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第一部 大坂の変
第十章 動かされた運命
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大坂城の奥深く。
お藤の寝所の接客室は、一筋の灯明が揺れるだけの深い静寂に包まれていた。
ろうそくの芯が小さく爆ぜる音が、張り詰めた空気を切り裂く。
襖が静かに開き、真田信繁が足音を忍ばせて入ってきた。
赤備えの具足を解き、黒羽織に身を包んだその姿には、十四年の蟄居を経てもなお鋭さを失わぬ武将の気迫が漂っている。
信繁の視線が灯火に揺れる室内を走り、やがて二つの影に留まった。
秀頼は几帳の奥に座し、その傍らにはお藤――正装を解き、動きやすい旅装に近い小袖を纏い、鋭い眼差しで控えていた。
その姿は、奥御殿の守護者であると同時に、忍城を守り抜いた成田氏の血を引く冷徹な軍師の影を映していた。
襖の向こうでは、侍女たちが息を潜め、誰一人としてこの場に近づけぬよう、お藤の指示で退路が封じられている。
その鉄火の気配に守られ、豊臣秀頼と真田信繁は、膝を突き合わせた。
秀頼が低く口を開いた。
「……信繁、呼び立ててすまぬ。だが、もはや猶予はない。
叔母上たちの説得は不調に終わった。母上は、この城と共に果てることしか見えておられぬ」
その声は、凍てつくように冷静であった。灯火の影が秀頼の横顔に複雑な陰影を落とし、瞳には迷いを捨てた鋼の光が宿っている。
「――母上の意地は、もはや揺るがぬ。叔母上たちの涙も届かぬ。
このままでは、血の海を避けられぬ」
お藤は静かに頷き、扇を閉じながら言葉を重ねた。
「左様にございます。母上は今、大蔵卿局らと『潔く散る』という甘い毒に酔っておられます。
もはや、言葉でその酔いを覚ます手立てはございませぬ」
信繁が膝を進め、声を潜めた。
「殿……ならば、どういうお考えを」
秀頼は深く息を吐き、低く答えた。
「余は、自ら大御所様と和睦交渉を行おうと考えておる。
家康公の期待に応え、余がこの手で城内の毒を断ち、豊臣を徳川の柱の一つとして再生させる。
……そのためには、どうしても、そなたの力が要るのだ」
信繁は、白髪の混じった頭を低く下げたまま、慎重に言葉を選んだ。
「和睦……にございますか。それは、徳川の軍門に下る、ということでございましょうか」
「降伏」という剥き出しの単語を避けつつ問う信繁の声を、秀頼は静かに遮った。
「余を腰抜けだと思うか? それでよい。家族や家臣を守れるのであれば、余は股の下でも潜って見せよう。
無意味な戦を止め、泰平を掴む――それが余の戦いだ。
真田、そなたも家族の未来のために、九度山を捨ててここに来たのではないか」
信繁はゆっくりと顔を上げ、秀頼の瞳を真っ直ぐに見据えた。
そこには、かつて父・昌幸が家族の生存だけを賭けて戦った時と同じ、狂おしいほどの「理」が宿っていた。
信繁は低く呟く。
「殿、そのお言葉は過ぎたるもの。……我らも殿と同じ想い。
なれど、私の妻――刑部の娘は、かつて父である大谷刑部殿が、家康公の放った『問鉄砲』に突き動かされた金吾殿の裏切りに遭い、果てたと聞いております。
殿の大義に従うとは言え、再び仇である家康公の望み通りに動くことは、妻にとって、あまりに過酷な仕打ち……」
信繁の言葉には、十四年の苦楽を共にした妻への、痛切なまでの慈しみが滲んでいた。
秀頼は、その荷の重さをすべて受け止めるように深く頷いた。
「余も耳にしたことがある。大谷刑部殿の最期は、この国の武士が語り継ぐべき悲劇であった。
……だが、信繁。亡くなった故人のために、今を生きる妻や、未来ある子供たちを殉じさせることは、あまりに酷なことだと思わぬか」
秀頼は身を乗り出し、信繁の乾いた手を自らの手で包み込んだ。
「信繁、案ずるな。そなたの御内様の怨みは、余がすべて引き受けよう。
和睦が成った暁には、名門・大谷刑部殿の名誉を必ずや回復させ、御内様を再び陽の当たる場所へお連れすると、この秀頼が命を懸けて誓う。
……だから、そなたの背負う荷を半分、余に預けてはくれぬか」
沈黙が室内を支配した。灯火が揺れ、三人の影が畳に重なる。
やがて、信繁の瞳に、かつて戦場を赤く染めた「戦神」の火が灯る。
「……負けました。殿のその『理』、そしてお覚悟。
真田左衛門佐信繁、この命、今日より殿の家族の未来のために捧げましょう。」
灯明一筋、淡き光に几帳の影が長く伸びる。
お藤は扇を静かに置き、低く言葉を紡いだ。
「殿、まずは城中の力を見極めねばなりませぬ。強硬の声を上げるは、後藤又兵衛、塙団右衛門、大野治長――いずれも『戦こそ誇り』と申す者どもにございます」
