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傷の舐め合いだとしても
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平和な日常が、その瞬間一転した。
夕方のコンビニ。様々な年齢・業種の人々がお互いルールを守りながら利用していたその場の秩序は、たった一人の男の手によって崩壊した。
狭い店内に悲鳴が響き渡る。
フルフェイスのヘルメットを被った男が店内に入るやいなや、まだ小学校に上がるか上がらないかというほど小さな少女を人質に取って、金を出せとレジにいる店員を脅したのだ。
男の手には刃物が光っている。
泣き叫ぶ少女、やめてと悲鳴をあげる母親、顔を真っ青にしながらとにかくレジの金をかき集める店員、そして恐怖から声も出せず震えながら状況を見守っているだけの客ーー
そんな混沌とした状況の中、ゆっくりと犯人の男に近付いた人物がいた。
「あ…の…」
一人の客の男が、おずおずと手を上げながら、声をかける。
年の頃は20代半ばといったところか。
その青年は、男を刺激しないよう、あくまでも落ち着いた声音で話しかけた。
「人質なら僕が代わりになりますから…だから、その女の子を放してやってくれませんか…?」
「なんだと…?」
ヘルメットのせいで表情は見えないが、男が怪訝そうにしているのが声音で分かる。
しかし青年は怯まず続けた。
「逃げるにしても、小さい子どもより大人の僕の方が扱いやすいんじゃないかと思うんです。貴方よりは小柄だから反逆の心配もないでしょう」
確かに、大柄な犯人の男に比べてその青年は華奢な体つきをしていた。更にはギャンギャン泣き叫ぶ子どもより扱いが楽なのは間違いない。
優男風に見えて実は武道の達人だったーーなんて可能性もちらりと頭をもたげたが、青年から敵意は感じない。
男は少し考えた後「妙な気起こすなよ」と言って乱暴に少女を突き飛ばすと、青年の腕を取った。
「マナミちゃん!!!!」
少女の体が男の手から離れた瞬間、娘の元に母親が駆けつけ、力いっぱい抱きしめた。
「ママぁぁぁ~!!」
少女は母親の腕の中で、恐怖から一気に解放された安堵からか、うわああんと大声で泣きじゃくった。
男はそちらにちらりと視線をやって、チッと短く舌打ちをしてから、レジの方に向き直る。
金が用意されたことを確認した男は、青年の腕を引いたまま、金が入った袋を持って逃走した。
「くっそ、こんなとこまで連れてくる予定じゃなかったのに」
狭くてかび臭く、陽の当たらない陰気な雰囲気のアパート。どうやら、ここは男の住処のようだ。
ヘルメットを脱いだ男の顔はどこかあどけなさが残っていて、まだ二十歳そこそこに見える。
こういった犯罪に慣れているわけではないのだろう。人質を放すタイミングを上手く計れなかったらしい。男の家まで連れてこられた青年は両手足を拘束され自由を奪われた状態で、床に転がされている。
しかし青年は、そんな状況でも慌てる素振りは全く見せない。
まるで悟りを開いた坊主のように、妙に達観した様子の青年を、男が訝しげに見つめた。
「お前、よくこの状況で落ち着いていられるな。何か企んでるんじゃないのか」
「そんなことありません。ただ、今はホッとしてます」
「はあ?」
「人質の女の子に怪我がなくて、そして無事に母親の元に戻れたことに安心したと言ってるんですよ」
聖人のような物言いに、こいつは本当に僧侶なのではないかと錯覚すらしそうになり、男の頭がクラリとする。
「いい子ぶってんなよ。そのせいでお前はこの状況なんだぞ。見たか?あの母親。見ず知らずのお前が身を差し出してるってのに、自分の娘が返ってきたらもうお前のことなんかどうでもいいって風で。ラッキーって思ったんだろうな。そんなに娘が大事なら自分が身代わりになりゃいいのに」
男は苦々しい顔をして悪態をつくが、青年はそれでも自分の行動は間違いではなかったと言う。
「それならそれでいいです。女の子には母親が必要なんだから」
「…っ!!」
後悔の欠片すらないようだ。
どこまでも人の良い青年の振る舞いが、逆に男の逆鱗に触れた。
「俺はなあ、お前みたいな偽善者が一番嫌いなんだよ…っ!!」
言うが早いか、男は青年の服を鷲掴みにして、その勢いのまま床に叩きつけた。
「痛…っ」
「さぞかしぬくぬくと育ったんだろうな。自分は安全な立ち位置から、ものを言いやがって…」
男の目の奥に鋭い怒りを感じて、さすがの青年も額から汗を流した。心臓が嫌なリズムを刻んでいる。
「お前さ、頭のどっかで自分は酷いことされないって思ってない?身代わりになったこと後悔させてやるよ…」
男はそう言って、青年の服に手をかけた。
「ーー!?」
男の目的に気付いた青年の顔からは、先ほどまでの冷静さは消えていた。
強盗犯に声をかけた時点で、殺される覚悟を青年は当然していたはずだ。
しかし人間、予想もしていなかったことが身に振りかかるとパニックになるのだろう。
今まで何の抵抗も見せず男の言いなりになっていた青年が、初めて足をバタつかせて抵抗した。
