ルミナス・ヘブン 神と人の愛憎の物語

中野八郎

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本編

陸 交わされた約束

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 夜の静寂が、再び部屋を満たしていた。
 世界は寝静まり、窓の外ではときおり風が木々を揺らす音だけが聞こえる。
 祈の自室。ベッドの上には、安らかな寝息を立てる精衛の姿があった。つい先程まで高熱にうなされ、死の淵を彷徨っていたことが嘘のように、その寝顔は穏やかだ。
 月明かりがカーテンの隙間から差し込み、精衛の陶器のような白い頬を薄く照らしている。
 祈はベッドの縁に座り、彼女の手を握っていた。熱は下がったが、まだ指先には微かな温もりが残っている。まるで、数千年の旅路を終えたばかりのエンジンの余熱のように。
(よかった……本当によかった)
 祈は安堵の息を吐き、反対の手で自分の顔を覆った。指の隙間から、今日の出来事が走馬灯のように蘇る。

 数時間前――。
 病院の自動ドアを出た時、世界はすでに漆黒の帳《とばり》に包まれていた。
「お疲れ様。二人とも」
 運転席の願が、ルームミラー越しに優しく声をかけた。
 願のSUVは、家路を急ぐ車列の中に滑り込む。窓の外を流れる景色は、朝の青ざめた静寂とは打って変わり、煌びやかな光の洪水となっていた。
 街路樹には無数のLEDが巻き付けられ、冬の夜空をシャンパンゴールドに染め上げている。クリスマスや年末に向けたイルミネーションだ。
 後部座席。祈の隣に座る精衛は、まだ少し顔色が蒼白かったが、その瞳にはいつもの――いや、いつもとは違う、濡れたような輝きが宿っていた。
「祈」
 不意に、精衛が小さな手で祈の袖を引いた。
「ん? どうした、まだ気分悪いか?」
「ううん……。ごめんね、心配かけて」
 精衛は膝の上で両手をぎゅっと握りしめ、申し訳無さそうに俯いた。その仕草は、傲岸不遜な「仙女」の影もなく、ただの風邪を引いて心細くなった少女そのものだった。
「謝るなよ。無事だったんだから、それでいい」
 祈はぶっきらぼうに答えながらも、自然と彼女の肩を抱き寄せそうになり、慌てて手を引っ込めた。距離感が、以前よりも掴めなくなっている。
「……全部、思い出したんだろ? 記憶」
 祈は意を決して尋ねた。孫先生の処置室で見た、あの悲劇的な愛の結末。
「あれは、大丈夫か? 辛くないか?」
 精衛は一瞬、驚いたように目を見開いたが、すぐにふわりと柔らかく微笑んだ。それは、長い冬を耐え抜いた後に咲く梅の花のような、静かで芯の強い笑みだった。
「大丈夫……。だって、もう会いたい人に会えたから」
 精衛は真っ直ぐに祈の瞳を見つめた。
 言葉にはしなかったが、その瞳が語っていた。『あなたが、私の探していた人』だと。
 祈の心臓が早鐘を打つ。
「……本当に、そうなのか」
 祈は視線を逸らし、流れる夜景に目をやった。
 李遠《りえん》。精衛の過去の思い人であり、悲劇の死を遂げた詩人。
 自分がその生まれ変わりだと言われても、正直なところ実感は湧かない。自分は林祈であり、古代の詩人ではない。
 だが、処置室で感じたあの強烈な共鳴、そして今、精衛から向けられる絶対的な信頼と慕情。それを否定することは、彼女の数千年の想いを踏みにじることと同義に思えた。
 車内には暖房が効いていたが、祈の背筋には冷や汗が伝っていた。
 責任、因果、そして淡い恋心。それらが複雑に絡み合い、胸が苦しくなる。
「ねえ、祈」
 沈黙を破ったのは、精衛だった。
「週末……もしよかったら、一緒に出かけないか?」
「えっ?」
 祈は思わず振り返った。
「出かけるって……デートか?」
「で、でーと……と呼ぶのかは知らないけど。その、気晴らしに」
 精衛は口ごもりながらも、期待に満ちた目で祈を見上げている。
「うん……でも、精衛は神様なのに、そういう行事に積極的なのは意外だな」
 これまでの彼女なら、『人間の俗な風習になど興味はない』と一蹴しそうなものだ。
 祈の指摘に、精衛は少しだけ頬を膨らませた。
「それは偏見です。そもそも、お盆だって元は外国の祭りだったでしょう? それに……」
 精衛は窓の外のイルミネーションを見つめ、ガラスに映る自分の顔ににっこりと笑いかけた。
「こういう時期は、誰かと一緒に出かけるのが、この国の雰囲気なんじゃないか? ……私は、祈と、その雰囲気を味わいたいの」
