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本編
拾弐 皇女が彼女になった日
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漆黒の闇に包まれた工業団地。その一角にある第4倉庫は、突如として赤と青の閃光に染め上げられた。
ウゥゥゥゥ――ッ!!
空気を引き裂くサイレンの咆哮。
数台のパトカーが倉庫の正面ゲートを包囲し、回転灯が錆びついたシャッターを毒々しく照らし出す。
「こちら西安市公安局だ! 建物内にいる人間に告げる!」
拡声器を通した怒声が響き渡る。
ハリウッド映画のような派手な銃撃戦など、现实にはそうそう起きない。
警察の動きは極めて慎重かつ組織的だ。防弾シールドを持った特殊警察部隊(SWAT)が車両の影に身を隠し、ライトを一斉に浴びせて相手の視界を潰す。
まずは威嚇と交渉。それが現実の手順だ。
「直ちに武器を捨て、両手を挙げて出てきなさい! 抵抗するならば実力行使も辞さない!」
正面の騒ぎで傭兵たちの注意が引きつけられているその裏側――。
倉庫の裏口、搬入用の鉄扉の陰に、五つの影が動いた。
「よし……予定通りだ」
林祈が、壁に張り付きながら小さく囁いた。
その背後には白書文、そして王健、李娜、張勇の暗殺者トリオ。
「正面があれだけ派手にやってくれりゃ、裏口の警備も手薄になる。坊主、警察を使うたぁいい度胸だ」
王健がニヤリと笑い、腰のポーチから無骨なピッキングツールを取り出す。
彼は元々、あらゆる錠前破りのスペシャリストでもある。
電子ロックのパネルカバーをこじ開け、配線を露出させると、手際よくバイパス装置を繋いだ。
カチッ……プシューン。
重いロックが解除される音が、やけに大きく響いた。
「行くぞ。……みんな、約束は覚えているな?」
祈が振り返り、鋭い視線を王健たちに向けた。
その瞳には、高校生とは思えない凄みが宿っていた。
「『殺し』はなしだ。相手がどんなに武装していようと、だ」
「ケッ。向こうはチャカ持ってるかもしれねえんだぞ? ハンデがきつすぎるぜ」
張勇が不満げに鼻を鳴らし、手にした特殊警棒――芯に鉛を仕込んだ重量級の棍棒を手のひらに打ち付ける。
「我慢してください」
祈の声は揺るがない。
「僕たちは、この先も現代社会で生きていくんだ。穆清や衛佳を取り戻した後、殺人犯として追われるわけにはいかない。これは正当防衛のラインを守る戦いだ。……未来のための」
「……へいへい。分かったよ、優等生ちゃん」
李娜が肩をすくめ、太腿のホルスターから二本のバタフライナイフを抜いた。
刃先が鈍く光る。
「急所は外してやる。半殺しくらいなら文句ないだろ?」
「……行きましょう」
書文はゴクリと唾を飲み込み、震える膝を叩いて覚悟を決めた。
彼は何も持っていない。ただの丸腰の高校生だ。
だが、その目だけは前を見据えていた。
(待っててくれ……穆清!)
王健が扉を僅かに開け、中の様子を窺う。
クリア。
彼がハンドサインを送ると、五人は音もなく闇の中へ滑り込んだ。
倉庫内部は、外の喧騒とは対照的に、不気味なほどの静寂に包まれていた。
広大な空間には鉄骨の柱が林立し、積み上げられたコンテナの迷路が視界を遮る。
空気は冷たく、埃っぽい。
遠くの方で、正面の警察に対応するために走る足音や、無線機から漏れる怒声が反響して聞こえてくる。
「警備は手薄になっているが、ゼロじゃない。気をつけろ」
祈が先頭に立ち、気配を殺して進む。
その直後、角を曲がろうとした瞬間だった。
「誰だッ!」
巡回中の警備員二人と鉢合わせた。
黒いタクティカルベストを着込んだ、プロの傭兵たちだ。
彼らは即座に腰のホルスターに手を伸ばした。
「いけッ!」
祈の短い号令。
王健と張勇が、弾かれたように飛び出した。
「遅せぇよ!」
王健の動きは疾風の如し。
一瞬で距離を詰めると、相手が銃を抜く前に、その手首をヌンチャクで絡め取った。
バキッという嫌な音と共に、傭兵の銃が床に落ちる。
そのまま流れるようにヌンチャクの端を相手の顎に叩き込み、意識を刈り取る。
一方、張勇は巨体に似合わぬ俊敏さで、もう一人の懐に飛び込んだ。
相手が慌てて構えた警棒を、自らの強化警棒で力任せに叩き折る。
ガギンッ!!
火花が散り、傭兵が痺れた腕を押さえた隙に、鳩尾(みぞおち)へ強烈な膝蹴りを突き刺した。
「ぐふっ……!」
声もなく崩れ落ちる傭兵。
一瞬の早業だった。発砲音を立てさせる暇すら与えなかった。
「……さすがだな」
祈が感心したように呟く。
「ま、これくらいはな」
王健は気絶した傭兵を物陰に引きずり込みながら、書文に目配せをした。
「ビビってんじゃねえぞ、白の坊主! 俺たちの背中から離れるな」
「は、はい!」
書文は必死に頷いた。
目の前で繰り広げられる暴力の瞬発力に、足がすくみそうになる。
テレビドラマの喧嘩とはわけが違う。一撃一撃が、骨を砕き、命を奪いかねない重さを持っているのだ。
だが、進むしかない。
彼らはさらに奥へ、研究施設へと続く地下への入り口を目指して進んだ。
コンテナの影を縫い、時には天井の配管を伝い、パトロールする傭兵たちの死角を突いていく。
王健たちの連携は完璧だった。
李娜が物音を立てて敵を誘い出し、祈が背後からチョークスリーパーで締め落とす。
張勇が剛腕で敵を抑え込み、王健が急所を突く。
殺しはしない。だが、確実に戦闘不能にしていく。
地下へのエレベーターが見えてきた。
あと少し。
「よし、あのエレベレーターフロアを制圧すれば……」
祈が言いかけた、その時だった。
ダァンッ!!
乾いた破裂音が、静寂を切り裂いた。
死角となっていた高さのあるキャットウォーク。
そこに潜んでいた狙撃手の存在。
「がっ……!?」
隊列の中央を進んでいた張勇が、突然つんのめるように足を止めた。
その巨体が、ぐらりと揺らぐ。
腹部。分厚いジャケットの生地が破れ、どす黒い染みがジュワッと広がっていく。
「張勇ッ!!」
李娜が悲鳴のような声を上げた。
張勇はその場に膝をつき、苦悶の表情で腹を押さえる。
指の間から、止めどなく赤い液体が溢れ出し、コンクリートの床に滴り落ちた。
「敵襲! 上だ!」
王健が瞬時に反応し、近くの遮蔽物に飛び込むと同時に、手にした投げナイフを闇に向かって投擲した。
「うぐっ!」
キャットウォークの上から短い呻き声が聞こえ、銃声が止む。
どうやら命中したようだが、完全に無力化できたかは分からない。
「張勇! おい! しっかりしろ!」
書文が駆け寄り、張勇の体を支える。
重い。そして、血の匂いが強烈に鼻をつく。
手のひらに広がる生温かい感触に、書文の手が震えた。
「はっ……はは、ドジ踏んじまったな……」
張勇は脂汗を流しながら、力なく笑った。
その顔色は、見る見るうちに土気色に変わっていく。
銃弾は急所を外れているかもしれないが、出血量が多すぎる。このままではショック死する可能性がある。
「くそっ、止血を……!」
祈が自分のシャツを破り、傷口を圧迫しようとする。
だが、張勇はその手をそっと押し退けた。
「……行け」
「な……!?」
「俺はここまでだ。この身体じゃ、足手まといになるだけだ」
張勇は激痛に顔を歪めながらも、ニッと白い歯を見せた。
「それに、腹に一発貰ったくらいで死ぬほど、ヤワな鍛え方はしてねえよ」
「でも……!」
書文が叫ぼうとするのを、李娜が遮った。
彼女は素早く張勇の傷口を確認すると、懐から止血パッドを取り出し、乱暴とも言える手つきで傷口に押し当てた。
「……王健。アンタたち先に行きな」
李娜の声は冷徹だったが、その手は微かに震えていた。
彼女はベルトからもう一本のナイフを抜き、逆手に構えた。
「こいつの止血をして、それからここを守る。……追っ手は一歩も通させないわ」
「李娜……」
「早く行って! 穆清ちゃんたちが待ってるんでしょう!?」
李娜の怒号が響いた。
王健は一瞬だけ、苦渋の表情で二人を見つめた。
長年連れ添ったチームだ。置いていくことの意味は、誰よりも理解している。
だが、彼はプロだった。
「……死ぬんじゃねえぞ」
短く吐き捨てると、王健は背を向けた。
「行くぞ、坊主共! 走れ!」
「っ……! すみません……必ず、戻ってきますから!」
書文は涙を拭い、張勇と李娜に深く頭を下げると、祈と共に王健の背中を追った。
ダッ、ダッ、ダッ。
三人の足音が遠ざかっていく。
残された薄暗い通路。
李娜は、意識が朦朧とし始めた張勇の頬を、ペチペチと叩いた。
「おい、デカブツ。寝るんじゃないよ」
「へへ……膝枕で……くたばるのも……悪くねえな……」
「馬鹿言ってんじゃないわよ」
李娜はナイフを構え直し、通路の奥――増援の足音が聞こえてくる方向を睨みつけた。
その瞳は、獲物を前にした女豹のように鋭く、危険な光を放っていた。
「さあ、来なさいクソ野郎ども。……ここから先は、地獄の一丁目よ」
郊外の静寂を破るサイレンの音が、地下深くの監禁室にも微かに届いていた。
倉庫の外では、拡声器を通した警察の警告と、時折響く乾いた威嚇射撃の音が交錯していた。映画のような派手な銃撃戦ではない。プロ同士の睨み合い特有の、張り詰めた静寂と、爆発寸前の緊張感が支配する戦場だ。
その微かな喧騒は、コンクリートの壁を伝い、鈍い振動となって響くその音は、膝を抱え、絶望の縁にいた穆清の耳には、希望のファンファーレのように聞こえた。彼女は怯えたように顔を上げた。
「……聞こえる、穆清?」
衛佳が寝台から身を起こし、隣で膝を抱えていた穆清の手をそっと握った。
「外が騒がしいわ。きっと、警察か……あるいはあの子たちが来たのよ」
「……あの子たち……?」
「ええ。書文くんたちよ」
その名前が出た瞬間、穆清の虚ろだった瞳に、ふわりと光が宿った。
「書文様が……来てくれたの……?」
「間違いなくね。きっと、警察が包囲を固めたのよ。……あの魏哲という男、狂ってはいるけど馬鹿じゃない。正規の警察相手に、これ以上の抵抗は無意味だと悟ったはず」
衛佳は確信に満ちた声で頷き、穆清の冷たい手をギュッと握りしめた。
「あの子は、あなたを見捨てたりしない。絶対に」
衛佳の声は、努めて明るく振る舞っていた。だが、彼女自身も、握った手のひらに脂汗を滲ませていた。五千年の時を生きた神といえども、この現代の閉鎖空間での無力さは、精神を確実に削り取っていく。
その言葉に、強張っていた穆清の肩から力が抜けた。
薬品の臭いと冷気だけが支配するこの無機質な箱の中で、彼女は必死に自身の輪郭を保とうとしていた。
恐怖で心が砕け散りそうになるのを、衛佳の掌の温もりと、書文への想いだけが繋ぎ止めていたのだ。
先ほどまで微かに聞こえていた振動のような音が消え、再び完全な静寂が訪れていた。それが何を意味するのか――事態の鎮圧か、それとも救援の失敗か。彼女には判断する術がない。
「信じるの。書文くんたちを」
「書文様……」
穆清はその名を口の中で転がす。
恐怖でひび割れそうになっていた心に、温かい灯火が灯る。
あの少年なら。私のことを「検体」ではなく、一人の人間として、大切な友人として見てくれた彼なら。
(きっと、来てくれる)
彼女は祈るように目を閉じた。
その時だった。
廊下の向こうで、何かがぶつかる鈍い音。続いて、人が倒れるような重い音。
そして――。
バンッ!!
