ルミナス・ヘブン 神と人の愛憎の物語

中野八郎

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本編

肆 痛む記憶と影

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「精衛!」
「陽《よう》!」
 差し伸ばされた手は、あまりにも遠い。
 見覚えのある少年――陽が、必死の形相で精衛の手を掴もうと指先を伸ばしている。その顔は恐怖と悲痛に歪んでいた。
 精衛もまた、腕が千切れんばかりに手を伸ばした。あの手を掴まなければならない。あの温もりを失ってはならない。魂の奥底が、そう喚《わめ》いていた。
 だが、現実は残酷だった。
 ドオオォォォォ……ッ!
 天地を覆すような海水の壁が、精衛の小さな体を飲み込んだ。圧倒的な質量。逃げ場のない圧力。
「俺に逆らうやつは、苦しんで死んでいけばいい」
 耳元で、粘り着くような嘲笑が響く。それは波の音とも、何者かの呪詛ともつかない不快な音色で鼓膜を震わせた。
 冷たい水が容赦なく口や鼻から侵入する。肺の中の空気が暴力的に押し出され、代わりに塩辛い海水が満たされていく。焼けるような苦痛。視界が泡と暗闇に塗り潰される。
「陽……」
 最後の空気と共に、その愛しい名前を呼ぶことさえ許されず、声は泡となって水面へと消えていく。
 体から力が抜けていく。冷たい。暗い。
 精衛の意識は、底のない深淵へと、ゆっくりと沈んでいった……。

「はっ……、はぁ、はぁ……!」
 精衛は、自分の喉を引き裂くような絶叫で飛び起きた。
 ガバッと上半身を起こすが、そこは深海ではなかった。見慣れた天井。カーテンの隙間から漏れる街灯の薄明かり。
 だが、体の震えは止まらない。パジャマ代わりのTシャツは冷や汗でぐっしょりと濡れて背中に張り付き、心臓は肋骨を砕かんばかりに早鐘を打っている。呼吸が浅い。肺がまだ海水を記憶しているかのように、酸素をうまく取り込めない。
 精衛は自身の胸を強く鷲掴みにし、荒い呼吸を整えようとした。
(また……あの夢……)
 夢に残る感触は、あまりにもリアルだった。体にまとわりつく水の重さ。肺が焼けるような窒息感。そして何より――あそこで引き裂かれた少年、「陽」への喪失感。
 彼は誰なのか。顔は靄がかかったように不明瞭だ。だが、夢の中での彼は、自分の半身であるかのように大切で、愛しくて、失うことが死よりも恐ろしい存在だった。
 精衛はベッドから這い出し、ふらつく足取りで部屋の隅にある椅子へ向かった。膝を抱え、小さく丸まって座り込む。
(どうして、今になって……)
 人間界での数千年という気の遠くなるような時間。天界における数千日。その間、精衛はこの夢を何度か見てきた。だが、それはもっと漠然とした、遠い過去の残響に過ぎなかったはずだ。
 しかし、今夜は違った。鮮明すぎる。
 昨夜、あの廃校舎で見た光景が脳裏をよぎる。
 圧倒的な力で敵を粉砕した、もう一人の祈《イノリ》。彼の放つオーラ、その冷徹で絶対的な殺意。それが、精衛の心の奥底に厳重に封印していた「何か」の鍵をこじ開けたのだ。
 あの力は、私の知っている誰かに似ているのではないか?
 それとも、あの力が私の過去を呼び覚ましたのか?
 得体の知れない不安が、黒いインクのように心に滲んでいく。私は本当に「私」なのだろうか。失われた記憶の空白に、とてつもなく恐ろしい真実が潜んでいるのではないか。
 ぽろり、と。
 熱い滴が頬を伝った。
 一度溢れ出した涙は、堰《せき》を切ったように止まらなかった。
 誰にも見せられない弱音。炎帝の娘としての矜持《きょうじ》も、戦士としての強がりも、深夜の闇の中では役に立たない。ただの怯える少女に戻ってしまっていた。
「何で……一人で泣いてるの……?バカみたい……」
 精衛は嗚咽《おえつ》を漏らしながら、腕で乱暴に涙を拭った。だが、拭っても拭っても視界は滲むばかりだ。自分自身への苛立ちと、どうしようもない孤独感が胸を締め付ける。
 その時。
 コン、コン。控えめなノックの音。
「……っ!」
 精衛は息を止め、慌てて顔を伏せた。
 返事をする間もなく、ガラリと静かにドアが開いた。
「精衛? ……起きてるのか?」
 廊下の明かりを背負って、林祈が立っていた。
 精衛の声が聞こえたか。その目は、はっきりと精衛を探していた。
「……ッ」
 精衛は咄嗟に顔を背け、膝に顔を埋めた。「入ってこないで」と言う声すら出なかった。