信繁は膝を進め、声を潜めて応じる。
「毛利勝永殿は誇りを重んじられますれど、理を解する御方。長宗我部盛親殿も同じにございましょう。
ただ、又兵衛、団右衛門は血を求むる狼。これを評定より遠ざけねば、和睦の道は閉ざされまする」
秀頼は深く息を吐き、灯火に揺れる影を見つめた。
「……治長は如何に」
お藤の瞳が鋭く光り、扇を閉じて言う。
「御袋様の影そのものにございます。母上の御意を支える限り、和睦を阻む壁となりましょう。
退けるには、奥を固め、治長を別室に留めるほかございませぬ」
信繁は低声にて続ける。
「殿、味方となる者もおります。明石全登殿――沈黙を守りておられますが、心は血を嫌う御方。
また、長宗我部、勝永、木村重成――いずれも家族を守りたい思い強し。理を説けば、必ず応じましょう」
秀頼の瞳に鋼の光が宿る。
「……敵と味方を見極める。それが、余の戦にてある」
お藤は深く頭を垂れ、静かに言葉を重ねた。
「殿、奥は私が守り申します。侍女どもの動き、殿の御意が定まり次第、速やかに心得させまする。
評定の場を整えるは、真田殿の役目。嵐が来る前に、嵐を鎮めねばなりませぬ」
信繁は欠けた歯を見せ、笑みを浮かべた。
「承知仕りました。嘴の用意、既に整っておりまする。殿の御心、必ず形にいたしましょう」
灯火が揺れ、三人の影が畳に重なる。
その影は、静かなる誓いを刻むがごとく、長く伸びていた。
障子の外に冬の風が渡り、遠くで太鼓の音が微かに響く――嵐は、まだ遠し。されど、確かに近づいていた。
大坂城、広間。
澱んだ熱気と開戦論が渦巻く中、上座に鎮座する豊臣秀頼は、一言も発せず、「理」の瞳で座を見渡していた。
その沈黙を破り、真田信繁が静かに立ち上がり、一巻の図面を広げる。
「――諸卿、聞き届けられよ。此度の戦、ただ籠もるのみでは、往時の北条氏、小田原殿の二の舞にござる。
敵を引き寄せ、一網打尽にするための『牙』が要る。……大坂城の南、茶臼山を正面に据えた平地に、独立した出城を築き候。名は『真田丸』と致す」
広間にどよめきが走る。後藤又兵衛が膝を乗り出し、声を張り上げた。
「真田殿、茶臼山は敵に取られれば格好の陣地。そこへ出城など、自ら餌を撒くがごとき策にござらぬか」
信繁は不敵に笑みを浮かべ、図面の一点を指で叩いた。
「左様、そこが肝要にて候。茶臼山は敵の視線を遮る絶好の障壁となる。我らが出城にて徳川の先鋒を足止めし、殲滅いたす。
その折、後続の部隊からは茶臼山が邪魔をして、前線の壊滅が見えぬ。……前方の状況を知らぬまま、徳川の兵は次々と真田丸という死の淵へ、己が意志にて飛び込むこととなりましょう」
信繁の冷徹なる軍略に、主戦派の面々の顔色が変わった。
「視線を遮るか……」「敵は状況を掴めぬまま、次々と死ぬというわけか」
戦に老練なる浪人衆にとり、この「情報の遮断」と「兵力の逐次投入」を強いる策は、反論の余地なき必勝の理に映った。
信繁はさらに言葉を重ねる。
「治長殿、又兵衛殿。これより数日のうちに作事の命を。木材、石材、人足――すべてを南の野面へ集中させられよ。
現場の差配は、勇猛なる貴殿らにこそお願い申し上げる。我ら真田も全力を尽くし、作事に没頭いたす所存ゆえ、城内の守りは暫時、お任せ仕る!」
大野治長は、勝利の幻想が描かれた図面に身を震わせた。
「……見事なり。秀頼公、いかがにござりまする。これこそ、豊臣の武を天下に示す一撃となりましょう!」
秀頼はゆるりと瞬きをし、治長を見つめた。その瞳の奥には、憐れみにも似た冷徹な光が宿っていた。
「……真田がそう申すなら、異論はない。治長、これより城内の差配はすべて『真田丸』を最優先せよ。
そなたも、今日より南の現場に張り付き、指揮を執れ」
「ははっ! 畏まりました!」
治長たちは、図面を奪い合うようにして広間を去っていった。彼らの頭の中は、まだ杭一本打たれていない「最強の砦」で一杯であった。
広間に残されたのは、秀頼と信繁、そして影のごとく控えるお藤のみ。
秀頼が低く呟く。
「……信繁。彼の衆は今、南の野面で『真田丸』という名の夢を追いかけておるな。視線を遮断されるのは、大御所様ではなく、あの御方らの方であったか」
信繁は静かに頷き、声を潜めた。
「左様にございます。作事の準備、人足の割り振り――あの喧騒は、城内のあらゆる『余計な目』を南へ釘付けにいたしましょう。……杭を打つ前に、すべてを終わらせまする」
信繁は、畳に残された虚ろな図面を静かに巻き取った。
真田丸という名の巨大な目隠しが、城中の狂気を吸い寄せていく。
その隙に、秀頼の手は、城の内側という「真の戦場」へ伸ばされようとしていた。
大坂城、奥御殿。