電子ロックが解除され、続いて、油圧シリンダーが呻きを上げ、重厚な金属扉がゆっくりとスライドしていく、勢いよく開け放たれた。
眩い廊下の光を背に、三つの人影が飛び込んでくる。
先頭に立つのは、息を切らし、乱れた髪をそのままにした少年。
「――穆清!!」
その声。
その姿。
間違いなく、白書文だった。
「しょ、ぶん……様?」
穆清は呆然と呟いた。
幻覚かと思った。恐怖が見せる、都合の良い夢ではないかと。
だが、彼はそこにいた。
「無事か!? 怪我は!?」
書文は部屋を見回し、ベッドの上に座る穆清を見つけると、駆け寄ってきた。
その後ろから、警戒した様子の王健と、スマホで何かを確認している林祈が入ってくる。
「遅くなってごめん……!」
書文が手を伸ばす。
その瞬間、穆清の中で張り詰めていた何かが音を立てて崩れた。
「書文様っ……!!」
穆清は弾かれたようにベッドから飛び降りた。
その瞬間、彼女の中で何かが決壊した。
皇女としての教育も、淑女としての慎みも、すべてが吹き飛んだ。ただ、目の前の愛しい存在に縋り付きたいという本能だけが、彼女を突き動かす。
彼女はベッドから飛び降り、裸足のまま冷たい床を蹴り、書文の胸に飛び込んだ。
「うわっ!?」
ドンッ、と勢いよくぶつかる。書文がよろけながらも、彼女の体をしっかりと受け止める。
と二人の体が密着した。
「よかった、無事で……本当によかった……っ!」
書文が震える声で呟き、彼女のさらに強く抱きしめる。
「怖かった……怖かったよぉ……!」
穆清の頬が書文の胸に押し付けられ、涙が制服を濡らしていく。
書文は、震える彼女の背中に手を回し、抱きしめ返そうとした。
だが、その瞬間だった。
(……っ!?)
抱擁の安堵が引いていくと同時に、二人の間に別の熱が立ち上った。
背中に回した書文の手のひらは、薄い布一枚を隔てて、さらに胸板に、彼女の体温と早鐘を打つ心臓の鼓動をダイレクトに感じ取っていた。
穆清が着ているのは、着替えさせられた薄手の検査着一枚だけだ。下着の一枚すら身につけていない。
書文の腕の中に、彼女の呼吸するたびに上下する柔らかな胸の膨らみと、華奢な骨格、そして、滑らかな感触が薄布越しではなく、まるで皮膚を共有しているかのような生々しさで、あまりにも無防備に伝わってくる。
穆清もまた、自分の素肌が書文の制服の硬いボタン擦れる感覚や、彼自身の体温、早鐘を打つ鼓動が、あまりにも鮮明に伝わってくることに、火がついたように顔を赤く染めた。
逞しくなった胸板の硬さが、自分の柔らかさを押し潰すように密着している。
まるで、互いの境界線が溶けてしまったような密着感。
それはあまりにも扇情的で、そして甘美な感覚だった。
「ひゃうっ……!」
穆清が微かな声を漏らし、ビクンと身を震わせる。
その反応に、書文もハッとして硬直した。
自分の腕の中にいる彼女が、今、どれほど無防備な姿なのかを痛感してしまったからだ。
「わ、わわっ……!ご、ごめん!」
「あ……ぅ……」
二人はまるで磁石の極が反転したかのように、パッと身を離した。
気まずい沈黙が流れる。
恐怖が去った後の安堵感が、一瞬にして別の種類の熱――どうしようもない照れと、甘い昂揚感へと変わっていく。
二人は弾かれたようにパッと体を離した。
「ご、ごめん!その、ちがっ……わざとじゃなくて……!」
書文は顔を真っ赤にして、視線を泳がせた。視線のやり場に困り、見てはいけないものを見てしまったような、触れてはいけない秘宝に触れてしまったような背徳感で、天井を仰いだり床を見つめたりと挙動不審だ。
目の前の穆清は、薄い検査着から白い肩や鎖骨が露わになり、ライトの逆光でほのかに身体のラインが透けて見える。
これでは、目のやり場がない。
「い、いえ……私が、浅ましくも取り乱して……」
穆清は両手で自分の胸元を隠し、耳まで真っ赤にして俯いている。
先ほどまで「検体」として晒されていた時は、ただの屈辱だった。
だが今、想い人の前でこの姿であることは、強烈な恥じらいとなって彼女を襲った。
それは彼女が「モノ」から「恋する少女」に戻った証でもあった。
「あー……その、つまり!生きててよかったってことで!」
書文が裏返った声で叫ぶ。
その初々しい様子に、後ろに控えていた衛佳が、くすりと笑みを漏らした。
極限状態だというのに、この二人の世界だけは桃色に染まっている。それがなんとも微笑ましく、そして頼もしかった。
「ったく、色呆(いろボ)ケてんじゃねーよ、ガキ共が」
入り口を見張っていた王健が、呆れたようにため息をついた。
「イチャつくのは家に帰ってからにしな。ここはまだ敵陣のど真ん中だぞ」
「わ、分かってますよ!」
書文は慌てて背負っていたリュックを下ろし、中から布の包みを取り出した。
「穆清、これ」
「え……?」
包みを開くと、そこにあったのは、艶やかな光沢を放つ絹の織物。
穆清がこの時代に迷い込んだ時に着ていた、漢の正装――曲裾深衣(きょくきょしんい)だった。
「僕の家から持ってきたんだ。……もしかしたら、必要になるかもしれないと思って」
書文は少し照れくさそうに頬を掻いた。
「その……薄っぺらい検査着なんかじゃ、寒いだろうし…あの君の心まで寒いままだと思ってさ。それに、やっぱり穆清にはそれが一番似合うから、君らしくいられる服がこれだろ?」
「……書文様」
穆清の瞳が揺れ、大粒の涙が溢れ出した。その衣服を震える手で受け取った。
頬ずりしたくなるような、滑らかな絹の手触り。
彼は分かってくれていたのだ。
単に服がないから持ってきたのではない。
そこには、書文の部屋の匂いと、微かな防虫香の香りが混じっていた。
「……ありがとうございます、書文様」
穆清は震える手で漢服を受け取った。
絹の手触りが指先に触れた瞬間、彼女の背筋がスッと伸びた。
まるで魔法のように。
彼女は書文に背を向けると、検査着の紐を解いた。薄い布が床に落ちる。
そして、厳かな儀式のように、漢服へと袖を通し始めた。
衣擦れの音が、静寂な部屋に心地よく響く。
絹の襦袢(じゅばん)を纏い、鮮やかな刺繍が施された深衣(しんい)を重ねる。
帯をキュッと締め上げるたびに、彼女の表情から怯えが消え、高貴な気品が戻ってくる。
俯いていた顔が上がり、震えていた唇が真一文字に結ばれる。
幾層にも重なる布が、身体を優しく包み込んでいく。帯をきゅっと締め上げるたびに、背筋が伸びるのを感じた。
ただの布ではない。
これは彼女の歴史であり、身分であり、そして「劉穆清」という個人の尊厳そのものだった。
薄汚い検査着を着せられ、「検体」という屈辱的なラベルを貼られ、ただの肉塊として扱われた記憶が、尊厳を奪われた彼女の魂を救うために、この「皇女の証」を持ってきたのだと、絹の感触と共に洗い流されていく。
最後に、髪を整えて振り返った時、其処にいたのは「怯える被害者の少女」ではなかった。
威風堂々たる、漢の皇女・劉穆清だった。
「……綺麗だ」
書文が思わず呟く。
王健や祈も、その変貌ぶりに息を呑んだ。
ただ服を変えただけではない。纏っている空気そのものが変わっていた。
「書文様」
穆清は穏やかに、しかし芯の通った声で書文を呼んだ。
「お待たせいたしました」
その姿に、書文は息を呑んだ。
初めて出会った時よりも、ずっと神々しく、そして美しく見えた。
「……うん。やっぱり、それが一番だ」
書文は、脱ぎ捨てられた穆清の検査着と、衛佳の検査着を拾い上げ、丁寧に畳んで自分のリュックにしまった。
こんな忌まわしい記憶の残骸など、ここに捨てていけばいい。
だが、もしDNAなどの痕跡が残っていれば、また奴らに悪用されるかもしれない。それに、穆清が身につけていたものを、こんな場所に残していくのは生理的に許せなかった。
「あら、私はどうなるのかな? まさかこのスウスウする寝巻のまま逃げろって言うの?」
衛佳が、わざとらしく肩をすくめて割って入った。
彼女もまた、検査着の胸元を軽く押さえながら、悪戯っぽく書文を見上げる。その姿は、年上の特有の余裕と、微かな色香を漂わせていた。
「あ、すみません姜先生!早く服探しに行こう!」
祈が慌てて振り返った。