 祈は部屋の暗さと、椅子の上で小さくなっている精衛の異様な雰囲気を察し、一瞬足を止めた。だが、すぐにパチンと壁のスイッチを押し、部屋に明かりを灯した。
 突然の光に精衛が目を細めると、もう祈はそばに来ていた。彼はベッドの縁《ふち》に腰掛け、椅子にうずくまる精衛と同じ目線の高さになり、静かに言った。
「うなされていたね。叫び声が聞こえたから」
「……ごめんなさい。うるさかった?」
 精衛は祈の方を見ずに、くぐもった声で答えた。鼻声をごまかすことができない。
「謝る必要なんてないよ。それより……随分、ひどい汗だ」
 祈の手が伸びてきて、精衛の汗ばんだ前髪をそっと払った。その指先は温かく、触れられた額からじんわりと安心感が伝わってくる。
「怖い夢でも見た?」
 子供をあやすような、優しい声色。
 それが精衛の涙腺を再び刺激した。強がろうとすればするほど、祈の前では脆くなってしまう。
「……溺れる夢を見たの。暗い海の中で、誰かに引きずり込まれて……大切な人と引き裂かれる夢」
 精衛はポツリポツリと語り始めた。
「その夢を、昔からたまに見るの。でも今日は……怖かった。あの時、廃校舎で死にかけたからかもしれない。私、自分が思ってるより弱虫なのかも」
 自嘲気味に笑おうとしたが、引きつった笑みしか作れない。
 祈は何も言わず、ただ黙って聞いていた。そして、精衛が言葉を切り終えると、ふいに彼女の手を両手で包み込んだ。
「精衛は弱虫なんかじゃないよ」
 祈の真剣な瞳が、精衛を射抜く。
「あの男に捕まった時、君は最後まで諦めずに戦おうとしていたんだろう? 僕は記憶が無いけれど、君がどれだけ誇り高くあろうとしたかは分かる。君は強いよ。僕なんかより、ずっと」
「そんなこと……ないわ」
「あるさ。でもね、強い人だって、怖い時は泣いていいんだ。今は夜中だろ? 誰も見てない。僕しかいない」
 僕しかいない。
 その言葉が、ストンと胸に落ちた。
 そうだ、ここには敵もいない。神狩りもいない。ただ、私を助けてくれた、何の力も持たないはずの優しい少年がいるだけだ。
「……うぅ……祈……っ」
 精衛は堤防が決壊したかのように、祈の手を握り返し、声を上げて泣いた。祈は困ったように少し笑い、精衛の震える背中を、ぎこちなく、しかし一定のリズムでさすり続けた。

 しばらくして、涙が枯れ果てた頃。
 祈がふと思い出したように言った。
「そうだ、精衛。お風呂、沸かしておいたよ」
「えっ?」
 精衛は目を赤く腫らしたまま顔を上げた。
「汗びっしょりだし、泣いて目も腫れてる。温かいお湯に浸かれば、少しは気分も落ち着くだろう? 着替えも脱衣所に置いておくから」
「……いつのまに」
「君が泣き止むのを待ちながら、スマホで給湯ボタンを押したんだ」
 祈が悪戯っぽくウィンクしてみせる。その日常的な仕草に、精衛はやっと小さく笑うことができた。
「……ありがとう。気が利くわね、現代っ子は」
「どういたしまして、お姫様」