昼間の評定を終え、広間には宴の支度が整えられつつあった。南の野面に築かれる「真田丸」の着工を祝う名目であるが、その裏には、城内の目を逸らすための策が潜んでいた。
秀頼の居所には、選ばれし武将たちが静かに集められていた。
灯火が揺れ、几帳の影が畳に長く伸びる中、真田信繁が膝を進め、低く告げる。
「諸卿、殿の御心を伝え申す。此度の策、血を流さぬ道を探し、家を守ることにございます。
御協力を賜りたく存ずれど、強いてお求めするものにあらず。
されど、事の性質上、言の葉一片たりとも外へ漏らすことは断じて許されませぬ。
ゆえに、御身がこの策に加わらぬとお考えなされるならば、事の成就まで、この座を離れぬようお願い申し上げる。
これは殿の御意にて候。諸卿、御覚悟を示されよ」
武将たちは互いに視線を交わし、やがて一人、また一人と膝を進めた。
毛利勝永が重き声を響かせる。
「殿の御覚悟、しかと承り候。毛利勝永、命を賭してお支え仕る」
木村重成が若き声に力を込める。
「秀頼公、木村重成、御意に候。泰平を乱さぬため、我が刃を尽くしまする」
長宗我部盛親が低く言葉を紡ぐ。
「殿の御志、長宗我部盛親、心よりお支え仕る。家名を守るは理にて候」
最後に、明石全登が静かに口を開いた。
「殿の御策、明石全登、信と刃をもってお守りいたす。血を避けるは神の御心にも適う」
誓いの声が重なり、室内に静かな熱が満ちた。
お藤はその様子を見届け、深く頭を垂れると、静かに広間を出た。
障子が開き、香の匂いが淡く漂う中、お藤が秀頼の寝所に進み出る。
「殿、宴のご参加をお願い申し上げます」
その言葉は、ただの儀礼ではなかった。奥に潜む策を知る者だけが理解する隠語――千姫の瞳がわずかに揺れた。
秀頼が立ち上がろうとした刹那、千姫は静かに脇差を取り、その鞘が灯火に淡く光った。
背後で千姫が膝を進め、深く頭を垂れる。
「殿……どうか御身をお守りくださいませ」
白き指が懐に忍ばせた脇差を強く握る。
秀頼が振り返り、低く問う。
「お千、察したのか」
千姫は頷き、声を震わせぬまま言葉を紡ぐ。
「殿……私も覚悟を決めとうございます。殿が戦うなら、私も共にございます。
万が一になるなら……殿と共に果てる覚悟にございます」
その胸中には、言葉にせぬ誓いが燃えていた。
『もしこの策が破れれば、私は幽閉されましょう。殿と離され、二度とお顔を拝すること叶わぬ。
その後、大坂城は必ず落ちる……殿は討たれ、私は生き恥をさらす。
ならば、殿と離れるより、殿と共に果てる方がよろしゅうございます。殿が命を賭けるなら、私も命を賭ける。それが、私の誇りにございます』
秀頼はその思いを受け止め、静かに頷いた。
「お千……そなたの言葉、余の心を決めた。
そなたがそれを使う時を、絶対に来させぬ」
秀頼は深く息を吐き、広間へと歩を進めた。
灯火が揺れ、二人の影が畳に重なる――その影は、嵐の前の静けさに、密やかな誓いを刻んでいた。
広間に入り、真田信繁が深く頭を垂れ、声を響かせた。
「殿、諸卿、御報告仕る。すべての将、殿の御意に従う覚悟を示されました」
秀頼はゆるりと立ち上がり、信繁を見つめる。その瞳に鋼の光が宿る。
「……見事だ、信繁。幻の城――真田丸を築き、城中の狂気を手玉に取るとは。
そなた、まさに昌幸殿の『表裏比興』の奥義を継いでおるな」
信繁は一瞬、驚きに目を見開き、やがて深く平伏した。
「……恐れ入りまする。父が生きておれば、今の殿のお言葉を聞き、さぞや悔しがったことにございましょう」
秀頼は静かに歩み寄り、信繁の肩に手を置いた。
「顔をお上げよ、信繁」
その声は柔らかくも、奥底に鋼の響きを秘めていた。
信繁がゆるりと顔を上げると、秀頼は広間を見渡し、低く、しかし力強く告げた。
「皆、よく聞いてくれ。今、豊臣家は真っ直ぐに滅亡へと向かっている。
『誇り』や『栄光』という甘美な言葉で己を酔わせ、死の道へと狂乱している。
母上も、治長も、それを『武士の誉れ』と呼ぶが、余にはそれが、未来を食い潰す呪いにしか見えぬ」
広間に衝撃が走る。秀頼はさらに一歩、将たちの前へ踏み出した。
「余が皆に求めているのは、世の理から見れば『謀反』に等しい行いであろう。
なれど、これは断じて謀反ではない。そなたたちの家族、家臣、そしてこの城に集まった数万の命を、無益な死から救い出すための『大義』である。
余は、豊臣の旗印を捨ててでも、そなたたちの『明日』が欲しい」
秀頼の瞳には、一切の迷いがなかった。
「この大業を成せば、そなたたちの名は、ただ死んでいくだけの敗残者としてではなく、歴史を塗り替え、泰平の礎を築いた不滅の勇者として、永劫に刻まれるであろう。
……余と共に、この『生存という名の反逆』に身を投じてくれぬか。
