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辛子の記憶と腕時計 side 亮介
............白い、白い部屋だ。
天井も、壁も、おそらくは床さえも白く、冷ややかで、目の前にあるベッドのカバーも真っ白だ。
いつもと同じ。いつもの夢だ。
頭上で誰かが話す声。
「......心臓が......」
「手遅れにならない内に......」
「これから......どうやって......」
「......あなた次第......ご決断を......」
薄く盛り上がったベッドカバーに取りすがって、幼い子供が泣いている。枕元には大人が1人...2人?誰だ?そこにいるのは?
泣くな。そんな暇があったら、顔をあげてそいつらを見ろ。そうすれば......
そうすれば?
子供の甲高い声が四方の壁に突き刺さる。子供の俺が叫んでいる。
「―――さん、死なないで......――!!」
ここで突然断ち切られて終わる。目覚めれば忘れている。悲しい夢を見たような気がすること以外は、全て。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
久我山亮介は2か月前から、アメリカに本社をおく不動産開発及びホテル運営会社の日本支社長として多忙な日々を送ってきた。
数字、数字、数字、会議、視察、会議、数字、数字......。主要都市に置いたラグジュアリーホテル、地方の観光地に展開するリゾートホテル等々、各施設の具体的な運営はそれぞれの総支配人の仕事で、亮介のやることは経営状態のチェックに資金調達、本社とのやり取りその他諸々、ホテルマンというよりはオールラウンダーな営業職に近い。新規開拓や買収に加え、不採算施設のテコ入れや売却の検討も行ない、正直、時間はいくらあっても足りない。とは言え、仕事の他にさして興味のあることもなく、とにかくさっさと業績を上げてアメリカに戻りたかったので、24時間仕事に明け暮れる毎日でも問題はなかったのだ。そう、今までは。
あの小さな店の一皿の料理との出会いが、閉ざされた過去の扉に再び向かい合うきっかけをくれた。不自然なまでに空白な記憶が埋まれば、それがどんな過去であっても、きっと満たされる。己のルーツが分からないという、足場の無い不安定感は、目や表情の昏さとして顕著にあらわれた。記憶を追う闘いに疲れ果て、「今」が評価されればそれでいい、それが自分だと誤魔化していた。しかし。
生きたい、と思った。踏みしめるべき地を足で、心で感じとり、本当の自分を取り戻して生き直したい。そのためにはおそらく、いや確実に味覚がキーワードになる。
社内での食事におでんをリクエストして秘書を驚かせたこともあれば、隙間時間に専門店に食べに出たこともあった。それぞれにいい味はしていた(そう感じたことも進歩だ)が、あの店での、心臓を底から掻き取られるような強烈な懐かしさを感じることはなかった。
あの味でないと駄目だ。初めて訪れた場所であわや無銭飲食という事態に柄にもなくうろたえた挙句に謎に恰好をつけて出てきてしまったが、早く未払いの代金を払いに行って、また食事をしよう。小さな格子戸、小さな店内。気の良さそうな客達に、丸眼鏡の店主の穏やかな声......何もかもが不思議なほど心地よく思えたあの店で。
だが。
忙しい。とにかく忙しい。再訪する時間が捻出できない。好き放題予定を詰めまくった自分が憎い。2週間以内と言ったが可能だろうか、いや、必ず行ってみせる。亮介はタブレットのスケジュール帳を立ち上げ、予定をにらみつけた。
そして今、前回と同じ椅子に腰かけ、亮介は料理が出てくるのを待っていた。
約束の期日に間に合わなかった自分を、店主の青年――悠人は快く迎え入れてくれた。柔らかな布地にくるまれた腕時計を返す時だけは、
「生きた心地がしませんでした」
と恨めしげだったが。
あまり売り物がないが食べていくかと聞かれて即、頷いた。あれから札入れは常備していると心持ち胸を張ると、それは安心です、と笑われた。
「お待たせしました。おでん盛り合わせです」
「ありがとう。悠人くん」
腕時計を脇に置き、湯気の立つ皿を受け取る。
マスターと呼びかけると、そんな柄じゃありませんと猛烈に恥ずかしがり、名字呼びは何故か嫌がられ、結局『悠人くん』に落ち着いたのは5分前のこと。それでも照れくさいのか、今も赤い顔をしてカウンターの端に引っ込んでしまった。常連客にはハルちゃんハルちゃんと言われていたのにおかしなものだ。