衛佳は拉致されて、着替えさせられた部屋の隅に置かれていた自分の服を見つけた。そして、確認してほっと息をついた。
「よかった、捨てられてはいなかったみたい」
彼女は服を拾い上げた。多少シワにはなっていたが、十分に着られる状態だ。
「ちょっと着替えるわね。……王健さんたちは、そこで後ろを向いていて」
入り口で見張りをしていた王健と祈が、心得たように背を向ける。
「へいへい。覗きは趣味じゃねえよ」
衛佳は手早く検査着を脱ぎ捨て、自身の服へと袖を通していく。
慣れ親しんだ布地の感触が、彼女の戦闘本能を呼び覚ましていくようだった。
書文は穆清が脱ぎ捨てた彼女が着ていた私服――拉致された時の現代服を静かに拾い上げ、埃を払うと、丁寧に折り畳んで自分のリュックサックに仕舞った。
「帰ったら、洗濯して返すよ。……これはこれで、似合ってたから」
「ふふっ。はい、お願いします」
穆清は花が綻ぶように微笑んだ。「……行きましょう」
書文はリュックを背負い直し、穆清の手を取った。
「今度こそ、一緒に帰るんだ」
穆清は力強く頷き、その手を握り返した。
「はい。……参りましょう、書文様」
「ねえ、そろそろ感動の再会はお開きにしてくれる?ここからが本番よ」
着替えを終えた衛佳が、凛々しい表情で王健の腰から予備のナイフを抜き取りながら言った。
「魏哲がこのまま黙って逃してくれるとは思えないわ。……帰り道は、険しくなるわよ」
「ああ、分かってる」
王健がヌンチャクを構え直し、廊下を睨む。
「坊主どもは真ん中だ。俺と林の旦那で前後を固める。……行くぞ!」
一行は部屋を出て、再び廊下へと足を踏み出した。
だが、その足取りにもう迷いはない。
恐怖を乗り越え、誇りを取り戻した彼らは、今やただの逃亡者ではなく、運命に抗う「戦士」の顔をしていた。
遠くから響くパトカーのサイレンが、彼らの帰還を告げる祝砲のように聞こえた。
廊下を進む一行の足取りは、先ほどまでとは明らかに違っていた。
恐怖に追われる者の逃走ではない。
奪われたものを奪還し、理不尽を断罪するための行軍だった。
その列の先頭を行くのは王健と祈。二人は角を曲がるたびに手信号を送り合い、クリアリングを行っている。
「……ここだ」
林祈が足を止め、床に転がる傭兵の遺体――いや、王健に気絶させられた男の体を漁った。
慣れた手つきで男の武装解除を行う。
タクティカルベストから予備のマガジンを抜き取り、そして男が抱えていた黒光りする銃器、H&K MP5サブマシンガンを拾い上げた。
ずしりとした冷たい金属の塊。
9mmパラベラム弾を使用し、近接戦闘において絶大な制圧力を誇る名銃だ。
「本物か……。やはり、ただの警備会社じゃないな」
林祈はコッキングレバーを引き、チェンバーを確認すると、そのままセイフティをかけた。
「林先輩、それ……使うんですか?」
書文が強張った声で尋ねる。
「いや」
祈は短く首を振った。
「外には公安局がきている。僕らが発砲すれば、正当防衛の範疇を超えて『武装勢力』とみなされかねない。これは証拠品として警察に提出する」
現代社会の法治を理解する者として、それは極めて理性的で正しい判断だった。
だが。
「……貸してください」
凛とした声が、その理屈を遮った。
祈が振り返ると、そこには美しい漢服に身を包んだ穆清が立っていた。
その瞳は、もはや怯える少女のものではない。
かつて戦乱の世を生きた漢の皇女として、あるいは一軍を率いる将としての冷徹な輝きを宿していた。
「穆清……さん?」
「あいつらは、私の身体を弄び、私の尊厳を踏み躙りました。……ならば、その落とし前は私がつけます」
彼女は祈の手から、半ば強引にMP5を奪い取った。
本来なら重くて扱いにくいはずの鉄塊だが、彼女の細い指は、迷いなくグリップを握りしめた。
現代兵器についての知識などないはずだ。
だが、「武器」としての本質――敵を討ち、己を守るための道具であるという直感だけで、彼女はその構え方を本能的に理解していた。
「穆清……無茶だ!」
書文が止めようとするが、穆清は静かに首を振った。
「書文様。これは……私の戦いです」
長い袖を翻し、彼女は先頭に立って歩き出した。
その背中は、威厳と殺気に満ちていた。
一行は、最奥にある魏哲の研究室へと雪崩れ込んだ。
自動ドアが開き、冷気と共に薬品の臭いが鼻を突く。
広大な実験スペース。壁一面に並べられたガラスケース。
その中央で、魏哲は背を向けたまま、タブレット端末を操作していた。
侵入者の気配に気づいても、彼は慌てる素振りすら見せない。
ゆっくりと振り返ったその顔には、相変わらずあの薄気味悪い微笑みが張り付いている。
「やあ。お帰り、脱走したマウスたち」
魏哲は両手を広げ、まるで旧友を迎えるように言った。
「その格好……ふふ、やはり似合うね。現代の服よりも、その古代の布切れの方が君の『データ』としての価値を高めているよ」
「黙れ」
穆清が銃口を突きつける。
だが、魏哲は怯まない。
むしろ、興味深そうに銃を観察し始めた。
「発火式の運動エネルギー兵器か。……君のようなか細い腕で、その反動を制御できるのかな? 確率論で言えば、初弾は外れる。二発目以降は跳ね上がりで天井を撃つことになるだろうね」
彼は、どこまでも理屈で語る。
目の前の人間が持つ「怒り」という感情のエネルギーを、完全に計算から除外している。
王健がヌンチャクを構えて前に出る。
「御託はいいぜ、イカれ野郎。……大人しくお縄につくか、それともここでミンチにされるか選べ」
「野蛮だねえ」
魏哲は肩をすくめた。
「君たちには理解できないだろうね。私がここで何をしていたか。……これは人類の進化なんだよ」
彼はうっとりとした表情で、研究室を見回した。
「老いと死。この有機生命体における最大のバグを修正する。君たち二人の遺伝子には、そのパッチ(修正プログラム)が眠っている。それを解明し、全人類に適用する……私は神の御業を代行しているに過ぎない」
「それが、人をモノのように切り刻む理由になるとでも?」
祈が冷たく問い詰める。
「理由? 必要かい? 科学の発展の前では、個人の尊厳など誤差の範囲だよ」
魏哲は心底不思議そうに首を傾げた。
「一人の犠牲で一億人が救われるなら、数式としては極めて美しい解じゃないか」
「……誤差、だと?」
低い声が響いた。
穆清だ。
彼女の視線は、魏哲ではなく、その背後にある棚に向けられていた。
そこには、整然と並べられた数百のサンプル瓶。
魏哲の字は、恐ろしいほど几帳面だった。
瓶に貼られたラベルには、極めて細かい文字でデータが記載されている。
『Sample-M-Q-0082 | Follicle & Epidermis| Posterior Neck| 10/14 21:35』
『Sample-M-Q-0105 | Lacrimal Fluid - High Cortisol 』
『Sample-W-J-0045 | Venous Blood 50ml | Immortal-Type A』
……
自分と衛佳の体から、無理やり剥ぎ取られた一部。
採取部位、採取時間、その時の精神状態に至るまで、事細かに記録されたラベル。
それは彼女たちを「人間」ではなく、単なる「実験動物」として管理していた動かぬ証拠だった。
裸にされ、押さえつけられ、痛みと屈辱の中で奪われた「私」の断片。
それらが今、無機質なラベルを貼られ、博物館の展示品のように晒されている。
その光景こそが、彼女にとって耐え難い汚辱の象徴だった。
「私の身体は……私の魂の器です」
カチャリ。
乾いた音がして、セイフティが外された。
「誰かの実験材料でも、進化のための踏み台でもない! 私は……劉穆清だ!」
ダダダダダダダッ!!
爆音が室内に響き渡った。
穆清は引き金を引いた。
躊躇いも、迷いもなく。
マズルフラッシュが研究室を激しく明滅させる。
「ひゃっほーぅ! 派手にやるじゃねえか!」
王健が指笛を吹く。
銃弾の嵐は、魏哲を狙ったものではなかった。
その側の棚。
忌まわしいサンプルたちが並ぶ、ガラスの陳列棚へと一直線に吸い込まれていく。
パリーンッ! ガシャアンッ!!