 脱衣所に入り、鏡の前に立つ。
 精衛は自分の姿を見つめた。目は充血し、頬には涙の跡が残っている。
 ゆっくりとTシャツを脱ぐ。布擦れの音が狭い空間に響く。
 しなやかな背中、柔らかな膨らみ、そして細く引き締まった腰が露わになる。だが、その白磁のような肌には、まだ痛々しい痕跡が残っていた。
 左の脇腹から腰にかけて、薄紅色の新しい皮膚が走っている。あの男に鞭で裂かれた傷跡だ。
 イノリの力で傷口自体は塞がったが、完全に消えるまでには至っていない。指先でそっと触れると、わずかに引きつるような感覚がある。
「……消えない痕《あと》になるのか…」
 精衛はため息混じりに呟いた。数千年以来丁寧に手入れしてきた肌に傷跡を付けられたら、乙女にとっては心が痛い事態だ。
 浴室のドアを開けると、むっとした湯気が肌を包んだ。
 湯船には溢れんばかりのお湯が張られている。精衛は掛け湯をして、ゆっくりと足を沈めた。
「ふぅ……」
 お湯が爪先から太腿、腰、そして胸へと這い上がってくる。冷え切っていた芯まで熱が浸透し、凝り固まっていた神経がほぐれていくのが分かった。
 お湯の中に体を沈め、顎まで浸かる。
 湿度が肌を潤し、傷跡の引きつりも和らいでいくようだ。
 精衛は自分の二の腕をさすった。
(祈……)
 彼がいなければ、私は今頃どうなっていただろう。
 ただの平凡な高校生だと思っていた。少しお人好しで、頼りない少年だと。
 けれど、彼の優しさは海のように深くて、温かい。昨日のあの恐ろしい力を持った「彼」とは別人のようだけれど、根底にある「誰かを守りたい」という意志は同じなのかもしれない。
 ふと、お湯の揺らぎを見つめながら、精衛の頬が赤く染まった。
(あんなに泣いちゃって……恥ずかしい)
 お湯の熱さのせいだけではない火照りを感じながら、精衛はしばらくの間、心地よい沈黙に身を委ねた。


