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21.女子、厨房に立つ
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桜は、昼食に戻って来たグレースにお茶を出した。
グレースはお砂糖とエバミルクをたっぷり入れた港式奶茶を好むので、近所の店から一日何回も届けさせていたのだ。
飲食店の人間が他の飲食店で頻繁に飲み食いをして経済を回している事はとても面白い文化だが、忙しいと出前が遅くなる事も多く、一日中店で立ち仕事をしているグレースは、喉が渇いた、凍港式奶茶が飲みたいのにまだ届かないの、とよくぼやいていたのだ。
それなら自分にも作れる、と試しに飲んで貰ったら、グレースはすっかり気に入ったようで一日数回は休憩にやって来るようになった。
何かお手伝いがしたいの、と言うと、グレースはとんでもないと首を振った。
ただ世話になるばかりでは心苦しいし、母から渡された現金も全く手を付けていないでいるのだ。日々の細々としたものまですべて買って貰って、食費すら出す事を断られた。
家事を手伝おうにもお手伝いさんがいる。
彼女の仕事を奪うことになるからやっちゃダメ、とキティに言われた。
すごい理屈だと思うのだが、確かにハウスキーパーの彼女がいい顔をしないので、洗濯を手伝うことも躊躇われる。
「あのね、グレース。私、広東語はできないけど、厨房ならお皿洗いとかできると思うの」
他にも下ごしらえとか、お掃除とか。
グレースは困ったように笑ったが、気持ちを受け止めたと言うように、桜をぎゅっとハグをしてから厨房に連れて行った。
厨房は思ったよりも広く、あちこちで調理の火柱が立つ、暑い、というより熱い。
決して怒っているわけではないのは理解した。
が、驚くばかりの強い声が常に響く。
正直、ちょっと怖い。
「・・・どう?」
心配そうにグレースは尋ねた。
桜は少なからず怯みながらも、大丈夫、と頷いた。
最初は邪魔にされて持て余されてただ見ていた桜だが、二日目にして皿を洗った。
三日目には、菜っ葉を洗った。
一週間後には根菜を剥いていた。
最初止めに来たレイも、桜がちょっとずつちょっとずつ前進しているのを見て、面白がっていた。
小さなナイフで器用に野菜の皮を無駄なく剥く日本人の娘に興味を持った調理師が数人いたのだ。
果物や野菜の皮を剥くのは得意だ。
子供の頃は林檎や梨の皮を剥く大会に友達とよく出ていた程で、それは桜の数少ない小さな自慢。
桜は大根の皮をかつら剥きにした。
これも調理実習で覚えさせられた。
おお、と何人かが感嘆の声を出した。
「見ろよ、トイレットペーパーみたいだ」
「器用だなあ」
「学生だって?調理学校行ってるのか」
「普通の中学校の調理実習で習いました」
そう英語で言うと、レイが広東語で伝えた。
「中学校?日本は学校で子供に調理師の勉強を教えるのか?」
「違う。ええと、家庭科という授業があって。お料理や栄養や衛生に関する勉強があって。あ、他には工作で棚作ったりもします」
自宅の台所にある棚のいくつかは学校で桜が作ったものだ。母親が気に入って調味料入れにしている。
「・・・・学校で大工仕事もやるのか・・・」
感心というよりもはや呆れているようだ。
「で、この大根どうするんだい?」
桜は切り目を入れてくるくると巻いた。
「お花です」
誰もがすごいな!と目を見開いた。
あとは?と言われて、胡瓜を蛇腹切りにした。
これもまた二学期の試験だった。
なんでも役に立つものだ。
「中華料理にも野菜や果物のカービングは多いよ。最近じゃ、型で切り抜くのが多いけどね」
レイは言いながら面白そうに胡瓜を伸ばしている。
「うん、姉さんも器用だった。懐かしいな。よく粘土で猫なんかを作ってくれたよ」
この父親の違う姉弟はどうやって育ったのだろうか。
母はどうして家を出たのだろう。
父親の事が原因なのだろうか。
考えると少し胸が痛んだ。
一番年配のコックが、目を細めて桜を見た。
「懐かしいな、大奥さんも昔は厨房に立ってたよ。小さなシャーロットを背負ってね」
レイは驚いて目を見開いた。
「知らなかったかい?なんせあの頃は人手不足でね。大旦那様はまだ医者もやっていて往診に街中を駆けずり回ってたしね。大奥様が鍋を振る姿はなかなか様になってたよ」
経営者は厨房になど入らない人間が多い。
レイは驚いて立ち上がった。
「ママが料理出来るなんて初めて知ったよ」
「何言ってんだい、坊っちゃん。大奥様は俺の師匠について一からみっちり覚えなすった。その上、当時はまだ珍しかった日式の料理も出していた。さすがにそっちは日本人のコックを雇ったが、あれは繁盛したんだよ」