「い…いやだ…っ!」
「男だから何もされないって油断してたか?男でも入れる穴はあるんだよ。お前の正義感粉々に砕いてやる」
体格は男の方が遥かに上で、しかも自分は手足を拘束されている。無駄な抵抗とわかっていても、それでもどうにか逃げようと必死に体をよじって、青年はうつ伏せの状態になった。
男からすれば、だから何だと言ったところだろう。男はそのまま、背後から青年の服を無理矢理引き剥がした。
ーーしかしその瞬間、ピタリと男の動きが止まった。
恐る恐る背中ごしに振り向くと、男が先ほどまでの激情を引っ込めて、代わりに青ざめた表情で青年を見つめていた。
「お前、これ……」
恐らくは、ベルト状の物で殴られ続けたのだろう。青年の背中には、もう消えることのない痛々しい傷跡がいくつも刻まれていた。
男がふらりと青年から体を離した。
青年を温かい家庭で育った世間知らずのお坊ちゃんだと思っていたのに、自分の間違いに気付いた男は深いショックを受けたようだ。
男は壁に凭れたまま項垂れてしまい、沈黙の時間がその場に流れる。
「あの…」
男が何も言葉を発さなくなったことを不安に思った青年が声をかけると、男は黙って自らの服をめくった。
その瞬間、青年の目が大きく見開かれる。
男の腹部には、幾つもの小さな円型の火傷の跡があった。心ない大人から煙草の火を押し付けられたのだと、言葉にしなくてもわかる。
形は違うが、二人とも虐待の痛みを知った者同士だった。
「僕は両親から虐待を受けていたんです。…あなたもだったんですね」
「俺のは親父にやられたやつだ。夫からの暴力に耐えきれずに母親は俺を置いて出ていって、それから親父が矛先を俺に向けるようになった」
男はそれだけ言うと、ぷいと背を向け、もう口を開くことはなかった。
「あの…トイレに行きたいんですけど…」
誘拐されてから数時間がたった。
ずっと我慢していたけれど、さすがにもう限界だ。
股間をモジモジさせながら懇願すると、男は逃げるなよと言ってロープを解き、トイレに行かせてくれた。
戻ってきた青年の両手足に男が再びロープを縛り直すが、その時に何か違和感があった。
その違和感を、青年はあえて口にすることはなかったが…。
夜が来て、男は睡眠を取ることにしたようだ。青年の手首のロープを自分の手首に繋げて、布団にごろりと横になった。
男が寝息を立てるのを確認してから、青年が自分の手首をモゾモゾと動かす。
「ほ、ほどけた…」
思った通りだ。手首を拘束していたロープの結び目は少し動かしただけであっけなく緩んで、ぽとりと床に落ちた。手が自由になった青年が、急いで足の拘束も解く。
男はすっかり寝てしまっている。
これなら逃げれるーーそう思った。
男を起こさないように、青年がそろりとその場から離れた。
しかしその瞬間、男にガッと物凄い勢いで腕を捕まれた。
逃げようとしたのがバレたんだとギクリとし、咄嗟に言い訳が口を継ぐ。
「違うんです、トイレに行こうと思ってーーって、え…?」
どうやら、男はまだ夢の中にいるようだった。
(寝ぼけてる…だけ…?)
ほっと胸を撫で下ろし、再び逃げるタイミングを窺っていると、男が何か寝言を言っているのに気が付いた。何を喋っているのだろうと、咄嗟に耳をすます。
「…いかないで」
「え…?」
「ごめんなさいごめんなさい、いい子でいるから、だから……ぼくをおいていかないで……」
「ーーっ」
母親は俺を置いて出ていってーー
ふいに、男の言葉を思い出す。
きっと、母に置いていかれた時の夢を見ているのだろう。
男の目から溢れた涙が頬をつたい、枕にポタリと零れ落ちた。
目の前にいるのは、人質をとって強盗を働いた凶悪犯。同情なんてするべきじゃない。
きっと今自分が取るべき最善の道は、このまま逃げること。
けれど青年は、この場に留まることを選んだ。
「どこにも行かないよ…大丈夫…君は良い子だから…」
そう言って青年が男の頭を優しく撫でてやると、偶然だろうか。先ほどまでうなされていた男の表情がふっと和らぎ、スースーと穏やかな寝息を立て始めた。
「ん…」
鼻をかすめた旨そうな匂いに胃袋が刺激され、男が目を覚ました。
カーテンから漏れる朝日が眩しい。
「あ、おはよう」
「ーー!!」
男は、青年がまだ室内にいることに驚いたようだった。
「なんでお前、逃げなかったんだよ」
「…やっぱり、結び目を緩くしたのワザとだったんだね」
昨日まで敬語だったのに、急に距離が縮まったような話し方をする青年に、男が一瞬「えっ」という顔をする。
どこの世界に誘拐犯にフランクに接する被害者がいるだろうか。
しかし青年は構わず、まるで友人に話しかけるように言った。
「冷蔵庫の物勝手に使わせてもらったよ。一緒に食べよう」
旨そうな匂いの正体は、青年が用意した朝ご飯だったらしい。
パックご飯にツナ缶を混ぜて作ったオムライス。
玉ねぎはなかったので味に自信はないけれど、それでも出来たての手料理に男は感激しているようだった。言葉には出さないが、頬が僅かに紅潮し、目が少し潤んでいる。
ふんわりとケチャップライスを包んでいる卵の膜にスプーンを突き立て、男はそれを急いで口に運んだ。