 その横顔は、かつての「監視者」として人間を見下ろしていた時のものではない。
 ただ好きな人と一緒に歩きたい、同じ景色を見たいと願う、恋する乙女の顔だった。
 長年の呪縛から解き放たれ、ようやく自分のために時間を使おうとしている彼女を、どうして拒めようか。
「……わかった。行こう」
「本当!?」
「ああ。大切にするよ、精衛。……これからは、楽しい思い出で上書きしていこう」
 祈の言葉に、精衛は泣きそうな顔で、けれど満面の笑みで頷いた。

 現在に戻る。
 ベッドサイドのランプが、温かなオレンジ色の光を投げかけている。
 祈は、無意識のうちに精衛の頬を撫でていた。
 指先に伝わる肌の滑らかさ。視覚だけでなく、触覚までもが彼女の存在を鮮烈に訴えかけてくる。
「……ん……」
 その刺激に反応したのか、精衛の長い睫毛が震え、ゆっくりと瞼が持ち上がった。
「……祈?」
 とろんとした瞳が、焦点を合わせようとして瞬く。
「あ、悪い。起こしちまったか? 具合はどうだ?」
「うん……もう、平気……」
 精衛は布団から半身を起こそうとして、ふらりと揺れた。祈は慌てて彼女の背中に手を回し、身体を支える。
「無理すんなって。まだ病み上がりなんだから」
「ありがとう……」
 精衛は祈の肩に頭を預けた。
 自然な動作だった。あまりにも自然すぎて、祈のほうが硬直してしまう。
 至近距離。シャンプーの香りと、彼女自身の甘い体臭が混ざり合い、祈の鼻腔をくすぐる。
 ふと、祈の視線が彼女の胸元に吸い寄せられた。
 大きめのパジャマのボタンは、上二つが外れたままだ。精衛が身じろぎするたびに、襟元が大きくはだける。
 そこから覗くのは、雪のように白い肌と、繊細な鎖骨のライン。そして、その奥に見え隠れする、控えめな色をしたブラジャーのレースと、僅かな胸の谷間――。
(み、見ちゃダメだ見ちゃダメだ見ちゃダメだ……!)
 祈は必死に視線を天井へと逃がした。だが、脳裏に焼き付いた映像は消えてくれない。
 今朝の看病の時もそうだった。汗ばんだ肌の質感、弾力、艶めかしい声。
 祈の下腹部に、熱い塊が宿り始める。
「祈……」
 精衛が、上目遣いで祈を見上げた。その瞳は、熱っぽく潤んでいる。
「今朝……必死に頑張ってくれて、ありがとう」
「ぼ、僕は何にもしてないよ! 全部、孫先生のおかげだし、李が紹介してくれたからで……」
 早口で誤魔化そうとする祈を遮るように、精衛は首を横に振った。
「違う。あの時、祈の必死な顔を見て、とても安心したの」
 精衛の手が、祈の胸板に触れる。心臓の鼓動が、彼女の掌を通して伝わってしまう。
「それに……」
 精衛は言葉を濁し、視線を彷徨わせた後、意を決したように祈の目を射抜いた。
「それに、祈はずっと……我慢してたでしょう?」
「えっ……?」
「私が隣にいる時、看病してくれてる時……祈は、理性を必死に保っているように見えたから」
 核心を突かれ、祈は言葉を失った。
 バレていた。健康な男子の生理現象も、必死に抑え込んでいた下心も、全てこの神様には筒抜けだったのだ。
「あ、あれは……その、不可抗力というか……!」
「うん、知ってる。祈は優しいから」
 精衛は妖艶に微笑み、祈の耳元に唇を寄せた。吐息がかかる距離。
「……もし、祈がソレをしたかったら、いいよ」
「へ……?」
 祈の思考回路がショートした。
「い、いいって、なにが……?」
「だから……その……夫婦(めおと)の契りを、結んでも……」
 蚊の鳴くような声だったが、静寂の中では爆音のように響いた。
 彼女は本気だ。
 前世の記憶を取り戻した彼女にとって、祈は数千年待ち続けた愛しい人そのもの。たとえ今の祈に記憶がなくとも、彼女の魂はすべてを捧げる準備ができているのだ。
 パジャマの隙間から見える素肌が、誘うように白く輝いて見えた。
 手を伸ばせば届く。この柔らかな体を抱きしめ、全てを曝け出させることが許されているというのか。
 喉が渇く。唾を飲み込む音が、ゴクリと喉を鳴らす。
「精衛……」
 祈の手が、震えながら彼女の肩に触れる。熱い。体温が直接流れ込んでくるようだ。
 引き寄せようと、指先に力が入る。
 だが――。
(ダメだ)
 寸前で、祈の中に残っていた最後の理性が警鐘を鳴らした。
 これは違う。
 今の彼女は、記憶の混乱と、病弱な状態での心細さが相まって、判断力が低下しているだけかもしれない。それに何より、自分自身がまだ、その「過去」の重みを受け止めきれていない。
 勢いや劣情だけで彼女を抱くことは、彼女の純粋な想いを利用することになるんじゃないか?
