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どこまでもアオイ

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たった一晩のウィークリーマンションを経由して、突然始まった引っ越しは過酷を極めた。
前日にいたヤクザさん達の手伝いは一切無くて、体のデカい桃地もいない。
引越しのメンバーは椎名と銀二と健二、葵の4人だけで、業者も頼んで無い。
荷物の搬送手段は椎名のベンツと軽トラ一台、勿論荷物は全部手運びだ。
そして、勿論の勿論、椎名はああしろこうしろって言う割に手伝うつもりなんか無い。
事務用のキャビネットって中身が入ったままな上に手を掛ける所が無いんだよ。

銀二さんは見た目通り力仕事は弱いしね。

重く無いよ?持ちにくいだけだよ?
男だから持てるけど、重く無いけど、「仕方が無い」って渋々参加してきた椎名が大物だけに手を貸してくれた。

そして引っ越し先を見た時、4度目のデジャブかと思った。
銀二に腎臓を寄越せと脅されたビル。
数ヶ月住んだビル。
全身の毛を剃られたビル。
今度のビルも同じように地味な立地で人目に付きにくく、細長い。そして事務所は二階にあって窓が広く、3階からはマンションになっていた。

同じじゃん。
どうやって探すんだ。
それとも椎名が建てたビルなのか?
既製品なのか?

ただ、床面積は前と同じくらいなのに、今度の事務所は一部屋しかなくて風呂も無い。
「3階に2部屋あるから健二と葵くんはそこに住め」って椎名の仰せだ。

「え?…それはもしかして1人で?……俺1人で住むの?住んでいいの?」

これは……夢の個室?
1人部屋?
ベッドの上で全部脱いで裸で風呂に入れる。
そして裸のまま出て来て裸でゆっくりしてもいい。好きな物を買って食べても誰も笑わないし(プリン)ご飯の代わりに生クリームを舐めてもいいのだ。

「1人…」

「え~」と不満の声を上げる健二。

「1人」

「何も今更別の部屋にする事ないだろ、一緒でいいよ、なあ?!葵」

「1人」
1人暮らしってワードは寂しいような気がするけど1人部屋って言い方をすれば「自由」しか出て来ない、健二が何か言ってるけど健二なのだ。
何でもかんでもOKの寛容かつ包容する袋が異様にデカい健二なのだ。
異論は無いって言おうとすると、ちょっと深刻な顔をした椎名が「その前に話があるから座れ」と言った。

お決まりだから床に正座すると困ったように笑って、椅子でいいからってまだ片付いて無い段ボールを勧めた。

椅子じゃ無いね。
いいけど。

「何ですか?」
「葵、まずは1人の部屋なんていらないって言えよ、俺がいいって二回も言っただろ、自分の気持ちははっきり言え」
「健二さん、うるさいです」

気持ちははっきりしている。
本当の所を言えば「どっちでもいい」
だって健二はいるし、横で笑っているのだ。

それよりも椎名の顔がいつもの標準装備スマイルじゃ無い事に緊張した。同居に拘って文句を言ってる健二を喜ばしたり悲しませたりして遊んでる場合じゃ無いってわかる。

「なあ?!なあ?!」ってしつこく同意を求めてくる口を手で塞いで、もう一度「何ですか?」と聞いた。
すると、椎名は迷うように一拍置いて書類らしき物を前に出した。

「……これは?」

「うん、どうすべきかずっと迷ってたんだけどな、今の葵なら受け止める事が出来るかもしれないと思ったんだ」
「葵!騙されんなよ、何でもいいから部屋は一つでいいって言えよ、遠距離なんて駄目だぞ?寂しいぞ?寒いぞ?」

寧ろ冬でも暑い。
健二煩い。

「何の書類ですか?」

「実は葵くんの母親の所在がわかってる」


「…………」

「………は?」

………母親?