一口食べて、よほど美味しかったのか、夢中でハグハグとかきこみ口いっぱいに頬張る男を見て、青年の顔に笑みが零れる。
「美味しい…」
半分ほど食べ終わったところで、男がぼそりと呟いた。
「ほんとに?良かったあ」
青年が嬉しそうに言うと、男はボロボロと両目から涙を流し、声を震わせながら耐えきれず言葉を吐き出した。
「なんでお前は…そうやって笑っていられるんだよ…っ!俺みたいなクソ人間にまで優しくして…俺と同じ境遇のはずなのに、どうして…っ!!」
嗚咽混じりの声で、男は今まで押し殺していた感情を一気に溢れさせた。
「俺はずっと世の中を恨んできたんだ。親だけじゃない。親戚も、施設の連中も、俺の味方は誰一人としていなかった。金も仕事もなくて困ってても役所すら助けてくれない。だからこんな世の中どうなったっていいって…そう思って……」
黙って男の感情を真正面から受け止めていた青年が、「君は、悪い大人にばかり出会ってしまったんだね」と、男の心に寄り添った。
「僕も聖人君子じゃないから、自分を虐待した両親のことは今でも殺してやりたいぐらい恨んでるよ。けど、僕が受けた不幸は世の中のほんの一部で、大多数の人間は真面目に生きてるってことも僕は知っている。親に縛られて生きてくなんて御免だから、僕はこれからも真っ当に生きていくし、楽しいことがあれば笑いもする。それが親に対しての一番の復讐とすら思ってるよ。それに悔しくない?そんな屑人間のために自分の人生を壊してしまうなんて。勿体ないよ」
青年はまるで幼い子どもを諭すように、言葉を紡ぐ。
「ね、そのお金持って出頭しよう?僕もついていくからさ」
男の大きくて小さな背中を、青年が優しくさする。
男はずずっと鼻をすすりながら、黙ってこくりと頷いた。
「おーい、その荷物こっちに運んでくれ!」
「はいっ!」
あれから数年の月日が経った。
刑務所の中で罪を償い、刑期を終え出所した男は、とある建設業で働いていた。
社長は数多くの前科者を暖かく迎え入れている突飛な人で、真面目に生きる気があるならと、紹介されて入ったのだった。
社長も脛に傷持つ過去があり、その経験から、道を踏み外してしまった人間を放っておけないのだそうだ。
周囲の人間に支えられながら、男はここから一歩ずつ始めようと、今は懸命に働いている。
就職して半年以上は経ったろうか。その日も朝から働いて、男の体は既に全身汗だくだった。
キリのいいところまで作業を終え、午後からの仕事に備えのんびりと昼休憩をしていた男の耳に、聞き覚えのある声が届いた。
「久しぶり」
「ーー!!!」
予想外の訪問に、男が慌ててガバッと勢いよく体を起こした。
驚くのも無理はない。男の目の前には、あの青年が立っていたのだ。
何年たっても忘れることはない。お互い少し年をとったけれど、会えばあの日の出来事が一気に蘇る。
「まさか、会いに来てくれるなんて思ってなかったから、ビックリした」
「今どうしてるかなと思ってさ。真面目に頑張ってる姿を見て、安心した」
ふふっと優しく微笑みかけられ、男は照れくさそうに頭をかいた。
「その…色々悪かったな…」
「ん?」
「被害者として証言台に立った時に、加害者の俺に有利になるようなことを言っただろ」
「別に、有利になることを言おうとはしてない。事実を述べただけだよ。説得したら反省してくれたって」
「そのせいでお前、もしかしたらグルなんじゃないかって疑われただろ」
「あー、うん」
青年は、少女の身代わりとして誘拐された被害者として実名報道されたせいで、一気に全国区となってしまった。
やがて裁判が始まったが、そのさいに犯人を庇ったとして、当時ネットで散々叩かれたのだ。
スマホもパソコンも使えない男がそれを知ったのは、出所してからだったが……。
自分の知らないところで被害者である青年が世間からありもしない誹謗中傷を受け続けていた。男は自らが蒔いた種がそんな事態を招くことになるとは思わず、自分の行いを深く後悔した。
「おかしな話さ。もし僕がグルだったらそもそも出頭を促すわけがないのにね。警察もちゃんと捜査した上で二人の間には何も接点が無かったって結論付けてるのに。まあ、叩く人は叩きたいってだけで大して深く考えずに行動するものだからさ。気にしてないよ」
青年はそう言うが、バッシングをまったく気にしないなんて無理だろう。
「俺のせいで酷い目に合わせてしまって、本当に悪かった…」
「いやだからそれは別に君のせいじゃな…いや、うん。そうだね。そもそも強盗なんかしなきゃ起きなかったことなんだもんね。やっぱり君のせいだ」
青年のストレートな物言いに、男が苦笑する。
「ハッキリ言うなあ」
困ったような顔をしている男に青年はクスクス笑いかけながら、「大丈夫だよ、分かってくれる人は分かってくれるから」と言った。
「元気そうな顔見れて良かった。休憩中にお邪魔しちゃってごめんね。じゃあ僕はこれで」
そう言って去ろうとする青年を、男が引き止めた。
「あのさ…もし嫌じゃなかったら、お詫びも兼ねて飯でもご馳走させてくれないか。高級店とかは無理だけど、こうして真面目に仕事してるから少しは金があるんだ。今の俺があるのは、お前のお陰だから」