「……っ、な、何を言ってるんだ精衛!?」
 祈はバッと身を離し、ベッドから転げ落ちるように距離を取った。
「き、祈……?」
 きょとんとする精衛に向かって、祈は顔を茹でダコのように真っ赤にしながら叫んだ。
「確かに、我慢したけど……!男だし、こんな美人が無防備に寝てたら、そりゃ反応くらいするけど!」
「うん……?」
「でも、それはこんな状況ですることじゃないだろ!精衛はまだ病み上がりだし、それに……もっと、精衛のことを知って、お互いがちゃんと今の関係で納得した上で……そういうことは、するべきだろ!?」
 一気にまくし立て、ハーハーと肩で息をする。
 言った直後、自分が何を口走ったのかを理解し、祈は頭を抱えたくなった。
「お互いが納得した上で」ということは、将来的には「する」気がある、と宣言したも同然ではないか。
 精衛もまた、祈の剣幕に押されて目を瞬かせていたが、次第にその意味を理解したのか、耳まで真っ赤に染まった。
「あ……う、うん……そうだね」
 精衛はパジャマの襟元を両手でぎゅっと押さえ、恥ずかしそうに視線を逸らした。
「私……なんてはしたないことを……」
「いや、僕こそ……なんか偉そうなこと言って……」
 二人の間に、どうしようもなく気まずい、けれど甘酸っぱい沈黙が降りる。

 時計の針の音だけがチクタクと響く中、互いに顔を見合わせることもできず、もじもじとしていると――。
「ぷっ……」
 どちらからともなく、吹き出した。
「ははっ、ごめん。僕、テンパりすぎだろ」
「私も……久しぶりに、こんなに恥ずかしい思いをした……」
 クスクスと笑い合う声が、夜の静寂に溶けていく。張り詰めていた緊張の糸が解け、そこにはただ、温かな空気だけが残った。
 祈は再びベッドの縁に座り直した。今度は、やましい気持ちなしに、精衛の頭を撫でた。
「寝よう。明日は学校も休みだ、ゆっくり休めばいい」
「うん……おやすみ、祈」
 精衛は安心しきった表情で瞳を閉じ、すぐに規則正しい寝息を立て始めた。
 その寝顔を見守りながら、祈は心の中で苦笑した。
(前途多難だな……)
 理性と本能の戦いは、これからも続きそうだ。だが、この愛おしい存在を守るためなら、その程度の苦労は喜んで引き受けよう。
 祈は小さく電気を消し、闇の中でそっと、彼女の手を握り返した。


 翌朝、教室前の廊下は登校ラッシュの喧騒に包まれていた。
「衛佳ちゃん! 大丈夫!? 昨日、急に病気で休んだって聞いたけど……!」
 朝一番で飛び込んできたのは、弾むようなウェーブのかかった茶色の髪と、精衛よりも頭ひとつ分高いスラリとした長身を持つ少女だった。
 趙子薫《ちょう しくん》。
 彼女は李宅の契約者であり、精衛が転校してきてから瞬く間に意気投合した親友でもある。もちろん、その出会い自体が李による入念なマッチングの賜物なのだが、二人の相性が抜群に良かったのは計算外の幸運だった。
「ううん、もう大丈夫だよ。熱も下がったし。祈がずっと看病してくれたから」
 精衛は安心させるように微笑んだ。その笑顔には、昨夜の死線を超えた者だけが知る、湿度のある安らぎが含まれている。
 だが、薫の反応は違った。
 彼女は豊かな胸の前で腕を組み、ジトッとした疑いの眼差しを、精衛の背後にいた祈へと向けた。
「へぇ~……林くんが、ねぇ」
 その視線は、まるで不審人物を値踏みする警察官のようだ。
「私が言うのもあれなんだけどさ、衛佳ちゃん。林くんって、見た目通りすっごい陰キャじゃん? 看病にかこつけて、変なことされたりしてない?」
「ぶっ……!?」
 祈は思わず咳き込んだ。
「ちょ、ちょっと待て趙さん! 挨拶もなしにいきなり容疑者扱いかよ!?」
「え、だって林くん、クラスでも全然喋らないし、休み時間も一人で本読んでるし。絶対ムッツリだし」
「ムッツリは余計なお世話だ!」
「あら、図星?」
 薫はからかうように口元を歪める。彼女の歯に衣着せぬ物言いは、良く言えば裏表がなく、悪く言えば劇物だ。
 精衛の正体――古代の仙女であること――は伏せられているが、祈が何らかの「契約者」であることだけは、彼女たち四人の間で共有されている秘密だ。だからこそ、契約関係を盾にしたセクハラを警戒しているのだろうが、それにしても偏見が酷い。
「薫ちゃん、祈はいじわるしないよ。……昨日は、本当に優しかったもん」
 精衛がポツリと言うと、頬をほんのりと桃色に染め、上目遣いで祈を見た。
 そのあまりにも乙女な反応に、回りの空気が一瞬でピンク色に変わる。
「げっ。何そのノロケ。朝から胸焼けするわー」
 薫は大げさに顔をしかめたが、その表情はどこか楽しげだ。
「まあまあ、薫。それくらいにしておけよ。林が可哀想だろ」