入り口の藍染の暖簾はその時のものだもの。
と彼は得意気に言った。
あのいつもきれいなブラウスやワンピースを着ているおばあちゃんが、赤ちゃんをおんぶして汗だくになって大きな中華鍋を振る姿など想像できない。
不良になるために高級ホテルの椅子で緊張して紅茶を飲むようなお嬢さまだった祖母が一体どうしてそうしたのか。
桜は早速聞いてみようと思った。
グレースはお砂糖とエバミルクをたっぷり入れた港式奶茶を好むので、近所の店から一日何回も届けさせていたのだ。
飲食店の人間が他の飲食店で頻繁に飲み食いをして経済を回している事はとても面白い文化だが、忙しいと出前が遅くなる事も多く、一日中店で立ち仕事をしているグレースは、喉が渇いた、凍港式奶茶が飲みたいのにまだ届かないの、とよくぼやいていたのだ。
それなら自分にも作れる、と試しに飲んで貰ったら、グレースはすっかり気に入ったようで一日数回は休憩にやって来るようになった。
何かお手伝いがしたいの、と言うと、グレースはとんでもないと首を振った。
ただ世話になるばかりでは心苦しいし、母から渡された現金も全く手を付けていないでいるのだ。日々の細々としたものまですべて買って貰って、食費すら出す事を断られた。
家事を手伝おうにもお手伝いさんがいる。
彼女の仕事を奪うことになるからやっちゃダメ、とキティに言われた。
すごい理屈だと思うのだが、確かにハウスキーパーの彼女がいい顔をしないので、洗濯を手伝うことも躊躇われる。
「あのね、グレース。私、広東語はできないけど、厨房ならお皿洗いとかできると思うの」
他にも下ごしらえとか、お掃除とか。
グレースは困ったように笑ったが、気持ちを受け止めたと言うように、桜をぎゅっとハグをしてから厨房に連れて行った。
厨房は思ったよりも広く、あちこちで調理の火柱が立つ、暑い、というより熱い。
決して怒っているわけではないのは理解した。
が、驚くばかりの強い声が常に響く。
正直、ちょっと怖い。
「・・・どう?」
心配そうにグレースは尋ねた。
桜は少なからず怯みながらも、大丈夫、と頷いた。
最初は邪魔にされて持て余されてただ見ていた桜だが、二日目にして皿を洗った。
三日目には、菜っ葉を洗った。
一週間後には根菜を剥いていた。
最初止めに来たレイも、桜がちょっとずつちょっとずつ前進しているのを見て、面白がっていた。
小さなナイフで器用に野菜の皮を無駄なく剥く日本人の娘に興味を持った調理師が数人いたのだ。
果物や野菜の皮を剥くのは得意だ。
子供の頃は林檎や梨の皮を剥く大会に友達とよく出ていた程で、それは桜の数少ない小さな自慢。
桜は大根の皮をかつら剥きにした。
これも調理実習で覚えさせられた。
おお、と何人かが感嘆の声を出した。
「見ろよ、トイレットペーパーみたいだ」
「器用だなあ」
「学生だって?調理学校行ってるのか」
「普通の中学校の調理実習で習いました」
そう英語で言うと、レイが広東語で伝えた。
「中学校?日本は学校で子供に調理師の勉強を教えるのか?」
「違う。ええと、家庭科という授業があって。お料理や栄養や衛生に関する勉強があって。あ、他には工作で棚作ったりもします」
自宅の台所にある棚のいくつかは学校で桜が作ったものだ。母親が気に入って調味料入れにしている。
「・・・・学校で大工仕事もやるのか・・・」
感心というよりもはや呆れているようだ。
「で、この大根どうするんだい?」
桜は切り目を入れてくるくると巻いた。
「お花です」
誰もがすごいな!と目を見開いた。
あとは?と言われて、胡瓜を蛇腹切りにした。
これもまた二学期の試験だった。
なんでも役に立つものだ。
「中華料理にも野菜や果物のカービングは多いよ。最近じゃ、型で切り抜くのが多いけどね」
レイは言いながら面白そうに胡瓜を伸ばしている。
「うん、姉さんも器用だった。懐かしいな。よく粘土で猫なんかを作ってくれたよ」
この父親の違う姉弟はどうやって育ったのだろうか。
母はどうして家を出たのだろう。
父親の事が原因なのだろうか。
考えると少し胸が痛んだ。
一番年配のコックが、目を細めて桜を見た。
「懐かしいな、大奥さんも昔は厨房に立ってたよ。小さなシャーロットを背負ってね」
レイは驚いて目を見開いた。
「知らなかったかい?なんせあの頃は人手不足でね。大旦那様はまだ医者もやっていて往診に街中を駆けずり回ってたしね。大奥様が鍋を振る姿はなかなか様になってたよ」
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「ママが料理出来るなんて初めて知ったよ」
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