 一方、人間界とは異なる位相《いそう》。時空の狭間に隠された領域。
 そこには、重厚な石造りの宮殿がそびえ立っていた。
 空には太陽も月もなく、ただ紫色の雷雲が渦巻いている。宮殿の回廊には、古代の怪鳥を模した石像が並び、松明《たいまつ》の炎がゆらゆらと不気味な影を床に落としていた。
 この場所こそ、「神狩り」と呼ばれる組織の拠点の一つ、通称『奈落宮《ならくきゅう》』。
 その最奥にある広大な謁見の間。
 豪奢な緞帳《どんちょう》が下がり、玉座には豪奢な中国風の衣服を身に纏った男――「大方様《おおかたさま》」が座していた。
 彼は手にした黄金の盃《さかずき》を傾け、芳醇な神酒を味わっていたところだった。
 そこへ、鎧を打ち鳴らしながら一人の兵士が転がり込むように入ってきた。
「も、申し上げます……! 猟犬《りょうけん》13号の霊圧が消失! ……と、討ち取られました!」
 ガシャンッ!!
 大方様の手から盃が滑り落ち、硬い石床に当たって甲高い音を立てた。赤い酒が血のように床へ広がる。
「……何じゃと!? 馬鹿な!」
 大方様は玉座から跳ね起きた。その端正だが神経質な顔が、怒りで赤く染まる。
「13号といえば、我らが『猟犬部隊』の中でも屈指の実力者! 拷問と結界術においては右に出る者がおらん精鋭じゃぞ!? それを、いったいどこのどいつがやったのじゃ!? 天界の追手か!? 五帝の直属か!?」
 大方様は兵士の胸倉を掴み上げんばかりの勢いで詰め寄った。
 彼は自分の配下が負けることなど想定していなかった。彼らは選ばれた傭兵であり、人間界の有象無象とは格が違うのだ。
 兵士は顔を青ざめさせ、ガチガチと歯を鳴らしながら答えた。
「そ、それが……に、人間の……童《わらべ》でございます……」
「はあぁぁ!?」
 大方様の怒りは頂点に達し、裏返った声が広間に響き渡った。
「人間のガキじゃと!? 巫山戯《ふざけ》るな! あの13号が張る特製の結界空間だぞ? 天界の上級神ですら梃子摺《てこず》る代物じゃ! それを人間ごときが破れるはずがなかろうが!!」
「は、はい……! 私も信じられませぬ。ですが、現に結界は内側から『食い破られ』ました……」
「食い破られた?」
 大方様は眉を顰めた。妙な表現だ。結界を「解いた」でも「破壊した」でもない。
「報告によりますと……その童は、13号の絶対領域に対して、とんでもない技を使いました。草木を鋼に変え、葉を刃に変え……まるで自然そのものを武器にするかのような……」
 兵士の言葉が途切れ、喉が引きつったようにヒューヒューと鳴る。
「まるで……何じゃ? さっさと言わんか!」
 苛立った大方様が怒鳴る。だが、兵士は恐怖で目を見開き、震える唇でようやくその言葉を絞り出した。
「まるで……まるで、『あの男』ーー**のような戦い方であったと!!」
 ピシリ。
 大方様の思考が凍りついた。
 全身の血の気が一瞬で引き、指先が氷のように冷たくなる。
 脳裏に、数千年前の悪夢がフラッシュバックした。
 燃え盛る陳塘関。死屍累々の戦場。
 その中心に立つ、一人の男。
 返り血で朱に染まりながら、何千何万もの神兵を、ただの草切れや石ころで屠《ほふ》っていった怪物。
 その男が最後に自分へ向けた、あの底知れない虚無の瞳。感情の一切ない、純粋な殺意の塊。
「あ……あ……」
 大方様の口から、言葉にならない漏れ音がこぼれる。
「まさか……ありえぬ……!あの男は、あの化け物は……とうの昔に死んだはずじゃろ!?魂ごと消滅したと、そう記されておるはずじゃ!!」
「し、しかし……!術式の特徴が酷似しております!あの『草木皆兵《そうもくかいへい》』の理《ことわり》を使える者は、歴史上ただ一人……」
「やめろ!!」
 大方様は絶叫し、頭を抱えた。
 膝から力が抜け、ガクガクと震えながらその場へ崩れ落ちる。豪奢な衣服が酒のシミで汚れるのも構わず、彼は床を這うように後ずさった。
「嘘じゃ……嘘じゃ……あやつが、生きておるはずがない……」
 もし本当ならば。
 もし本当に「彼」が帰ってきたのだとしたら。
 自分たちの計画など、砂上の楼閣も同然だ。
「ひぃ……ぅ……」
 神狩りの指揮者として君臨する男は、子供のような怯えを見せ、ガタガタと震えながら虚空を見つめていた。
 広間には、彼の悲鳴にも似た荒い呼吸音だけが、虚しく響き渡っていた。


 翌日。
 学校は、何事もなかったかのように平穏な日常を取り戻していた。廃校舎での死闘など、誰も知らない。
 だが、祈の神経は張り詰めていた。
 授業中、彼はノートを取るふりをして、斜め前の席に座る男子生徒――李宅の背中を凝視し続けていた。
 李は授業を真面目に聞いているように見えたが、時折、窓の外を眺めては微かに口元を緩めていた。その横顔には、どこか超越的な余裕が漂っている。
(あいつは……ただの人間じゃない)
 祈の深層心理、昨晩覚醒した「もう一人の自分」の感覚が警告している。

 李宅の放つオーラは、昨晩の敵とは異質だが、間違いなく人外のものだ。そして、奴は昨夜、あの廃校舎の近くにいた。
 休み時間、祈は何度か李に接触を試みたが、李はそのたびに「おっと、トイレ」「悪い、日直の仕事が」と、蛇のようにぬるりと躱《かわ》し続けた。
 その態度は、明らかに何かを隠している者のそれだ。