それはさておき、とにかく今は目の前の皿に集中しなければ。
2週間ぶりのおでんの匂いを目一杯吸い込むと、やはりあの例えようのない感慨に心を揺さぶられる。大根、こんにゃく、竹輪に練り物。他の店と似たようなものなのに、何故こんなに特別に思えるのだろう。さぁ、と箸を取り上げたが、ここでふと、カウンターに置かれた調味料入れに目がいった。醤油の小瓶に爪楊枝と、黒い壺型の容器に入ったペースト......確かこの前、左手にいた常連客がこれをつけて美味そうにたべていた。何かまた思い出すヒントになるかもしれない。小さな匙にたっぷりすくったのを大根になすりつけ、箸で切り分けて口に放り込み、そして。
「――――――――――――......っっ!!」
突然。
鼻の奥を真正面から殴られたような衝撃に、亮介は声にならない声をあげると、顔面を押さえてのけぞりながら立ち上がった。箸が転がり落ち、椅子が倒れて派手な音を立てる。
「久我山さん!?」
悠人が慌ててこちらに来る気配がするが、もう答えるどころではない。
「どうしたんですか!?何か.........あ、もしかして......!久我山さん、鼻から息を逃がして!吸っちゃ駄目ですよ、吐くだけ!」
......吸った。
またしても強烈な刺激が襲ってきた。鼻腔の奥が痛みに収縮し、目尻に涙がにじんでくる。ぎゅっと閉じた瞼の裏側で赤や黄色の火花が点滅し、突き抜ける痛みは脳の裏側まで回り込むように走り、そして。
(............れ......、......めよ.........)
声が。
(......まだ.........)
頭の内側から声が。
(...これは、だめ......)
降ってくる。とぎれとぎれに声が......大人の女性の声が......心の底に落ちてくる。
(まだ...はやい.........だめよ......だめ............これは.........)
瞼の裏の火花が白く激しく散りだして一面に広がり、声にエコーがかかったようになりブレはじめて遠くなってゆく。声が消える。優しく、そして......待ってくれ、まだだ。まだ行くな、消えるな、まだ......。
「久我山さん!!」
はっとして目を見開く。気がつくと手のひらで顔面をおおったまま、床に座り込んでいた。悠人が膝をついてこちらを覗きこんでいる。
「......大丈夫ですか?」
しばらくぼんやりした後、頭を横に振りながらつぶやく。
「.........Oh god...How terrifying! That's just a murder weapon......!!」
「殺人兵器なんて大げさですって......。でも、お伝えしておくべきでしたね、申し訳ありません」
そう言って、悠人は何枚も重ねたティッシュを亮介の手に握らせた。
「あれ、辛子っていうマスタードに似た薬味なんですけど、マスタードよりはるかに刺激がありますし、なかでも香りがよく立つ粉のものを練って作っているんですよ。結構な量をつけたでしょう?」
「......前に来た時、左にいた男性がしていたのを真似たんだが......」
「前......ああ、池田さんだ。あの人は強烈な辛子フリークで、願い事がかなうなら、丼一杯の辛子でおでんをディップして食べたいと公言している人です。あれを真似したらいけません」
「......」
渡されたティッシュで目と鼻を押さえながら、亮介は過去に思いを馳せていた。
薄々とは感じていた。生まれて間もない頃に両親が事故で亡くなったために養護施設で育てられたという話が嘘で固められたものではないかと。赤ん坊の頃はともかく、7年近く暮らしていた施設での記憶が全くないのが不自然すぎる。しかし養父母に問いただしても、彼らは悲しそうな眼をするばかりで何も答えてはくれなかった。事情はどうあれ、愛情深く接してくれる彼らを困らせるわけにもいかず、不安定に揺れる心を押さえつけ生きてきた。
だが、もう迷わない。目の前に現れきた過去への手掛かりをつかんで決して離さない。俺が俺自身になるために。
「もう大丈夫そう......ですかね。念のため、温かい緑茶をお出しします。刺激がやわらぐと思いますよ」