合言葉は――『反逆にあらず、大義なり』」
やがて、信繁が、勝永が、そして全登が、示し合わせたかのように深く、畳に額を擦り付けた。
「……殿。その不孝の汚名、我らがお引き受けいたしましょう」
信繁の低い声が広間に響く。
「心中という名の夢は、今この時、終わりました。……我ら、生きて歴史の証人となりましょうぞ」
灯明の火が大きく揺れ、秀頼という新しき「龍」の影が、広間の壁に巨大に映し出された。
広場にそれぞれの兵力を集め、松明が揺れ、空気は張り詰めていた。
秀頼は低く重い声で告げる。
「信繁、勝永……今宵、余は母上を押さえ、大坂城の権を奪う。浪人頭を拘束し、血を流すこと断じて許さぬ。
されど、余を支持した諸卿を死なせることも許さぬ。何があっても、まずは己が身を守れ。
無闇な殺生は避けよ、されど命を惜しむな。戦を避けるための戦、余が先に立つ。
父上は武にて天下を取られた。余は理にて泰平を守る!」
信繁は深く頭を下げ、声を潜めた。
「殿、勝ち戦などございませぬ。戦を避ける方が、我らの命を守る道にございます」
勝永も膝を進め、力強く頷く。
「殿の御心、必ずや果たし申す」
その背後で、木村重成が実行部隊を率いて待機していた。若き眼に炎が宿る。
「殿の御心、必ずや果たし申す。泰平こそ、豊臣を守る道にございまする」
明石全登は静かに十字を切り、低声で言った。
「殿……血を流さぬこと、神の御心にございます。必ずや、説得いたしましょう」
秀頼は一同を見渡し、最後に低く告げる。
「合言葉は――『反逆にあらず、大義なり』」
城内は深い闇に沈み、灯火の影が畳に淡く揺れていた。
寝所に響くのは、遠くの風音のみ――その静寂を裂いたのは、鋭い金属音であった。
襖の向こうで、護衛の声が低く飛ぶ。
「押さえよ!声を上げるな!」
次いで、刀が鞘を離れる音と、短い悲鳴が闇を裂いた。
信繁は十数名の精鋭を率い、勝永と共に大野治長・治房の寝所へ踏み込む。
襖が音もなく開き、灯火が揺れる中、信繁が低く告げる。
「治長殿、御無礼仕る。殿の御意にて、しばし御身をお預かりいたす」
治長は寝具を払い、驚愕の眼で信繁を睨む。
「何を申すか……謀反か!」
脇差に手を伸ばす治房を、勝永の家臣が押さえ込む。
「声を上げるな!」
畳に響くのは、短い息と衣擦れの音のみ。刃は抜かれぬまま、二人は縄で縛られた。
一方、団右衛門の寝所。
襖が開いた瞬間、鋭い音が闇を裂いた。
「何者じゃ!」団右衛門は布団を蹴り飛ばし、脇差を抜く。灯火に刃が光り、盛親の家臣が受け止める。
「殿の御心に背く者、ここで止める!」木村重成が指揮を飛ばす。
団右衛門は怒声を放ち、畳を蹴って間合いを詰める。
「豊臣を売るか!恥を知れ!」
刃が交わり、鋭い金属音が広間に響く。
盛親が脇差を捌き、重成が腕を押さえた瞬間、刀が床に落ちる。
血が一滴、畳に散った。団右衛門はなおも吠える。
「謀反人ども、ここで斬り捨ててくれる!」
だが、家臣の体術が彼を押し倒し、怒声を残して崩れ落ちた。
渡辺糺は戦闘音に目を覚まし、襖を睨みつける。
「何事じゃ!」
襖が開き、明石全登が十字を切りながら低声で告げる。
「渡辺殿、血を流すな。殿の御心は泰平にございます」
糺は脇差を抜き、怒声を放つ。
「殿を裏切るか、貴様ら!」
刃が灯火に光り、全登の家臣が腕を絡め取る。
「声を上げるな!」
刀が床に落ち、糺の腕に浅い傷が走る。血が畳に滲み、灯火が揺れた。
城中に響くのは、怒声と短い金属音、そして荒い息。
血を流さぬ策は、現実の刃に試されていた。
その影は、豊臣の運命を変える「静かな嵐」の始まりを告げていた。
廊下に灯火が揺れ、影が長く伸びる。
秀頼は腰に佩いた太刀の柄を静かに握りしめ、静かに歩を進めた。その背後には、お藤が影のように付き従う。
奥御殿の空気は張り詰め、遠くで警護兵の足音が低く響く。
淀殿の寝所――襖の向こうで、大蔵卿局が身支度を整え、主の世話をしていた。
その時、襖が音もなく開き、灯りが揺れる。
「何のことじゃ!」大蔵卿局が先に立ち上がり、声を荒げる。
お藤は無言でその腕を取り、暴力ではなく、確固たる力で引き寄せる。
「御無礼仕る、大蔵卿局殿」
お藤は低く告げ、兵士に預けると、静かに寝所の奥へ進んだ。
灯火が揺れ、起き上がった淀殿の頬が怒りに染まる。化粧を施さぬその顔に、涙と烈しき光が交錯していた。
「秀頼、これはどういう真似じゃ!」
秀頼は深く頭を垂れ、低く告げる。
「母上、ご無礼をお許しください。本日より、大坂城のすべての権は、この秀頼が受け取りまする」
淀殿の声が震えた。
「秀頼……そなた、母を裏切るか!」
秀頼は一歩進み、声を強める。
「母上、父上は武にて天下を取られた。余は理にて泰平を守る!