 背後から、呆れたような声が割り込んだ。李宅だ。
「それに、お前だって俺が風邪引いた時、看病どころか『気合が足りない』って激辛の麻婆豆腐を食わせようとしたじゃないか。あれに比べりゃ、林はずっと紳士的だ」
「あははっ! だって李くん、辛いの食べれば治るっていつも言ってるじゃん!」
「限度があるって話だ……」
 李は祈に向かって、やれやれと肩をすくめてみせた。「ごめんな、こいつストレートすぎてブレーキ壊れてるから」という無言の謝罪が瞳に宿っている。
 四人の間に流れる、騒がしくも穏やかな空気。
 昨夜の命懸けの儀式が嘘のような、ありふれた青春の一幕。祈はため息をつきながらも、この日常が戻ってきたことに小さく安堵していた。
 チャイムが予鈴を告げる。
「じゃあね、衛佳ちゃん。お昼一緒に食べよ!」
「うん、またあとで」
 四人はそれぞれの教室へと散った。その背中には、まだ誰も知らない暗雲が、音もなく忍び寄っていた。


 同時刻、林願のオフィス。
 都心の一等地に構えるビルの一室で、願はパソコンのモニターを睨みつけていた。
「……変ね」
 彼女が勤める商社では、最近、海外の特定のファンドからの資金流入が異常な動きを見せていた。表向きはクリーンな投資に見えるが、金の流れを細かく追っていくと、不自然な迂回ルートが見え隠れする。
 そして、その終着点の一つに、奇妙なペーパーカンパニーの名前があった。
『D・P・ホールディングス』。
「ドラゴン・プリンス……龍太子?」
 願がその名を呟いた瞬間、背筋に冷たいものが走った。
 直感。
 弟の祈と暮らすようになってから敏感になった、得体の知れない勘が警鐘を鳴らしている。これ以上、深入りしてはいけない。
 願はマウスから手を離し、ブラウザを閉じようとした。
 その時だった。
 カチリ。
 オフィスの扉が施錠される音が、やけに大きく響いた。
「え?」
 願が振り返ると、そこにはいつの間にか、黒いスーツを着た二人の男が立っていた。
 社員証も下げていない。来客の予定もない。そして何より、彼らが纏う空気が、サラリーマンのそれとは決定的に異なっていた。
 獲物を前にした獣の、殺気だった静けさ。
「林願さんですね」
 一人の男が、感情のない声で尋ねた。
「……誰?ここは関係者以外立ち入り禁止よ」
 願は椅子から立ち上がり、机の上の電話機に手を伸ばそうとした。
 ヒュンッ!
 風を切る音と共に、電話機のコードが切断され、受話器が床に転がった。
 もう一人の男が、指先をピストルのように向けていた。そこから、実体を持たない「見えない刃」が放たれたのだと、願は理解した。
(普通の人間じゃない……!)
「抵抗は無意味です。我々は大方様より、あなたをご招待するよう仰せつかっています」
「お断りよ。弟が待ってるの」
 願は一瞬の隙を見て、窓際の花瓶を掴んで投げつけた。
 ガシャンッ!
 花瓶は男の眼前で、見えない壁に阻まれて粉々に砕け散った。
「愚かな」
 男が嘆息し、懐から紫色の札を取り出した。
「眠りなさい。痛みはありません」
 男が何か呪文のような言葉を呟くと、札が紫色の煙となって霧散し、一瞬で願の顔を覆った。
「うっ……!」
 甘ったるい匂い。視界が揺らぎ、手足の感覚が急速に失われていく。
(祈……逃げ……て……)
 薄れゆく意識の中で、願の体は崩れ落ち、二人の男に無造作に抱え上げられた。オフィスには、砕けた花瓶と、切断された電話線だけが残された。


 放課後。
「じゃあな林。俺はちょっと野暮用がある」
 李は校門を出たところで、手を振って雑踏へと消えていった。いつものように「監視任務」という名の何かだろう。
「祈、私も薫ちゃんと駅前のカフェに寄ってから帰るね。新しいパンケーキのお店ができたんだって!」
 精衛もまた、薫に腕を引かれて楽しそうに去っていった。昨日の今日だ、あまり無理はさせたくないが、親友との時間が彼女の精神的なリハビリになるなら止める理由はない。
 祈は一人、夕暮れの通学路を歩いていた。
 カラスが鳴き、家々の窓に明かりが灯り始める時間帯。
 どこにでもある平凡な帰り道。だが、祈の胸騒ぎは収まらなかった。
 家に着くと、違和感の正体がわかった。
 玄関の電気が点いていない。
 普段なら、定時で帰宅する姉の願が先に着いていて、夕飯の準備をしているはずの時間だ。残業なら必ず連絡をくれる。
「姉さん?」
 祈は玄関のドアノブに手をかけようとして、止まった。
 ドアの隙間に、一枚の白い紙片が挟まれている。
 チラシや回覧板ではない。上質だが、どこか古めかしい和紙のような質感の紙だ。
 祈はそれを引き抜き、開いた。
 そこには、筆ペンか何かで殴り書きされたような、乱暴な文字が躍っていた。