ガラスが砕け散る甲高い音が連鎖する。
ホルマリン漬けの瓶が破裂し、中の液体が飛び散る。
試験管が粉砕され、赤い血液が壁にぶち撒けられる。
シャーレの中で蠢いていた細胞片が、弾丸に貫かれて蒸発する。
『Sample』と書かれたラベルが引き裂かれ、床に落ちて踏みにじられる。
それは、ただの破壊行為ではなかった。
自身に刻まれた「検体」という烙印を、物理的に消し去るための儀式。
硝煙の臭いと、まき散らされた薬品の刺激臭が混ざり合う。
だが、その混沌とした空気の中で、穆清の表情は晴れやかだった。
撃ち尽くし、スライドがホールドオープンして停止するまで、彼女は指を離さなかった。
カチン。
最後の排莢音が床に落ちて響く。
静寂が戻った研究室には、破壊の残骸だけが散らばっていた。
穆清は、熱を持った銃身から立ち上る白煙をふっと息で吹いた。
「……すっきりしました」
そう呟く彼女の顔には、微塵の陰りもなかった。
これでもう、ここには何も残っていない。
彼女たちを縛る鎖は、完全に断ち切られたのだ。
誰もが彼を見た。
怒り狂っているか、あるいは恐怖しているか。
だが、予想に反して、彼は平然としていた。
いや、むしろ楽しげでさえあった。
彼はポケットから取り出したタブレットの画面を、指でなぞっていた。
彼はタブレットの画面をタップした。
《送信完了》
小さな文字が表示され、プログレスバーが100%に達していた。
魏哲は破壊された棚を背に、心底満足そうに腕を広げた。
魏哲はタブレットを懐にしまい、両手を挙げた。
抵抗の意思はない。
「さあ、警察でもなんでも呼ぶといい。……私の研究は、ここからが始まりなのだから」
その時、入り口の方から怒号と共に、重装備の足音が近づいてきた。
「警察だ! 全員動くな!!」
SWATの部隊が突入してきた。
ライフルに装着されたフラッシュライトの強烈な光が、研究室の惨状を照らし出す。
だが、その光の中に立つ魏哲の顔には、狂気的な達成感だけが輝いていた。
冷たいLEDライトの光が、制圧された研究室を青白く照らし出していた。
踏み込んだ特殊部隊(SWAT)の隊員たちが、銃を構えたまま魏哲を取り囲む。
「警察だ! 両手を頭の後ろで組んで膝をつけ!」
怒声が飛ぶ中、魏哲はまるでパーティーの終わりにコートを着るかのような優雅さで、ゆっくりと両手を上げた。
その表情には、恐怖も後悔も、一片たりとも存在しない。
「乱暴だねえ。抵抗なんてしないよ」
ガチャン、と手錠の冷たい音が響く。
彼は連行されながら、すれ違いざまに穆清と衛佳を見つめ、にっこりと微笑んだ。
「また会おう、私の愛しき『検体(エリカ)』たち」
背筋が凍るようなそのセリフを残し、魏哲は隊員たちに押されるようにして連れ去られていった。
穆清は、その後ろ姿を見送ることなく、ただ静かに自身の漢服の袖を握りしめた。
震えはもう、止まっていた。
悪夢は終わったのだ。
倉庫の外に出ると、世界は鮮やかな茜色に染まっていた。
時刻は日昇だ。
地平線を昇っていく太陽が、廃墟と化した工場地帯を優しく照らし、長く伸びた影が地面に落ちている。
冷たい地下の空気とは対照的な、生温かい風が彼らの頬を撫でた。
ピーポー、ピーポー……。
救急車のサイレンが、遠ざかっていく。
「痛ってぇなぁ……ちくしょう、脇腹に風穴開けられちまった」
ストレッチャーに乗せられた張勇が、顔をしかめながらも減らず口を叩く。
その横には、眉間に深い皺を刻んだ李娜が付き添っていた。
「喋んな、デカブツ。傷が開くわよ」
「へへ……心配してんのか? 姐さん」
「うるさい。……死なれたら、チームの戦力ダウンだからよ」
そこへ、白衣を着た初老の男性が駆け寄ってきた。
衛佳の父であり、医大病院の院長でもある姜石年だ。
彼は娘の無事を確認して安堵の息を漏らした後、即座に医師の顔に戻り、張勇のストレッチャーに手を添えた。
「君が娘を守ってくれたのか。……感謝する」
姜石年は力強く張勇の肩を握った。
「私は最高の医療チームを用意した。……君は私の娘の恩人だ、絶対に死なせはしない」
「へっ……そいつは光栄だねぇ、院長先生……」
張勇と李娜を乗せた救急車が、朝日の中へと走り去っていく。
それを見送り、残された五人――書文、穆清、祈、衛佳、王健の間には、ようやく張り詰めていた緊張が解け、穏やかな空気が流れ始めた。
「さてと。大団円ってやつだな」
王健が大きく伸びをし、ポケットからくしゃくしゃになったタバコを取り出した。
火をつけようとして、ふと横にいる未成年たちを見て、苦笑いと共に箱に戻す。
「俺たちはここで失礼するぜ。警察への事情聴取だなんだと、面倒ごとは御免だからな」
「王さん……。本当に、ありがとうございました」
書文が深く頭を下げる。
もし彼がいなければ、そして張勇たちが身体を張ってくれなければ、穆清を取り戻すことはできなかった。
「礼には及ばねえよ。ま、俺たちの『正義』だからな」
王健はニカッと笑い、ヒラヒラと手を振って闇に紛れるように去っていった。
その場に残ったのは、書文と穆清、そして少し離れたところにいる祈と衛佳だけとなった。
朝日が、二人の影を長く伸ばしている。
「……書文様」
穆清が、ぽつりと呟いた。
漢服の裾が、朝風にたなびいている。
その横顔は、朝日の赤に染まり、息を呑むほど美しかった。
「助けに来てくださって……本当に、ありがとうございました。あのような恐ろしい場所で……貴方のお顔を見た時、私は……」
言葉を詰まらせ、潤んだ瞳で書文を見上げる。
書文の胸が、高鳴った。
心臓が破裂しそうなほど脈打っている。
死線を潜り抜けた高揚感と、彼女を失いかけた恐怖。それが今、一つの形になろうとしている。
(今しかない)
書文は拳をぎゅっと握りしめた。
「……穆清」
彼は一歩、彼女に近づいた。
少し離れた場所で、衛佳が「あら」と口元を押さえ、祈が「おっ」と目を見開く。二人は空気を読んで、そっと背を向け、距離を取ってくれた。
書文は、穆清の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「僕は……君がいなくなるのが、怖かった」
「え……?」
「君が連れ去られた時、目の前が真っ暗になった。君がいない世界なんて、考えられなかった」
言葉が、堰を切ったように溢れてくる。
「ただの同居人としてじゃなくて……守るべき皇女様としてでもなくて。僕は……」
彼は震える手を伸ばし、穆清の手――あの冷たい実験台の上で震えていた、華奢な指先をそっと包み込んだ。
「穆清のことが好きです」
風が止まったように感じた。
朝日が、世界を黄金色に染め上げていく。
「僕と……付き合ってください!」
穆清の目が、大きく見開かれた。
時が止まる。
彼女の小さな唇が、驚きに微かに開く。
「す……好き、とは……?」
彼女にとって、それはあまりに唐突で、そしてあまりに眩しい言葉だった。
漢の時代、「婚姻」とは家のための契約であり、政(まつりごと)の一部だった。
だが、目の前の少年が向けているのは、そんなしがらみなど何もない、純粋無垢な想い。
「……本当、ですか?」
「うん。……世界中の誰よりも、君が大切だ」
書文の瞳には、一切の嘘がなかった。
その真剣な眼差しを受けた瞬間、穆清の心の中で、何かが温かく満ちていくのを感じた。
「……はい」
穆清は、涙を瞳いっぱいに溜めて微笑んだ。
「私も……書文様のことが、お慕い申し上げております。……ずっと、前から」
その言葉を聞いた瞬間、書文の中で理性が吹き飛んだ。
愛おしさが爆発する。
彼は衝動のままに、彼女の身体を引き寄せた。
「えっ……!?」
驚く穆清の腰に手を回し、その顔を覗き込む。
夕陽に照らされた彼女の顔は、熟れた果実のように赤く染まっていた。
「穆清……」
「書文、さま……」
二人の距離が、ゼロになる。
重なる唇。
「んっ……」
穆清の身体が強張る。
だが、それは拒絶ではなかった。
唇から伝わる温もりが、彼女の脳裏に走馬灯のように記憶を呼び覚ましていく。
――初めて、この世界で目覚めた日。不安で押しつぶされそうだった自分に、カップ麺を差し出してくれた彼。
『大丈夫。ここは安全だよ』
――スーパーでの買い物。初めて見る自動ドアに驚く私を見て、笑いながら手を引いてくれた彼。
『これは魔法じゃなくて、科学っていうんだ』
――私のために、歴史の本を読み漁り、故郷の言葉を理解しようとしてくれた夜。
『君が生きてきた証を、僕も知りたいんだ』
――そして今日。絶望の淵にいた私を、命がけで迎えに来てくれた彼。
すべての記憶が、この温もりに繋がっている。
異世界での孤独も、故郷を失った喪失感も、すべてを埋めてくれたのは、いつだってこの少年だった。
(ああ……)
穆清は、ゆっくりと瞼を閉じた。
強張っていた力が抜け、そっと書文の背中に手を回す。
(これが……現代(いま)の、愛なのですね)
それは甘く、切なく、そして何よりも優しい口づけだった。
どれくらいの時間が経っただろうか。
唇が離れると、二人はどちらからともなく照れ笑いを浮かべた。
「……帰ろう、穆清」
書文が手を差し出す。
「はい、書文様。……いいえ」
穆清は首を横に振り、愛おしそうに彼のあだ名を呼んだ。
「……書文」
彼女は彼の手をしっかりと握り返した。
漢の皇女が、現代の「彼女」になった日。
かつて、孤独な皇女だった少女は、今日、現代で生きる一人の「彼女」になった。
それは、どんな歴史書にも載っていない、けれど世界で一番優しい愛の記録の始まりだった。
書文も過去のように「いいね」を求め続けて、この瞬間をSNSに宣言するような承認欲求モンスターではなくなった。
この瞬間、これからの幸せは二人だけのものだから、誰かに見せる必要がなく、二人だけが味わえば充分なものだった。
二人は繋いだ手を放すことなく、朝日に向かって歩き出した。
その影は一つに重なり、長く、長く伸びていった。
ウゥゥゥゥ――ッ!!
