恋は、美味しい湯気の先。

林崎さこ

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真冬のおでんと出会いの夜   side 亮介

   
    そう............白い、白い部屋だ。
 天井も、壁も、おそらくは床さえも白く、冷ややかで、目の前にあるベッドのカバーも真っ白だ。
 いつもと同じ。いつもの夢だ。
 頭上で誰かが話す声。 
 
「......しんぞうが......」
「ておくれ......」
「これから......どうやって......」
「......あなたしだいで......」
 
 薄く盛り上がったベッドカバーに取りすがって、幼い子供が泣いている。枕の部分には厚く白いもや。誰だ?そこに横たわっているのは。
 泣くな。そんな暇があったら、もやを払え。枕の上の顔を見ろ。そうすれば......。
 そうすれば?
 子供の甲高い声が四方の壁に突き刺さる。

「―――さん、しなないで......――!!」

 ここで突然断ち切られて終わる。そう、いつも。


  ※   ※   ※   ※   ※   ※   ※   ※   ※   


「......あ...っちゃあ、お客さん、すみません。当分動きませんわ、こりゃ」
 タクシー運転手の声に、久我山亮介(くがやま・りょうすけ)は、膝の上のタブレットから顔をあげ、フロントガラス越しに前方を見た。片側1車線の細い道路のずっと向こうまで、信号もないのに車がつながってピクリとも動かない。
 またか。今度は何だ?追突か、それとも横転か?亮介は口の中で小さく舌打ちした。
 
 都心から高速を使い、車で約2時間ほどのY―湖畔へ出張した帰り道だった。
 思えば今日一日、ロクなことがなかった。
 朝一番に、経営難に陥っているリゾート施設の買収協議に赴いたが、さっぱり交渉がまとまらない。どうやら、別に買収希望企業があるようで、天秤にかけるつもりか、こちらの提案をのらりくらりとかわしてくる。困っているのはそっちだろうが。古狸め。
 昼に休憩を入れたところで、帯同してきた秘書の祖父だか祖母だかが亡くなったと知らせがきた。最悪、明日の葬式に出られればいいからと言う秘書を叱り、雪が本降りにならないうちに乗ってきた車で帰らせた。予報ではすぐ止むようなことを言っていたが、万一降り込められたらどうするつもりだ。日本の会社員は、休暇を取ることに申し訳のなさを感じる者が多いと聞いていたが、本当にその通りだ。体の半分に日本人の血が流れているとはいえ、アメリカに育ち、ほんの2か月前までニューヨーク本社に勤務していた亮介には、理解しがたい感覚だった。
 その後、夕方ぎりぎりまで交渉を続けたが、結局持ち越しになってしまった。いっとき激しく降った雪もその頃には雨に変わっていたので、タクシーを呼んで帰途についたのだが、これがいけなかった。
 速度規制のためにスピードを出せないうちはまだ良かったが、故障車が出て渋滞が起こり、接触事故で車線規制がとられ、大型トラックが横転して貨物が散乱し、上りが全線通行止めとなった。一般道に降り、都心を目指すが、当然そこも渋滞する。そしてとうとう、止まってしまった。
 出発からそろそろ3時間、まだ東京にも入れていない。
 かなりの大回りになるが、電車を使うべきだったかと後悔していると、ナビシステムをいじっていた運転手が声をあげた。
「お客さん、ちょっと歩きますけど、私鉄の駅がありますよ。ほら、ここ」
 タブレットで現在地を読み込み、地図を表示させて駅を確認する。そのままたどっていくと、都心へ向かうJRに接続している。雨も止んでおり、歩くのに支障はない。
 料金の支払いを済ませ、時間がかかったことをしきりに詫びる運転手に礼をのべて車を降りた。

