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噂話は十中八九嘘

不良くんの優しさ

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 背中を撫でられて「しっかり呼吸しろ」と耳元で囁かれる。

 じっと覗き込む蒼汰に、ようやく自分が息を止めていたのに気が付き、げほりと咳き込んだ。ひゅうひゅうと鳴る喉に混乱していると、安心させるように胸に押しつけられて、抱きしめられる。
 
 一人で立つことすら、ままならない。縋るように服を掴んだ。

「おまえ、それでも教師かよ」

 ぞくりとする抑揚のない問いだった。

 たじろいだ教師を真っ直ぐに見据える蒼汰は、静寂を切り裂く。先ほどまで濁った空気が充満していたが霧散し、一気に主導権を握られる。

「こいつが何でここに来るのか知ってんのか?」

「そ、れは……学校が嫌だからだろう。身勝手な」

「何にも分かってねぇじゃん。そんな大雑把な答えを出すのが証拠だろ。知っているなら、何で学校が嫌なのかも説明しろよ」

「お、おまえ!」

「出会って間もない俺ですら、理由があるって察してんのに。教師が何やってんだよ。俺は、お前らを目上の人間なんて一度も思ったことねぇけど、そんな態度取ってたら、他の生徒だって信用もしなくなるし、敬意も払わなくなるぞ」

 そこでようやく、白雪は気が付いた。

 彼は感情を抱いていない訳ではなく。無理矢理押さえ込んでいるのだと。立ち上る苛烈な激情をこらえている。目の前の教師と対話するために。

 震える手に、細める目の鋭さ。

 宿っているのは怒りを通り越した――憎悪だ。
「こいつがどんな思いで、学校に来てんのか。何で入れずにいるのか。何で黙ってんのか。ちゃんと聞いたのかよ」

「っ口の利き方を!」

「頭ごなしに怒鳴るお前も、黙認してるお前も。全員同罪だろ。普段から生徒に寄り添うだの、いじめられてたら言いなさいだの、上から目線で有り難いご高説垂れ流してるくせに。出来てねぇお前らは教師失格ってやつなんじゃねぇのかよ」