その言葉に青年はふっと笑って、コクリと頷いた。
「それならさ、僕行きたいところがあるんだけど」
簡素な六畳一間の室内に置かれたちゃぶ台に、スーパーで買ったお惣菜とビールが並ぶ。
「乾杯!お仕事お疲れ様~」
「乾杯。つーか、本当にこんなとこで良かったのかよ?」
青年が行きたいと申し出たのは、店ではなく男の部屋だ。
仕事上がりに待ち合わせをして、二人で買い出しに行った。
部屋は物が少なく整頓されていたが、それでも古いのは隠しようがない。
男の職場の給料自体は決して悪いものではなかったが、男はその稼ぎの中から、巻き込んでしまった被害者への賠償金を自らの意思で払い続けている。
金のかかる住宅に住む余裕はなくて、寝るためだけの部屋を借りた。
普段意識することはないが、客人を招くにはいささかボロボロ過ぎて恥ずかしい。
しかし、そわそわしている男とは対照的に、青年は特段気にしている素振りはない。
「うん。その方が気兼ねなく話もできるでしょ」
青年はそう言うが、自分達は積もる話をし合う仲ではないはずだ。
「お前さ、ちょっと無防備過ぎないか?仮にも一度襲われた身なのに…」
困惑気味の男に、青年はケロリとした顔をして、とんでもない台詞を吐いた。
「そうなってもいいと思ったから来たんだけど?」
「は!?」
予想だにしない言葉に、男が目を剥く。
「ていうのは半分冗談で、君のことを信用してるからっていうのが本当の理由だけど。でも万が一そんな展開になっても後悔しないだろうなとは思ってる」
男が、ごくりと喉を鳴らした。
「マジで言ってんの…?お前は被害者で、俺は加害者なんだぞ」
「まあ、世間的にはそうだよね」
「世間的って言うか、事実だ」
青年がふっと笑って、話を続ける。
「でも、途中で踏み止まれたでしょ?君の心に、良心がちゃんとあったってこと。そして反省の証として、君は被害者へ賠償金を払い続けている。お金が全てじゃないけど、これができる人ってそう多くはないんだよ。僕はそんな君の姿に救われたんだ」
「救われ……?」
「僕の親は最後まで変わらなかった。僕の人生を壊したことを、反省も後悔もしていなかったよ。だからやっぱり人間は変わらない生き物なんだって、どこか諦めていたところがあって。実は、自分が親の遺伝子を引き継いでることが恐怖でもあったんだ。もしかしたら自分もいつかそっち側に行くんじゃないかなってね。でも、一度どん底まで落ちた君が更生して今こうして頑張ってる姿を見て、人間って本人の意思次第で変われるんだって改めて実感できたんだよ」
自分の存在が救いになったなんて被害者から言われるとは思っていなかった男は、それを素直に喜んでいいものなのかもわからなくて、心の置き場に困っている感じだった。
「僕さ、ご飯を作って美味しいって言われたの初めてだったんだ。親と暮らしていた時ね、毎日ご飯を作らされていたんだけど、少しでも味が気に食わないと殴られてた。口答えは一切許されなくて、いつも震えながら作っていたよ。そのせいで僕にとって料理は過去のトラウマが蘇るスイッチになってしまった。既に両親は逮捕されていて、自分を脅かす存在はどこにもいないはずなのに、怖くてずっと作ることができずにいたんだ。あの日、僕は親に縛られたくないなんて言ってたけど、本当はずっと呪縛から抜け出せないでいた。けど、何故かあの日は久々に作ってみようって気になってさ。それを君が美味しいって言って食べてくれてーーそれがすごく嬉しかったんだよ」
「俺の時に…初めて…?」
ますますわけがわからない。自分は青年に対して酷いことをした記憶しかなかったからだ。
男の思考を読んだのか、青年が淋しげな顔をして、自分の中にあった苦しみを語り出した。
「僕さ、今まで誰と関わっても長続きしなかったんだ。確かに優しい人はたくさんいたよ。けど、みんな僕の境遇を知った途端腫れ物に触るように接してくるって言うか…それが優しさとわかっていても、すごく辛かった。だからずっと表面上の浅い付き合いに逃げていたんだ。けどあの日……同じ痛みを知っている君となら、同情とかそんなんじゃなくて、深いところでわかり合えるんじゃないかって、そう思った。そして気付いたら、台所に立って料理してた。自分でも不思議だったよ。料理なんて、ずっと恐怖の対象だったのに」
青年の言葉を最後まで聞いても、男からすれば納得できるものではなかった。
「そういうのさ、ストックホルム症候群だっけ?そういうのじゃないの。刑務所に入ってる間、本で読んだぜ。犯人と過ごしてるうちに、犯人に対して被害者側に同情心が生まれちまうってやつ。それに俺なんかと一緒にいたら、またありもしない噂を立てられるかも知れない」
「かもね…」
「かもねって…」
戸惑う男に、青年は言葉を続けた。
「もしかしたらこの感情は正しいものじゃないかもしれない。きっと、世間には理解されないだろうね。けど、傷の舐め合いでもいい、君に会いたいって強く思った。それが僕の今の正直な気持ちだから」