『林願の命が惜しければ、“女媧の使者”を連れてこい。場所は私立未央宮学園の時計塔』
 ドクン。
 心臓が嫌な音を立てた。
「……なんだよ、これ」
 祈は震える手でスマホを取り出し、願に電話をかけた。
『おかけになった電話は、電波の届かない場所にあるか、または電源が入っていないため――』
 無機質なアナウンス。二回、三回とかけても同じだった。
「嘘だろ……」
 祈は玄関を開け、靴も脱がずにリビングへ駆け込んだ。
 真っ暗な室内。冷たい空気。キッチンには朝食の洗い物が残されたままで、夕飯の支度がされた形跡は一切ない。
 いない。
 本当に、姉さんがいない。
「ふざけるなっ!!」
 祈は手にした紙片を握り潰し、床に叩きつけた。
 怒りが、脳天を突き抜ける。
 昨日、誓ったばかりじゃないか。理不尽から守ると。大切な人を、もう二度と失わないと。
 それなのに、今度はたった一人の肉親が、自分のせいで巻き込まれた。
「女媧の使者」……つまり、精衛のことだ。
 こいつらは精衛を欲しがっている。その手駒として、姉さんを人質に取った。
 卑劣だ。あまりにも短絡的で、吐き気がするほど暴力的な論理。
「……許さない」
 祈の瞳から、ハイライトが消えていく。
 恐怖や焦燥といった人間的な感情が、急速に冷却され、鋭利な殺意へと精製されていく。
 意識の底。深層の海に沈んでいた「彼」が、その怒りをトリガーにして浮上する。
 世界がスローモーションになる。
 恐怖で震えていた膝の震えが止まる。乱れていた呼吸が、深く、静かな律動へと変わる。
 祈はゆっくりと顔を上げた。
 その表情からは、先ほどまでの少年の脆さは完全に消え失せていた。あるのは、絶対零度の冷徹さと、目的のためなら手段を選ばない狩人の目。
 裏人格――イノリ。
「……場所は時計塔、か」
 イノリは、床に転がるくしゃくしゃになった紙片を冷たく見下ろし、靴の裏で踏みつけた。
「いいだろう。望み通り行ってやる」
 だが、連れて行くのは「使者」ではない。
 あの日、廃校舎の化け物を解体した時と同じ、純粋な暴力だ。
「姉さんの指一本でも触れていたら……その時計塔ごと、貴様らの墓標にしてやる」
 イノリは精衛に連絡することなく、単身、闇の深まる夜の街へと足を踏み出した。

 夜の未央宮学園は、昼間の聖域としての顔を完全に捨て去り、巨大な墓標のように聳《そび》え立っていた。
 特に、校舎群の中央に位置する古めかしい時計塔は異様だった。月光を背に受けたそのシルエットは、空に向かって突き立つ黒い杭のようだ。最上階の巨大な文字盤だけが青白い蛍光灯に照らされ、地上を見下ろす単眼のように不気味に浮いている。
 イノリは正門を無視し、高めの塀を音もなく飛び越えた。
 着地音はない。影が地面に滲んだかのような静けさだ。
 校庭を疾走する彼の足元から、芝生が枯れるような冷気が漂う。
(姉さん……)
 脳裏に焼き付くのは、無人のリビングと、踏みつけられた紙片。
 恐怖はない。焦燥もない。
 ただ、胸の奥底にある炉に、氷のように冷たい薪がくべられ続けている感覚だけがあった。
 イノリの中で「祈」という少年の人格は後退し、目的遂行のための冷徹なシステム――「狩人」としての機能が全面に押し出されていた。邪魔をする者は排除する。障害物は粉砕する。それがどれほど人の形をしていようと、今の彼にとっては等しく肉塊に過ぎない。
「……見つけた」
 時計塔の入り口には、守衛の姿はなく、代わりに黒いスーツを着た男が二人、立っていた。先ほど願のオフィスにいた者たちと同種の空気を纏っている。
 イノリは減速しなかった。
「止まれ!」
 男たちがイノリに気付き、懐からサイレンサー付きの銃を抜こうとする。
 遅い。
 イノリは踏み込み一回で十メートルの距離を食い破った。
「ガッ……!?」
 切っ先鋭い膝蹴りが、右側の男の鳩尾《みぞおち》に突き刺さる。肋骨が砕ける不快な音が響き、男は声もなく崩れ落ちた。
「き、貴様……!」
 もう一人の男が発砲する。
 パスッ、パスッ。
 乾いた発射音。だが、銃弾が空を裂いた時には、すでにそこにイノリの姿はなかった。
「どこを見ている」
 耳元で囁かれた死の宣告。
 男が振り返るより早く、イノリの手刀が男の頸動脈を正確に打ち据えた。視界が暗転し、男は糸の切れた人形のように地面に沈んだ。
 イノリは倒れた男たちを一瞥もせず、時計塔の螺旋階段を駆け上がった。
 一段飛ばし、二段飛ばしどころの速度ではない。重力を無視したかのように、垂直に近い壁面を蹴り、螺旋を一気に跳躍していく。
(待っててくれ、姉さん。今すぐ終わらせる)
 最上階。巨大な歯車がゆっくりと回転する機械室。
 錆びついた鉄の扉を、イノリは蹴破った。
 ドォンッ!