なれど、このままでは、大御所様と激突し、豊臣家は間違いなく滅びる。
国松も奈阿も、お千も、お奈津も、お藤も――皆が不幸な定めとなる。
そうさせぬためにも、余は鬼となっても、こうするしかない!」
淀殿の眼が細くなる。怒りと涙が交錯し、扇が床に落ちた。
「……秀頼……」
広間に重い沈黙が落ちる。
廊下の向こうで、信繁と勝永が影のように控えていた。
「殿、すべて整いました」信繁の声が低く響く。
秀頼は頷き、脇差を握りしめた。
「今宵、豊臣は新しき道を歩む」
灯火が揺れ、秀頼の影が壁に大きく伸びる――その影は、泰平を求める鬼の決意を刻んでいた。
お藤の寝所の接客室は、一筋の灯明が揺れるだけの深い静寂に包まれていた。
ろうそくの芯が小さく爆ぜる音が、張り詰めた空気を切り裂く。
襖が静かに開き、真田信繁が足音を忍ばせて入ってきた。
赤備えの具足を解き、黒羽織に身を包んだその姿には、十四年の蟄居を経てもなお鋭さを失わぬ武将の気迫が漂っている。
信繁の視線が灯火に揺れる室内を走り、やがて二つの影に留まった。
秀頼は几帳の奥に座し、その傍らにはお藤――正装を解き、動きやすい旅装に近い小袖を纏い、鋭い眼差しで控えていた。
その姿は、奥御殿の守護者であると同時に、忍城を守り抜いた成田氏の血を引く冷徹な軍師の影を映していた。
襖の向こうでは、侍女たちが息を潜め、誰一人としてこの場に近づけぬよう、お藤の指示で退路が封じられている。
その鉄火の気配に守られ、豊臣秀頼と真田信繁は、膝を突き合わせた。
秀頼が低く口を開いた。
「……信繁、呼び立ててすまぬ。だが、もはや猶予はない。
叔母上たちの説得は不調に終わった。母上は、この城と共に果てることしか見えておられぬ」
その声は、凍てつくように冷静であった。灯火の影が秀頼の横顔に複雑な陰影を落とし、瞳には迷いを捨てた鋼の光が宿っている。
「――母上の意地は、もはや揺るがぬ。叔母上たちの涙も届かぬ。
このままでは、血の海を避けられぬ」
お藤は静かに頷き、扇を閉じながら言葉を重ねた。
「左様にございます。母上は今、大蔵卿局らと『潔く散る』という甘い毒に酔っておられます。
もはや、言葉でその酔いを覚ます手立てはございませぬ」
信繁が膝を進め、声を潜めた。
「殿……ならば、どういうお考えを」
秀頼は深く息を吐き、低く答えた。
「余は、自ら大御所様と和睦交渉を行おうと考えておる。
家康公の期待に応え、余がこの手で城内の毒を断ち、豊臣を徳川の柱の一つとして再生させる。
……そのためには、どうしても、そなたの力が要るのだ」
信繁は、白髪の混じった頭を低く下げたまま、慎重に言葉を選んだ。
「和睦……にございますか。それは、徳川の軍門に下る、ということでございましょうか」
「降伏」という剥き出しの単語を避けつつ問う信繁の声を、秀頼は静かに遮った。
「余を腰抜けだと思うか? それでよい。家族や家臣を守れるのであれば、余は股の下でも潜って見せよう。
無意味な戦を止め、泰平を掴む――それが余の戦いだ。
真田、そなたも家族の未来のために、九度山を捨ててここに来たのではないか」
信繁はゆっくりと顔を上げ、秀頼の瞳を真っ直ぐに見据えた。
そこには、かつて父・昌幸が家族の生存だけを賭けて戦った時と同じ、狂おしいほどの「理」が宿っていた。
信繁は低く呟く。
「殿、そのお言葉は過ぎたるもの。……我らも殿と同じ想い。
なれど、私の妻――刑部の娘は、かつて父である大谷刑部殿が、家康公の放った『問鉄砲』に突き動かされた金吾殿の裏切りに遭い、果てたと聞いております。
殿の大義に従うとは言え、再び仇である家康公の望み通りに動くことは、妻にとって、あまりに過酷な仕打ち……」
信繁の言葉には、十四年の苦楽を共にした妻への、痛切なまでの慈しみが滲んでいた。
秀頼は、その荷の重さをすべて受け止めるように深く頷いた。
「余も耳にしたことがある。大谷刑部殿の最期は、この国の武士が語り継ぐべき悲劇であった。
……だが、信繁。亡くなった故人のために、今を生きる妻や、未来ある子供たちを殉じさせることは、あまりに酷なことだと思わぬか」
秀頼は身を乗り出し、信繁の乾いた手を自らの手で包み込んだ。
「信繁、案ずるな。そなたの御内様の怨みは、余がすべて引き受けよう。
和睦が成った暁には、名門・大谷刑部殿の名誉を必ずや回復させ、御内様を再び陽の当たる場所へお連れすると、この秀頼が命を懸けて誓う。
……だから、そなたの背負う荷を半分、余に預けてはくれぬか」
沈黙が室内を支配した。灯火が揺れ、三人の影が畳に重なる。
やがて、信繁の瞳に、かつて戦場を赤く染めた「戦神」の火が灯る。
「……負けました。殿のその『理』、そしてお覚悟。
真田左衛門佐信繁、この命、今日より殿の家族の未来のために捧げましょう。」
灯明一筋、淡き光に几帳の影が長く伸びる。
お藤は扇を静かに置き、低く言葉を紡いだ。
「殿、まずは城中の力を見極めねばなりませぬ。強硬の声を上げるは、後藤又兵衛、塙団右衛門、大野治長――いずれも『戦こそ誇り』と申す者どもにございます」
