尽かしたのか、店長は完全に独走状態だ。

「そうそう! 最近その手の図鑑とか、テレビの歴史・サイエンス特番なんかもよく目にするし、ひょっとすると老若男女を問わずいけるかもしれない。君、ひとつ頼んだよ!」 
 
 何度も大きくうなずきながら、店長は意気揚々と引きあげていった。
 
 歴史に恐竜に、サイエンス。これまた派手なミッションをぶち上げてくれましたねぇ、店長さん。壮大すぎて、私一人のささやかな脳細胞じゃとても対処しきれっこなさそうだから、何としても他のスタッフを巻き込んで、この危機感を共有しなければ……。            (続く)
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