君の気持ちは?と尋ねられ、男は少し躊躇いながらも、「俺もずっと会いたかった」と答えた。
「抱き締めてもいい?」
少し緊張した顔で、男が問う。
「うん」
穏やかな笑顔で青年が男の抱擁を受け入れた。
抱き締める腕は少し震えていて。
そんな男を安心させるように、青年は男の背中に腕を回した。
夕方のコンビニ。様々な年齢・業種の人々がお互いルールを守りながら利用していたその場の秩序は、たった一人の男の手によって崩壊した。
狭い店内に悲鳴が響き渡る。
フルフェイスのヘルメットを被った男が店内に入るやいなや、まだ小学校に上がるか上がらないかというほど小さな少女を人質に取って、金を出せとレジにいる店員を脅したのだ。
男の手には刃物が光っている。
泣き叫ぶ少女、やめてと悲鳴をあげる母親、顔を真っ青にしながらとにかくレジの金をかき集める店員、そして恐怖から声も出せず震えながら状況を見守っているだけの客ーー
そんな混沌とした状況の中、ゆっくりと犯人の男に近付いた人物がいた。
「あ…の…」
一人の客の男が、おずおずと手を上げながら、声をかける。
年の頃は20代半ばといったところか。
その青年は、男を刺激しないよう、あくまでも落ち着いた声音で話しかけた。
「人質なら僕が代わりになりますから…だから、その女の子を放してやってくれませんか…?」
「なんだと…?」
ヘルメットのせいで表情は見えないが、男が怪訝そうにしているのが声音で分かる。
しかし青年は怯まず続けた。
「逃げるにしても、小さい子どもより大人の僕の方が扱いやすいんじゃないかと思うんです。貴方よりは小柄だから反逆の心配もないでしょう」
確かに、大柄な犯人の男に比べてその青年は華奢な体つきをしていた。更にはギャンギャン泣き叫ぶ子どもより扱いが楽なのは間違いない。
優男風に見えて実は武道の達人だったーーなんて可能性もちらりと頭をもたげたが、青年から敵意は感じない。
男は少し考えた後「妙な気起こすなよ」と言って乱暴に少女を突き飛ばすと、青年の腕を取った。
「マナミちゃん!!!!」
少女の体が男の手から離れた瞬間、娘の元に母親が駆けつけ、力いっぱい抱きしめた。
「ママぁぁぁ~!!」
少女は母親の腕の中で、恐怖から一気に解放された安堵からか、うわああんと大声で泣きじゃくった。
男はそちらにちらりと視線をやって、チッと短く舌打ちをしてから、レジの方に向き直る。
金が用意されたことを確認した男は、青年の腕を引いたまま、金が入った袋を持って逃走した。
「くっそ、こんなとこまで連れてくる予定じゃなかったのに」
狭くてかび臭く、陽の当たらない陰気な雰囲気のアパート。どうやら、ここは男の住処のようだ。
ヘルメットを脱いだ男の顔はどこかあどけなさが残っていて、まだ二十歳そこそこに見える。
こういった犯罪に慣れているわけではないのだろう。人質を放すタイミングを上手く計れなかったらしい。男の家まで連れてこられた青年は両手足を拘束され自由を奪われた状態で、床に転がされている。
しかし青年は、そんな状況でも慌てる素振りは全く見せない。
まるで悟りを開いた坊主のように、妙に達観した様子の青年を、男が訝しげに見つめた。
「お前、よくこの状況で落ち着いていられるな。何か企んでるんじゃないのか」
「そんなことありません。ただ、今はホッとしてます」
「はあ?」
「人質の女の子に怪我がなくて、そして無事に母親の元に戻れたことに安心したと言ってるんですよ」
聖人のような物言いに、こいつは本当に僧侶なのではないかと錯覚すらしそうになり、男の頭がクラリとする。
「いい子ぶってんなよ。そのせいでお前はこの状況なんだぞ。見たか?あの母親。見ず知らずのお前が身を差し出してるってのに、自分の娘が返ってきたらもうお前のことなんかどうでもいいって風で。ラッキーって思ったんだろうな。そんなに娘が大事なら自分が身代わりになりゃいいのに」
男は苦々しい顔をして悪態をつくが、青年はそれでも自分の行動は間違いではなかったと言う。
「それならそれでいいです。女の子には母親が必要なんだから」
「…っ!!」
後悔の欠片すらないようだ。
どこまでも人の良い青年の振る舞いが、逆に男の逆鱗に触れた。
「俺はなあ、お前みたいな偽善者が一番嫌いなんだよ…っ!!」
言うが早いか、男は青年の服を鷲掴みにして、その勢いのまま床に叩きつけた。
「痛…っ」
「さぞかしぬくぬくと育ったんだろうな。自分は安全な立ち位置から、ものを言いやがって…」
男の目の奥に鋭い怒りを感じて、さすがの青年も額から汗を流した。心臓が嫌なリズムを刻んでいる。
「お前さ、頭のどっかで自分は酷いことされないって思ってない?身代わりになったこと後悔させてやるよ…」
男はそう言って、青年の服に手をかけた。
「ーー!?」
男の目的に気付いた青年の顔からは、先ほどまでの冷静さは消えていた。
強盗犯に声をかけた時点で、殺される覚悟を青年は当然していたはずだ。
しかし人間、予想もしていなかったことが身に振りかかるとパニックになるのだろう。
今まで何の抵抗も見せず男の言いなりになっていた青年が、初めて足をバタつかせて抵抗した。
「い…いやだ…っ!」