空気を引き裂くサイレンの咆哮。
数台のパトカーが倉庫の正面ゲートを包囲し、回転灯が錆びついたシャッターを毒々しく照らし出す。
「こちら西安市公安局だ! 建物内にいる人間に告げる!」
拡声器を通した怒声が響き渡る。
ハリウッド映画のような派手な銃撃戦など、现实にはそうそう起きない。
警察の動きは極めて慎重かつ組織的だ。防弾シールドを持った特殊警察部隊(SWAT)が車両の影に身を隠し、ライトを一斉に浴びせて相手の視界を潰す。
まずは威嚇と交渉。それが現実の手順だ。
「直ちに武器を捨て、両手を挙げて出てきなさい! 抵抗するならば実力行使も辞さない!」
正面の騒ぎで傭兵たちの注意が引きつけられているその裏側――。
倉庫の裏口、搬入用の鉄扉の陰に、五つの影が動いた。
「よし……予定通りだ」
林祈が、壁に張り付きながら小さく囁いた。
その背後には白書文、そして王健、李娜、張勇の暗殺者トリオ。
「正面があれだけ派手にやってくれりゃ、裏口の警備も手薄になる。坊主、警察を使うたぁいい度胸だ」
王健がニヤリと笑い、腰のポーチから無骨なピッキングツールを取り出す。
彼は元々、あらゆる錠前破りのスペシャリストでもある。
電子ロックのパネルカバーをこじ開け、配線を露出させると、手際よくバイパス装置を繋いだ。
カチッ……プシューン。
重いロックが解除される音が、やけに大きく響いた。
「行くぞ。……みんな、約束は覚えているな?」
祈が振り返り、鋭い視線を王健たちに向けた。
その瞳には、高校生とは思えない凄みが宿っていた。
「『殺し』はなしだ。相手がどんなに武装していようと、だ」
「ケッ。向こうはチャカ持ってるかもしれねえんだぞ? ハンデがきつすぎるぜ」
張勇が不満げに鼻を鳴らし、手にした特殊警棒――芯に鉛を仕込んだ重量級の棍棒を手のひらに打ち付ける。
「我慢してください」
祈の声は揺るがない。
「僕たちは、この先も現代社会で生きていくんだ。穆清や衛佳を取り戻した後、殺人犯として追われるわけにはいかない。これは正当防衛のラインを守る戦いだ。……未来のための」
「……へいへい。分かったよ、優等生ちゃん」
李娜が肩をすくめ、太腿のホルスターから二本のバタフライナイフを抜いた。
刃先が鈍く光る。
「急所は外してやる。半殺しくらいなら文句ないだろ?」
「……行きましょう」
書文はゴクリと唾を飲み込み、震える膝を叩いて覚悟を決めた。
彼は何も持っていない。ただの丸腰の高校生だ。
だが、その目だけは前を見据えていた。
(待っててくれ……穆清!)
王健が扉を僅かに開け、中の様子を窺う。
クリア。
彼がハンドサインを送ると、五人は音もなく闇の中へ滑り込んだ。
倉庫内部は、外の喧騒とは対照的に、不気味なほどの静寂に包まれていた。
広大な空間には鉄骨の柱が林立し、積み上げられたコンテナの迷路が視界を遮る。
空気は冷たく、埃っぽい。
遠くの方で、正面の警察に対応するために走る足音や、無線機から漏れる怒声が反響して聞こえてくる。
「警備は手薄になっているが、ゼロじゃない。気をつけろ」
祈が先頭に立ち、気配を殺して進む。
その直後、角を曲がろうとした瞬間だった。
「誰だッ!」
巡回中の警備員二人と鉢合わせた。
黒いタクティカルベストを着込んだ、プロの傭兵たちだ。
彼らは即座に腰のホルスターに手を伸ばした。
「いけッ!」
祈の短い号令。
王健と張勇が、弾かれたように飛び出した。
「遅せぇよ!」
王健の動きは疾風の如し。
一瞬で距離を詰めると、相手が銃を抜く前に、その手首をヌンチャクで絡め取った。
バキッという嫌な音と共に、傭兵の銃が床に落ちる。
そのまま流れるようにヌンチャクの端を相手の顎に叩き込み、意識を刈り取る。
一方、張勇は巨体に似合わぬ俊敏さで、もう一人の懐に飛び込んだ。
相手が慌てて構えた警棒を、自らの強化警棒で力任せに叩き折る。
ガギンッ!!
火花が散り、傭兵が痺れた腕を押さえた隙に、鳩尾(みぞおち)へ強烈な膝蹴りを突き刺した。
「ぐふっ……!」
声もなく崩れ落ちる傭兵。
一瞬の早業だった。発砲音を立てさせる暇すら与えなかった。
「……さすがだな」
祈が感心したように呟く。
「ま、これくらいはな」
王健は気絶した傭兵を物陰に引きずり込みながら、書文に目配せをした。
「ビビってんじゃねえぞ、白の坊主! 俺たちの背中から離れるな」
「は、はい!」
書文は必死に頷いた。
目の前で繰り広げられる暴力の瞬発力に、足がすくみそうになる。
テレビドラマの喧嘩とはわけが違う。一撃一撃が、骨を砕き、命を奪いかねない重さを持っているのだ。
だが、進むしかない。
彼らはさらに奥へ、研究施設へと続く地下への入り口を目指して進んだ。
コンテナの影を縫い、時には天井の配管を伝い、パトロールする傭兵たちの死角を突いていく。
王健たちの連携は完璧だった。
李娜が物音を立てて敵を誘い出し、祈が背後からチョークスリーパーで締め落とす。
張勇が剛腕で敵を抑え込み、王健が急所を突く。
殺しはしない。だが、確実に戦闘不能にしていく。
地下へのエレベーターが見えてきた。
あと少し。
「よし、あのエレベレーターフロアを制圧すれば……」
祈が言いかけた、その時だった。
ダァンッ!!
乾いた破裂音が、静寂を切り裂いた。
死角となっていた高さのあるキャットウォーク。
そこに潜んでいた狙撃手の存在。
「がっ……!?」
隊列の中央を進んでいた張勇が、突然つんのめるように足を止めた。
その巨体が、ぐらりと揺らぐ。
腹部。分厚いジャケットの生地が破れ、どす黒い染みがジュワッと広がっていく。
「張勇ッ!!」
李娜が悲鳴のような声を上げた。
張勇はその場に膝をつき、苦悶の表情で腹を押さえる。
指の間から、止めどなく赤い液体が溢れ出し、コンクリートの床に滴り落ちた。
「敵襲! 上だ!」
王健が瞬時に反応し、近くの遮蔽物に飛び込むと同時に、手にした投げナイフを闇に向かって投擲した。
「うぐっ!」
キャットウォークの上から短い呻き声が聞こえ、銃声が止む。
どうやら命中したようだが、完全に無力化できたかは分からない。
「張勇! おい! しっかりしろ!」
書文が駆け寄り、張勇の体を支える。
重い。そして、血の匂いが強烈に鼻をつく。
手のひらに広がる生温かい感触に、書文の手が震えた。
「はっ……はは、ドジ踏んじまったな……」
張勇は脂汗を流しながら、力なく笑った。
その顔色は、見る見るうちに土気色に変わっていく。
銃弾は急所を外れているかもしれないが、出血量が多すぎる。このままではショック死する可能性がある。
「くそっ、止血を……!」
祈が自分のシャツを破り、傷口を圧迫しようとする。
だが、張勇はその手をそっと押し退けた。
「……行け」
「な……!?」
「俺はここまでだ。この身体じゃ、足手まといになるだけだ」
張勇は激痛に顔を歪めながらも、ニッと白い歯を見せた。
「それに、腹に一発貰ったくらいで死ぬほど、ヤワな鍛え方はしてねえよ」
「でも……!」
書文が叫ぼうとするのを、李娜が遮った。
彼女は素早く張勇の傷口を確認すると、懐から止血パッドを取り出し、乱暴とも言える手つきで傷口に押し当てた。
「……王健。アンタたち先に行きな」
李娜の声は冷徹だったが、その手は微かに震えていた。
彼女はベルトからもう一本のナイフを抜き、逆手に構えた。
「こいつの止血をして、それからここを守る。……追っ手は一歩も通させないわ」
「李娜……」
「早く行って! 穆清ちゃんたちが待ってるんでしょう!?」
李娜の怒号が響いた。
王健は一瞬だけ、苦渋の表情で二人を見つめた。
長年連れ添ったチームだ。置いていくことの意味は、誰よりも理解している。
だが、彼はプロだった。
「……死ぬんじゃねえぞ」
短く吐き捨てると、王健は背を向けた。
「行くぞ、坊主共! 走れ!」
「っ……! すみません……必ず、戻ってきますから!」
書文は涙を拭い、張勇と李娜に深く頭を下げると、祈と共に王健の背中を追った。
ダッ、ダッ、ダッ。
三人の足音が遠ざかっていく。
残された薄暗い通路。
李娜は、意識が朦朧とし始めた張勇の頬を、ペチペチと叩いた。
「おい、デカブツ。寝るんじゃないよ」
「へへ……膝枕で……くたばるのも……悪くねえな……」
「馬鹿言ってんじゃないわよ」
李娜はナイフを構え直し、通路の奥――増援の足音が聞こえてくる方向を睨みつけた。
その瞳は、獲物を前にした女豹のように鋭く、危険な光を放っていた。
「さあ、来なさいクソ野郎ども。……ここから先は、地獄の一丁目よ」
郊外の静寂を破るサイレンの音が、地下深くの監禁室にも微かに届いていた。
倉庫の外では、拡声器を通した警察の警告と、時折響く乾いた威嚇射撃の音が交錯していた。映画のような派手な銃撃戦ではない。プロ同士の睨み合い特有の、張り詰めた静寂と、爆発寸前の緊張感が支配する戦場だ。
その微かな喧騒は、コンクリートの壁を伝い、鈍い振動となって響くその音は、膝を抱え、絶望の縁にいた穆清の耳には、希望のファンファーレのように聞こえた。彼女は怯えたように顔を上げた。
「……聞こえる、穆清?」
衛佳が寝台から身を起こし、隣で膝を抱えていた穆清の手をそっと握った。
「外が騒がしいわ。きっと、警察か……あるいはあの子たちが来たのよ」
「……あの子たち……?」
「ええ。書文くんたちよ」
その名前が出た瞬間、穆清の虚ろだった瞳に、ふわりと光が宿った。
「書文様が……来てくれたの……?」
「間違いなくね。きっと、警察が包囲を固めたのよ。……あの魏哲という男、狂ってはいるけど馬鹿じゃない。正規の警察相手に、これ以上の抵抗は無意味だと悟ったはず」
衛佳は確信に満ちた声で頷き、穆清の冷たい手をギュッと握りしめた。
「あの子は、あなたを見捨てたりしない。絶対に」
衛佳の声は、努めて明るく振る舞っていた。だが、彼女自身も、握った手のひらに脂汗を滲ませていた。五千年の時を生きた神といえども、この現代の閉鎖空間での無力さは、精神を確実に削り取っていく。
その言葉に、強張っていた穆清の肩から力が抜けた。
薬品の臭いと冷気だけが支配するこの無機質な箱の中で、彼女は必死に自身の輪郭を保とうとしていた。
恐怖で心が砕け散りそうになるのを、衛佳の掌の温もりと、書文への想いだけが繋ぎ止めていたのだ。
先ほどまで微かに聞こえていた振動のような音が消え、再び完全な静寂が訪れていた。それが何を意味するのか――事態の鎮圧か、それとも救援の失敗か。彼女には判断する術がない。
「信じるの。書文くんたちを」
「書文様……」
穆清はその名を口の中で転がす。
恐怖でひび割れそうになっていた心に、温かい灯火が灯る。
あの少年なら。私のことを「検体」ではなく、一人の人間として、大切な友人として見てくれた彼なら。
(きっと、来てくれる)
彼女は祈るように目を閉じた。
その時だった。
廊下の向こうで、何かがぶつかる鈍い音。続いて、人が倒れるような重い音。
そして――。
バンッ!!