 轟音と共に、重厚な鉄扉がひしゃげて吹き飛ぶ。砂埃が舞う中、イノリは機械室の中心へと歩を進めた。
 そこは、巨大な時計の裏側だった。直径五メートルはある歯車が重苦しい音を立てて回り、床の隙間からは青白い光が漏れている。
 その光の中に、彼らはいた。
 総勢十名ほどの黒服たち。その中心で、椅子に縛り付けられた願の姿があった。
「ようこそ、少年」
 黒服の集団の中から、一人の男が拍手をしながら進み出てきた。
 整えられた顎髭に、銀縁の眼鏡。知的だが、爬虫類のような冷たさを宿した男だ。彼の手には、長いナイフが握られていた。
「招待状の宛名は『女媧の使者』だったはずだが……まあいい。まずは前座というわけか」
「……離せ」
 イノリの声は、歯車の回転音よりも低く、重く響いた。
「今すぐその拘束を解いて、姉さんを解放しろ。そうすれば、五体満足で帰してやる」
「威勢がいいな。だが、状況が見えていないようだ」
 男が指を鳴らすと、周囲の黒服たちが一斉に武器を構えた。銃、スタンバトン、そして見覚えのある紫色の札――呪符だ。
「我々は『神狩り』の精鋭だ。たかが高校生のガキ一人に後れを取ると思っているのか?」
「……ガキ、か」
 イノリは小さく息を吐いた。
 その瞬間、空気が爆発した。
「なっ!?」
 誰も反応できなかった。
 イノリはすでに、先頭にいた巨漢の懐に入り込んでいた。
 ズドンッ!!
 掌底打ちが巨漢の顎を打ち抜く。百キロを超える巨体が紙切れのように吹き飛び、背後の歯車に激突した。
「撃て! 撃ち殺せ!」
 パニックになった黒服たちが一斉射撃を開始する。
 だが、イノリの動きは銃弾の軌道を完全に見切っていた。弾道を紙一重で躱《かわ》し、あるいは死体を盾にして防ぎ、流水のように敵陣の中央へと切り込んでいく。
 骨の砕ける音。悲鳴。血飛沫。
 それは一方的な蹂躙《じゅうりん》だった。イノリの拳が当たるたびに、敵が一人、また一人と倒れて、塵になる。
(殺す!姉さんを危険に晒すやつは二度と立てないようにはしてやる!)
 イノリの判断は冷徹だった。慈悲をかけるつもりもない。
 数秒の殺戮劇。
 最後に立っていたのは、リーダー格の顎髭の男だけだった。
「ば、化け物か……!」
 男の顔から余裕が消え去り、脂汗が噴き出す。
 イノリは血に濡れた拳をぶら下げ、男へとにじり寄った。
「終わりだ。チェックメイトだ」
「……ふざけるな!」
 男の表情が歪み、激情に任せて後ろへ飛び退いた。
 彼が着地したのは、願のすぐ背後だった。
「!?」
 イノリの足が止まる。
 男は乱暴に願の髪を掴み上げ、その白く細い首筋に、ギラつくナイフの刃を押し当てた。
「動くな!! 一歩でも動いてみろ、この女の頸動脈を掻っ切るぞ!」
 赤い線が、願の白い肌に滲む。刃が皮膚を食い込んだ証拠だ。
「その手を離せ!」
 イノリの全身から、殺気が蒸発したように消えた。いや、押し殺したのだ。
「ハハッ!お前は条件を口に出す権利がると思う?膝を突け!両手を頭の後ろで組め!」
 男は狂ったように叫んだ。恐怖のあまり、加減ができなくなっている。ナイフを持つ手が小刻みに震え、それが余計に願の首を傷つけていく。
(くそっ……!)
 イノリは歯を食いしばり、ゆっくりと膝を折った。
 距離は五メートル。イノリの身体能力なら一瞬で詰められる。だが、男のナイフが動く方が早い。コンマ一秒の差が、姉の死を意味する。
 無力感。
 あの地下牢の記憶が、フラッシュバックする。
 毒を飲んで倒れる李遠《イノリ》。泣き叫ぶ彩華《せいえい》。
 守れない。また、守れないのか。力が、暴力があるだけでは、結局何も救えないのか。
「そうだ、そのまま床に這いつくばれ!そして、自分の指を一本ずつ折っていけ!そうすれば、女の命だけは助けてやる!」
 男の卑劣な要求。
 イノリは屈辱に耐え、自分の左手の人差し指に右手をかけた。
 姉さんを助けるためだ。指の一本や二本、くれてやる。
「折れぇッ!!」
 男がナイフをさらに押し込もうとした、その一瞬。
 カァァァァァァン――!!
 突如、時計塔の巨大な鐘が鳴り響いたかのような、高く澄んだ音が空間を震わせた。
「なっ、何だ!?」
 男が怯む。
 機械室の空気が急速に圧縮され、一点に収束していく。
 それはイノリの胸の前――契約のパスが繋がる座標。
 ひゅうぅぅぅ……!