 放課後。
 祈はついに強硬手段に出た。
 ホームルームが終わるや否や、李の机に直行し、その手首をガシリと掴んだのだ。
「……ちょっと、顔を貸せ」
 教室がざわめく。普段温厚な祈が、これほど強い口調で誰かを誘うのは珍しい。
 李は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに観念したように肩をすくめた。
「やれやれ。熱烈なアプローチだね、林くん。……いいよ、行こうか」
 二人は無言のまま階段を上り、屋上へと向かった。精衛も無言でその後ろに続く。
 夕暮れの屋上には、誰もいなかった。
 フェンス越しに吹く風が、冷たく肌を撫でる。
 李はフェンスに背を預け、ポケットに手を突っ込んだまま二人を見据えた。
「で? 何が聞きたいのかな」
「とぼけるな」
 祈は李を睨みつけた。
「昨日の夜、お前はそこにいただろう? 時計塔の上から、僕たちを見ていた」
「おや、人違いじゃないか?」
「嘘だ。気配を感じたんだ……いや、思い出したんだ」
 祈は自分の胸に手を当てた。記憶は曖昧だ。だが、確かな「殺気」の残滓と、それに向けて放たれた言葉の感覚が残っている。
『そっちにいるのは誰だ?』
 あの時、僕の体を使っていた「彼」は、確かに李を認識していた。
「それに、今朝からずっとお前の様子がおかしい。僕たちを避けていただろう。……お前は何者なんだ? 敵なのか、味方なのか」
 祈の問い詰めに対して、李はしばらく黙っていた。
 夕日が彼の顔に影を落とし、表情を読みづらくさせる。
 やがて、李は「ふっ」と短く笑った。
「……納得できない顔だな」
 その笑みには、いつもの飄々とした軽さはなく、どこか自嘲めいた色が混じっていた。
「極秘任務ってのは建前か? 嘘を吐いているのは明白だ」
 祈は一歩踏み出す。その圧力に、李は観念したように深く息を吐き出した。
「……参ったな。君のその真っ直ぐな目には、どんな嘘も透けて見えそうだ」
 李は周囲に誰もいないことを再確認すると、声を一段低くした。
「嘘じゃない。極秘任務であることは事実だ。……ただ、真の監視対象については、まだ君たちに言うべきではないと判断していただけだ」
「監視対象?」
 精衛が訝しげに眉を寄せる。
 李は精衛を一瞥し、そして重々しく口を開いた。
「俺の監視対象は、君たちじゃない。……同じくこの人間界に紛れ込み、社会の裏側で根を張り始めている龍太子『敖丙《ごうへい》』だ」
「敖……丙……?」
 その単語を聞いた瞬間、精衛の身体がビクリと跳ねた。
 ズキンッ!
 頭の奥で、錆びついた杭を打たれたような激痛が走る。
(敖丙……海……水……沈む……)
 赤と黒の映像がフラッシュバックする。
「奴が誰に偽装しているかは、既に把握しているが、今は言えない」
 精衛は、敖丙という名前に、頭痛がぶり返した。精衛は、龍太子の存在自体は覚えていた。しかし、彼がどれほど非道な男だったかは、過去の記憶を思い出すのが恐ろしくて、無意識に忘却していたの。
 李は言葉を続けた。
「奴は、お前たちと同じ『天界』の存在だ。そして、お前たちにとっては……いや、特に精衛、君にとっては数千年の因縁の相手でもある」
「因縁……」
 祈は困惑した。精衛を見ても、彼女は顔面蒼白で口元を押さえている。
「詳しくは、精衛に聞くといい。まあ、彼女もまだ断片的な記憶しか戻っていないようだが」
 李は空を見上げた。茜色の雲が、まるで血のように空を染めている。
「俺と龍太子の因縁は、……殷の終わりまで遡る」
 李の語り口が変わった。それは現代の高校生のものではなく、遥か昔を生きた戦士の響きだった。
「奴ら龍族は高慢だった。雨を降らせる代償として、人間たちに理不尽な供物を求めた。家畜、財宝、そして……生贄、生きた子供をな」
「生贄……」
 祈が息を呑む。
「俺はそれが許せなかった。あの頃の俺は、正義感だけで突っ走り、奴の親族をボコボコにしてやったんだ。……だが、若さゆえの過ちだった」
 李は自分の右腕を強く握りしめた。
「龍王は激怒し、俺の故郷である陳塘関《ちんとうかん》を水責めにした。黒い波が城壁を越え、民家を飲み込み、多くの人々が溺れ死んだ。俺のせいでな」
 李の声に、痛切な悔恨が滲む。それは演技には見えなかった。
「親父は俺を殺そうとした。当然だ、一人のガキの首で、街が救えるなら安いもんだ。……だから、俺は自分でケリをつけた」
 李は祈の目を真っ直ぐに見据えた。
「俺は自らの肉を削ぎ、骨を砕いて、その血肉を親に返した。この命をもって、すべての償いとしたんだ」
 壮絶な言葉に、祈は言葉を失った。肉を削いで自害する。そんな凄惨な最期を遂げた少年が、目の前の彼なのか。
「その時……生贄にされる予定だった少女がいた。名を薫《くん》といった」
 李の表情が、ふっと和らぐ。
「彼女は俺の幼馴染で……こんな乱暴者の俺に、淡い好意を寄せてくれていた唯一の理解者だった。俺は彼女を救ったつもりだったが、結果的に彼女の心を殺し、多くの領民の命を奪うことになった」
 李は目を細め、遠くの街並みを見るような仕草をした。
「今世で再び彼女を見つけた時、俺は誓ったんだ。今度こそ、彼女を守り抜くと。……それが、『薫を守るため』という名目の、真実だ」
 風が吹き抜ける。
 祈と精衛は、李が背負う重すぎる過去に圧倒されていた。
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「奴――敖丙は、今も権力に執着し、『神狩り』という組織を使って暗躍している。奴を止めること、それが俺の任務であり、贖罪だ」
 李は再び二人に向き直り、真剣な眼差しで告げた。
「君たちには、まだ全てを話すことはできない事情がある。だが、これだけは信じてくれ。奴は間違いなく、君たちの敵だ。共通の敵なんだ」
 祈は李の目を見た。そこには揺るぎない意思の光があった。少なくとも、「敖丙を止める」という点において、彼は嘘をついていないように思えた。
「……わかった」
 祈は頷いた。
「お前のその『贖罪』という言葉……信じるよ」
 だが、精衛は違った。
 彼女は李の話を聞いている間、ずっと震えていた。「生贄」「水責め」「敖丙」。それらの言葉が、彼女の中で一つの線になりつつあった。
(私が夢で見た海……あそこで私を引きずり込んだのは、龍……?)
(じゃあ、私と一緒にいた『陽』は……?)
 記憶の底で、少年の笑顔が歪み、血に染まっていくイメージが明滅する。
 精衛はその場に崩れ落ちそうになるのを、必死で堪えた。