そう言いながら落ちた箸を拾い、倒れた椅子を起こす悠人に礼を言って立ち上がった。まったく、彼には格好の悪いところばかり見せているな、と思いながら。
特に難しい言い回しが無かったとはいえ、小声で、しかも相当な早口でつぶやいた英語を悠人が難なく拾っていた意味には気づくことはなかった。
その後、亮介は食事を終えると店を出て、駅に続くアーケードを歩いていた。シャッターを閉めている店が多いが照明はそこそこ明るい。行きはタクシーで県道側から来たが、配車に時間がかかると聞いて、帰りは電車にした。早いうちに右ハンドル車を練習して車で来よう。時間短縮になるし、なんと言っても、過去の記憶が掘り出されるのはこの店だけなのだから。
とりあえずどこから手を付けるべきか。養父母を問い詰めるのはなるべく後回しにしたい。とすれば、10代の終わりまで通っていたあのクリニックか......。と、そこへ背後から自分を呼ぶ声が聞こえた。
「久我山さーーん、とーけーい―――!!」
ハッとしてポケットをまさぐる。無い。そういえば、辛子騒ぎが終わってから時計を見た記憶がない。立ち上がった時に払い落としたか。床に落ちたならすぐに分かっただろうが、隣の椅子の上に落ちてしまったのか。いずれにせよ、また彼に迷惑をかけてしまった。振り返ると、悠人が握った右手をあげながら駆け寄ってくるのが見えた。
「済まない、今そちらへ―――」
その後はスローモーションを見ているようだった。
何かにつまづいたか、悠人の体が宙に浮いたかと思うと、前のめりに倒れ込みそうになりながらも握りしめた右手を庇うように反転し、背中をしたたかに打ちながらひっくり返った。頭のバンダナがずれ、眼鏡が音をたてて転がった。
「――いっ............たたた......っ!!」
「悠人くん、大丈夫かっ!?」
呆然と見ていた亮介だったが、我に返って駆け寄り、悠人を助け起こした。ケガしていないか、時計なんてどうでもいいのにと言おうとして固まってしまった。
思いがけない美貌がそこにあった。
痛みにしかめられていても分かる優美なアーチを描く眉に、きめ細かな色白の肌に影を落とす長い睫毛。形の良い鼻と少し薄めの唇がベストバランスで収まっている。そして、ハッとして亮介を見上げる瞳は、とろける飴を思わせるライトブラウンで。地味な出で立ちの下に、これほどまでに清廉な美しさが隠れていたとは。
しかし何より亮介の眼を引いたのは、バンダナが外れて露わになった髪―――新品の銅線を思わせる茶色みを帯びて額に落ちかかる、艶やかな赤毛だった。
天井も、壁も、おそらくは床さえも白く、冷ややかで、目の前にあるベッドのカバーも真っ白だ。
いつもと同じ。いつもの夢だ。
頭上で誰かが話す声。
「......心臓が......」
「手遅れにならない内に......」
「これから......どうやって......」
「......あなた次第......ご決断を......」
薄く盛り上がったベッドカバーに取りすがって、幼い子供が泣いている。枕元には大人が1人...2人?誰だ?そこにいるのは?
泣くな。そんな暇があったら、顔をあげてそいつらを見ろ。そうすれば......
そうすれば?
子供の甲高い声が四方の壁に突き刺さる。子供の俺が叫んでいる。
「―――さん、死なないで......――!!」
ここで突然断ち切られて終わる。目覚めれば忘れている。悲しい夢を見たような気がすること以外は、全て。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
久我山亮介は2か月前から、アメリカに本社をおく不動産開発及びホテル運営会社の日本支社長として多忙な日々を送ってきた。
数字、数字、数字、会議、視察、会議、数字、数字......。主要都市に置いたラグジュアリーホテル、地方の観光地に展開するリゾートホテル等々、各施設の具体的な運営はそれぞれの総支配人の仕事で、亮介のやることは経営状態のチェックに資金調達、本社とのやり取りその他諸々、ホテルマンというよりはオールラウンダーな営業職に近い。新規開拓や買収に加え、不採算施設のテコ入れや売却の検討も行ない、正直、時間はいくらあっても足りない。とは言え、仕事の他にさして興味のあることもなく、とにかくさっさと業績を上げてアメリカに戻りたかったので、24時間仕事に明け暮れる毎日でも問題はなかったのだ。そう、今までは。
