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姿
しおりを挟む瞼を透かして射し込む赤い日射し。
晴明は少し顔をしかめ、ゆっくり瞼を開けた。
いつもの部屋、いつもの天井。
少し重い体を起こし単の中に手を入れ傷口を確かめたが、塞がった痕どころか傷一つなかった。
あの時背後から頼光に左胸を貫かれ、刃が体の中で一回転した。
確かな殺意をもって、心の臓を破られたはずだったのに。
なにがあったか思い出そうとしても、遡る記憶がない。
繋げなかった梨花の手と、見開かれた涙に揺れる瞳。
それが最後の記憶。
晴明はゆっくりと立ち上がり、廂から庭を覗いた。
それからあらゆる廊下、部屋を。
どこも水を張ったように静かで、人の気配がない。
「梨花……?」
呼びかけに呼応するように、低木の影で猫が啼いた。
舌を鳴らし、呼び寄せると猫は嬉しそうに懐に飛び込んできた。
「なぁ猫、梨花を見なかったか?」
顔の近くに抱き上げ、瞳を覗き込む。
勿論猫が話すわけもなく、ただじっと見つめ返してきた。
ふと、晴明はあることに気付いた。
瞳に映る自身の像が姿を変えていた。
そっと猫を下ろし、鏡台のある梨花の部屋へと行った。
鈴の音は後からついてくる。
晴明は鏡台の前に立ち、己の姿を確認した。
「これは……」
対峙する自身の像に手を伸ばし、指で辿った。
白銀だったはずの髪や瞳が漆黒に染まっている。
晴明は呪を覚えた後も自身の異質な姿を隠そうとはしなかった。
保憲が綺麗だと言っていたから。
それなのに、一体これはどうしたことだろう。
他人を見るかのように鏡面を凝視しているとそこに新しく影が二つ映った。
目を丸くした光栄と、嬉しそうに顔を綻ばせる道長。
振り向き、直接視線を送る。
「……良かった。
やっと目覚められたのですね」
「……なぁ、俺はどのくらい眠っていたんだ?」
「一ヶ月だ。
全く……、自分の呪にやられるって聞いたことねぇよ。
アホってのはお前のことだな」
光栄の口から出るいつもの皮肉。
けれど、心底安心したような口調だった。
「俺は武士じゃない、避けられるわけないだろうが。
それに……」
意識は梨花を手繰り寄せる事のみに向いていた。
「そうだ、梨花を知らないか?」
童子は?
どうやってここに戻ってきた?
なぜ傷口がない?
一ヶ月も眠り込んでいた内に力が鈍ったのか、晴明には何もわからなかった。
「梨花は……」
「なんだ? 早く言えよ」
「……俺達にもわからない」
光栄が珍しく申し訳なさそうに言った。
「じゃあ俺はどうやってここに帰ってきたんだ?
まさか頼光が連れて来るわけないだろう?」
「……梨花殿は来たには来たのですが」
随分と歯切れ悪く道長が話し始めた。
あの日。
二人は道長の屋敷でもうすぐ行われる祭祀の取り決めを徹夜でしていた。
空が白み始めた頃、猫が泣いた。
餌を欲しがっているのかと、蔀戸を開けて庭を覗いた。
だがそこに猫の姿はなく、首を傾げた。
すると光栄が血相を変えて裸足のまま飛び出し、門の方へと消えて行ってしまい道長は慌てて沓を引っかけ、追い掛けた。
「光栄殿……っ!
何をそんなに急いで……」
「晴明ッ!!」
門の影から聞こえた、普段人前で取り乱すことのない光栄の酷く狼狽した声で、ただ事ではないと、足を早めた。
門の影に隠れていたのは、ぐったりと地に伏している容貌を変えた晴明と、心配そうに目を伏せて顔を舐める猫。
それから薄桃色の袿を頭から深く被った梨花らしき稚児。
「おい、晴明!!
どうした! 起きろよッ!」
いくら揺すっても反応を見せなかったが、胸に手を当てると辛うじて動いているとわかる微かな弱々しい鼓動を感じ取れた。
「梨花、何があったんだ?