今、椎名は葵の母親って言った?
変な幻聴を聞いたような気がして、ホジホジと耳に指を突っ込んで引っ掻いてみた。
それでも反応出来なくて黙っていると健二が代わりに聞きたい事を聞いてくれた。

「あの、それは椎名さんのお姉さんの子供とか言う話か?俺達の甥って話か?それともお父さんの従兄弟の姪の旦那の子供…いや?何だっけ?」

うん。
違う。
もうそれぐらいでいい。
何でもいいから黙れ健二。

心臓がバクバクして汗が出てるのだ。
母親の存在なんて信じてなかった。
死んだのか、あの父に愛想を尽かして出て行ったのか……そんな事すら考えたことも無いくらい母親の気配は1ミリも無かったのだ。

しかし、今思えば「産まれた子供は邪魔だった」としか思えず、会いたいなんて言う筈がない。

つまり、「母の所在がわかった」。
それだけだ。

「どうやって調べたんですか?」

ここは「何故そんな事を調べたのか」を聞きたいけど話が逸れてしまいそうだから今は抑えた。

「見つけたって……いつ…」

「ん、実は葵くんが家出した時にちょっとね、もしかしてと思ってさ、いやぁ大変だったよ」

「そんなに無理をして探したんですか?」
「無理ってかさ、欠野って判子は市販品のラインナップに無いから注文しなきゃならなかった」

「…………それは…探偵とかヤクザのネットワークを使ったから「大変」だった……って訳じゃ無いんですね?」
「うん、役所に行って戸籍を貰っただけだよ、な?」

委任状を書く為に欠野の判子がいったと。

うん。
誰にでも出来るね。
誰にでも出来るって所にも問題があると思う。
しかも、「なっ」って銀二に聞いたって事は判子を用意したのも役所に行ったのも銀二だと思う。

何だか落ち着いた。
汗も引いたよ。

「それ……俺に母がいたとしてもあんまり関係無い話ですよね」
「それは葵くん次第かな、俺はこれを伝えるべきかどうかをそれこそ死ぬ程迷った……あまりに残酷で、あまりに……酷い運命だなって…」

椎名が話途中で言葉を切ると、「俺と結婚すればいい」とか「結婚に親の承諾はいらない」とか「新婚は一緒に住むべきだ」とかあり得ない事ばかり口走ってる健二が煩い。
でもそれはきっと「葵は1人じゃ無い」って言ってるつもりなんだと思う。

しかし椎名が「これは葵の問題だ」と静かに諭すと健二も黙り込み、シンっと静寂が覆った。

勿論、涙の再会なんて期待してないし、母が恋しかった思い出もない。もし会えたとしても苦手な初対面だ。「初めまして」って挨拶して……そして、苦悶を浮かべた顔を見るだけだろう。

健二さん、今なら喋っていいよ。
と言うか……こんな時こそ黙るな。
こんな時にこそいつもの馬鹿さが欲しい。

「それでな」…と椎名が続けてまた背中に汗が滲んだ。

「あの、その前に向こうは俺の事を…その…知ってるんですか?」
「そりゃ自分で産んだんだ、知らないって事は無い、葵くんは今の所天涯孤独だろ?普段付き合いが無くても、もし何かあった時に…」
「それは俺が野垂れ死した場合とかですか?引き取り手が無いと困るって事ですよね」

ついつい出た僻みのような口調に、椎名からは苦笑い、健二からは「こら」ってデコピンを貰った。

もう、ここでいいから。
この事務所にさえ置いてくれればいいから、迷惑しているであろう母の話なんてやめて事務所の片付けをしたかった。
しかし、椎名は「大人の使命」とでも言いたげに先を続けた。

「そんな極端な話はしてない、例えばこの前みたいに家出して行く所がない時に頼れる親族が……せめて相談出来る人が1人だけでもいればいいだろうと思ったんだ」

「そして…調べて、母を見つけて……迷惑だからって断られた……って話なんでしょ?」
「いや?葵は一応だけどもう成人した大人だろ?」

一応じゃない。

「……でな、養育義務も無いし、自立しているなら取り敢えず籍を入れてもいいって言うんだ」
「え?そうなんですか?」

しかしそこにはとてつもない難題と問題と軋轢と看過できない障壁が……ある、と椎名は言う。

「俺は別に今のままでいいです、会ったことも無いし、まして記憶の片隅にもいない相手なんです、迷惑なら…」
「迷惑とは言ってない、これは葵自身の問題でしか無いんだよ」