あの小さな店の一皿の料理との出会いが、閉ざされた過去の扉に再び向かい合うきっかけをくれた。不自然なまでに空白な記憶が埋まれば、それがどんな過去であっても、きっと満たされる。己のルーツが分からないという、足場の無い不安定感は、目や表情の昏さとして顕著にあらわれた。記憶を追う闘いに疲れ果て、「今」が評価されればそれでいい、それが自分だと誤魔化していた。しかし。
生きたい、と思った。踏みしめるべき地を足で、心で感じとり、本当の自分を取り戻して生き直したい。そのためにはおそらく、いや確実に味覚がキーワードになる。
社内での食事におでんをリクエストして秘書を驚かせたこともあれば、隙間時間に専門店に食べに出たこともあった。それぞれにいい味はしていた(そう感じたことも進歩だ)が、あの店での、心臓を底から掻き取られるような強烈な懐かしさを感じることはなかった。
あの味でないと駄目だ。初めて訪れた場所であわや無銭飲食という事態に柄にもなくうろたえた挙句に謎に恰好をつけて出てきてしまったが、早く未払いの代金を払いに行って、また食事をしよう。小さな格子戸、小さな店内。気の良さそうな客達に、丸眼鏡の店主の穏やかな声......何もかもが不思議なほど心地よく思えたあの店で。
だが。
忙しい。とにかく忙しい。再訪する時間が捻出できない。好き放題予定を詰めまくった自分が憎い。2週間以内と言ったが可能だろうか、いや、必ず行ってみせる。亮介はタブレットのスケジュール帳を立ち上げ、予定をにらみつけた。
そして今、前回と同じ椅子に腰かけ、亮介は料理が出てくるのを待っていた。
約束の期日に間に合わなかった自分を、店主の青年――悠人は快く迎え入れてくれた。柔らかな布地にくるまれた腕時計を返す時だけは、
「生きた心地がしませんでした」
と恨めしげだったが。
あまり売り物がないが食べていくかと聞かれて即、頷いた。あれから札入れは常備していると心持ち胸を張ると、それは安心です、と笑われた。
「お待たせしました。おでん盛り合わせです」
「ありがとう。悠人くん」
腕時計を脇に置き、湯気の立つ皿を受け取る。
マスターと呼びかけると、そんな柄じゃありませんと猛烈に恥ずかしがり、名字呼びは何故か嫌がられ、結局『悠人くん』に落ち着いたのは5分前のこと。それでも照れくさいのか、今も赤い顔をしてカウンターの端に引っ込んでしまった。常連客にはハルちゃんハルちゃんと言われていたのにおかしなものだ。
それはさておき、とにかく今は目の前の皿に集中しなければ。
2週間ぶりのおでんの匂いを目一杯吸い込むと、やはりあの例えようのない感慨に心を揺さぶられる。大根、こんにゃく、竹輪に練り物。他の店と似たようなものなのに、何故こんなに特別に思えるのだろう。さぁ、と箸を取り上げたが、ここでふと、カウンターに置かれた調味料入れに目がいった。醤油の小瓶に爪楊枝と、黒い壺型の容器に入ったペースト......確かこの前、左手にいた常連客がこれをつけて美味そうにたべていた。何かまた思い出すヒントになるかもしれない。小さな匙にたっぷりすくったのを大根になすりつけ、箸で切り分けて口に放り込み、そして。
「――――――――――――......っっ!!」
突然。
鼻の奥を真正面から殴られたような衝撃に、亮介は声にならない声をあげると、顔面を押さえてのけぞりながら立ち上がった。箸が転がり落ち、椅子が倒れて派手な音を立てる。
「久我山さん!?」
悠人が慌ててこちらに来る気配がするが、もう答えるどころではない。
「どうしたんですか!?何か.........あ、もしかして......!久我山さん、鼻から息を逃がして!吸っちゃ駄目ですよ、吐くだけ!」
......吸った。
またしても強烈な刺激が襲ってきた。鼻腔の奥が痛みに収縮し、目尻に涙がにじんでくる。ぎゅっと閉じた瞼の裏側で赤や黄色の火花が点滅し、突き抜ける痛みは脳の裏側まで回り込むように走り、そして。
(............れ......、......めよ.........)
声が。
(......まだ.........)
頭の内側から声が。
(...これは、だめ......)
降ってくる。とぎれとぎれに声が......大人の女性の声が......心の底に落ちてくる。
(まだ...はやい.........だめよ......だめ............これは.........)
