殿下は婚約破棄した私を“横領犯”として追放しましたが、私が“王国の財布”だとご存じなかったのですか?

なかすあき

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1話

 磨かれた床は、鏡のように天井からの光を返していた。
 その光が、私の足元に集まってくる。それだけならまだいい。光は逃げ道を塞ぐように広がって、まるで「ここで立て」と命じるみたいに、私を真ん中へ押し出していた。

 王城の大広間は、いつも整っている。柱の白さも、壁の飾りも、音の反響の仕方さえも。舞踏会の日にはその整い方によって美しさを演出するはずなのに、今夜は違った。
 美しさが抜けて、刃だけが残っている。

 私は深く息を吸って、吐いた。香油と花と、甘い酒の匂いが混ざり合った空気は、喉の奥でひっかかった。目を上げると、正面の階段の上に、王太子エドワード殿下が立っている。

 彼の隣には聖女セシルがいた。白いドレスは光を吸うように柔らかく、彼女の髪は淡い金色の波になって肩に流れている。いつもなら、誰もがその姿を見て、安心したように息をつく。
 “聖女がいるから大丈夫だ”と。
 けれど今夜、私の胸に刺さるのは安心ではなく、別のものだった。

 視線が集まっている。
 背中に、肌に、髪の一本一本に、目が触れているのが分かる。ざわめきが、言葉にならないまま広間に浮いている。誰かが小さく笑い、誰かが広げた扇の影に口元を隠した。

 私は、今この場で何が始まるのかを、分かっていた。それなのに、心臓が少しだけ遅れて痛みを思い出す。

 ――準備していたはずなのに。
 準備と覚悟は、別物だ。

「レティシア・アルヴェーン」

 王太子の声はよく通った。優しい声だと評されることが多い。確かに、響きそのものは柔らかい。けれど、柔らかさがあるからこそ、刃が見えにくくなる。
 私は膝を折り、頭を下げて礼をした。

「はい。エドワード殿下」

 名を呼ばれたことが、私の立場を示すのではなく、私を指名して切り捨てるための合図になる。
 今夜は、そういう夜だ。

 殿下は私を見下ろしながら、言葉を一つ一つ置くように告げた。
 下げた頭に、重い言葉が積みあがっていく。

「ここに宣言する。私は、君との婚約を破棄する」

 それは、聞き間違えるはずがないほどはっきりした声だった。広間が息を止めた。
 次の瞬間、周囲のざわめきが水面に投げられた石の波紋のように広がっていく。

 婚約破棄。
 その言葉は、この国ではただの恋の終わりではない。政治の転換であり、家と家の関係の切断であり、時に、ひとりの人間の人生を“終わらせる”札にもなる。

 私は立ち上がった。膝が震えないように、足の裏に力を込めた。
 視線がさらに集まる。私の背中が、熱くなる。

「理由を……お聞かせいただけますか」

 私の声は、自分でも意外なほど落ち着いていた。
 これまで何度も、帳簿の前で、怒りと焦りを飲み込んできた。数字の前では、感情は役に立たない。
 今夜のこの広間も、似ている。感情で勝てる場所ではない。
 違うのは、数字ではなく“空気”が支配していることだけだ。

 殿下は、少しだけ顎を上げた。

「君は、王国の信頼を傷つけた。君が扱っていた干ばつ救済の資金――その一部が消えている」

 その言葉が落ちてきた瞬間、私の胸の奥で合点がいった。

 消えている。
 そう言えば、誰もが想像する。横領だ、と。

 けれど私は知っている。資金は“消える”のではない。“動かされる”のだ。判が押され、書類が回り、名目が変わり、行き先が変わる。
 そして最後に、「消えた」と言われる。

 その仕組みを、私は誰よりも知っている。知りすぎているからこそ、今夜の台詞が、最初から用意されていたものだと分かってしまう。

 殿下の隣で、聖女セシルが一歩前に出た。
 彼女は両手を胸の前で組み、震える指先を見せるようにして、私を見た。瞳は潤んでいて、涙が落ちる寸前の光がそこにある。

「レティシア様……どうして……」

 彼女の声は小さかった。小さいのに、広間の隅々まで届いた。
 それは声量の問題ではない。人々が彼女の言葉を“聞きたい”と願っているからだ。
 聖女の涙は、祈りの続きとして受け取られる。涙が落ちる前から、すでに物語が完成している。