電子ロックが解除され、続いて、油圧シリンダーが呻きを上げ、重厚な金属扉がゆっくりとスライドしていく、勢いよく開け放たれた。
眩い廊下の光を背に、三つの人影が飛び込んでくる。
先頭に立つのは、息を切らし、乱れた髪をそのままにした少年。
「――穆清!!」
その声。
その姿。
間違いなく、白書文だった。
「しょ、ぶん……様?」
穆清は呆然と呟いた。
幻覚かと思った。恐怖が見せる、都合の良い夢ではないかと。
だが、彼はそこにいた。
「無事か!? 怪我は!?」
書文は部屋を見回し、ベッドの上に座る穆清を見つけると、駆け寄ってきた。
その後ろから、警戒した様子の王健と、スマホで何かを確認している林祈が入ってくる。
「遅くなってごめん……!」
書文が手を伸ばす。
その瞬間、穆清の中で張り詰めていた何かが音を立てて崩れた。
「書文様っ……!!」
穆清は弾かれたようにベッドから飛び降りた。
その瞬間、彼女の中で何かが決壊した。
皇女としての教育も、淑女としての慎みも、すべてが吹き飛んだ。ただ、目の前の愛しい存在に縋り付きたいという本能だけが、彼女を突き動かす。
彼女はベッドから飛び降り、裸足のまま冷たい床を蹴り、書文の胸に飛び込んだ。
「うわっ!?」
ドンッ、と勢いよくぶつかる。書文がよろけながらも、彼女の体をしっかりと受け止める。
と二人の体が密着した。
「よかった、無事で……本当によかった……っ!」
書文が震える声で呟き、彼女のさらに強く抱きしめる。
「怖かった……怖かったよぉ……!」
穆清の頬が書文の胸に押し付けられ、涙が制服を濡らしていく。
書文は、震える彼女の背中に手を回し、抱きしめ返そうとした。
だが、その瞬間だった。
(……っ!?)
抱擁の安堵が引いていくと同時に、二人の間に別の熱が立ち上った。
背中に回した書文の手のひらは、薄い布一枚を隔てて、さらに胸板に、彼女の体温と早鐘を打つ心臓の鼓動をダイレクトに感じ取っていた。
穆清が着ているのは、着替えさせられた薄手の検査着一枚だけだ。下着の一枚すら身につけていない。
書文の腕の中に、彼女の呼吸するたびに上下する柔らかな胸の膨らみと、華奢な骨格、そして、滑らかな感触が薄布越しではなく、まるで皮膚を共有しているかのような生々しさで、あまりにも無防備に伝わってくる。
穆清もまた、自分の素肌が書文の制服の硬いボタン擦れる感覚や、彼自身の体温、早鐘を打つ鼓動が、あまりにも鮮明に伝わってくることに、火がついたように顔を赤く染めた。
逞しくなった胸板の硬さが、自分の柔らかさを押し潰すように密着している。
まるで、互いの境界線が溶けてしまったような密着感。
それはあまりにも扇情的で、そして甘美な感覚だった。
「ひゃうっ……!」
穆清が微かな声を漏らし、ビクンと身を震わせる。
その反応に、書文もハッとして硬直した。
自分の腕の中にいる彼女が、今、どれほど無防備な姿なのかを痛感してしまったからだ。
「わ、わわっ……!ご、ごめん!」
「あ……ぅ……」
二人はまるで磁石の極が反転したかのように、パッと身を離した。
気まずい沈黙が流れる。
恐怖が去った後の安堵感が、一瞬にして別の種類の熱――どうしようもない照れと、甘い昂揚感へと変わっていく。
二人は弾かれたようにパッと体を離した。
「ご、ごめん!その、ちがっ……わざとじゃなくて……!」
書文は顔を真っ赤にして、視線を泳がせた。視線のやり場に困り、見てはいけないものを見てしまったような、触れてはいけない秘宝に触れてしまったような背徳感で、天井を仰いだり床を見つめたりと挙動不審だ。
目の前の穆清は、薄い検査着から白い肩や鎖骨が露わになり、ライトの逆光でほのかに身体のラインが透けて見える。
これでは、目のやり場がない。
「い、いえ……私が、浅ましくも取り乱して……」
穆清は両手で自分の胸元を隠し、耳まで真っ赤にして俯いている。
先ほどまで「検体」として晒されていた時は、ただの屈辱だった。
だが今、想い人の前でこの姿であることは、強烈な恥じらいとなって彼女を襲った。
それは彼女が「モノ」から「恋する少女」に戻った証でもあった。
「あー……その、つまり!生きててよかったってことで!」
書文が裏返った声で叫ぶ。
その初々しい様子に、後ろに控えていた衛佳が、くすりと笑みを漏らした。
極限状態だというのに、この二人の世界だけは桃色に染まっている。それがなんとも微笑ましく、そして頼もしかった。
「ったく、色呆(いろボ)ケてんじゃねーよ、ガキ共が」
入り口を見張っていた王健が、呆れたようにため息をついた。
「イチャつくのは家に帰ってからにしな。ここはまだ敵陣のど真ん中だぞ」
「わ、分かってますよ!」
書文は慌てて背負っていたリュックを下ろし、中から布の包みを取り出した。
「穆清、これ」
「え……?」
包みを開くと、そこにあったのは、艶やかな光沢を放つ絹の織物。
穆清がこの時代に迷い込んだ時に着ていた、漢の正装――曲裾深衣(きょくきょしんい)だった。
「僕の家から持ってきたんだ。……もしかしたら、必要になるかもしれないと思って」
書文は少し照れくさそうに頬を掻いた。
「その……薄っぺらい検査着なんかじゃ、寒いだろうし…あの君の心まで寒いままだと思ってさ。それに、やっぱり穆清にはそれが一番似合うから、君らしくいられる服がこれだろ?」
「……書文様」
穆清の瞳が揺れ、大粒の涙が溢れ出した。その衣服を震える手で受け取った。
頬ずりしたくなるような、滑らかな絹の手触り。
彼は分かってくれていたのだ。
単に服がないから持ってきたのではない。
そこには、書文の部屋の匂いと、微かな防虫香の香りが混じっていた。
「……ありがとうございます、書文様」
穆清は震える手で漢服を受け取った。
絹の手触りが指先に触れた瞬間、彼女の背筋がスッと伸びた。
まるで魔法のように。
彼女は書文に背を向けると、検査着の紐を解いた。薄い布が床に落ちる。
そして、厳かな儀式のように、漢服へと袖を通し始めた。
衣擦れの音が、静寂な部屋に心地よく響く。
絹の襦袢(じゅばん)を纏い、鮮やかな刺繍が施された深衣(しんい)を重ねる。
帯をキュッと締め上げるたびに、彼女の表情から怯えが消え、高貴な気品が戻ってくる。
俯いていた顔が上がり、震えていた唇が真一文字に結ばれる。
幾層にも重なる布が、身体を優しく包み込んでいく。帯をきゅっと締め上げるたびに、背筋が伸びるのを感じた。
ただの布ではない。
これは彼女の歴史であり、身分であり、そして「劉穆清」という個人の尊厳そのものだった。
薄汚い検査着を着せられ、「検体」という屈辱的なラベルを貼られ、ただの肉塊として扱われた記憶が、尊厳を奪われた彼女の魂を救うために、この「皇女の証」を持ってきたのだと、絹の感触と共に洗い流されていく。
最後に、髪を整えて振り返った時、其処にいたのは「怯える被害者の少女」ではなかった。
威風堂々たる、漢の皇女・劉穆清だった。
「……綺麗だ」
書文が思わず呟く。
王健や祈も、その変貌ぶりに息を呑んだ。
ただ服を変えただけではない。纏っている空気そのものが変わっていた。
「書文様」
穆清は穏やかに、しかし芯の通った声で書文を呼んだ。
「お待たせいたしました」
その姿に、書文は息を呑んだ。
初めて出会った時よりも、ずっと神々しく、そして美しく見えた。
「……うん。やっぱり、それが一番だ」
書文は、脱ぎ捨てられた穆清の検査着と、衛佳の検査着を拾い上げ、丁寧に畳んで自分のリュックにしまった。
こんな忌まわしい記憶の残骸など、ここに捨てていけばいい。
だが、もしDNAなどの痕跡が残っていれば、また奴らに悪用されるかもしれない。それに、穆清が身につけていたものを、こんな場所に残していくのは生理的に許せなかった。
「あら、私はどうなるのかな? まさかこのスウスウする寝巻のまま逃げろって言うの?」
衛佳が、わざとらしく肩をすくめて割って入った。