「男だから何もされないって油断してたか?男でも入れる穴はあるんだよ。お前の正義感粉々に砕いてやる」
体格は男の方が遥かに上で、しかも自分は手足を拘束されている。無駄な抵抗とわかっていても、それでもどうにか逃げようと必死に体をよじって、青年はうつ伏せの状態になった。
男からすれば、だから何だと言ったところだろう。男はそのまま、背後から青年の服を無理矢理引き剥がした。
ーーしかしその瞬間、ピタリと男の動きが止まった。
恐る恐る背中ごしに振り向くと、男が先ほどまでの激情を引っ込めて、代わりに青ざめた表情で青年を見つめていた。
「お前、これ……」
恐らくは、ベルト状の物で殴られ続けたのだろう。青年の背中には、もう消えることのない痛々しい傷跡がいくつも刻まれていた。
男がふらりと青年から体を離した。
青年を温かい家庭で育った世間知らずのお坊ちゃんだと思っていたのに、自分の間違いに気付いた男は深いショックを受けたようだ。
男は壁に凭れたまま項垂れてしまい、沈黙の時間がその場に流れる。
「あの…」
男が何も言葉を発さなくなったことを不安に思った青年が声をかけると、男は黙って自らの服をめくった。
その瞬間、青年の目が大きく見開かれる。
男の腹部には、幾つもの小さな円型の火傷の跡があった。心ない大人から煙草の火を押し付けられたのだと、言葉にしなくてもわかる。
形は違うが、二人とも虐待の痛みを知った者同士だった。
「僕は両親から虐待を受けていたんです。…あなたもだったんですね」
「俺のは親父にやられたやつだ。夫からの暴力に耐えきれずに母親は俺を置いて出ていって、それから親父が矛先を俺に向けるようになった」
男はそれだけ言うと、ぷいと背を向け、もう口を開くことはなかった。
「あの…トイレに行きたいんですけど…」
誘拐されてから数時間がたった。
ずっと我慢していたけれど、さすがにもう限界だ。
股間をモジモジさせながら懇願すると、男は逃げるなよと言ってロープを解き、トイレに行かせてくれた。
戻ってきた青年の両手足に男が再びロープを縛り直すが、その時に何か違和感があった。
その違和感を、青年はあえて口にすることはなかったが…。
夜が来て、男は睡眠を取ることにしたようだ。青年の手首のロープを自分の手首に繋げて、布団にごろりと横になった。
男が寝息を立てるのを確認してから、青年が自分の手首をモゾモゾと動かす。
「ほ、ほどけた…」
思った通りだ。手首を拘束していたロープの結び目は少し動かしただけであっけなく緩んで、ぽとりと床に落ちた。手が自由になった青年が、急いで足の拘束も解く。
男はすっかり寝てしまっている。
これなら逃げれるーーそう思った。
男を起こさないように、青年がそろりとその場から離れた。
しかしその瞬間、男にガッと物凄い勢いで腕を捕まれた。
逃げようとしたのがバレたんだとギクリとし、咄嗟に言い訳が口を継ぐ。
「違うんです、トイレに行こうと思ってーーって、え…?」
どうやら、男はまだ夢の中にいるようだった。
(寝ぼけてる…だけ…?)
ほっと胸を撫で下ろし、再び逃げるタイミングを窺っていると、男が何か寝言を言っているのに気が付いた。何を喋っているのだろうと、咄嗟に耳をすます。
「…いかないで」
「え…?」
「ごめんなさいごめんなさい、いい子でいるから、だから……ぼくをおいていかないで……」
「ーーっ」
母親は俺を置いて出ていってーー
ふいに、男の言葉を思い出す。
きっと、母に置いていかれた時の夢を見ているのだろう。
男の目から溢れた涙が頬をつたい、枕にポタリと零れ落ちた。
目の前にいるのは、人質をとって強盗を働いた凶悪犯。同情なんてするべきじゃない。
きっと今自分が取るべき最善の道は、このまま逃げること。
けれど青年は、この場に留まることを選んだ。
「どこにも行かないよ…大丈夫…君は良い子だから…」
そう言って青年が男の頭を優しく撫でてやると、偶然だろうか。先ほどまでうなされていた男の表情がふっと和らぎ、スースーと穏やかな寝息を立て始めた。
「ん…」
鼻をかすめた旨そうな匂いに胃袋が刺激され、男が目を覚ました。
カーテンから漏れる朝日が眩しい。
「あ、おはよう」
「ーー!!」
男は、青年がまだ室内にいることに驚いたようだった。
「なんでお前、逃げなかったんだよ」
「…やっぱり、結び目を緩くしたのワザとだったんだね」
昨日まで敬語だったのに、急に距離が縮まったような話し方をする青年に、男が一瞬「えっ」という顔をする。
どこの世界に誘拐犯にフランクに接する被害者がいるだろうか。
しかし青年は構わず、まるで友人に話しかけるように言った。
「冷蔵庫の物勝手に使わせてもらったよ。一緒に食べよう」
旨そうな匂いの正体は、青年が用意した朝ご飯だったらしい。
パックご飯にツナ缶を混ぜて作ったオムライス。
玉ねぎはなかったので味に自信はないけれど、それでも出来たての手料理に男は感激しているようだった。言葉には出さないが、頬が僅かに紅潮し、目が少し潤んでいる。
ふんわりとケチャップライスを包んでいる卵の膜にスプーンを突き立て、男はそれを急いで口に運んだ。