「干ばつで苦しむ領民のために、皆さまが寄せてくださった救済金です。私も祈り、集め……必ず水と食糧に変えようと……。なのに、その一部が……なくなってしまったと……」

 彼女はそこで言葉を詰まらせ、首を振った。涙が一粒、頬を伝う。
 広間のあちこちで小さな吐息が洩れた。
 怒りと同情が、同じ形で吐息になる。

 私は視線を落としそうになって、踏みとどまった。
 目を逸らした瞬間に、負けが決まると思ったからだ。
 ……いや。正確には、この場での勝ち負けなど、もう決まっている。私が踏みとどまっているのは、勝つためではない。私自身が崩れないためだ。

「私は、その資金を管理する立場にありました」

 前を向いて、私はそう告げた。
 “ありました”と言ったところで、喉が少しだけ締まる。
 婚約破棄が宣言された以上、私はその立場を失っている。その立場が、私をこの広間に立たせていたのに。

 聖女セシルの指が、胸元でわずかに動いた。
 その瞬間、彼女の指輪が光を拾った。小さな光。
 けれど私は、そこから目を離せなかった。

 見覚えのある意匠だった。
 細い輪に刻まれた、規則正しい線。魔術の紋様ではない。宗教の紋章でもない。
 決裁の印――書類に判を押すとき、誓約と責任を“形”として残すために使う、古い形式の印章。その意匠に似ていた。

 まさか、と思った。
 指輪に視線を止めたのは一瞬だ。けれど、その一瞬が胸に残る。

「レティシア」

 殿下が、私の名をもう一度呼んだ。今度は、優しい声ではなかった。優しさを装う必要がない声だった。

「君は、数字で人の心を踏みにじる。君のやり方は硬すぎた。国を守るために必要な柔軟さがない」

 硬い。
 私は内心でその言葉を反芻した。
 硬いのは、私のやり方か。それとも、あなたが逃げたい“責任”の方か。

 けれど私は言い返さなかった。言い返しても、この場は変わらない。
 この場で勝負になっているのは、事実ではない。
 誰が涙を流し、誰が“正しい側”に見えるか。
 そして誰が“物語の主人公”として選ばれるか。

 私は、物語の主人公ではない。
 私は帳簿の隅にいる。目立たないところで、国を回す歯車の油を差す役だ。
 そういう役が、今夜、舞台の真ん中に立たされている。
 その異様さに、私はようやく自分が何を奪われようとしているのかを実感した。

「君の行いは、民の信頼を損ねた。王太子妃となる資格はない」

 殿下がそう言い切ると、広間の空気が一段軽くなった。
 軽くなった理由が分かる。
 彼らは“痛み”から解放されたのだ。改革の痛み。徴税の透明化の痛み。利権を削る痛み。
 それを押しつけてきた私が、ここから消えるのだから。

 私は、貴族たちの目を見た。
 憐れみの目、興味の目、怒りの目。
 そして、安心の目。

 その安心の目に、私は静かに確信する。
 これは私の罪ではない。
 私が“便利だった役割”を終えさせられるのだ。

「レティシア・アルヴェーンは、王都を追放する。明朝、王城を出発せよ」

 裁定が下った。
 人々が息をつき、扇が揺れ、宝石が光る。
 世界は変わらず美しいまま、私だけを外側へ押し出していく。

 私は唇を噛みしめた。
 ここで泣けば、彼らは納得するだろう。
 泣かなくても、彼らは納得するだろう。
 だから私は、泣くことを選ばなかった。

「承知いたしました」

 その言葉は、私の喉を通るとき、少しだけ熱かった。
 熱さがあるうちに、私は頭を下げた。

 ――私は、ここで勝つつもりはない。
 勝つ場所は、ここではない。
 私の勝負は、紙の上と、現場の上にある。

 頭を上げたとき、聖女セシルが私を見ていた。
 その瞳に、涙の奥に、ほんの一瞬だけ。
 安堵に似た光が浮かんだ気がした。

 気のせいだと切り捨てられない程度に、確かな光。
 私はそれを、記憶の奥にしまった。

 そして私は、広間を去った。
 磨かれた床が返す光の中を、まるで自分の影だけを連れて歩くように。

 背後で、誰かがささやいた。

「これで、国は救われるわ」

 その言葉が、今夜いちばんの魔法だった。
 嘘を真実にする、魔法。

 あまりに滑稽だと思ったが、私は笑わなかった。
 ただ、胸の奥で小さく、帳簿のページを閉じる音がした。

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