「俺の問題って何ですか」

何だろう、椎名が笑いを堪えているような気がするのだ。
笑うような話なのか……余程滑稽な話なのか。
聞きたく無いけど、もうここまで来てしまった。
何があっても諦めるのは得意なのだ。

それに……ちょっとだけ。
ちょっとだけだけど大っ嫌いな「欠野」って苗字を変えられるかもしれない、なんて変な期待をしてる。

健二の顔を見ると「うん」って頷いてくれた。

1人じゃ無い。
傷付いたりしない。
余程の事なら……健二に頭突きでもすれば気が済むと思う。

やけに勿体を付ける椎名に「それで?」と聞けば益々笑いが抑えられなくなってる。

「何が面白いんですか」
「いや、ごめん、これは真面目な話だからな、心して聞けよ」

それから健二に「危険物は無いか注意しろ」って何なんだ。こっちが警戒するよ。

「実はな」

「はい」
「葵のお母さんは再婚していらっしゃる」

「旦那さんが反対しているって事ですか?」

何だ……って気が抜けた。
家族が出来るとは思ってないし、籍を入れても他人なのだ、頼ったり出来ないし、しない。
どうでもいいのに「そうじゃない」ってまた深刻な顔をする。
でも口の端が笑ってるんだよ。

「もう!さっさと言ってください、まどろっこしいんです、俺は傷付いたりしません、今更です」

「それなら言うけど、その結婚相手の苗字は結賀って言うんだ」

「………」


「だから?」

「ゆ、い、が、結ぶと賀正の賀」

「ええ、だから?」

もし母型の苗字を名乗るなると「こう書く」と、椎名が段ボールの端にボールペンで漢字を書いた。

結賀 葵

初めて見たと時は、ゆいが あおい
いい名前じゃないかって思ったけど、漢字に弱い健二がとんでもない事を言った。


「…………え?……ゆい?、これはゆいって読むの?結は結婚のけつだろ?」

「ああ…………葵くんのお尻ってどこまで行っても青いんだなぁって……」


「!!」

酷い

何て事だ!

信じられない。

神様って何?
どういう事?

何て複雑な意地悪だ。
もう神様に文句を言う為に旅に出てもいい
やっぱり神様の顔は健二じゃ無い、椎名だ。

「健二さん!!」
「え?何?!ごめんなさい!!」

「結婚しましょう!!」

「え?!!」
「俺はなる………成瀬葵になる!」

「……いや…海賊王じゃ無いし」
「いやって何ですか!プロポーズしたでしょうっ?!ハイです!イエスです!健二さんが好きです!同居しましょう!セックスしましょう!!」 
「それはするけど…」
「するんでしょ?しますよね?!結婚って何ですか?婚姻届を出せばいいんですか?男同士は駄目ですよね?じゃあセーラー服を着ればいい?ああ、大人はセーラー服じゃ駄目ですね、じゃあスカートを履けばいいんでしょう、買いにいきましょう、今行きましょう、すぐに行きましょう!」

落ち着けって止められたけどこれが落ち着いていられるか?相変わらず神様は俺が嫌いなのだ。
大っ嫌いなのだ。

椎名を押し除けて架空でも許せない名前が書いてある段ボールを引きちぎって燃やして外に捨てようとしたら窓硝子が割れたり

止めてくる椎名と健二と……銀二さんまで!!
笑ってる、腹を抱えて爆笑してる。

ムカつくってレベルじゃ無いから椎名の足を蹴って銀二を突き飛ばし健二に頭突きを喰らわし、逃げた場所はトイレだ。

飛び込んで鍵を掛けて、逃げ出せる窓を探したけど………


残念ながら体が通る大きさの窓なんか無かった。


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