頼光は──……」
光栄が事のあらましを問い質そうと顔を上げたときには既にそこに梨花はいなかった。
「……とりあえず中に運びましょうか。
今、医師も呼びますね」
「いや、医師はいらない」
ハッキリと言った光栄に道長は首を傾げた。
光栄はいつの間にか晴明の襟元を緩め、傷一つない肌に指をなぞらせていた。
「この馬鹿、墓穴を掘りやがった」
大きく舌打ちをすると、晴明を担ぎ上げ邸内に戻っていった。
意味がわからず、首を傾げたままの道長の肩に猫が飛び乗りざり、と頬を舐めた。
「お前は全てを見てきたのかな?」
猫の顎下を軽く撫で、光栄の後を追って部屋に入ると、晴明は布団に寝かせられ光栄が印を次々組みながら呪を唱えていた。
物音を出してはいけないような気がして、道長は部屋の隅に腰をおろし、黙って見つめていた。
張り詰めた空気の中、光栄の声だけが響き、日も高く登り始めた頃にようやく印を結ぶ手が止まった。
光栄は倒れるように床に寝転び、額に浮き出た汗を拭った。
「あー……疲れた」
「あの……、晴明殿は大丈夫なんでしょうか」
光栄は体を起こす気力もないのか、視線のみ道長に向ける。
「……大丈夫だろ。
いつになるかわかんねぇけど、必ず目を覚ます」
「晴明殿に何があったんです?」
「……さぁな。
俺がわかるのは、自分の呪で普通なら死んでるくらいの衝撃を受けて、体ん中が喰い破られてたことくらいだ。
それでも生きてんのはこの変わっちまった容姿が関係してんのかもな」
視線を道長から晴明に向けた。
「しっかし悔しいよなぁ。
こいつが簡単にかけた呪を俺は必死こいてやらなきゃとけないんだぜ?」
晴明の頭を小突くと、瞼を閉じた。
「……道長、悪い、コイツを自分の屋敷に連れていってくれ。
俺も少し寝たら向かうから」
言い終えるなり光栄は寝息をたて始めた。
風が晴明を、光栄を、道長の頬を撫でていく。
朝より少しぬるくなった、けれど生きる力に溢れた日光の祝福を存分に受けた風。
道長は廂に出ると、御簾を巻き上げた。
ぼんやりと庭を眺めながら立っているとまた風が抜け、日と木々の香りに混じって鼻をくすぐってきたのは、特別に調合された梨花だけの香。
「……そこで私は庭先に呼び掛けたのですが、返って来たのは鈴の音でした」
「鈴の……音?」
不思議そうに尋ねると道長がこくりと頷いた。
「猫かと思ったのですが、コイツは部屋の隅で大人しく毛繕いをしていました」
猫は道長の膝に乗り、目を閉じて気持ち良さそうに喉を鳴らしていた。
「晴明殿、大江山で一体何があったのです?
梨花殿は何も言わず姿を消してしまい、晴明殿だけでなく猫も容貌が変わってしまっています」
道長の言葉を聞き、晴明が猫に目を向けると閉じていた瞼をゆっくりと開けた。
さっきも覗き込んだはずなのに、自分の変化には気付いたのに晴明はそこで初めて気付いた。
猫の銀と紅だった瞳が漆黒に変わっていた。
明らかな違いなのに気付かなかったのはまだ完全に意識が覚醒していないということだろうか。
まるで別人の体を借りているような感覚。
自分の体なのにしっくりこない。
なのに、それが嫌ではない。
「……頼光に会ってくる。
何もかも見たのはアイツだ」
庭に降り立った晴明が不意に立ち止まり、自らの掌を見つめた。
「……どうした、晴明」
「ん?……いや、なんでもない。
お前等は付いてくるなよ?」
無表情のまま答えると印を組み、牛車を呼び、屋敷の外へと出ていった。
その時に光栄の表情が翳るのを猫だけが見ていた。
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