信繁は膝を進め、声を潜めて応じる。
「毛利勝永殿は誇りを重んじられますれど、理を解する御方。長宗我部盛親殿も同じにございましょう。
ただ、又兵衛、団右衛門は血を求むる狼。これを評定より遠ざけねば、和睦の道は閉ざされまする」
秀頼は深く息を吐き、灯火に揺れる影を見つめた。
「……治長は如何に」
お藤の瞳が鋭く光り、扇を閉じて言う。
「御袋様の影そのものにございます。母上の御意を支える限り、和睦を阻む壁となりましょう。
退けるには、奥を固め、治長を別室に留めるほかございませぬ」
信繁は低声にて続ける。
「殿、味方となる者もおります。明石全登殿――沈黙を守りておられますが、心は血を嫌う御方。
また、長宗我部、勝永、木村重成――いずれも家族を守りたい思い強し。理を説けば、必ず応じましょう」
秀頼の瞳に鋼の光が宿る。
「……敵と味方を見極める。それが、余の戦にてある」
お藤は深く頭を垂れ、静かに言葉を重ねた。
「殿、奥は私が守り申します。侍女どもの動き、殿の御意が定まり次第、速やかに心得させまする。
評定の場を整えるは、真田殿の役目。嵐が来る前に、嵐を鎮めねばなりませぬ」
信繁は欠けた歯を見せ、笑みを浮かべた。
「承知仕りました。嘴の用意、既に整っておりまする。殿の御心、必ず形にいたしましょう」
灯火が揺れ、三人の影が畳に重なる。
その影は、静かなる誓いを刻むがごとく、長く伸びていた。
障子の外に冬の風が渡り、遠くで太鼓の音が微かに響く――嵐は、まだ遠し。されど、確かに近づいていた。
大坂城、広間。
澱んだ熱気と開戦論が渦巻く中、上座に鎮座する豊臣秀頼は、一言も発せず、「理」の瞳で座を見渡していた。
その沈黙を破り、真田信繁が静かに立ち上がり、一巻の図面を広げる。
「――諸卿、聞き届けられよ。此度の戦、ただ籠もるのみでは、往時の北条氏、小田原殿の二の舞にござる。
敵を引き寄せ、一網打尽にするための『牙』が要る。……大坂城の南、茶臼山を正面に据えた平地に、独立した出城を築き候。名は『真田丸』と致す」
広間にどよめきが走る。後藤又兵衛が膝を乗り出し、声を張り上げた。
「真田殿、茶臼山は敵に取られれば格好の陣地。そこへ出城など、自ら餌を撒くがごとき策にござらぬか」
信繁は不敵に笑みを浮かべ、図面の一点を指で叩いた。
「左様、そこが肝要にて候。茶臼山は敵の視線を遮る絶好の障壁となる。我らが出城にて徳川の先鋒を足止めし、殲滅いたす。
その折、後続の部隊からは茶臼山が邪魔をして、前線の壊滅が見えぬ。……前方の状況を知らぬまま、徳川の兵は次々と真田丸という死の淵へ、己が意志にて飛び込むこととなりましょう」
信繁の冷徹なる軍略に、主戦派の面々の顔色が変わった。
「視線を遮るか……」「敵は状況を掴めぬまま、次々と死ぬというわけか」
戦に老練なる浪人衆にとり、この「情報の遮断」と「兵力の逐次投入」を強いる策は、反論の余地なき必勝の理に映った。
信繁はさらに言葉を重ねる。
「治長殿、又兵衛殿。これより数日のうちに作事の命を。木材、石材、人足――すべてを南の野面へ集中させられよ。
現場の差配は、勇猛なる貴殿らにこそお願い申し上げる。我ら真田も全力を尽くし、作事に没頭いたす所存ゆえ、城内の守りは暫時、お任せ仕る!」
大野治長は、勝利の幻想が描かれた図面に身を震わせた。
「……見事なり。秀頼公、いかがにござりまする。これこそ、豊臣の武を天下に示す一撃となりましょう!」
秀頼はゆるりと瞬きをし、治長を見つめた。その瞳の奥には、憐れみにも似た冷徹な光が宿っていた。
「……真田がそう申すなら、異論はない。治長、これより城内の差配はすべて『真田丸』を最優先せよ。
そなたも、今日より南の現場に張り付き、指揮を執れ」
「ははっ! 畏まりました!」
治長たちは、図面を奪い合うようにして広間を去っていった。彼らの頭の中は、まだ杭一本打たれていない「最強の砦」で一杯であった。
広間に残されたのは、秀頼と信繁、そして影のごとく控えるお藤のみ。
秀頼が低く呟く。
「……信繁。彼の衆は今、南の野面で『真田丸』という名の夢を追いかけておるな。視線を遮断されるのは、大御所様ではなく、あの御方らの方であったか」
信繁は静かに頷き、声を潜めた。
「左様にございます。作事の準備、人足の割り振り――あの喧騒は、城内のあらゆる『余計な目』を南へ釘付けにいたしましょう。……杭を打つ前に、すべてを終わらせまする」
信繁は、畳に残された虚ろな図面を静かに巻き取った。
真田丸という名の巨大な目隠しが、城中の狂気を吸い寄せていく。
その隙に、秀頼の手は、城の内側という「真の戦場」へ伸ばされようとしていた。
大坂城、奥御殿。
昼間の評定を終え、広間には宴の支度が整えられつつあった。南の野面に築かれる「真田丸」の着工を祝う名目であるが、その裏には、城内の目を逸らすための策が潜んでいた。
秀頼の居所には、選ばれし武将たちが静かに集められていた。
