22 / 50
千春ばあちゃんと僕(3畳間の思い出話)
『はる』の店内、カウンターの奥には障子を隔てて3畳敷きほどの小部屋がある。千春ばあちゃんが仕込みの合間に休憩や繕い物をしていた場所だ。
3年前、橋の上で出会ったあの日、ばあちゃんに連れられてこの店までやって来た。ばあちゃんは大げさなくらい礼を言い、出ていこうとする僕を引き留めてこの小部屋に案内し、茶菓子でもてなしてくれた。今日は定休日だから売れ残りだけど、と言って出してくれたおでんやお惣菜を食べた後、信じられないことに――僕はそのままそこで寝落ちしてしまった。しかも丸2日間もだ。目を覚ました僕にばあちゃんは、
「あと1日起きんかったら、お医者さん呼ぼう思うとった」
と言ってカラカラ笑った。
ちょうどその頃、店を手伝っていた近所の主婦が親御さんの介護で田舎に帰ってしまったため、ばあちゃんは一人で店の切り盛りをしていた。小さな体で休みなく動くばあちゃんを見かねて掃除や力仕事を手伝う内に、気がつけば2階で居候する身分になっていた。行くあてがなかったのもあるが、ばあちゃんの人柄に魅せられたのが1番の理由だった。
当時の僕は心情的にどん底に落ち込んでいて、見るからに暗かった。顔はゲッソリとやつれ、体は痩せこけ、身の上も明かさない。こんな怪しい男を店に置いて危険だと思わないのかと聞いたら、
「だって、にいさん、悪いことも思いつけんそうにないくらい弱ってそうやし」
子供の頃、傷だらけで落ちてた鳥を拾ってやれんかったんよ。あれが心残りでなぁ。
若い頃は西日本を中心に転々としていたという千春ばあちゃんの話す言葉は、色々な方言が混じっている。柔らかなその響きは何ということのないセリフでも耳に優しく心になじむ。料理もしみじみと美味しいけれど、常連さんが日夜訪れるのは決してそれだけが理由じゃなかった。身体はあんなに小さいのに、つまらない悩みも、ささくれだった心もすっぽり包み込んでくれる器の大きさがあった。
僕は祖父母に会ったことがない。僕が生まれる前や海外にいる頃に亡くなってしまったから。だからか、
(おばあちゃんがいる暮らしって、こんな感じなのかな......)
遅れてきた孫の立場が何だかやけに照れくさく、嬉しくもあった。
そのうちハル坊なんて子供っぽい呼ばれ方をされるようになったけれど、それさえも新鮮な喜びだった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
あれは家庭菜園をやっている常連さんが大量のそら豆を持ってきてくれた日だから、5月の終わり頃だ。
僕と千春ばあちゃんは3畳間でそら豆の下ごしらえをしていた。
僕が大きなさやを縦に押し開けて中の豆を出し、ばあちゃんが小さいナイフで豆の丸い部分に1つづつ切り込みを入れてゆく。こうすると茹でる時に塩味が入りやすく、皮もむきやすい。付きだしやそら豆ご飯にしてもまだまだ余りそうなぐらいの量がある。
無心に単調作業を続けているうちに、気がつけば僕は今までのことをばあちゃんに打ち明けていた。
僕が話している間、ばあちゃんは何も言わずにフンフンと相槌を打つだけで、話し終わった後もしばらく黙っていたが、やがてナイフを置いて僕の方に向き直ると、
「えろう辛かったなぁ。よう頑張りやった」
と、いつの間にか固く握りしめていた僕のこぶしにそっと手を触れた。
「お疲れさんやったな、ハル坊」
そう言って下からまっすぐ目を合わせて見上げてくるばあちゃんの声に、手の温もりに、僕の涙腺はとうとう決壊した。
会社のみんなや両親に失望した時とは違う。それは胸の底に溜まった澱を洗い流し清める奔流で。僕は正座しているばあちゃんの膝の上に身を投げ出してわんわん声を上げて泣いた。ばあちゃんが僕の頭を優しくポンポンとしてくれるのが分かって、さらに号泣した。
そう、疲れてたんだ、僕は。