一口食べて、よほど美味しかったのか、夢中でハグハグとかきこみ口いっぱいに頬張る男を見て、青年の顔に笑みが零れる。
「美味しい…」
半分ほど食べ終わったところで、男がぼそりと呟いた。
「ほんとに?良かったあ」
青年が嬉しそうに言うと、男はボロボロと両目から涙を流し、声を震わせながら耐えきれず言葉を吐き出した。
「なんでお前は…そうやって笑っていられるんだよ…っ!俺みたいなクソ人間にまで優しくして…俺と同じ境遇のはずなのに、どうして…っ!!」
嗚咽混じりの声で、男は今まで押し殺していた感情を一気に溢れさせた。
「俺はずっと世の中を恨んできたんだ。親だけじゃない。親戚も、施設の連中も、俺の味方は誰一人としていなかった。金も仕事もなくて困ってても役所すら助けてくれない。だからこんな世の中どうなったっていいって…そう思って……」
黙って男の感情を真正面から受け止めていた青年が、「君は、悪い大人にばかり出会ってしまったんだね」と、男の心に寄り添った。
「僕も聖人君子じゃないから、自分を虐待した両親のことは今でも殺してやりたいぐらい恨んでるよ。けど、僕が受けた不幸は世の中のほんの一部で、大多数の人間は真面目に生きてるってことも僕は知っている。親に縛られて生きてくなんて御免だから、僕はこれからも真っ当に生きていくし、楽しいことがあれば笑いもする。それが親に対しての一番の復讐とすら思ってるよ。それに悔しくない?そんな屑人間のために自分の人生を壊してしまうなんて。勿体ないよ」
青年はまるで幼い子どもを諭すように、言葉を紡ぐ。
「ね、そのお金持って出頭しよう?僕もついていくからさ」
男の大きくて小さな背中を、青年が優しくさする。
男はずずっと鼻をすすりながら、黙ってこくりと頷いた。
「おーい、その荷物こっちに運んでくれ!」
「はいっ!」
あれから数年の月日が経った。
刑務所の中で罪を償い、刑期を終え出所した男は、とある建設業で働いていた。
社長は数多くの前科者を暖かく迎え入れている突飛な人で、真面目に生きる気があるならと、紹介されて入ったのだった。
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「ーー!!!」
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驚くのも無理はない。男の目の前には、あの青年が立っていたのだ。
何年たっても忘れることはない。お互い少し年をとったけれど、会えばあの日の出来事が一気に蘇る。
「まさか、会いに来てくれるなんて思ってなかったから、ビックリした」
「今どうしてるかなと思ってさ。真面目に頑張ってる姿を見て、安心した」
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「その…色々悪かったな…」
「ん?」
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「別に、有利になることを言おうとはしてない。事実を述べただけだよ。説得したら反省してくれたって」
「そのせいでお前、もしかしたらグルなんじゃないかって疑われただろ」
「あー、うん」
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自分の知らないところで被害者である青年が世間からありもしない誹謗中傷を受け続けていた。男は自らが蒔いた種がそんな事態を招くことになるとは思わず、自分の行いを深く後悔した。
「おかしな話さ。もし僕がグルだったらそもそも出頭を促すわけがないのにね。警察もちゃんと捜査した上で二人の間には何も接点が無かったって結論付けてるのに。まあ、叩く人は叩きたいってだけで大して深く考えずに行動するものだからさ。気にしてないよ」
青年はそう言うが、バッシングをまったく気にしないなんて無理だろう。
「俺のせいで酷い目に合わせてしまって、本当に悪かった…」
「いやだからそれは別に君のせいじゃな…いや、うん。そうだね。そもそも強盗なんかしなきゃ起きなかったことなんだもんね。やっぱり君のせいだ」
青年のストレートな物言いに、男が苦笑する。
「ハッキリ言うなあ」
困ったような顔をしている男に青年はクスクス笑いかけながら、「大丈夫だよ、分かってくれる人は分かってくれるから」と言った。
「元気そうな顔見れて良かった。休憩中にお邪魔しちゃってごめんね。じゃあ僕はこれで」
そう言って去ろうとする青年を、男が引き止めた。
「あのさ…もし嫌じゃなかったら、お詫びも兼ねて飯でもご馳走させてくれないか。高級店とかは無理だけど、こうして真面目に仕事してるから少しは金があるんだ。今の俺があるのは、お前のお陰だから」
その言葉に青年はふっと笑って、コクリと頷いた。
「それならさ、僕行きたいところがあるんだけど」
簡素な六畳一間の室内に置かれたちゃぶ台に、スーパーで買ったお惣菜とビールが並ぶ。
「乾杯!お仕事お疲れ様~」
「乾杯。つーか、本当にこんなとこで良かったのかよ?」