 どこからともなく一陣の風が吹いた。錆と油の匂いが充満していた機械室に、不釣り合いなほど清冽な、桃の花と朝露の香りが爆発的に広がる。
 金色の粒子が渦を巻き、光の柱となって顕現する。
「――そこまでよ」
 凛とした声が、轟音轟く戦場を切り裂いた。
 光が弾け、風が吹き荒れる。
 その中心に立っていたのは、冬服のセーラー服を纏い、長い黒髪を風になびかせた少女――精衛だった。
「せ、精衛……?!」
 イノリが目を見開く。
 瞬間移動。契約者であるイノリの魔力を道標にして、空間を跳躍してきたのか。
 精衛はイノリに背を向け、両手を広げて彼を庇うように立っていた。その小さな背中からは、かつてのような高慢さは消え、代わりに決死の覚悟が滲み出ている。
「神狩り……あなたたちの狙いは、私でしょう?」
 精衛は、男のナイフにも怯まず、真っ直ぐに彼を見据えた。
 その瞳は、青い炎のように静かに燃えている。
「な、なんだお前は……?!まさか、貴様が……!」
 男は、突如現れた少女の放つ圧倒的な霊圧にたじろぎ、ナイフを持つ手を僅かに緩めた。
「精衛、何しに来た!逃げろ!」
 イノリが叫び、立ち上がろうとする。
「動かないで!」
 精衛は振り返りもせず、鋭い声で制した。
 その右手には、くしゃくしゃになった白い紙片が握りしめられていた。イノリが自宅の玄関に捨てた、あの脅迫状だ。
「一人で行くなんて、水臭いよ。……私たちが、何のために『契約』したと思ってるの?」
「これは俺の家族の問題だ!お前を巻き込むつもりは……!」
「家族なら、なおさらでしょう!」
 精衛が初めて振り返った。その瞳には涙が溜まっていたが、決してこぼれ落ちることはなかった。
「願さんは、私にとっても大切な恩人。それに……祈、あなたの悲しむ顔を、もう二度と見たくない」
 彼女の脳裏には、前世の記憶――李遠を失った時の絶望が焼き付いていた。
 あんな思いは、もうしたくない。そして、今世の愛する人にも、絶対にさせない。
「お、おい!そこで痴話喧嘩を始めるな!」
 男が焦りから怒鳴り声を上げた。
「貴様が『女媧の使者』だな? ちょうどいい、二人まとめて捕らえて……」
「いいえ」
 精衛は冷徹に遮った。
「取引をしましょう」
 彼女は一歩、男の方へ踏み出した。
「私が、おとなしくあなたたちに従う。抵抗もしないし、魔力も封じていい。その代わり――」
 精衛の視線が、縛られた願へと向けられる。
「その人を解放しなさい。そして、林祈にも手を出さないと誓って」
「精衛、やめろッ!!」
 イノリが絶叫した。ふざけるな。自分が助けるために来たのに、逆に彼女が犠牲になるなんて、そんな結末があってたまるか。
「そんな取引、俺が認めない! 全員ぶっ飛ばして、俺が……!」
「黙ってて!!」
 精衛の怒声が響いた。
 イノリが呆然として動きを止める。普段の彼女からは想像もできないほど、痛切な響きだった。
「力で解決しても、願さんが傷ついたら意味がないの! ……過去の繰り返しになっちゃうのよ!」
 精衛の声が僅かに震えた。
「だから、お願い。……信じて」
 精衛は再び男に向き直った。
「どうかしら? あなたたちにとって、ただの人間一人より、生きた『神の器』の方が価値があるはずよ。傷一つない状態で手に入るなら、安い取引でしょう?」
 男の目が、欲深に細められた。
 確かに、上からの命令は『女媧の使者』の確保だ。人質はそのための道具に過ぎない。ここで無理をしてイノリと戦い、損耗するよりも、彼女が自ら投降してくるなら、それに越したことはない。
「……いいだろう。賢明な判断だ、お嬢さん」
 男はニヤリと笑い、願の首からナイフを離した。
「まずはこっちへ来い。拘束具をつける」
「ええ」
 精衛は躊躇なく歩き出した。
「待て……行くな、精衛……!」
 イノリが手を伸ばす。指先が彼女のスカートの裾を掠める。
 しかし、精衛は止まらなかった。
 カツ、カツ、カツ。
 ローファーの足音が、死刑台へのカウントダウンのように響く。
 すれ違いざま、一瞬だけ香った桃の花の甘い匂いが、イノリの胸を締め付けた。
「(ごめんね、祈。でも、これでいいの)」
 心の中に直接響く思念の声は、どこまでも深く、そして哀しいほどに澄んでいた。
「精衛ッ!」
 祈が叫ぶよりも早く、彼女は敵の懐へと歩み寄っていた。その歩調には迷いがなく、まるで断頭台へと赴く殉教者のような静謐さがあった。
 リーダー格の男は歪んだ笑みを浮かべ、ポケットから取り出した特殊合金の手錠を、精衛の華奢な手首に乱雑に嵌《は》めた。
 ガチャン、と冷たい金属音が機械室に響く。
 白い肌に食い込む黒い金属。その光景だけで、祈の血管に沸騰した鉛が流し込まれたかのような激痛が走る。
「いい子だ。神の器にしては聞き分けがいい」
 男は精衛の顎を指でしゃくり上げ、品定めするように舐め回すような視線を這わせた。
「約束よ」
 精衛は男の無礼な指を振り払うこともせず、氷のような瞳で射抜いた。
「あの人を……願さんを解放しなさい」
「ああ、もちろんだとも」
 男はニヤリと笑い、部下たちに顎で合図を送った。
 黒服の男二人が、椅子に縛り付けられたままぐったりとしている願のロープを解き始めた。
 祈は息を詰めてその光景を見つめていた。姉さんの拘束が解かれれば、すぐに飛び出して確保する。そして、その瞬間に精衛も奪い返す。そのシミュレーションを脳内で秒単位で構築する。
 だが。
 ロープが解かれた次の瞬間、男たちは願を解放するどころか、そのまま担架に乗せるようにして、彼女の体をおもちゃのように抱え上げたのだ。
「なっ……!?」
 祈の思考が停止した。
「ハハハッ! バカめ!誰が素直に人質を返すと言った?」
 リーダーの男が嘲笑う。
「『神の器』はもちろん貴重だが、その交渉材料である『契約者の姉』もまた、今後の切り札になる。最初から二人とも持ち帰る予定だったんだよ!」
 裏切り。
 あまりにも浅ましく、予想できたはずの悪意。
 だが、精衛の瞳だけは、微塵も揺らいではいなかった。
「っ……やっぱり、ね」
 彼女は小さく呟くと、手錠をかけられた両手を、祈りでも捧げるかのように胸の前で組んだ。
 次の瞬間。
 カァァァッ!!
