恋は、美味しい湯気の先。

林崎さこ

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打ち明け話とカフェオレボウル・3  side 悠人



 そして、地獄の冬が始まった。
 通訳の仕事はゼロにはならなかったが、回数は格段に減った。かと言って、田嶋部長との関わりが減ったわけではなかった。何のことはない、プライベートの時間に軸足が移っただけだ。もちろん、"本番"込みで、だ。
 狡猾なことに、部長は決して脅迫的な言葉を使わなかった。
「この写真をばらまかれたくなかったら......」などと言われれば、まだ対処はできたかもしれない。
 しかし、僕が誘いを渋ったり、終わりにしてほしいなどと懇願すると、部長はスマホを取り出して微笑みながら画面をスクロールする。何を見ているのかはわからない。でも、その動作一つで僕を縛れると分かっているのだ。
 ある時は僕のアパートで、またある時はホテルの一室で......屈辱的な姿勢を視姦され、粘着質に身体中を撫でまわす手の感触に吐き気を催しそうな時には堅く目を閉じ、「デラメイア」で知り合い肌を重ねた数少ない男性たちの優しい手を思い出し耐えた。同期の牧の笑顔を想った......。

 牧には以前から好意を持っていた。そんなにイケメンというわけでもないけれど、前向きで明るくて、いるだけで場が盛り上がるような、僕にはない輝くような元気の良さに魅かれた。しょっちゅう合コンに行っていて彼女ができたりフラれたり。ヘテロということは分かっていたので友情以上の好意は抱かないように気をつけていたけれど。
 彼の大学時代の専攻は文化人類学で、卒論テーマは<LGBTの差別の歴史と権利>だったらしい。彼になら自分の性癖を打ち明けても受け入れてくれるのではないか、現在のトラブルについて相談してみようかと真剣に考えたこともあったが、結局やめた。

 その頃には、心労から食欲がなくなり、はた目にもやつれが分かるようになって周囲の人たちに心配をかけたし、年末年始に実家に帰った時にも母に驚かれた。でも、誰にも打ち明けることはできなかった。牧についてもそうだったが、最終的にはやはりゲイと知られることに怖れがあった。その後に起こるだろう様々なことを想像するだけで心が竦んだ。愚かだった。

 会社を辞めても海外に逃げても画像データがある限り、僕は部長の支配下だ。そのデータも分散保管していることは明らかで、スマホだけを奪い取って処分しても意味はなかった。
 自分が死ぬか、部長を殺すか。そこまで思い詰めるまでになったある日、思わぬ形で破局が訪れた。

※   ※   ※   ※   ※   ※   ※   ※

 あれは3月の終わり、間もなく新入社員を迎えるという、忙しさの中にも一種の華やぎを感じさせる独特の空気感がオフィスのそこかしこに漂う時期のことだった。
 週明けの月曜日の朝、皆が通常業務に追われる中、いつもはデスクで眠そうに書類に目を通している商品管理部の平井部長が社長室に呼ばれ、その後こもりきりになっているのが気になっていた。昼前になってようやくデスクに戻ってきたが、ずっと考え込むような風情で、時々チラチラと僕の方を見ているのが分かった。
 もしかして異動の話が出るのか。悪い予感に、僕の気分は一気に底まで沈んだ。
 この頃になると、田嶋部長は僕を海外事業部に引っ張るから期待してて、と口癖のように言っていた。期待なんて1ミリもしていない。きりきり痛む胃を押さえ、心のなかで全てを呪いながら、とにかく目の前の業務に集中した。

 そして、昼休憩も抜きで進めた作業が一段落した時、とうとう平井部長が席を立って僕のところにやってきた。
「三沢くん、ちょっといいかな?」
「......はい......」
 観念して立ち上がった、その時だった。

 オフィス入口の扉が開き、ハイヒールの足音高く、一人の女性が猛烈な勢いでこちらに向かって歩いてきた。40代くらいの派手なタイプの美人だが、身体の内側から発する怒気を隠そうともせず、まっすぐに僕を見つめてやってくる。 
「......マズい」
 平井部長がつぶやいた。
 何が?と聞く間もなく、僕の眼前に女性が立ちはだかった。そして、
「三沢悠人ね?」
 押し殺した声で聞かれて頷く間もなく、いきなり左頬を張られた。突然のことに、声も出せずによろけると、さらに両手で強く胸を押されて後ろに倒れ込んだ。棚にぶつかった衝撃で積まれていた資料や備品がなだれ落ちた。周りの女子社員が悲鳴を上げる。
「よくもウチの主人をたぶらかしてくれたわね!この変態が!!」
 そして、女性は倒れた僕の上に馬乗りになり殴りかかろうとして、後ろから平井部長に羽交い締めにされ引き離された。
「やめなさい、奥さん!」
 ウチの主人......奥さん...ああ、この人は。
 髪を振り乱して抵抗しながら、女性は目を血走らせ口からツバを飛ばして叫んだ。
「アンタのせいでウチの家庭はメチャクチャよ!一生恨んでやるから!この薄汚いホモ野郎!!」