そら豆は下ごしらえしたらすぐに茹でなきゃいけないのに、千春ばあちゃんの温かな膝の上から離れることがどうしてもできなかった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
そんな優しい千春ばあちゃんだったが、養子縁組だけは頑として聞き入れてくれなかった。
その頃には、僕はもうここでずっとばあちゃんの手伝いをして暮らす、不謹慎だが死に水も取ろうという覚悟だった。
境木を名乗る前で、常連さんには千春ばあちゃんの遠縁だと言っていたし、ばあちゃん自身も身寄りがないしで何の問題もないと思っていたのだが、それだけは駄目だと却下された。
三沢の両親に悪いとかそういうことではなく、自分と店を僕の足枷にしたくないのだと言った。
「あんたはまだ若い」
3畳間で相対して養子にしてほしいとお願いした時、ばあちゃんは首を横に振った。
「これから新しく出会う人もおるやろうし、また外の世界に目ぇ向けることもあるかもしれん。その時に、ばあちゃんやこの店のこと気にして諦めてほしくないんよ」
「そんな......僕はもう外の世界なんて」
「もっとキツい言い方しよか。新しいことから逃げるための言い訳にしてほしいないんや」
うっと詰まった僕の顔をじっと見てから、ばあちゃんは表情をゆるめて続けた。
「まぁ正直言うたら、ハル坊居ると助かるし楽しいで、ずうっと居ってほしいんやけどな」
「えぇ~~、どっちなんですか......」
千春ばあちゃんとの生活は、結局1年と7か月しか続かなかった。でも、何より心穏やかで温かな幸せに満ちていた。
その後は常連さんたちの要望と後押しで店を再開し、今に至る。
ばあちゃんの言う通り、新しい出会いがあった。心惹かれる――大切なお客様。この店があったから、久我山さんに出会えた。足枷なんかじゃない。次の1歩を踏み出さないのは贖罪のためだ。
彼が店に来て、僕は料理でもてなす。そして静かな空間に心を遊ばせる。それでいい。それがいい。
こんな日々がずっと続くと、わけもなく信じていた。そんな保証なんて、どこにもありはしないと分かっていたはずなのに。
3年前、橋の上で出会ったあの日、ばあちゃんに連れられてこの店までやって来た。ばあちゃんは大げさなくらい礼を言い、出ていこうとする僕を引き留めてこの小部屋に案内し、茶菓子でもてなしてくれた。今日は定休日だから売れ残りだけど、と言って出してくれたおでんやお惣菜を食べた後、信じられないことに――僕はそのままそこで寝落ちしてしまった。しかも丸2日間もだ。目を覚ました僕にばあちゃんは、
「あと1日起きんかったら、お医者さん呼ぼう思うとった」
と言ってカラカラ笑った。
ちょうどその頃、店を手伝っていた近所の主婦が親御さんの介護で田舎に帰ってしまったため、ばあちゃんは一人で店の切り盛りをしていた。小さな体で休みなく動くばあちゃんを見かねて掃除や力仕事を手伝う内に、気がつけば2階で居候する身分になっていた。行くあてがなかったのもあるが、ばあちゃんの人柄に魅せられたのが1番の理由だった。
当時の僕は心情的にどん底に落ち込んでいて、見るからに暗かった。顔はゲッソリとやつれ、体は痩せこけ、身の上も明かさない。こんな怪しい男を店に置いて危険だと思わないのかと聞いたら、
「だって、にいさん、悪いことも思いつけんそうにないくらい弱ってそうやし」
子供の頃、傷だらけで落ちてた鳥を拾ってやれんかったんよ。あれが心残りでなぁ。
若い頃は西日本を中心に転々としていたという千春ばあちゃんの話す言葉は、色々な方言が混じっている。柔らかなその響きは何ということのないセリフでも耳に優しく心になじむ。料理もしみじみと美味しいけれど、常連さんが日夜訪れるのは決してそれだけが理由じゃなかった。身体はあんなに小さいのに、つまらない悩みも、ささくれだった心もすっぽり包み込んでくれる器の大きさがあった。
僕は祖父母に会ったことがない。僕が生まれる前や海外にいる頃に亡くなってしまったから。だからか、
(おばあちゃんがいる暮らしって、こんな感じなのかな......)