 精衛の全身から、目も眩むような黄金の閃光が爆発した。
「な、なんだ!?」
 男たちが腕で顔を覆う。
「風よ!」
 精衛の叫びと共に、機械室の中に局所的な突風――いや、衝撃波の塊が発生した。
 それは敵を攻撃するためではない。あまりにも正確に、あまりにもピンポイントに、願を抱えていた男たちだけを狙い撃ちにした。
 ドォォン!!
「ぐわぁッ!?」
 男たちが吹き飛び、壁に叩きつけられる。
 宙に放り出された願の体が、ふわりと浮いた。
「祈!お願い!」
 精衛の叫びが、風の音を切り裂いて届く。
 祈の体は、思考するよりも早く反応していた。獣のようなバネで床を蹴り、放物線を描いて落下してくる願の元へと跳躍する。
 ガシッ。
 祈は空中で姉の華奢な体を受け止め、回転しながら床に着地した。
「姉さん!?」
 祈の腕の中で、願はまだ眠りの呪縛に囚われたまま、こくりと首を垂れていた。温かい。生きている。
 だが、その温もりを確かめた瞬間、祈の背筋に戦慄が走った。
(精衛は……!?)
 弾かれたように振り返る。
 そこには――地獄のような光景があった。
「こ、このアマ……ッ!!」
 衝撃波を耐え切ったリーダーの男が、激昂して精衛の髪を鷲掴みにしていた。
「きゃっ……」
 長い黒髪が乱暴に引っ張られ、精衛の首がのけぞる。男はそのまま、彼女の腹部に容赦のない蹴りを叩き込んだ。
 ドスッ。
 重く、鈍い音がした。
「ぐぅ……ッ!」
 精衛が苦悶の声を漏らし、くの字に折れ曲がる。
「よくもやってくれたな!おとなしくしていれば傷物にせずに済んだものを!」
 男は精衛の細い腕を掴むと、まるで壊れた人形か、あるいは市場の家畜を扱うように肩に担ぎ上げた。
「荷物は一つ減ったが、本命は確保した!撤収だ!!」
「ま、待てェェェッ!!」
 祈は願を床にそっと寝かせると、喉が裂けんばかりに絶叫し、男たちへと疾走した。
 怒りなどという生温いものではない。
 腹を蹴られた精衛の、苦痛に歪んだ顔。
 男の肩に無造作に担がれ、物のように扱われる彼女の手足。
 それを見た瞬間、祈の中の何かが決定的に弾け飛んだ。
(殺してやる……殺してやる殺してやる殺してやるッ!!)
 だが、距離が遠い。
「遅いんだよ、小僧!」
 男が足元の床に何かを叩きつけた。
 ボンッ!!
 紫色の煙幕が爆発的に広がり、視界が一瞬で遮断される。
「ぐっ……!」
 祈は煙の中に突っ込んだ。肺が焼け付くような刺激臭。目を開けていられないほどの痛み。
 それでも、祈は腕を振り回し、闇雲に空間を掴もうとした。
「精衛! 精衛ッ!!」
 指先が何かに触れた気がした。衣擦れの音。桃の花の残り香。
 だが、掴んだのはただの冷たい煙だった。
 ダダダダダダ……!
 頭上から、ヘリコプターのようなローター音が急速に遠ざかっていく音が聞こえた。時計塔の屋上から、何かが飛び去っていく気配。
「うああああああああああっ!!」
 祈は床を殴りつけた。
 ガンッ! ガンッ!
 拳の皮が破れ、血が滲むのも構わず、何度も何度もコンクリートを殴り続けた。
 煙が晴れていく。
 そこには、祈と、眠り続ける願だけが残されていた。
「……まただ」
 祈は血塗れの拳を握りしめ、ガタガタと震えた。
 脳裏に焼き付いている、数千年前の記憶。
 毒を飲んで事切れた自分と、その亡骸に縋り付いて泣き叫んでいた彩華。
『守る』と言った。
『二度と悲しませない』と誓った。
 それなのに、現実はどうだ。
 彼女は自分を庇って、自ら囚われの身となり、あんな男たちにゴミのように扱われ、連れ去られた。
「俺は……何を見ていたんだ……!」
 自分の無力さが、内臓を食い破るように疼く。ただ力が強いだけでは駄目なのだ。敵の悪意を見抜き、先手を打ち、すべてを凌駕する圧倒的な「強さ」がなければ、神話の悲劇は何度でも繰り返される。
 時計塔の鐘が、宣戦布告のようにゴーンと鳴り響いた。
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