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インタールード・4(過去)
「記憶を取り戻せないようにしてほしいの」
「............は?」
富裕層が多く暮らすことで知られる世界的に有名な、とある地域の中でも、一際広大な土地に建つレドメイン邸。その応接室の豪奢なインテリアに囲まれて女王のように傲然と言い放つデボラ・レドメインに、数年前に息子を失い廃人寸前とまで言われた面影はすでに無い。後に"鋼鉄の女帝"と称される苛烈なまでに冷徹な意志を宿した瞳に射すくめられていたトーマス・ドナルドソンは一瞬、何を言われているか理解できずに間抜けな声を出してしまった。
「あなたが預かっている子どもがいるでしょう?その子が記憶を取り戻せないようにしてほしいの。出来れば一生」
耳を疑うセリフに、彼は思わず目の前に座る人の顔をまじまじと見た。なんてことを言うのだ、この女は。
「ニセの記憶を植え付ける実験があって、成功したとかいう記事を前に見たことがあるの。あの子どもにも別の記憶を与えてやれるかしら?アメリカで生まれて親と死別して孤児になった、とか」
「ち、ちょ、ちょっと待って下さい。」
ドナルドソンは慌てて遮った。道義的な問題はもちろん、無理があり過ぎる。
「パソコンの上書きじゃないんです!あの子は脳機能を欠損したわけじゃなく、ショックを受けて一時的に記憶を失っているだけです。時間が経てば記憶も復活するでしょうし、何よりも人為的にアイデンティティを奪うなんて、精神形成にどんな影響を与えるか。人道的にもそんな」
「出来ないことはないはずよ。催眠療法の第一人者と言われた貴方なら」
「……昔の…話です……」
「もちろんタダでとは言いません。謝礼もするし、あなたがあの子どもを育ててくれるなら成人するまでの養育費も出します。このまま身寄りのない孤児になって野垂れ死ぬよりも新しい人格で生き直す方が断然いいんじゃないかしら?成長したらレドメインの傘下で働いてもらうつもりだから先行きに不安もない。何か問題あるかしら?」
大ありだ。信じられない。根を強引に切り取られてまっすぐに育つ植物がどれほどあるか知らないが、人間は駄目だ。無理に矯正された記憶はいつか歪み出し、理解不能な不安や喪失感で当人を苦しませるだろう。
大体さっきから、あの子どもあの子どもって何だ?亡き息子の子、つまり自分の血を引いた孫だろう。非道で不快しかないこんな依頼に応じるわけにはいかない。
「申し訳ないが、そんな話は受けられない。彼はいずれ日本に帰すつもりです。では失礼」
そう言って立ち上がったドナルドソンに、デボラは世間話をするような何気なさで声をかけた。
「そうそう、子どもといえば、貴方の姪御さんのお子さん、ミアと言ったかしら。まだ小さいのに大変な病気で苦しんでいるそうね」
ドナルドソンは目を見開いて、ソファに悠然と腰掛けるデボラを見つめた。
彼自身は独り身だが、妹の子どもである姪のことは実の娘のように可愛がっていたし、その娘のミアも孫同然に愛していた。そんな彼女に重篤な心疾患が見つかったのは半年前。複数回受ける必要がある手術費用がおそろしく高額なのはもとより、症例が少なく、対応できる執刀医が見つからない。元気に笑っていたミアがベッドの上で力無く横たわっている姿に何度涙を流したか分からない。看病と心労で疲弊した妹と姪の姿がよぎる。余命はあと――。
「手術費用は全額お出しするわ」
コーヒーをおごるくらいの気安さで出される提案に、ドナルドソンはまたも耳を疑った。
「同様の症例を扱った経験のある外科医も私なら用意出来てよ。ねぇ、考えてごらんなさい。貴方の気持ち一つで、あの子どもは生活が保証され、小さなミアは健康を取り戻して妹さんも姪御さんも喜ぶ。みんなハッピーになるの。悩むことなど何一つないわ」
悪魔だ。全てを調べ上げて退路を断ってきた。そして自分はその誘惑をはねのけることが出来ないだろう。ドナルドソンはよろよろと後ろのソファに座り込んだ。
「......これだけは確認させて下さい。あの子の記憶を消すのは、実の母と生き別れになった悲しみを思い出させないようにするため、アメリカ人としてのアイデンティティを持たせるためですね?レドメインで働かせるのは、将来的に経営者一族に加われるように実績をつけさせるためですね?」
すがるように尋ねる彼に、デボラは鮮やかに微笑んで言った。
「もちろん.........と言うとでもお思い?」
「.........!」
「そんなわけないじゃない。記憶を消すのは、ジョシュアを奪ったあの女に絶望を与えてやるためよ!腹を痛めて産んだ我が子の中から自分の存在が消えるとか最高だわ。仮に将来、あの女が子どもを探し当てたとして、なぜ捨てたとなじられるのと、まるで知らない他人を見る眼で見られるのと、どちらがダメージきついかしらね。そしてその子どもは、当然受け取れるはずの富と権力が目の前にぶら下がっているのも知らず、レドメインのために馬車馬のようにこき使われて一生を終えるの。一族に加える?まさか!私のジョシュアをたぶらかしてレドメインに下等な血を混ぜた報いとしては随分生ぬるいと思わない?」
そう言い放ち、顔をのけ反らせてヒステリックに笑うデボラの瞳の中には、非情の色をした鬼火のようなゆらめきが見えた。そして、その火はきっと自分の瞳の奥にも。ドナルドソンは両手で顔を覆って、黒い髪の無垢な少年に心の中で詫びた。
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