青年が行きたいと申し出たのは、店ではなく男の部屋だ。
仕事上がりに待ち合わせをして、二人で買い出しに行った。
部屋は物が少なく整頓されていたが、それでも古いのは隠しようがない。
男の職場の給料自体は決して悪いものではなかったが、男はその稼ぎの中から、巻き込んでしまった被害者への賠償金を自らの意思で払い続けている。
金のかかる住宅に住む余裕はなくて、寝るためだけの部屋を借りた。
普段意識することはないが、客人を招くにはいささかボロボロ過ぎて恥ずかしい。
しかし、そわそわしている男とは対照的に、青年は特段気にしている素振りはない。
「うん。その方が気兼ねなく話もできるでしょ」
青年はそう言うが、自分達は積もる話をし合う仲ではないはずだ。
「お前さ、ちょっと無防備過ぎないか?仮にも一度襲われた身なのに…」
困惑気味の男に、青年はケロリとした顔をして、とんでもない台詞を吐いた。
「そうなってもいいと思ったから来たんだけど?」
「は!?」
予想だにしない言葉に、男が目を剥く。
「ていうのは半分冗談で、君のことを信用してるからっていうのが本当の理由だけど。でも万が一そんな展開になっても後悔しないだろうなとは思ってる」
男が、ごくりと喉を鳴らした。
「マジで言ってんの…?お前は被害者で、俺は加害者なんだぞ」
「まあ、世間的にはそうだよね」
「世間的って言うか、事実だ」
青年がふっと笑って、話を続ける。
「でも、途中で踏み止まれたでしょ?君の心に、良心がちゃんとあったってこと。そして反省の証として、君は被害者へ賠償金を払い続けている。お金が全てじゃないけど、これができる人ってそう多くはないんだよ。僕はそんな君の姿に救われたんだ」
「救われ……?」
「僕の親は最後まで変わらなかった。僕の人生を壊したことを、反省も後悔もしていなかったよ。だからやっぱり人間は変わらない生き物なんだって、どこか諦めていたところがあって。実は、自分が親の遺伝子を引き継いでることが恐怖でもあったんだ。もしかしたら自分もいつかそっち側に行くんじゃないかなってね。でも、一度どん底まで落ちた君が更生して今こうして頑張ってる姿を見て、人間って本人の意思次第で変われるんだって改めて実感できたんだよ」
自分の存在が救いになったなんて被害者から言われるとは思っていなかった男は、それを素直に喜んでいいものなのかもわからなくて、心の置き場に困っている感じだった。
「僕さ、ご飯を作って美味しいって言われたの初めてだったんだ。親と暮らしていた時ね、毎日ご飯を作らされていたんだけど、少しでも味が気に食わないと殴られてた。口答えは一切許されなくて、いつも震えながら作っていたよ。そのせいで僕にとって料理は過去のトラウマが蘇るスイッチになってしまった。既に両親は逮捕されていて、自分を脅かす存在はどこにもいないはずなのに、怖くてずっと作ることができずにいたんだ。あの日、僕は親に縛られたくないなんて言ってたけど、本当はずっと呪縛から抜け出せないでいた。けど、何故かあの日は久々に作ってみようって気になってさ。それを君が美味しいって言って食べてくれてーーそれがすごく嬉しかったんだよ」
「俺の時に…初めて…?」
ますますわけがわからない。自分は青年に対して酷いことをした記憶しかなかったからだ。
男の思考を読んだのか、青年が淋しげな顔をして、自分の中にあった苦しみを語り出した。
「僕さ、今まで誰と関わっても長続きしなかったんだ。確かに優しい人はたくさんいたよ。けど、みんな僕の境遇を知った途端腫れ物に触るように接してくるって言うか…それが優しさとわかっていても、すごく辛かった。だからずっと表面上の浅い付き合いに逃げていたんだ。けどあの日……同じ痛みを知っている君となら、同情とかそんなんじゃなくて、深いところでわかり合えるんじゃないかって、そう思った。そして気付いたら、台所に立って料理してた。自分でも不思議だったよ。料理なんて、ずっと恐怖の対象だったのに」
青年の言葉を最後まで聞いても、男からすれば納得できるものではなかった。
「そういうのさ、ストックホルム症候群だっけ?そういうのじゃないの。刑務所に入ってる間、本で読んだぜ。犯人と過ごしてるうちに、犯人に対して被害者側に同情心が生まれちまうってやつ。それに俺なんかと一緒にいたら、またありもしない噂を立てられるかも知れない」
「かもね…」
「かもねって…」
戸惑う男に、青年は言葉を続けた。
「もしかしたらこの感情は正しいものじゃないかもしれない。きっと、世間には理解されないだろうね。けど、傷の舐め合いでもいい、君に会いたいって強く思った。それが僕の今の正直な気持ちだから」
君の気持ちは?と尋ねられ、男は少し躊躇いながらも、「俺もずっと会いたかった」と答えた。
「抱き締めてもいい?」
少し緊張した顔で、男が問う。
「うん」
穏やかな笑顔で青年が男の抱擁を受け入れた。
抱き締める腕は少し震えていて。
そんな男を安心させるように、青年は男の背中に腕を回した。
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