金蘭大夜総会 GoldenOrchidClub

ましら佳

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33.月満ちて幕が開く

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「お嬢さん!このシャンデリアはここでいいのかい?」
「それは入り口の天井よ!」
桜は広東語で声を張り上げた。
両親とレイ夫妻の援助を受けて、かつて金蘭大夜総会ゴールデンオーキッドクラブのあった場所で、小金蘭という名前のベーカリーのあるカフェを始める事にしたのだ。
設計をしたのは、キティの兄。
レイ叔父さんそっくりの彼は、パトリックと言う。
レイモンドにパトリック。今だに慣れずに可笑しいが、彼もやっぱりちょっと華子おばちゃんにも似ていた。
帰国したその従兄弟は、設計士になっていたのだ。
きっと戻っては来ないだろうという家族の想像を裏切って、今は香港で忙しく仕事をしている。
桜はまだあちこち施工中の店内を眺めて、頬を膨らませた。
カウンターの色が、発注ではたまご色のはずなのに、からし色なのだ。
この微妙な色合いの差をどう伝えたらいいのか。
塗装屋が持ってきたペンキの缶を片っ端から開けて、あれこれ自分で配合を始めた桜にキティが声をかけた。
「チェリー、ちょっと休憩しようよ!」
両手に沢山の凍鴛鴦茶や冷檸檬茶アイスレモンティー鶏蛋仔エッグワッフルを持っていた。
彼女は金蘭酒楼を手伝っていて、今では立派に看板娘だ。
シャンデリアや他の電気の取り付けをしていた職人に、桜は冷たい飲み物を差し出した。
「ここは一等地だよ、お嬢さん。よく店が持てたもんだ。しかもこんな難しい時期に」
この街は政治的に困難な時期を迎えていた。
こんなタイミングで日本人が、店を出すのかと懐疑的な気持ちと、気の毒に思う気持ち、それからこんな時期でもここに決めたと言われた誇らしさが混じった口調。
何人もの人に何度も言われたと桜は笑った。
やっぱりこんなもの困る、と土地の権利書を何度も手放そうとした。正直、自分には荷が重かった。
怜月が亡くなった後に母に相談してレイモンドに譲った。次にキティ。
何度かそんな事を繰り返した。
誰かが商売を始めてみようかと土地に手をつけようとすると、業者が突然夜逃げしたり、おかしな自称霊能者が現れて止めろと言い出したり。
それでも何度か基礎工事を始めたら、近所の店で水道管が破裂して水浸しになって工事が休工。
もういっそ売ってしまおうかとすると、最初は話に飛びついたディペロッパーが、翌日にはうちではとてもとても荷が重い。勘弁して欲しい、無かった事に、と言い出すのだ。
何もかもが頓挫する状況。
「やっぱりこれは、チェリーのものなのよ。おばあちゃんならそう言うわ」
キティが言って、家族の誰もが納得した。
桜がやるべきだ。
日本で大学を出て栄養士の資格を取り、福祉施設の厨房と近所のパン屋で働いていた自分に、改めて舞い戻って来た話。
桜は大いに戸惑った。
しかし、今までの経緯を聞き及んでいた桜はこれが自分のものであるということなのか、と観念した。
この話が出る前日。
二年交際していて、近く結婚も視野になんて話が出た途端。恋人と破局したのだ。
彼氏が浮気したのだと思ったら、実は自分が浮気だったのだという、どこかで聞いたようなオチ。
彼は本命だった彼女と自分を天秤に掛けていたらしい。彼はどちらにも振られる事になり、当然、自分の結婚話は消えてなくなった。
更に、あの美しい受胎告知のモチーフのカメオ。
成人式で和装姿に帯留にして身につけていたカメオに目を留めた地元紙の記者にその逸話を簡単に話したら、興味を持ったキュレーターが今になって現れた。
それが香港とシンガポールに大きなビルのある会社が運営している美術館で、驚くべき金額を提示された。
ちょっと綺麗すぎるフィクションも盛り合わせの三世代の物語つきで今は美術館でシルクの玉座のような豪華な場所で大威張りで飾られている。
母に、あのカメオは自分には相応しくない気がしていたと言うと、実は私もと母は頷き、きっとカメオ本人もそうに違いない、やっと自分に相応しい納得の居場所を手に入れたのだろうと思うと話したのだ。
と言うわけで、資金も出来てしまった。
もはや、やらない理由が無くなって。
さあ、舞台は整った。
幕を開けなきゃ。
暁子の声がするような気がして。
手元の書類を何日も眺めていたのだが。
祖母から盗んで売っぱらう気でいた指輪がどうしても戻ってくると震え上がった経験のある母は、もう無理よ、こういう事なのよ、仕方ないのよ、と笑って送り出してくれた。
何か悪霊にでも取り憑かれたような、はたまた天使が守ってくれているような気分が半分、そして半分は。今、とてもワクワクする。
「香港は店の回転が早いよ。のんびりした日本人のお嬢ちゃんで大丈夫かい?」
キティの兄のパトリックが心配半分の、少し意地悪な質問でからかった。
桜が笑った。
「あら。きっと香港が私を手放さないわ」
「おお、言うねえ。まあ、ここで商売するなら、このくらいじゃなきゃね!」
キティが桜の肩を叩いた。
「ねえ、鶏蛋仔エッグワッフルじゃ足りない!お昼食べに行こうよ!」
銅羅湾ゴーズウェイベイ午後砲ヌーンディガンが響いた頃だろう。
「じゃ、急がなきゃ。雨が降りそう。雨の匂いがするもの」
都会育ちの彼らにはこればかりはわからないようだ。
あの匂いって、大地のエッセンスという意味なんですって。すてきね。
そう言った祖母は今どこにいるのだろう。
もちろん死んでしまったのだけれど。
いつか祖母が言っていたように、きっと、ここから対岸に見えるあの豪華なホテルのバルコニーあたりで、女優だった母親とその友人である暁子と、それから派手好きの大哥とおしゃべりをしながら笑ってシャンパンでも飲んでいるのかもしれないなんてたまに思うのだ。
あちらからはどう見えるだろう。
私の新たな人生という物語の幕が開いたようにでも見えるのではないかと思い、桜は対岸の桟敷席にいるであろう人々に手を振った。
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