※   ※   ※   ※   ※   ※   ※   ※

「......脅された?......私に......!?」
 信じがたいことを聞かされ、声も身体も震えた。知らない間にとんでもない大嘘をつかれていた。
 
 夫の帰宅が遅くなる、休日出勤が増えたと言って出かける、スマホを手離さずロックをかけるようになる。おかしいと感じた妻が調査会社に依頼して浮気の証拠をつかみ夫に詰め寄ると、
〈泊り出張の日、深酒が過ぎて前後不覚に眠り込み、起きたら横に彼が寝ていたんだ。(昨晩は素敵でしたよ、部長。こんな趣味があるなんて奥さんや会社のみんなが知ったらびっくりしますよね。黙っていてあげますから、また抱いてください。ずっと好きだったんです、部長......)こんな風に脅されて断れなかったんだよ、分かってくれるかい?僕は被害者なんだよ......〉
 田嶋部長はそう言って、奥さんに泣いてすがったという。
 怒り狂った彼女は家を飛び出し、近所に住む父親――ウチの会社の元専務だ――に洗いざらいぶちまけた。未だに娘を溺愛している両親が激怒して社長に連絡をとり、相手の社員を呼び出し土下座させろ、訴えてやると息巻いた......というのが前日の夕方から夜に起こった騒ぎらしい。
 一方の話だけでは決めつけられないし、デリケートな問題でもある。万一社内に広まったら双方無傷では済まなくなるし何とか内々に済ませられないかと朝一から対応を協議していたが、怒りの収まらなかった奥さんが乗り込んできて、全てがパーになってしまった......。

 あの騒ぎの後、僕は上司の平井部長に連れられて社屋の外れにある資料保管庫に避難し、これまでのいきさつを聞かされた。あまりの内容に、全くの濡れ衣だと訴えたが、部長の顔色はさえなかった。
「うん、年末からの君の様子を見ていたら、そうだろうなとは思うよ?けど、もっと早くに相談してくれれば......」
 できるわけがない。僕は唇をかんで下を向いた。
 まぁ難しいよねぇ。そう言って、平井部長はため息を漏らした。
「田嶋と私は同期でね。結婚式にも出たし、家に招かれて奥さんのことも知ってる。彼女、甘やかされてわがまま一杯に育てられたお嬢さんでねぇ。気性が激しくて、なんでも自分の思う通りにならないと気が済まない。田嶋のことも、社の創立記念パーティで一目惚れして、父親にせがんで強引に結婚に持ち込んだって話だ。今回も、自分のプライドが傷つけられたのが我慢できなかったんだろう。ましてや、相手がその......男とか、余計に」
 普通は会社に乗り込んで暴力沙汰まで起こさないよ、君もつくづく運が悪い。ところで、これからどうする?私も色々かばってはみたけど、今まで通りに仕事するのは無理でしょ、田嶋?今日から休職扱いになってる。まぁ、社長もバカじゃない。地方に飛ばされるかもね、あいつ......。

 真っ白になった頭の中を平井部長のセリフが右から左に流れていくのを、僕はただぼんやりと感じていた。 

 顔を合わせづらいだろうから、みんなが退社してからオフィスに戻るようにと言われ、薄暗い資料保管庫で一人過ごした。
 何で僕がこんな目に。
 僕をいいように弄んだ挙句、一方的に加害者に仕立て上げて逃げた田嶋部長を、夫の言い分を鵜呑みにして騒ぎを起こした奥さんを恨んだ。さっき、暗に退職を勧められたが、何故僕が辞めなきゃならない?長く辛かった内定までの道のりや、同期と励ましあいながら過ごしたこれまでの日々が昨日のことのように思い出された。こんなことで辞めたくない。仕事も友人も失いたくない。あまりの理不尽さに涙が止まらなかった。
 何時間経っただろう、もうみんな帰ったと内線が入ったので、のろのろと部屋を出ると、すぐ近くにある休憩所から男性の話し声が聞こえてきた。もとは喫煙所で、パーテーションで仕切られているだけの空間なので、話の内容が筒抜けだ。帰宅前の営業社員がここで缶コーヒーを飲みながら駄弁っているのは知っていたが、今の声には聞き覚えがある、おそらく同期の連中だ。大きな観葉植物の影に身をひそめ、息を詰めて彼らが出ていくのを待った。
「なあなあ、聞いた?田嶋部長の奥さんが乗り込んできて修羅場ったって」
「三沢だろ?部長と不倫とか、マジありえねーww ホモじゃん、キモっ」
「酔った勢いでヤっちゃって、奥さんにバラすとかどうとか?大人しい顔してコエェ~」
「あれ、オレは部長が三沢に目ぇつけてどうかしたって聞いたぜ。だって部署も違うのに通訳頼むとか不自然っしょ。けど、引っかかるアイツもバカ丸出し」
「あーあ、俺、部長に憧れてたのにガッカリだわ。休職って言ってっけど、もう出てこれねーよな。恥ずかしくて」
「そーいや、お前、三沢と仲いいじゃん。コクったりされた?]
「うわ、やめて。男同士でチン〇弄りあうシュミなんてねーって。想像しただけでゲロだわ。ホモだって分かってたら相手しねーよ。気色わりぃ」

 牧の声だった。

「あ、でもアイツ辞めたらレポートの英訳頼めないな。便利だったのに。今度の新入社員で英語できるコ探すかなー」
「うわっ、お前サイテーww」

 ひとしきり笑い声がした後、足音が遠ざかっていく。
 両手で口をふさぎ、声が漏れないようにこらえた。
 上を向いてもあふれる涙が止まらない。
 友情なんてどこにもなかった。
 恋だったかもしれないものも砕け散った。
 もうここには自分の居場所はない。

 足を引きずるように戻ったオフィス。一人待っていてくれた平井部長に会社を辞めると告げ、頭を下げた。
 
 しかし、これで終わりにはならなかった。


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