怪人幻想

乙原ゆう

文字の大きさ
上 下
21 / 21

21.

しおりを挟む
 音楽祭の幕は閉じ、館も静けさを取り戻した。
 瑛美の舞台は大成功をおさめ、公演の予定が次々と計画されていた。彼女は間違いなく近い将来トップの座を得るのだろう。

 エドワードは深く溜息をついた。
 窓の外をみるともう日が沈みかけている。 エドワードは部屋を出てしんと静まり返った廊下を歩く。

 他の出演者達はもう既に館を後にしていた。残っているのはエドワードと篠宮そして瑛美の三人だけだった。
 中庭を通りかかるとフランツと篠宮が静かに語らっていた。フランツがエドワードに気づき近づいてくる。

「彼女を迎えにいくのかね?」

 エドワードはうなずく。
 瑛美はあの日以来ずっと森で待っていた。初めの頃は夜も昼も関係なくただじっと森に座って彼が来るのを待ち続けていた。もう二度と彼は現れないというのに。

「彼女もしばらくすれば立ち直る。ノブコの時もそうだったよ」

 フランツはエドワードを励ますようにそういった。

「随分と長い間お世話になりました。けれど私ももういかなければなりません。明日、ここを立ちます」

 エドワードもやはりプロだった。仕事を放棄するわけにはいかない。さんざん瑛美に偉そうなことを言っておいて結局自分も瑛美と同じだった。最後にはピアノを選ぶのだ。

「そうかね……」
「彼女のことをお願いします」

 フランツは頷く。

「大丈夫だ。彼女は私が責任を持って面倒をみよう」

 瑛美のマネージメントはフランツがもっとも信頼している人物、つまりは今まで篠宮をみてきた人物に任されることになっていた。

「ところで。君もファントムに出会ったんだね」

 突然の言葉にエドワードは驚いた。

「何故です?」

 フランツは微笑む。

「君のピアノは深みを増したよ。誰もがそう感じていたさ。君も間違いなく頂点に立つのだろうね」

 エドワードは複雑な思いでそれを聞いていた。

「ファントムの力でですか?」

 フランツは穏やかに微笑む。

「君の力だよ。彼はきっかけをつくるだけだ。その証拠に才能のない者の前に現れたとは聞かないからね」

 フランツは篠宮のほうを見た。

「けれど……三十年というのは長かったよ。済んでしまったことだがね」

 そう、すべては終わってしまったことだった。やるだけのことはやり、言うべきことは言った。それでも望み通りの結果にならないこともある。

「君は待つのかい?」

 ――瑛美の心がファントムから離れるのを。

 エドワードは笑って答えた。

「わかりません」
 
 エドワードはフランツとわかれて森へと向かう。
 ファントムの瑛美に対する思い入れは本物だった。最後に彼と会ったときそれがはっきりとわかった。エドワードの彼女に対する気持ちは決して薄っぺらなものではなかったけれど永い時を生きてきた者の想いにはとうていかなわない。彼はきっと彼女を忘れることができないだろう。そして。

 エドワードは気づいていた。自分とフランツとの決定的な違いを。
 篠宮はフランツを見ていたが瑛美は最初からエドワードをみてはいなかった。

 冷たい風がエドワードの髪を揺らす。乱れた前髪を払いのけると前方に瑛美の姿があった。彼女は森の入口でじっと座って彼を待っている。
 エドワードは思う。彼が瑛美に見せたのは幻などではないのかもしれないと。だとすれば例え彼が彼女のことを忘れても彼女の方が忘れられない可能性もある。

 それでも自分は彼女を待つのだろうか。

『人はいつだって幻を見ている』

 確かにそうかもしれない。だが人はいつまでも幻を見続けることなどできはしない。
 日が沈み辺りが完全に闇に包まれる直前まで待ってからエドワードは瑛美に声をかけた。

「エイミ、戻ろうか」

 恵美は振り返りエドワードを見た。そして名残惜しそうに森を見てから立ち上がる。
 自分はこれから何度もこうやって彼女に呼びかけるだろう。いつか彼女が彼のことを忘れるその日まで。


      ◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 数カ月後、フランツの書斎の上にスコアがメモがきとともに置かれていた。



――親愛なるフランツへ

 これはエイミ・タカクラ嬢の為の曲である。来年の音楽祭での舞台を楽しみにしている。なお前回のような手違いがあった場合、貴殿の周囲には災いがもたらされるであろうことをゆめゆめ忘れないで頂きたい。
                                    M.C



『怪人幻想』
 それは後に高倉瑛美の代表曲となり、聞く人の心に深く深く刻まれていくことになる。
しおりを挟む

この作品は感想を受け付けておりません。


処理中です...