灯火が揺れ、几帳の影が畳に長く伸びる中、真田信繁が膝を進め、低く告げる。
「諸卿、殿の御心を伝え申す。此度の策、血を流さぬ道を探し、家を守ることにございます。
御協力を賜りたく存ずれど、強いてお求めするものにあらず。
されど、事の性質上、言の葉一片たりとも外へ漏らすことは断じて許されませぬ。
ゆえに、御身がこの策に加わらぬとお考えなされるならば、事の成就まで、この座を離れぬようお願い申し上げる。
これは殿の御意にて候。諸卿、御覚悟を示されよ」
武将たちは互いに視線を交わし、やがて一人、また一人と膝を進めた。
毛利勝永が重き声を響かせる。
「殿の御覚悟、しかと承り候。毛利勝永、命を賭してお支え仕る」
木村重成が若き声に力を込める。
「秀頼公、木村重成、御意に候。泰平を乱さぬため、我が刃を尽くしまする」
長宗我部盛親が低く言葉を紡ぐ。
「殿の御志、長宗我部盛親、心よりお支え仕る。家名を守るは理にて候」
最後に、明石全登が静かに口を開いた。
「殿の御策、明石全登、信と刃をもってお守りいたす。血を避けるは神の御心にも適う」
誓いの声が重なり、室内に静かな熱が満ちた。
お藤はその様子を見届け、深く頭を垂れると、静かに広間を出た。
障子が開き、香の匂いが淡く漂う中、お藤が秀頼の寝所に進み出る。
「殿、宴のご参加をお願い申し上げます」
その言葉は、ただの儀礼ではなかった。奥に潜む策を知る者だけが理解する隠語――千姫の瞳がわずかに揺れた。
秀頼が立ち上がろうとした刹那、千姫は静かに脇差を取り、その鞘が灯火に淡く光った。
背後で千姫が膝を進め、深く頭を垂れる。
「殿……どうか御身をお守りくださいませ」
白き指が懐に忍ばせた脇差を強く握る。
秀頼が振り返り、低く問う。
「お千、察したのか」
千姫は頷き、声を震わせぬまま言葉を紡ぐ。
「殿……私も覚悟を決めとうございます。殿が戦うなら、私も共にございます。
万が一になるなら……殿と共に果てる覚悟にございます」
その胸中には、言葉にせぬ誓いが燃えていた。
『もしこの策が破れれば、私は幽閉されましょう。殿と離され、二度とお顔を拝すること叶わぬ。
その後、大坂城は必ず落ちる……殿は討たれ、私は生き恥をさらす。
ならば、殿と離れるより、殿と共に果てる方がよろしゅうございます。殿が命を賭けるなら、私も命を賭ける。それが、私の誇りにございます』
秀頼はその思いを受け止め、静かに頷いた。
「お千……そなたの言葉、余の心を決めた。
そなたがそれを使う時を、絶対に来させぬ」
秀頼は深く息を吐き、広間へと歩を進めた。
灯火が揺れ、二人の影が畳に重なる――その影は、嵐の前の静けさに、密やかな誓いを刻んでいた。
広間に入り、真田信繁が深く頭を垂れ、声を響かせた。
「殿、諸卿、御報告仕る。すべての将、殿の御意に従う覚悟を示されました」
秀頼はゆるりと立ち上がり、信繁を見つめる。その瞳に鋼の光が宿る。
「……見事だ、信繁。幻の城――真田丸を築き、城中の狂気を手玉に取るとは。
そなた、まさに昌幸殿の『表裏比興』の奥義を継いでおるな」
信繁は一瞬、驚きに目を見開き、やがて深く平伏した。
「……恐れ入りまする。父が生きておれば、今の殿のお言葉を聞き、さぞや悔しがったことにございましょう」
秀頼は静かに歩み寄り、信繁の肩に手を置いた。
「顔をお上げよ、信繁」
その声は柔らかくも、奥底に鋼の響きを秘めていた。
信繁がゆるりと顔を上げると、秀頼は広間を見渡し、低く、しかし力強く告げた。
「皆、よく聞いてくれ。今、豊臣家は真っ直ぐに滅亡へと向かっている。
『誇り』や『栄光』という甘美な言葉で己を酔わせ、死の道へと狂乱している。
母上も、治長も、それを『武士の誉れ』と呼ぶが、余にはそれが、未来を食い潰す呪いにしか見えぬ」
広間に衝撃が走る。秀頼はさらに一歩、将たちの前へ踏み出した。
「余が皆に求めているのは、世の理から見れば『謀反』に等しい行いであろう。
なれど、これは断じて謀反ではない。そなたたちの家族、家臣、そしてこの城に集まった数万の命を、無益な死から救い出すための『大義』である。
余は、豊臣の旗印を捨ててでも、そなたたちの『明日』が欲しい」
秀頼の瞳には、一切の迷いがなかった。
「この大業を成せば、そなたたちの名は、ただ死んでいくだけの敗残者としてではなく、歴史を塗り替え、泰平の礎を築いた不滅の勇者として、永劫に刻まれるであろう。
……余と共に、この『生存という名の反逆』に身を投じてくれぬか。
合言葉は――『反逆にあらず、大義なり』」
やがて、信繁が、勝永が、そして全登が、示し合わせたかのように深く、畳に額を擦り付けた。
「……殿。その不孝の汚名、我らがお引き受けいたしましょう」
信繁の低い声が広間に響く。
「心中という名の夢は、今この時、終わりました。……我ら、生きて歴史の証人となりましょうぞ」
灯明の火が大きく揺れ、秀頼という新しき「龍」の影が、広間の壁に巨大に映し出された。