彼女もまた、検査着の胸元を軽く押さえながら、悪戯っぽく書文を見上げる。その姿は、年上の特有の余裕と、微かな色香を漂わせていた。
「あ、すみません姜先生!早く服探しに行こう!」
祈が慌てて振り返った。
衛佳は拉致されて、着替えさせられた部屋の隅に置かれていた自分の服を見つけた。そして、確認してほっと息をついた。
「よかった、捨てられてはいなかったみたい」
彼女は服を拾い上げた。多少シワにはなっていたが、十分に着られる状態だ。
「ちょっと着替えるわね。……王健さんたちは、そこで後ろを向いていて」
入り口で見張りをしていた王健と祈が、心得たように背を向ける。
「へいへい。覗きは趣味じゃねえよ」
衛佳は手早く検査着を脱ぎ捨て、自身の服へと袖を通していく。
慣れ親しんだ布地の感触が、彼女の戦闘本能を呼び覚ましていくようだった。
書文は穆清が脱ぎ捨てた彼女が着ていた私服――拉致された時の現代服を静かに拾い上げ、埃を払うと、丁寧に折り畳んで自分のリュックサックに仕舞った。
「帰ったら、洗濯して返すよ。……これはこれで、似合ってたから」
「ふふっ。はい、お願いします」
穆清は花が綻ぶように微笑んだ。「……行きましょう」
書文はリュックを背負い直し、穆清の手を取った。
「今度こそ、一緒に帰るんだ」
穆清は力強く頷き、その手を握り返した。
「はい。……参りましょう、書文様」
「ねえ、そろそろ感動の再会はお開きにしてくれる?ここからが本番よ」
着替えを終えた衛佳が、凛々しい表情で王健の腰から予備のナイフを抜き取りながら言った。
「魏哲がこのまま黙って逃してくれるとは思えないわ。……帰り道は、険しくなるわよ」
「ああ、分かってる」
王健がヌンチャクを構え直し、廊下を睨む。
「坊主どもは真ん中だ。俺と林の旦那で前後を固める。……行くぞ!」
一行は部屋を出て、再び廊下へと足を踏み出した。
だが、その足取りにもう迷いはない。
恐怖を乗り越え、誇りを取り戻した彼らは、今やただの逃亡者ではなく、運命に抗う「戦士」の顔をしていた。
遠くから響くパトカーのサイレンが、彼らの帰還を告げる祝砲のように聞こえた。
廊下を進む一行の足取りは、先ほどまでとは明らかに違っていた。
恐怖に追われる者の逃走ではない。
奪われたものを奪還し、理不尽を断罪するための行軍だった。
その列の先頭を行くのは王健と祈。二人は角を曲がるたびに手信号を送り合い、クリアリングを行っている。
「……ここだ」
林祈が足を止め、床に転がる傭兵の遺体――いや、王健に気絶させられた男の体を漁った。
慣れた手つきで男の武装解除を行う。
タクティカルベストから予備のマガジンを抜き取り、そして男が抱えていた黒光りする銃器、H&K MP5サブマシンガンを拾い上げた。
ずしりとした冷たい金属の塊。
9mmパラベラム弾を使用し、近接戦闘において絶大な制圧力を誇る名銃だ。
「本物か……。やはり、ただの警備会社じゃないな」
林祈はコッキングレバーを引き、チェンバーを確認すると、そのままセイフティをかけた。
「林先輩、それ……使うんですか?」
書文が強張った声で尋ねる。
「いや」
祈は短く首を振った。
「外には公安局がきている。僕らが発砲すれば、正当防衛の範疇を超えて『武装勢力』とみなされかねない。これは証拠品として警察に提出する」
現代社会の法治を理解する者として、それは極めて理性的で正しい判断だった。
だが。
「……貸してください」
凛とした声が、その理屈を遮った。
祈が振り返ると、そこには美しい漢服に身を包んだ穆清が立っていた。
その瞳は、もはや怯える少女のものではない。
かつて戦乱の世を生きた漢の皇女として、あるいは一軍を率いる将としての冷徹な輝きを宿していた。
「穆清……さん?」
「あいつらは、私の身体を弄び、私の尊厳を踏み躙りました。……ならば、その落とし前は私がつけます」
彼女は祈の手から、半ば強引にMP5を奪い取った。
本来なら重くて扱いにくいはずの鉄塊だが、彼女の細い指は、迷いなくグリップを握りしめた。
現代兵器についての知識などないはずだ。
だが、「武器」としての本質――敵を討ち、己を守るための道具であるという直感だけで、彼女はその構え方を本能的に理解していた。
「穆清……無茶だ!」
書文が止めようとするが、穆清は静かに首を振った。
「書文様。これは……私の戦いです」
長い袖を翻し、彼女は先頭に立って歩き出した。
その背中は、威厳と殺気に満ちていた。
一行は、最奥にある魏哲の研究室へと雪崩れ込んだ。
自動ドアが開き、冷気と共に薬品の臭いが鼻を突く。
広大な実験スペース。壁一面に並べられたガラスケース。
その中央で、魏哲は背を向けたまま、タブレット端末を操作していた。
侵入者の気配に気づいても、彼は慌てる素振りすら見せない。
ゆっくりと振り返ったその顔には、相変わらずあの薄気味悪い微笑みが張り付いている。
「やあ。お帰り、脱走したマウスたち」
魏哲は両手を広げ、まるで旧友を迎えるように言った。
「その格好……ふふ、やはり似合うね。現代の服よりも、その古代の布切れの方が君の『データ』としての価値を高めているよ」
「黙れ」
穆清が銃口を突きつける。
だが、魏哲は怯まない。
むしろ、興味深そうに銃を観察し始めた。
「発火式の運動エネルギー兵器か。……君のようなか細い腕で、その反動を制御できるのかな? 確率論で言えば、初弾は外れる。二発目以降は跳ね上がりで天井を撃つことになるだろうね」
彼は、どこまでも理屈で語る。
目の前の人間が持つ「怒り」という感情のエネルギーを、完全に計算から除外している。
王健がヌンチャクを構えて前に出る。
「御託はいいぜ、イカれ野郎。……大人しくお縄につくか、それともここでミンチにされるか選べ」
「野蛮だねえ」
魏哲は肩をすくめた。
「君たちには理解できないだろうね。私がここで何をしていたか。……これは人類の進化なんだよ」
彼はうっとりとした表情で、研究室を見回した。
「老いと死。この有機生命体における最大のバグを修正する。君たち二人の遺伝子には、そのパッチ(修正プログラム)が眠っている。それを解明し、全人類に適用する……私は神の御業を代行しているに過ぎない」
「それが、人をモノのように切り刻む理由になるとでも?」
祈が冷たく問い詰める。
「理由? 必要かい? 科学の発展の前では、個人の尊厳など誤差の範囲だよ」
魏哲は心底不思議そうに首を傾げた。
「一人の犠牲で一億人が救われるなら、数式としては極めて美しい解じゃないか」
「……誤差、だと?」
低い声が響いた。
穆清だ。
彼女の視線は、魏哲ではなく、その背後にある棚に向けられていた。
そこには、整然と並べられた数百のサンプル瓶。
魏哲の字は、恐ろしいほど几帳面だった。
瓶に貼られたラベルには、極めて細かい文字でデータが記載されている。
『Sample-M-Q-0082 | Follicle & Epidermis| Posterior Neck| 10/14 21:35』
『Sample-M-Q-0105 | Lacrimal Fluid - High Cortisol 』
『Sample-W-J-0045 | Venous Blood 50ml | Immortal-Type A』
……
自分と衛佳の体から、無理やり剥ぎ取られた一部。
採取部位、採取時間、その時の精神状態に至るまで、事細かに記録されたラベル。
それは彼女たちを「人間」ではなく、単なる「実験動物」として管理していた動かぬ証拠だった。
裸にされ、押さえつけられ、痛みと屈辱の中で奪われた「私」の断片。
それらが今、無機質なラベルを貼られ、博物館の展示品のように晒されている。
その光景こそが、彼女にとって耐え難い汚辱の象徴だった。
「私の身体は……私の魂の器です」
カチャリ。
乾いた音がして、セイフティが外された。
「誰かの実験材料でも、進化のための踏み台でもない! 私は……劉穆清だ!」
ダダダダダダダッ!!