瞼の裏の火花が白く激しく散りだして一面に広がり、声にエコーがかかったようになりブレはじめて遠くなってゆく。声が消える。優しく、そして......待ってくれ、まだだ。まだ行くな、消えるな、まだ......。
「久我山さん!!」
はっとして目を見開く。気がつくと手のひらで顔面をおおったまま、床に座り込んでいた。悠人が膝をついてこちらを覗きこんでいる。
「......大丈夫ですか?」
しばらくぼんやりした後、頭を横に振りながらつぶやく。
「.........Oh god...How terrifying! That's just a murder weapon......!!」
「殺人兵器なんて大げさですって......。でも、お伝えしておくべきでしたね、申し訳ありません」
そう言って、悠人は何枚も重ねたティッシュを亮介の手に握らせた。
「あれ、辛子っていうマスタードに似た薬味なんですけど、マスタードよりはるかに刺激がありますし、なかでも香りがよく立つ粉のものを練って作っているんですよ。結構な量をつけたでしょう?」
「......前に来た時、左にいた男性がしていたのを真似たんだが......」
「前......ああ、池田さんだ。あの人は強烈な辛子フリークで、願い事がかなうなら、丼一杯の辛子でおでんをディップして食べたいと公言している人です。あれを真似したらいけません」
「......」
渡されたティッシュで目と鼻を押さえながら、亮介は過去に思いを馳せていた。
薄々とは感じていた。生まれて間もない頃に両親が事故で亡くなったために養護施設で育てられたという話が嘘で固められたものではないかと。赤ん坊の頃はともかく、7年近く暮らしていた施設での記憶が全くないのが不自然すぎる。しかし養父母に問いただしても、彼らは悲しそうな眼をするばかりで何も答えてはくれなかった。事情はどうあれ、愛情深く接してくれる彼らを困らせるわけにもいかず、不安定に揺れる心を押さえつけ生きてきた。
だが、もう迷わない。目の前に現れきた過去への手掛かりをつかんで決して離さない。俺が俺自身になるために。
「もう大丈夫そう......ですかね。念のため、温かい緑茶をお出しします。刺激がやわらぐと思いますよ」
そう言いながら落ちた箸を拾い、倒れた椅子を起こす悠人に礼を言って立ち上がった。まったく、彼には格好の悪いところばかり見せているな、と思いながら。
特に難しい言い回しが無かったとはいえ、小声で、しかも相当な早口でつぶやいた英語を悠人が難なく拾っていた意味には気づくことはなかった。
その後、亮介は食事を終えると店を出て、駅に続くアーケードを歩いていた。シャッターを閉めている店が多いが照明はそこそこ明るい。行きはタクシーで県道側から来たが、配車に時間がかかると聞いて、帰りは電車にした。早いうちに右ハンドル車を練習して車で来よう。時間短縮になるし、なんと言っても、過去の記憶が掘り出されるのはこの店だけなのだから。
とりあえずどこから手を付けるべきか。養父母を問い詰めるのはなるべく後回しにしたい。とすれば、10代の終わりまで通っていたあのクリニックか......。と、そこへ背後から自分を呼ぶ声が聞こえた。
「久我山さーーん、とーけーい―――!!」
ハッとしてポケットをまさぐる。無い。そういえば、辛子騒ぎが終わってから時計を見た記憶がない。立ち上がった時に払い落としたか。床に落ちたならすぐに分かっただろうが、隣の椅子の上に落ちてしまったのか。いずれにせよ、また彼に迷惑をかけてしまった。振り返ると、悠人が握った右手をあげながら駆け寄ってくるのが見えた。
「済まない、今そちらへ―――」
その後はスローモーションを見ているようだった。
何かにつまづいたか、悠人の体が宙に浮いたかと思うと、前のめりに倒れ込みそうになりながらも握りしめた右手を庇うように反転し、背中をしたたかに打ちながらひっくり返った。頭のバンダナがずれ、眼鏡が音をたてて転がった。
「――いっ............たたた......っ!!」
「悠人くん、大丈夫かっ!?」
呆然と見ていた亮介だったが、我に返って駆け寄り、悠人を助け起こした。ケガしていないか、時計なんてどうでもいいのにと言おうとして固まってしまった。
思いがけない美貌がそこにあった。
痛みにしかめられていても分かる優美なアーチを描く眉に、きめ細かな色白の肌に影を落とす長い睫毛。形の良い鼻と少し薄めの唇がベストバランスで収まっている。そして、ハッとして亮介を見上げる瞳は、とろける飴を思わせるライトブラウンで。地味な出で立ちの下に、これほどまでに清廉な美しさが隠れていたとは。
しかし何より亮介の眼を引いたのは、バンダナが外れて露わになった髪―――新品の銅線を思わせる茶色みを帯びて額に落ちかかる、艶やかな赤毛だった。
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