 その頃。
 都心のオフィス街を見下ろす高層ビルの28階。
 大手総合商社の社長に勤める林願は、残業の息抜きにデスクでコーヒーを啜りながら、ふと手元のタブレット端末で株価チャートを開いた。
「あら……?」
 願は弟の祈とは違い、少しばかり現実的でシビアな金銭感覚の持ち主だ。将来のためにコツコツと投資を行っている彼女にとって、市場の動向チェックは日課の一つだった。
 自身の保有する銘柄は順調だ。だが、彼女の指を止めたのは、マーケット全体のランキングで異様な動きを見せている『ある企業』だった。
『東海《ドンハイ》ホールディングス』。
 数ヶ月前に突如として上場した新興企業だ。
 表向きは海洋資源開発やリゾート運営を主軸としているが、その実態はあまり知られていない。
 その株価が、今この瞬間、異常な曲線を描いていた。
「何これ……気持ち悪い……」
 願は思わず眉をひそめた。
 通常の株価上昇ではない。まるで市場のルールを無視するかのように、垂直に近い角度で値を上げ続けている。それも、競合他社の株価が軒並み謎の暴落を起こすのと反比例するように。
 まるで、周囲の企業の“血”を吸い上げて肥大化しているかのような、不気味なチャートだった。
 画面に表示されたニュース速報のヘッドラインが、淡々とその理由を告げている。
『東海HD、老舗海運会社を敵対的買収』
『沿岸部再開発プロジェクト、反対派住民らが一斉に退去合意』
 文字面だけを見れば、ただのビジネスニュースだ。
 だが、願の背筋に、理由のない寒気が走った。
「反対派が一斉に退去」?
 そんなことが現実にありえるだろうか。金銭的な解決だけではない、もっと強制的で、抗えないような“何か”が働いているような――。
「……考えすぎかな」
 願は首を振り、タブレットの画面を消した。
 真っ暗になった画面に、自分の疲れた顔が映る。
 最近、弟の祈も何か隠し事をしているようだし、自分も少し神経質になっているのかもしれない。
「さ、仕事仕事。早く帰って祈にご飯作ってあげなきゃ」