 数百メートル引き返した後、地図で見たガソリンスタンド跡の角を北に進むと、かなり先だが踏切の鳴る音がかすかに聞こえて安堵した。これで何とかなりそうだ。
 長時間、暖房の効いた車内にいたせいか、冷気がことのほかきつく感じられる。吐く息の白さが濃い。時折強く吹き付ける風に、亮介はトレンチコートの襟を立てた、
 歩いていく内に、まばらだった人家が増え始め、商店街を思わせる通りが見えてきた。人通りがなく活気もないのは天候のせいだけではなさそうに思える。街灯の弱い光が寒々しさに拍車をかけていた。
 それにしても、昨日の今頃は、こんな名も知らぬ寂れた町を寒さに震えながら一人歩くことになるなど想像もしていなかった。急病で倒れた前社長の代理として亮介を送り込んだ本社のジジイどもが見たら大笑いするに違いない。大抜擢などとほざいていたが、目障りなアジア系の若手を追い払う口実だということはハナからわかっている。本社に戻るためには、こんなところで、あんなつまらない交渉でモタついている場合ではない。
 『日本で働けて嬉しいでしょう』
 『里帰りってやつだね』
 事情を知らない連中には、何度もそう言われた。冗談ではない。自分は子どものころからずっとアメリカで暮らしてきた。片方の親が日本人だったというだけだ。訳あってアメリカ在住の日本人夫婦の養子となったが、学問としての日本語教育以外は徹底的に日本に関連するものを避けて育てられた。食生活も同様で、家で和食を食べることはなかった。日本食レストランに行った覚えもない。日本に来てからはさすがに和食を口にする機会が増えたが、特に何の感慨もない。ましてや、日本の文化や日本そのものにノスタルジーなど覚えるはずがない。自分の故郷はアメリカだ。

 それなのに。

 風に乗って、ふわりと鼻先をかすめていった匂いに足が止まった。
 続けて2度、3度と流れてくる。これは......食べ物の匂いだ。
 また来た。脳の奥まで匂いを取り込む勢いで、鼻から大きく息を吸い込む。

 小さな頃から''食べること''について、まるで感動がなかった。
 まずいものは論外だが、空腹を満たせればそれ以上の思いは特にない。それが当たり前の毎日で、目の前の料理が美味しいと言っては喜び、ミシュランガイドを食い入るように見る連中の気がしれなかったし、内心では小馬鹿にしていた。
 それが。
 
 いい匂いだと思う。
 美味そうだ、とも。
  
 そして、信じられないことに、
   ――懐かしい――
 間違いなく、そう感じた。

  匂いに引かれるように通りを外れ、脇道に入り込み、気が付くと亮介は一軒の小さな構えの店の前に佇んでいた。
 見た目は古臭く、両手をいっぱいに伸ばせば建物の端から端まで手が届きそうなほど狭い。目の下にある扉の上辺には濃紺の布が渡され(のちに、暖簾というものだと知った)、右隅には『ごはん屋 はる』と白く染め抜かれていた。匂いの出所はここらしかった。
 自動で開かないスライドドアなど初めて見た。手間取りながらも、やっと店内に入る。
 奥に細長い店内は縦にカウンターで仕切られ、中に1人、左の客席側に3人座っていたが、全員、口をあんぐり開けてこちらを見ていた。日本に来てからというもの、度々こんな目でみられる。最初はうんざりしていたが、もう慣れた。
 勢いで入ってしまったものの、勝手がわからず立ち尽くしていると、
「......っ、いらっしゃいませ。おひとり様ですか?」
 カウンターの中にいる青年が、気を取り直したように声をかけてきた。
 緑色のバンダナを深く頭に巻きつけ、大きな丸い黒縁メガネをかけているので、表情はよくわからないが、ややぎこちなくも微笑みをたたえた口元は髭などもなくすっきりしていて清潔感がある。まだ若く見えるが、店主だろうか。黙ってうなずくと、
「手前のカウンターにどうぞ。あ、扉閉めてもらえますか」
 うっかりしていた。言われた通り、扉を閉める。先客の見様見真似で脱いだコートを左手の壁のハンガーにかけ、民芸造りのような小さな椅子に腰掛けると、一息ついた絶妙なタイミングでカウンターの向こうからおしぼりが手渡された。ビニール袋入りの紙おしぼりはカフェやレストランで見かけるが、タオルを巻いたものは初めてだ。礼を言って受け取ると、これが温かい。ほんのり湯気の立つ生地を広げて手に押し当てると、我知らず、安堵の息が漏れた。外気で冷えた手肌と、トラブル続きでささくれ立っていた神経が柔らかくほどけてゆく、そんな心地がした。
 徐々に消えてゆく熱を惜しんでいると、また声がかかった。
「先に飲み物お伺いしますね。と言っても、ウチは日本酒とビールどちらか一杯だけというのが決ま」
「アルコールは要らない。それより、あの」
 青年の声をさえぎるように早口で言ったあと、亮介は絶句してしまった。
 料理の名前がわからない。美味しそうな匂いにつられてやってきました。なんて、こどもか。しかし言うしかない。
「......駅に行く途中で......すごく...その、いい匂いが」
「?」 
 青年が小首をかしげた時、亮介の左隣の先客たちから、一斉に声があがった。
「おでんじゃない?ハルちゃん」
「そうだよ、ハルちゃん。おでんおでん!」
「店ん中いると分からんかも。換気扇回してるし。今日みたいに風のある日は、向うの通りまで匂いしてくるよ。で、つられて、ついつい来ちゃうっていう」
「そうそう!」
 店の常連らしい3人はそう言ってガッハッハと笑ったあと、「だろ??」というように、またしても一斉にこちらを振り返った。
「......おでん?」
 戸惑いながら、そう返すと、
「えっ!おでんを知らないの!?」
「嘘だろ、おい」
「庶民の冬の味覚、おでんを!」
「セレブだ...」「セレブだ......」「セレブだ......」
 おののきが、さざなみのように伝わってくる。何かいけないことでも言っただろうか。
「いや、ずっとアメリカ暮らしで、初めて日本に来たので......」
 そう言うと、3人の常連達はますます色めきたった。
「アメリカ!」
「そう言えば、にいさん、顔も背丈も日本人離れしてるもんなぁ」
「日本語、うま!」
「われらが『はる』も、とうとうワールドワイドに!」
「や、アメリカだけだって」
 何だか急に盛り上がり始めた。
 亮介が呆然としていると、目の前のカウンターに、白い皿がそっと置かれた。
 少し深さのある丸皿の中心に、背の低い円筒形の物体が一つ、盛大に湯気をたてて鎮座している。
「これで合っているかわかりませんが......おでんの大根です。どうぞお試し下さい」
 熱いので気をつけて。青年がにっこり笑ってそう言った。
  
