恋は、美味しい湯気の先。

林崎さこ

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千春ばあちゃんと僕(3畳間の思い出話)

 『はる』の店内、カウンターの奥には障子を隔てて3畳敷きほどの小部屋がある。千春ばあちゃんが仕込みの合間に休憩や繕い物をしていた場所だ。
 3年前、橋の上で出会ったあの日、ばあちゃんに連れられてこの店までやって来た。ばあちゃんは大げさなくらい礼を言い、出ていこうとする僕を引き留めてこの小部屋に案内し、茶菓子でもてなしてくれた。今日は定休日だから売れ残りだけど、と言って出してくれたおでんやお惣菜を食べた後、信じられないことに――僕はそのままそこで寝落ちしてしまった。しかも丸2日間もだ。目を覚ました僕にばあちゃんは、
「あと1日起きんかったら、お医者さん呼ぼう思うとった」
と言ってカラカラ笑った。 

 ちょうどその頃、店を手伝っていた近所の主婦が親御さんの介護で田舎に帰ってしまったため、ばあちゃんは一人で店の切り盛りをしていた。小さな体で休みなく動くばあちゃんを見かねて掃除や力仕事を手伝う内に、気がつけば2階で居候する身分になっていた。行くあてがなかったのもあるが、ばあちゃんの人柄に魅せられたのが1番の理由だった。
 当時の僕は心情的にどん底に落ち込んでいて、見るからに暗かった。顔はゲッソリとやつれ、体は痩せこけ、身の上も明かさない。こんな怪しい男を店に置いて危険だと思わないのかと聞いたら、
「だって、にいさん、悪いことも思いつけんそうにないくらい弱ってそうやし」
 子供の頃、傷だらけで落ちてた鳥を拾ってやれんかったんよ。あれが心残りでなぁ。
 若い頃は西日本を中心に転々としていたという千春ばあちゃんの話す言葉は、色々な方言が混じっている。柔らかなその響きは何ということのないセリフでも耳に優しく心になじむ。料理もしみじみと美味しいけれど、常連さんが日夜訪れるのは決してそれだけが理由じゃなかった。身体はあんなに小さいのに、つまらない悩みも、ささくれだった心もすっぽり包み込んでくれる器の大きさがあった。

 僕は祖父母に会ったことがない。僕が生まれる前や海外にいる頃に亡くなってしまったから。だからか、
(おばあちゃんがいる暮らしって、こんな感じなのかな......)
 遅れてきた孫の立場が何だかやけに照れくさく、嬉しくもあった。
 そのうちハル坊なんて子供っぽい呼ばれ方をされるようになったけれど、それさえも新鮮な喜びだった。

 ※   ※   ※   ※   ※   ※   ※  
 
 あれは家庭菜園をやっている常連さんが大量のそら豆を持ってきてくれた日だから、5月の終わり頃だ。
 僕と千春ばあちゃんは3畳間でそら豆の下ごしらえをしていた。
 僕が大きなさやを縦に押し開けて中の豆を出し、ばあちゃんが小さいナイフで豆の丸い部分に1つづつ切り込みを入れてゆく。こうすると茹でる時に塩味が入りやすく、皮もむきやすい。付きだしやそら豆ご飯にしてもまだまだ余りそうなぐらいの量がある。
 無心に単調作業を続けているうちに、気がつけば僕は今までのことをばあちゃんに打ち明けていた。
 僕が話している間、ばあちゃんは何も言わずにフンフンと相槌を打つだけで、話し終わった後もしばらく黙っていたが、やがてナイフを置いて僕の方に向き直ると、
「えろう辛かったなぁ。よう頑張りやった」
と、いつの間にか固く握りしめていた僕のこぶしにそっと手を触れた。
「お疲れさんやったな、ハル坊」
 そう言って下からまっすぐ目を合わせて見上げてくるばあちゃんの声に、手の温もりに、僕の涙腺はとうとう決壊した。
 会社のみんなや両親に失望した時とは違う。それは胸の底に溜まった澱を洗い流し清める奔流で。僕は正座しているばあちゃんの膝の上に身を投げ出してわんわん声を上げて泣いた。ばあちゃんが僕の頭を優しくポンポンとしてくれるのが分かって、さらに号泣した。
 
 そう、疲れてたんだ、僕は。
 そら豆は下ごしらえしたらすぐに茹でなきゃいけないのに、千春ばあちゃんの温かな膝の上から離れることがどうしてもできなかった。

  ※   ※   ※   ※   ※   ※   ※  
 
 そんな優しい千春ばあちゃんだったが、養子縁組だけは頑として聞き入れてくれなかった。
 その頃には、僕はもうここでずっとばあちゃんの手伝いをして暮らす、不謹慎だが死に水も取ろうという覚悟だった。
 境木を名乗る前で、常連さんには千春ばあちゃんの遠縁だと言っていたし、ばあちゃん自身も身寄りがないしで何の問題もないと思っていたのだが、それだけは駄目だと却下された。
 三沢の両親に悪いとかそういうことではなく、自分と店を僕の足枷にしたくないのだと言った。
「あんたはまだ若い」
 3畳間で相対して養子にしてほしいとお願いした時、ばあちゃんは首を横に振った。
「これから新しく出会う人もおるやろうし、また外の世界に目ぇ向けることもあるかもしれん。その時に、ばあちゃんやこの店のこと気にして諦めてほしくないんよ」
「そんな......僕はもう外の世界なんて」
「もっとキツい言い方しよか。新しいことから逃げるための言い訳にしてほしいないんや」
 うっと詰まった僕の顔をじっと見てから、ばあちゃんは表情をゆるめて続けた。
「まぁ正直言うたら、ハル坊居ると助かるし楽しいで、ずうっと居ってほしいんやけどな」
「えぇ~~、どっちなんですか......」

 千春ばあちゃんとの生活は、結局1年と7か月しか続かなかった。でも、何より心穏やかで温かな幸せに満ちていた。
 その後は常連さんたちの要望と後押しで店を再開し、今に至る。
 ばあちゃんの言う通り、新しい出会いがあった。心惹かれる――大切なお客様。この店があったから、久我山さんに出会えた。足枷なんかじゃない。次の1歩を踏み出さないのは贖罪のためだ。
 彼が店に来て、僕は料理でもてなす。そして静かな空間に心を遊ばせる。それでいい。それがいい。

 こんな日々がずっと続くと、わけもなく信じていた。そんな保証なんて、どこにもありはしないと分かっていたはずなのに。

 
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