 彼女は努めて明るく呟き、再びPCに向き直った。
 だが、彼女は気づいていない。
 消したはずのタブレットの画面の奥、見えないデジタルの奔流の中で、その企業――龍太子・敖丙が支配する組織が、次の標的として“林”という姓を持つ者のデータを検索し始めていたことに。


 一方、李宅は学校からの帰り道、路地裏で足を止めた。
 周囲に人の気配がないことを確認すると、耳につけていたワイヤレスヘッドホンを起動する。
「こちら『哪吒《なた》』。……ああ、接触は完了した」
 相手は、天界の本部だ。
「ええ、上手く誤魔化しましたよ。彼らは素直だ。俺の『悲劇の過去』話に、コロリと騙されてくれた」
 李の声からは、先ほどまでの悲痛な響きは消え失せていた。
「監視対象の動向に変化はまだありませんが、奴の『神狩り』組織が動き始めたようです。……そろそろ潮時かもしれませんね」
 李はヘッドホンを指でタップし、通話を切った。
 ヘッドフォンを首にかけ、彼はニヤリと口角を吊り上げる。
「悪いな、林くん。嘘は言っていないが、全部本当とも言っていない」
 彼はスマホのアルバムを開いた。そこに写っているのは、笑顔の薫。
 だが、彼の視線はその奥にある、もっと冷徹な計算を見つめていた。
「敖丙、精衛、そして祈……。さあ、誰が一番強い『駒』になるかな」
 その瞳には、かつて親の肉を削いで笑った狂気が、一瞬だけ垣間見えた。

 その直後だった。
 李の立つ路地裏の空気が、急速に凍りついた。
 背後の闇、ビルの隙間、ゴミ捨て場の陰影から、どす黒い殺意が滲み出してくる。それは昨日までのチンピラめいた気配とは違う。訓練され、洗練された、プロの「狩人」たちの気配。
 影が揺らぎ、五、六体の人影が無音で実体化した。
 手には消音器付きの銃火器、帯には呪術を施された短刀。彼らは言葉を発することなく、包囲網を完成させていた。
「……やれやれ」
 李は心の底から面倒臭そうに溜息を吐いた。
「今日の僕は人気者のようだね。サイン攻めにしては、ちょっと殺気立ちすぎじゃないかな?」
 その軽口に応える者はいない。
 ただ、リーダー格と思われる影が指を振り下ろしただけだった。
 刹那、全方位から殺到する刃と弾丸。
 逃げ場のない死の飽和攻撃。
 李は欠伸を噛み殺し、スーパーのポリ袋を大事そうに抱え直した。
「悪いけど、急いでるんだ」

 沈みかけた夕陽が、路地裏を鮮血のような赤に染め上げている。
「ふぅ……危ない危ない。卵が割れるところだった」
 李はポリ袋の中身を確認し、満足げに頷いた。特売のLサイズ卵パックは無傷だ。
 彼の足元には、誰一人として立っている者はいなかった。
 いや、死体すら残っていない。
 アスファルトの上には、黒い煤《すす》のような塵がいくつか落ちているだけだ。風が吹くと、それらは霞のように渦を巻き、儚く空へと消えていった。
 ほんの数分前までそこに存在した「精鋭部隊」は、悲鳴を上げる暇すら与えられず、この世から情報のノイズとして削除されていた。
「……さてと」
 李は靴底についた煤をトントンと地面で払い落とすと、何事もなかったかのように歩き出した。
 勝利の余韻も、敵への侮蔑もない。
 今の彼の頭の中を占めているのは、もっと重大で、切実な問題だった。
(薫、怒ってないかな……)
 今日は彼女に「夕飯のハンバーグ、私が作るから早く帰ってきてね」と言われていたのだ。
 寄り道の言い訳をどうするか。部活が長引いたことにするか、それとも補習か。いや、補習だと彼女は心配して逆に元気をなくしてしまうかもしれない。
「『途中で困っている猫を助けていた』……いや、ベタすぎるな」
 無敵の神・哪吒の化身である少年は、世界を揺るがす陰謀よりも、一人の少女の機嫌取りに頭を悩ませながら、夕暮れの街を小走りで駆けていった。
 橙色の光に伸びる影だけが、彼の正体を知っているかのように長く、長く揺れていた。
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