  大根。
 そういえば数日前の会食で出された刺身の脇についていたツマとかいう草みたいな......あれは大根だと教えられた。白くシャクシャクとした何の味もない妙なもの。今、目の前で湯気をたてているこれが同じものだと?
 皿を引き寄せ、そっと匂いをかぐ。ああ......間違いない。さっきと同じ、あの......。はやる気持ちを抑えて箸を取り上げる。
 透け感のある、やや茶色みを帯びた黄金色の煮汁に均一に染め上げられた円筒形を2等分するよう箸を押し当てると、何の抵抗もなく、しずしずと沈んでいく。そのまま押し広げると、内部に押し込められていた熱が、ぶわりと立ちのぼる。断面は鉱石を思わせる半透明を見せている。ここまで煮るのにどれほど時間をかけているのだろう。
 もう半分に切って、湯気を吹きながらそっと口の中に入れた。
 熱い。はふはふと口内の熱気を逃がしてから奥の歯でゆっくり噛む。
 途端、口内にあふれだす旨味あふれる煮汁。スポンジとは似ても似つかない、あの鉱石めいた素材からは考えられないほどの水分がほどばしる。醤油の風味......は何となく分かる。でもその他は名も知らない色々なものが混じり合い、何一つ突出することない完璧なハーモニーを作り上げている。何度か咀嚼し飲み込むと、しっかりしながらも、くどさのない味わいが喉の奥に流れていった。頬の内側に、上あごの奥に、そして舌全体にじわりとした余韻が残る。
 ああ、これが。この感覚が。
「......美味い...」
 押し出すように小さくつぶやくと、
「やったっ!」「美味い、いただきましたっ!!」「世界に認められた『はる』の味ィ!」「だから、アメリカだけだって」「春ばぁも草葉の陰で喜んでるよぉ...ハルちゃん、お祝いにもう一杯♪」 
「駄目です。でも池田さんはまだ飲んでないからいいです」
「「ケチ―――!!」」 
 隣で異様に盛り上がりはじめたのをよそに、次の一片を口に含んだ亮介だったが、ふと脳裏をよぎるものがあった。
 味だけでない。この、胸をかきむしられるような何とも言いようのない懐かしさは......もしかして。

 亮介には、生まれてから養父母に引き取られるまでの、約7年間の記憶が全くない。事故にあった影響とは聞かされていたが、思い出そうとしても頭の中に厚いもやのようなものが湧き出てくるばかり。長年カウンセリングも受けてきたが、どうしても無理だった。負荷をかけすぎて精神に変調をきたす可能性があるからと言われ、次第に深追いすることを諦めてしまっていた。しかし、こうして過去につながるきっかけを掴んでしまった以上、何としてでも辿らなければならない。ずっと苦しめられてきた記憶と心の虚(うろ)を満たすために。 
 でも、今は。
「すまないが、もう1つもらえるか?いや、他にもあるなら一通り......それと、このカウンターにある料理も盛ってほしい」
 亮介がそう言うと、青年はおかしなくらい嬉しそうに、
「よろこんで!!」
 と、返事も爽やかに新たな皿を取り出した。



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