爆音が室内に響き渡った。
穆清は引き金を引いた。
躊躇いも、迷いもなく。
マズルフラッシュが研究室を激しく明滅させる。
「ひゃっほーぅ! 派手にやるじゃねえか!」
王健が指笛を吹く。
銃弾の嵐は、魏哲を狙ったものではなかった。
その側の棚。
忌まわしいサンプルたちが並ぶ、ガラスの陳列棚へと一直線に吸い込まれていく。
パリーンッ! ガシャアンッ!!
ガラスが砕け散る甲高い音が連鎖する。
ホルマリン漬けの瓶が破裂し、中の液体が飛び散る。
試験管が粉砕され、赤い血液が壁にぶち撒けられる。
シャーレの中で蠢いていた細胞片が、弾丸に貫かれて蒸発する。
『Sample』と書かれたラベルが引き裂かれ、床に落ちて踏みにじられる。
それは、ただの破壊行為ではなかった。
自身に刻まれた「検体」という烙印を、物理的に消し去るための儀式。
硝煙の臭いと、まき散らされた薬品の刺激臭が混ざり合う。
だが、その混沌とした空気の中で、穆清の表情は晴れやかだった。
撃ち尽くし、スライドがホールドオープンして停止するまで、彼女は指を離さなかった。
カチン。
最後の排莢音が床に落ちて響く。
静寂が戻った研究室には、破壊の残骸だけが散らばっていた。
穆清は、熱を持った銃身から立ち上る白煙をふっと息で吹いた。
「……すっきりしました」
そう呟く彼女の顔には、微塵の陰りもなかった。
これでもう、ここには何も残っていない。
彼女たちを縛る鎖は、完全に断ち切られたのだ。
誰もが彼を見た。
怒り狂っているか、あるいは恐怖しているか。
だが、予想に反して、彼は平然としていた。
いや、むしろ楽しげでさえあった。
彼はポケットから取り出したタブレットの画面を、指でなぞっていた。
彼はタブレットの画面をタップした。
《送信完了》
小さな文字が表示され、プログレスバーが100%に達していた。
魏哲は破壊された棚を背に、心底満足そうに腕を広げた。
魏哲はタブレットを懐にしまい、両手を挙げた。
抵抗の意思はない。
「さあ、警察でもなんでも呼ぶといい。……私の研究は、ここからが始まりなのだから」
その時、入り口の方から怒号と共に、重装備の足音が近づいてきた。
「警察だ! 全員動くな!!」
SWATの部隊が突入してきた。
ライフルに装着されたフラッシュライトの強烈な光が、研究室の惨状を照らし出す。
だが、その光の中に立つ魏哲の顔には、狂気的な達成感だけが輝いていた。
冷たいLEDライトの光が、制圧された研究室を青白く照らし出していた。
踏み込んだ特殊部隊(SWAT)の隊員たちが、銃を構えたまま魏哲を取り囲む。
「警察だ! 両手を頭の後ろで組んで膝をつけ!」
怒声が飛ぶ中、魏哲はまるでパーティーの終わりにコートを着るかのような優雅さで、ゆっくりと両手を上げた。
その表情には、恐怖も後悔も、一片たりとも存在しない。
「乱暴だねえ。抵抗なんてしないよ」
ガチャン、と手錠の冷たい音が響く。
彼は連行されながら、すれ違いざまに穆清と衛佳を見つめ、にっこりと微笑んだ。
「また会おう、私の愛しき『検体(エリカ)』たち」
背筋が凍るようなそのセリフを残し、魏哲は隊員たちに押されるようにして連れ去られていった。
穆清は、その後ろ姿を見送ることなく、ただ静かに自身の漢服の袖を握りしめた。
震えはもう、止まっていた。
悪夢は終わったのだ。
倉庫の外に出ると、世界は鮮やかな茜色に染まっていた。
時刻は日昇だ。
地平線を昇っていく太陽が、廃墟と化した工場地帯を優しく照らし、長く伸びた影が地面に落ちている。
冷たい地下の空気とは対照的な、生温かい風が彼らの頬を撫でた。
ピーポー、ピーポー……。
救急車のサイレンが、遠ざかっていく。
「痛ってぇなぁ……ちくしょう、脇腹に風穴開けられちまった」
ストレッチャーに乗せられた張勇が、顔をしかめながらも減らず口を叩く。
その横には、眉間に深い皺を刻んだ李娜が付き添っていた。
「喋んな、デカブツ。傷が開くわよ」
「へへ……心配してんのか? 姐さん」
「うるさい。……死なれたら、チームの戦力ダウンだからよ」
そこへ、白衣を着た初老の男性が駆け寄ってきた。
衛佳の父であり、医大病院の院長でもある姜石年だ。
彼は娘の無事を確認して安堵の息を漏らした後、即座に医師の顔に戻り、張勇のストレッチャーに手を添えた。
「君が娘を守ってくれたのか。……感謝する」
姜石年は力強く張勇の肩を握った。
「私は最高の医療チームを用意した。……君は私の娘の恩人だ、絶対に死なせはしない」
「へっ……そいつは光栄だねぇ、院長先生……」
張勇と李娜を乗せた救急車が、朝日の中へと走り去っていく。
それを見送り、残された五人――書文、穆清、祈、衛佳、王健の間には、ようやく張り詰めていた緊張が解け、穏やかな空気が流れ始めた。
「さてと。大団円ってやつだな」
王健が大きく伸びをし、ポケットからくしゃくしゃになったタバコを取り出した。
火をつけようとして、ふと横にいる未成年たちを見て、苦笑いと共に箱に戻す。
「俺たちはここで失礼するぜ。警察への事情聴取だなんだと、面倒ごとは御免だからな」
「王さん……。本当に、ありがとうございました」
書文が深く頭を下げる。
もし彼がいなければ、そして張勇たちが身体を張ってくれなければ、穆清を取り戻すことはできなかった。
「礼には及ばねえよ。ま、俺たちの『正義』だからな」
王健はニカッと笑い、ヒラヒラと手を振って闇に紛れるように去っていった。
その場に残ったのは、書文と穆清、そして少し離れたところにいる祈と衛佳だけとなった。
朝日が、二人の影を長く伸ばしている。
「……書文様」
穆清が、ぽつりと呟いた。
漢服の裾が、朝風にたなびいている。
その横顔は、朝日の赤に染まり、息を呑むほど美しかった。
「助けに来てくださって……本当に、ありがとうございました。あのような恐ろしい場所で……貴方のお顔を見た時、私は……」
言葉を詰まらせ、潤んだ瞳で書文を見上げる。
書文の胸が、高鳴った。
心臓が破裂しそうなほど脈打っている。
死線を潜り抜けた高揚感と、彼女を失いかけた恐怖。それが今、一つの形になろうとしている。
(今しかない)
書文は拳をぎゅっと握りしめた。
「……穆清」
彼は一歩、彼女に近づいた。
少し離れた場所で、衛佳が「あら」と口元を押さえ、祈が「おっ」と目を見開く。二人は空気を読んで、そっと背を向け、距離を取ってくれた。
書文は、穆清の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「僕は……君がいなくなるのが、怖かった」
「え……?」
「君が連れ去られた時、目の前が真っ暗になった。君がいない世界なんて、考えられなかった」
言葉が、堰を切ったように溢れてくる。
「ただの同居人としてじゃなくて……守るべき皇女様としてでもなくて。僕は……」
彼は震える手を伸ばし、穆清の手――あの冷たい実験台の上で震えていた、華奢な指先をそっと包み込んだ。
「穆清のことが好きです」
風が止まったように感じた。
朝日が、世界を黄金色に染め上げていく。
「僕と……付き合ってください!」
穆清の目が、大きく見開かれた。
時が止まる。
彼女の小さな唇が、驚きに微かに開く。
「す……好き、とは……?」
彼女にとって、それはあまりに唐突で、そしてあまりに眩しい言葉だった。
漢の時代、「婚姻」とは家のための契約であり、政(まつりごと)の一部だった。
だが、目の前の少年が向けているのは、そんなしがらみなど何もない、純粋無垢な想い。
「……本当、ですか?」
「うん。……世界中の誰よりも、君が大切だ」
書文の瞳には、一切の嘘がなかった。
その真剣な眼差しを受けた瞬間、穆清の心の中で、何かが温かく満ちていくのを感じた。
「……はい」
穆清は、涙を瞳いっぱいに溜めて微笑んだ。
「私も……書文様のことが、お慕い申し上げております。……ずっと、前から」
その言葉を聞いた瞬間、書文の中で理性が吹き飛んだ。
愛おしさが爆発する。
彼は衝動のままに、彼女の身体を引き寄せた。
「えっ……!?」
驚く穆清の腰に手を回し、その顔を覗き込む。
夕陽に照らされた彼女の顔は、熟れた果実のように赤く染まっていた。
「穆清……」
「書文、さま……」
二人の距離が、ゼロになる。
重なる唇。
「んっ……」
穆清の身体が強張る。
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(ああ……)
穆清は、ゆっくりと瞼を閉じた。
強張っていた力が抜け、そっと書文の背中に手を回す。
(これが……現代(いま)の、愛なのですね)
それは甘く、切なく、そして何よりも優しい口づけだった。
どれくらいの時間が経っただろうか。
唇が離れると、二人はどちらからともなく照れ笑いを浮かべた。
「……帰ろう、穆清」
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「……書文」
彼女は彼の手をしっかりと握り返した。
漢の皇女が、現代の「彼女」になった日。
かつて、孤独な皇女だった少女は、今日、現代で生きる一人の「彼女」になった。
それは、どんな歴史書にも載っていない、けれど世界で一番優しい愛の記録の始まりだった。
書文も過去のように「いいね」を求め続けて、この瞬間をSNSに宣言するような承認欲求モンスターではなくなった。
この瞬間、これからの幸せは二人だけのものだから、誰かに見せる必要がなく、二人だけが味わえば充分なものだった。
二人は繋いだ手を放すことなく、朝日に向かって歩き出した。
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