遅れてきた孫の立場が何だかやけに照れくさく、嬉しくもあった。
そのうちハル坊なんて子供っぽい呼ばれ方をされるようになったけれど、それさえも新鮮な喜びだった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
あれは家庭菜園をやっている常連さんが大量のそら豆を持ってきてくれた日だから、5月の終わり頃だ。
僕と千春ばあちゃんは3畳間でそら豆の下ごしらえをしていた。
僕が大きなさやを縦に押し開けて中の豆を出し、ばあちゃんが小さいナイフで豆の丸い部分に1つづつ切り込みを入れてゆく。こうすると茹でる時に塩味が入りやすく、皮もむきやすい。付きだしやそら豆ご飯にしてもまだまだ余りそうなぐらいの量がある。
無心に単調作業を続けているうちに、気がつけば僕は今までのことをばあちゃんに打ち明けていた。
僕が話している間、ばあちゃんは何も言わずにフンフンと相槌を打つだけで、話し終わった後もしばらく黙っていたが、やがてナイフを置いて僕の方に向き直ると、
「えろう辛かったなぁ。よう頑張りやった」
と、いつの間にか固く握りしめていた僕のこぶしにそっと手を触れた。
「お疲れさんやったな、ハル坊」
そう言って下からまっすぐ目を合わせて見上げてくるばあちゃんの声に、手の温もりに、僕の涙腺はとうとう決壊した。
会社のみんなや両親に失望した時とは違う。それは胸の底に溜まった澱を洗い流し清める奔流で。僕は正座しているばあちゃんの膝の上に身を投げ出してわんわん声を上げて泣いた。ばあちゃんが僕の頭を優しくポンポンとしてくれるのが分かって、さらに号泣した。
そう、疲れてたんだ、僕は。
そら豆は下ごしらえしたらすぐに茹でなきゃいけないのに、千春ばあちゃんの温かな膝の上から離れることがどうしてもできなかった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
そんな優しい千春ばあちゃんだったが、養子縁組だけは頑として聞き入れてくれなかった。
その頃には、僕はもうここでずっとばあちゃんの手伝いをして暮らす、不謹慎だが死に水も取ろうという覚悟だった。
境木を名乗る前で、常連さんには千春ばあちゃんの遠縁だと言っていたし、ばあちゃん自身も身寄りがないしで何の問題もないと思っていたのだが、それだけは駄目だと却下された。
三沢の両親に悪いとかそういうことではなく、自分と店を僕の足枷にしたくないのだと言った。
「あんたはまだ若い」
3畳間で相対して養子にしてほしいとお願いした時、ばあちゃんは首を横に振った。
「これから新しく出会う人もおるやろうし、また外の世界に目ぇ向けることもあるかもしれん。その時に、ばあちゃんやこの店のこと気にして諦めてほしくないんよ」
「そんな......僕はもう外の世界なんて」
「もっとキツい言い方しよか。新しいことから逃げるための言い訳にしてほしいないんや」
うっと詰まった僕の顔をじっと見てから、ばあちゃんは表情をゆるめて続けた。
「まぁ正直言うたら、ハル坊居ると助かるし楽しいで、ずうっと居ってほしいんやけどな」
「えぇ~~、どっちなんですか......」
千春ばあちゃんとの生活は、結局1年と7か月しか続かなかった。でも、何より心穏やかで温かな幸せに満ちていた。
その後は常連さんたちの要望と後押しで店を再開し、今に至る。
ばあちゃんの言う通り、新しい出会いがあった。心惹かれる――大切なお客様。この店があったから、久我山さんに出会えた。足枷なんかじゃない。次の1歩を踏み出さないのは贖罪のためだ。
彼が店に来て、僕は料理でもてなす。そして静かな空間に心を遊ばせる。それでいい。それがいい。
こんな日々がずっと続くと、わけもなく信じていた。そんな保証なんて、どこにもありはしないと分かっていたはずなのに。
あなたにおすすめの小説
優等生αは不良Ωに恋をする
雪兎
BL
学年トップの優等生α・如月理央は、真面目で冷静、誰からも一目置かれる完璧な存在。
そんな彼が、ある日ふとしたきっかけで出会ったのは、喧嘩っ早くて素行不良、クラスでも浮いた存在のΩ・真柴隼人だった。
「うっせーよ。俺に構うな」
冷たくあしらわれても、理央の心はなぜか揺れ続ける。
自分とは正反対の不良Ω——その目の奥に潜む孤独と痛みに、気づいてしまったから。
番なんて信じない。誰かに縛られるつもりもない。
それでも、君が苦しんでいるなら、助けたいと思った。
王道オメガバース×すれ違い×甘酸っぱさ全開!
