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最終話

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 あれから何度か、浩太と涼子さんがここに来た。翔太くんと莉子ちゃんが一緒だったこともあった。帰り際に思い出したように、涼子さんか翔太くんが餌を入れてくれた。
千代さんは、まだ帰ってこない。
カーテンを開き差し込む朝日もテレビの声もなく、全てが無に感じるこの空間。

 数日経っただろうか、涼子さんがバタバタと部屋を整えている。
大きな荷物を運び入れる音とともに、健太の声が聞こえてきた。隣には、赤ちゃんを抱いた美香さんの姿もあった。
「お義兄さん、お義姉さんどうぞ、入ってください。長時間の移動疲れたでしょう。あ、琉偉くんあっちに寝かせてあげてください、莉子がお義母さんの家で使ってた赤ちゃん布団です」
知らせを聞いてアメリカから急遽帰国してきたのだろう。2人の子供は琉偉くんというようだ。
「浩太は仕事?ごめんね、涼子ちゃんに迷惑かけちゃって」
「とんでもないです!私ら近くに居てるのに、お義母さん調子悪いのに気ぃつかんで…申し訳ないです」
「お布団使わせてもらいました、ありがとう。涼子ちゃん、すごく疲れて見えるわ、休めてないんじゃない?」
琉偉くんを寝かせた美香さんが戻ってきた。
「いえいえ、大丈夫です。明日、十時になったら病院入れるんで、九時半くらいにお迎えに来ますね。翔太と莉子は学校なんで、ウチの車に全員乗れますんで」
どうやら、明日みんなで千代さんの居る病院に行くようだ。




 健太たちが来てから、静寂に包まれていたこの部屋に琉偉くんの鳴き声が響くようになり、虚しさも紛らわせた。
今日は浩太と健太が難しい顔をして長時間話し合っている。美香さんと琉偉くんは、涼子さんと出かけたようだ。
「とりあえず仏壇はウチに移動するとして、他のものはおいおい片付けるってことでいいかな」
「そうだね、俺はまだ何年かあっちに住むことになるし、全部お前たちに任せなきゃだから申し訳ないけど…」
「出来る者がすればいいことだし。明後日、向こうに戻るんでしょ?」
「うん。一旦戻って、しばらく休めるように段取りしてくる。来週末か…再来週にはもう一回こっちに来るよ。美香たちは実家にそのまま居てもらうことにしたし」
千代さんがもう帰ってこないことは、薄々勘付いていた。私たちが二人で過ごしたあの、何でもない日常はもう二度と訪れないのだ。




 季節がまたひとつ進んで、空気がひんやりするようになった。
今日は、浩太たちがこの部屋を片付けに来ている。
「母さーん、亀はどうやって運ぶー?」
翔太くんが水槽を覗き込みながら叫んだ。どうやら、私はこの部屋から運び出されるようだ。
次々と物がなくなっていく部屋。私と千代さんの暮らしが終わりを迎えたことを、否応なしに実感させられた。

 こうして、私は浩太の家に引っ越ししてきた。
リビングの角、ラックに置かれた水槽から、非常に慌ただしい浩太たちの日常をじっと観察して過ごしている。
リビングの隣にある和室からお鈴の音が鳴ると、早朝から洗濯機はフル回転、キッチンから子供部屋、洗面所を行ったり来たりする涼子さんの足音がパタパタと響く。
「お父さん、今日こそお弁当箱忘れんと持って帰ってきてね!翔太、昨日洗ったジャージ、お風呂場に干してるから!莉子ー、いい加減に起きな遅刻するよー!」
朝から賑やかだ。私に餌をくれ浩太が出勤し、翔太くんが部活の朝練に向かった頃、莉子ちゃんが不機嫌に起きてくるのがお決まりのパターンのようだ。
「お母さん、もっと早く起こしてよ!もう時間ないやん!」
文句を言いながら朝ごはんを食べている莉子ちゃんを横目に、涼子さんは自分の出かける用意を進めている。
「髪の毛留めるならゴムと櫛用意しといて!あと、連絡帳にサインしてないで!」
二人が出ていくと、部屋の中は嵐が去ったようにシンとなる。喧騒と静寂の差が激しい。
家主たちが不在の間、薄暗い部屋の中で、仏壇の前に置かれた、少し若い頃の千代さんの写真を眺めながら昔を懐かしむ。
穏やかでゆったりと過ごしたあの日々を__。
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