 そこで矛先を向けられた別室担当の教師が表情を変えた。色をなくしてオロオロと、どもる姿に一瞥する蒼汰の手に力がこもる。

「ふ、不良がなにを」

「言い返すのがそれかよ。図星さされて、不良のとこしか指摘出来ねぇの。ダッセェ」

 数学教師が顔を真っ赤に染めて、だんっと机を殴った。

 激高するのを蒼汰は鼻で笑い飛ばして、いつの間にか白雪の鞄から取り出した数学プリントをひらりと机に置いた。

「それ、こいつの。提出今日なんだろ」

「こんなものより、教室に」

「――おい。それ以上言うなら、教師だろうが許さねぇぞ」

 ぞくりとした、地を這う声。

 殺気にも似た怒りが一瞬だけ大きく膨れ上がり、教師を呑み込む。

 ひ、と情けない声を出したのを蒼汰は一瞥してから鼻で笑い飛ばした。

 そのまま興味が失せたかのように視線を外して、白雪の肩を抱いたまま歩き出す。

「こいつ体調悪いみたいなんで、休ませまーす」

「えっあ、わ、」

「いいですよね、センセー」

「え、ええ良いわよ」

 別室担当の教師はぎこちなく笑い、頷いた。

 べっ、と蒼汰が舌を出して挑発する。

 その際に舌の上で、きらりと光るピアスが垣間見えた。

「行くぞ」

 がらりとドアを開けて、地獄から出る。そのまま彼は止まらず、ふらつく白雪を支えながら歩き続けた。

 既に授業が始まった校内は、耳が痛くなるほど静かだった。

 周りは現在は使用されていない美術室や音楽室、多目的室に囲まれており、その廊下の先に白雪の安息の場である空き教室がある。

 階段の踊り場へと進むと、蒼汰は背中を壁に預けた。まるで守るように抱き竦められたまま、沈黙が落ちる。

 冷えた空気、寒いはずなのに彼のぬくもりが伝わって鼻がつんとする。

 目頭が熱くなるのを堪えて誤魔化すように、努めて明るい声を出した。震えないように細心の注意を払う。

「ごめんね、嫌なところ見せて。ほら私ってどんくさいからさ。なんていうか、説明下手で」

 醜い言い訳が自らの首を絞めていく。

 自分の意思など関係なく、口から飛び出る言葉たち。

 まるで他人事のように、みっともないと蔑んだ。気持ち悪くて吐き気がする。

 デタラメな噂と違って心が軋むのは、他ならぬ事実だからだ。イジメからも、教室からも全部逃げたから。

 自己分析できるくせに、それでも教室に行けないのだから――教師が呆れるのも頷ける。

「別室教室に通うのもね、私があまりにも学校に来ないから、仕方なしに提案してくれたの。だからそれを良くを思わない人もいて。まぁ、私が不真面目だからね」

 全く気にしていないフリ、慣れているはずなのに息苦しいのは蒼汰に見られたからだ。 

 彼のように強くて逃げない人物に、白雪の弱さを知られた。恥ずかしいと同時、彼に「そんなもの」と笑い飛ばされたら、きっと今度こそ辛うじて形を保った心が壊れる。

 だから、隙を与えないよう喋り続ける。道化のように。

「平気。気にしないで、先生も大変だよねぇ。面倒な奴を連れ戻すなんて、でもさぁ」

「――その顔やめろよ」

 ぐっと後頭部に添えられた手に軽く力が入り、胸に押しつけられる。まるで黙れと言わんばかりに口が塞がれた。

 どくどく、少し早い鼓動が聞こえる。はねのけるには、あまりにも優しくて。

 顔。思い当たって瞬きも忘れて瞠目した。見上げたいのに押さえつけられる。はく、と口を動かすが息を吐くのみ。

「作り物の笑顔、剥がしてやりたくなる」

 ぽつりと落とされた声は、白雪より余程苦しげで辛そうだった。泣いているのかと錯覚するほど。

「泣き顔を見られたくねぇなら、こうしてるから。だから笑うな」

「は、なんで、そんな」

「ぶっさいくな顔で我慢すんな」

「くち、わるい」

「うるせぇ」

 突き放すような言い方なのに、注がれた優しさは本物だ。

 頭を撫でる手の不器用さも、触れて欲しくない部分を見逃さず指摘する容赦なさも。

 全て込められた暖かさに、気付かないはずもない。少なくとも周りにいる誰よりも白雪を見て、考えてくれている。

 不器用な人。怖がらせて遊ぶくせに。

 白雪は有り難く顔を埋めた。かたく筋肉質な身体に「痛い」と照れ隠しをすれば、こつんと頭を叩かれる。軽い戯れに、大袈裟に暴力反対だと返した。

「空き教室に、帰るぞ。あそこが好きなんだろ」

「……保健室は?」

「真面目かよ。別にあいつらも素直に行くとは思ってないだろ」

「いやサボりはちょっと」

「そうかよ、じゃあ今からお前は『不良に絡まれて空き教室に連れ込まれた生徒』役な。カツアゲされてたってことで」

「いや、嘘は駄目だよ。それだと蒼汰くんが悪いみたいなる。それなら勉強が嫌で、逃げてサボりましたって言う」

「……お前」

 ぐい、と肩を掴まれて、真っ正面から見つめられる。

 太陽の光を取り込み、淡く光る宝石のような瞳が白雪を捕らえて放さない。

 不覚にもどきりと胸が高鳴り、ぎゅうと彼のシャツを掴む力が強まった。全てを奪い去るような強い輝きに魅了され、呼吸すら止まる。

 脳裏に過ぎる噂話に、じわりと頬に熱が広がって。


「頭が固すぎるだろ。いっそ馬鹿にも思えるぞ、そんなんで生きていけんのか」

「……」

 心底理解出来ない、引き気味の蒼汰に、白雪は目が据わる。

 ときめきを返して欲しい。いや全く、全然、ときめいて、いないけれど。

 やはり噂など、まやかし。この男に恋情などあるまい。

 一人舞い上がっていた羞恥に白雪は眉間にぐっとしわを作る。気を抜けば舌打ちが出そうなのを抑えるため、唇を噛み締めた。

 落ち着け、相手は悪くない。勝手に誤解した自分が、駄目なのだ。

「まじで不細工になってんぞ。大丈夫か? しわくちゃだぞ」

「デリカシーを学んで欲しい」

 今の暴言は彼に否がある。

 花の高校生になんてえ失礼な。化粧などのお洒落に興味ないが、馬鹿にされたのは分かる。

 がるるると威嚇すれば、駄々っ子を相手するように、頭をわしゃわしゃと撫でられた。

「よーしよし」

 あ、違う。これ犬扱いだ。

 雑すぎる男に不満を露わにしていると、ふわりと身体が離れる。暖かさが遠ざかったのが寂しいなんて。

 寒いのが嫌だから、それだけだ。

「ほら帰るぞ、空き教室に」

 にこりと邪気のない笑みは初めてだった。

 思わず抱いていた怒りが、ほろりと崩れて消えていく。油断した、初めての一面に虚を突かれた。

「あの場所は、お前にとって帰る場所なんだろ」

「……なんで、そう思ったの?」

「お前わっかりやすいからなぁ」

 詳しく説明するつもりはないらしい。

 さらりと流されて、白雪は思考を巡らせ。

 葛藤にも似ているが、既に勝敗が決している事柄を繰り返し悩む。

 認めたくない、悔しさから素直になりきれない。

 あの場所は、唯一白雪にとって安心できる場所だ。

 そこに自ら迎え入れるのは、友達などいらないと豪語した信条が崩れるということ。

「俺はお前を傷つけない」

 強い、迷いのなく言い切った。嘘など欠片すら見当たらず、誠実をぶつける。

「俺は嘘をつかねぇ。すぐには信じられねぇだろうけど、これから証明する。だから」


 ――連れて行ってくれよ。


 わざわざ手を差し出す。彼が連行するのではなく、白雪の意思で、彼を。

 随分と意地の悪い男に逡巡して、やがて溜息をついた。

 渋々と態度に出すのは、くだらないプライドだ。

 そう、端から答えは決まっている。地獄から救ってくれた彼を突き放すなど。

「仕方ないから、蒼汰くんと一緒に帰ってあげる」

「可愛くねぇ女」

「そうだよ。知らなかった?」

 ぎゅっと手を掴んで引っ張る。

 は、と短く笑った蒼汰から顔を逸らして前だけを見る。緩やかに歩き始めて後ろから付いてくるのを感じながら、早く頬の熱が冷めるのを待った。
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