広場にそれぞれの兵力を集め、松明が揺れ、空気は張り詰めていた。
秀頼は低く重い声で告げる。
「信繁、勝永……今宵、余は母上を押さえ、大坂城の権を奪う。浪人頭を拘束し、血を流すこと断じて許さぬ。
されど、余を支持した諸卿を死なせることも許さぬ。何があっても、まずは己が身を守れ。
無闇な殺生は避けよ、されど命を惜しむな。戦を避けるための戦、余が先に立つ。
父上は武にて天下を取られた。余は理にて泰平を守る!」
信繁は深く頭を下げ、声を潜めた。
「殿、勝ち戦などございませぬ。戦を避ける方が、我らの命を守る道にございます」
勝永も膝を進め、力強く頷く。
「殿の御心、必ずや果たし申す」
その背後で、木村重成が実行部隊を率いて待機していた。若き眼に炎が宿る。
「殿の御心、必ずや果たし申す。泰平こそ、豊臣を守る道にございまする」
明石全登は静かに十字を切り、低声で言った。
「殿……血を流さぬこと、神の御心にございます。必ずや、説得いたしましょう」
秀頼は一同を見渡し、最後に低く告げる。
「合言葉は――『反逆にあらず、大義なり』」
城内は深い闇に沈み、灯火の影が畳に淡く揺れていた。
寝所に響くのは、遠くの風音のみ――その静寂を裂いたのは、鋭い金属音であった。
襖の向こうで、護衛の声が低く飛ぶ。
「押さえよ!声を上げるな!」
次いで、刀が鞘を離れる音と、短い悲鳴が闇を裂いた。
信繁は十数名の精鋭を率い、勝永と共に大野治長・治房の寝所へ踏み込む。
襖が音もなく開き、灯火が揺れる中、信繁が低く告げる。
「治長殿、御無礼仕る。殿の御意にて、しばし御身をお預かりいたす」
治長は寝具を払い、驚愕の眼で信繁を睨む。
「何を申すか……謀反か!」
脇差に手を伸ばす治房を、勝永の家臣が押さえ込む。
「声を上げるな!」
畳に響くのは、短い息と衣擦れの音のみ。刃は抜かれぬまま、二人は縄で縛られた。
一方、団右衛門の寝所。
襖が開いた瞬間、鋭い音が闇を裂いた。
「何者じゃ!」団右衛門は布団を蹴り飛ばし、脇差を抜く。灯火に刃が光り、盛親の家臣が受け止める。
「殿の御心に背く者、ここで止める!」木村重成が指揮を飛ばす。
団右衛門は怒声を放ち、畳を蹴って間合いを詰める。
「豊臣を売るか!恥を知れ!」
刃が交わり、鋭い金属音が広間に響く。
盛親が脇差を捌き、重成が腕を押さえた瞬間、刀が床に落ちる。
血が一滴、畳に散った。団右衛門はなおも吠える。
「謀反人ども、ここで斬り捨ててくれる!」
だが、家臣の体術が彼を押し倒し、怒声を残して崩れ落ちた。
渡辺糺は戦闘音に目を覚まし、襖を睨みつける。
「何事じゃ!」
襖が開き、明石全登が十字を切りながら低声で告げる。
「渡辺殿、血を流すな。殿の御心は泰平にございます」
糺は脇差を抜き、怒声を放つ。
「殿を裏切るか、貴様ら!」
刃が灯火に光り、全登の家臣が腕を絡め取る。
「声を上げるな!」
刀が床に落ち、糺の腕に浅い傷が走る。血が畳に滲み、灯火が揺れた。
城中に響くのは、怒声と短い金属音、そして荒い息。
血を流さぬ策は、現実の刃に試されていた。
その影は、豊臣の運命を変える「静かな嵐」の始まりを告げていた。
廊下に灯火が揺れ、影が長く伸びる。
秀頼は腰に佩いた太刀の柄を静かに握りしめ、静かに歩を進めた。その背後には、お藤が影のように付き従う。
奥御殿の空気は張り詰め、遠くで警護兵の足音が低く響く。
淀殿の寝所――襖の向こうで、大蔵卿局が身支度を整え、主の世話をしていた。
その時、襖が音もなく開き、灯りが揺れる。
「何のことじゃ!」大蔵卿局が先に立ち上がり、声を荒げる。
お藤は無言でその腕を取り、暴力ではなく、確固たる力で引き寄せる。
「御無礼仕る、大蔵卿局殿」
お藤は低く告げ、兵士に預けると、静かに寝所の奥へ進んだ。
灯火が揺れ、起き上がった淀殿の頬が怒りに染まる。化粧を施さぬその顔に、涙と烈しき光が交錯していた。
「秀頼、これはどういう真似じゃ!」
秀頼は深く頭を垂れ、低く告げる。
「母上、ご無礼をお許しください。本日より、大坂城のすべての権は、この秀頼が受け取りまする」
淀殿の声が震えた。
「秀頼……そなた、母を裏切るか!」
秀頼は一歩進み、声を強める。
「母上、父上は武にて天下を取られた。余は理にて泰平を守る!
なれど、このままでは、大御所様と激突し、豊臣家は間違いなく滅びる。
国松も奈阿も、お千も、お奈津も、お藤も――皆が不幸な定めとなる。
そうさせぬためにも、余は鬼となっても、こうするしかない!」
淀殿の眼が細くなる。怒りと涙が交錯し、扇が床に落ちた。
「……秀頼……」
広間に重い沈黙が落ちる。
廊下の向こうで、信繁と勝永が影のように控えていた。
「殿、すべて整いました」信繁の声が低く響く。
秀頼は頷き、脇差を握りしめた。
「今宵、豊臣は新しき道を歩む」
灯火が揺れ、秀頼の影が壁に大きく伸びる――その影は、泰平を求める鬼の決意を刻んでいた。
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