優等生αと不良Ωが織りなす、じれじれピュアな恋物語。
三ヶ月だけの恋人
perari
BL
仁野(にの)は人違いで殴ってしまった。
殴った相手は――学年の先輩で、学内で知らぬ者はいない医学部の天才。
しかも、ずっと密かに想いを寄せていた松田(まつだ)先輩だった。
罪悪感にかられた仁野は、謝罪の気持ちとして松田の提案を受け入れた。
それは「三ヶ月だけ恋人として付き合う」という、まさかの提案だった――。
【完結】幼馴染に告白されたけれど、実は俺の方がずっと前から好きだったんです 〜初恋のあわい~
上杉
BL
ずっとお前のことが好きだったんだ。
ある日、突然告白された西脇新汰(にしわきあらた)は驚いた。何故ならその相手は幼馴染の清宮理久(きよみやりく)だったから。思わずパニックになり新汰が返答できずにいると、理久はこう続ける。
「驚いていると思う。だけど少しずつ意識してほしい」
そう言って普段から次々とアプローチを繰り返してくるようになったが、実は新汰の方が昔から理久のことが好きで、それは今も続いている初恋だった。
完全に返答のタイミングを失ってしまった新汰が、気持ちを伝え完全な両想いになる日はやって来るのか?
初めから好き同士の高校生が送る青春小説です!お楽しみ下さい。
バツイチ上司が、地味な僕を特別扱いしてくる
衣草 薫
BL
理性的でクールなバツイチ上司・桐原恒一は、過去の失敗から、もう誰も必要としないと決めて生きてきた。
男が好きだという事実を隠し、「期待しなければ傷つかない」と思い込んできた部下・葉山直。
すれ違いと誤解の果てに、直が職場を去ろうとしたとき、恒一は初めて“追いかける”ことを選ぶ。
選ばれないと信じてきた直と、逃げないと決めた恒一。
二人の距離が近づくことで、直は「ここにいていい」と思える場所を見つけていく。
元ノンケ上司×自己肯定感低め部下の社会人BL。※ハッピーエンド保証。
だって、君は210日のポラリス
大庭和香
BL
モテ属性過多男 × モブ要素しかない俺
モテ属性過多の理央は、地味で凡庸な俺を平然と「恋人」と呼ぶ。大学の履修登録も丸かぶりで、いつも一緒。
一方、平凡な小市民の俺は、旅行先で両親が事故死したという連絡を受け、
突然人生の岐路に立たされた。
――立春から210日、夏休みの終わる頃。
それでも理央は、変わらず俺のそばにいてくれて――
📌別サイトで読み切りの形で投稿した作品を、連載形式に切り替えて投稿しています。
エピローグまで公開いたしました。14,000字程度になりました。読み切りの形のときより短くなりました……1000文字ぐらい書き足したのになぁ。
📌本編モブ視点による、番外エピソード
「君はポラリス ― アンコール!:2年後の二人と俺と」を追加しました。
あなたのいちばんすきなひと
名衛 澄
BL
亜食有誠(あじきゆうせい)は幼なじみの与木実晴(よぎみはる)に好意を寄せている。
ある日、有誠が冗談のつもりで実晴に付き合おうかと提案したところ、まさかのOKをもらってしまった。
有誠が混乱している間にお付き合いが始まってしまうが、実晴の態度はいつもと変わらない。
俺のことを好きでもないくせに、なぜ付き合う気になったんだ。
実晴の考えていることがわからず、不安に苛まれる有誠。
そんなとき、実晴の元カノから実晴との復縁に協力してほしいと相談を受ける。
また友人に、幼なじみに戻ったとしても、実晴のとなりにいたい。
自分の気持ちを隠して実晴との"恋人ごっこ"の関係を続ける有誠は――
隠れ執着攻め×不器用一生懸命受けの、学園青春ストーリー。
先輩!その距離は反則です!
静羽(しずは)
BL
新人社員の湊 海(みなと かい)は大手企業に就職した。
情報処理システム課に配属された。
毎日作成した書類を営業課に届けている。
海は情報処理システム課で毎日作成した書類を営業課に届けている。
そこには営業課に所属するやり手社員、綾瀬 (あやせ はると)の姿があった。
顔見知りになった二人は、会社の歓迎会で席が隣になったことで打ち解け遥斗は湊に一目惚れしていた事、自分のセクシャリティを打ち明けた。
動揺しつつも受け入れたいと思う湊。
そのタイミングで大学時代に憧れていた先輩・人たらし朝霧 恒一(あさぎり こういち)と卒業後初めて再会し、湊の心は二人の間で揺れ動く。