コーヒーに砂糖をいれる理由

なかすあき

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コーヒーに砂糖をいれる理由

 月曜の夜。部屋の空気は、洗い忘れたマグカップみたいに冷えていた。触れれば冷たいと分かるのに、どこかでまだ温かい気がして、指先だけが遅れて現実に追いつく。

 スマホの画面には、たった一行のメッセージが残っている。

『やっぱ無理。夢とか、今じゃないでしょ』

 既読の小さな文字が、胸の奥でいつまでも点滅している気がした。泣くほどの情動はない。ただ、体の内側の温度だけが、じわじわ下がっていく。涙は出ないのに喉が詰まる。熱はないのに寒気がする。そんな矛盾が、私の中で静かに成立してしまっていた。

「……夢とか、今じゃない」

 声に出した途端、言葉が舌の上で乾いた。私は大人だ。仕事もある。仕事じゃないけど、締め切りもある。生活は容赦なく、明日の予定表を差し出してくる。分かっている。分かっているからこそ、私の心にトゲが刺さる。

 長い時間をかけて大事にしてきたものを、机の端に置いた消しゴムを、指先で軽く押して落とすみたいに。落ちる瞬間すら、もう見ていないんだろう。その軽さが痛かった。否定されたのは夢じゃなくて、夢を抱えた私のほうだったみたいで。

 私はスマホを伏せ、机の引き出しを開けた。奥に、使いかけのノートがある。ページの角が少し折れていて、そこだけ私の過去が残っているみたいだった。数ヶ月前、夜更かしして書いた短編のプロット。余白に、小さく文字が書いてある。

『ここ、好き』

 自分の字なのに、他人のメモみたいでむず痒い。褒められた記憶より、褒めた自分が残っている。あの夜の私は、確かに私の味方だった。

 彼と付き合い始めてから、そのノートはだんだん奥へ押しやられていった。

 仕事が落ち着いたらね。
 今月は無理だよね。
 いっしょに居るときはできないからね。

 そうやって言い訳を積み重ねるうちに、何が落ち着くなのか分からなくなった。落ち着く、というのは彼の機嫌がいい日のことだったのかもしれない。私の時間が私のものじゃなくなるのに、私は慣れてしまった。

 その事実のほうが、別れの一行よりも、心に深く刺さった。

 翌朝、私はいつもより少し早く家を出た。早く出たぶん、駅前の小さなカフェに寄れる。遠回りをする理由を、まだ自分にうまく説明できないまま、足だけがそちらへ向かう。たぶん、体が勝手に温かい場所を探したんだろう。

 ガラス扉を押すと、焙煎した豆の匂いがふわっと胸に入ってきた。甘いのに苦い。矛盾しているのに、ちゃんと成立している匂い。私も、こんなふうに矛盾を抱えたまま立っていていいのかもしれない、と思った。

「いらっしゃいませ」

 カウンターの向こうの店員さんが軽く会釈をした。背は高くないけれど、声が落ち着いていて、朝のざわざわした気持ちをほんの少しだけ整えてくれる。
 店構えも店員さんのように、押しつけがましくないし、ヘンに励ましてこないから気に入っている。

 私はメニューを眺めるふりをして、結局いつもと同じ言葉を選んだ。

「カフェラテ、お願いします」

 言い終えてから、付け足す。

「ホットで」

 あ、と気づいた。私は普段、ホットかアイスかを口にしない。言わなくても向こうが覚えているからだ。今日、わざわざ言ってしまったのは、私が自分で選びたい気分だったからかもしれない。選ぶ。誰かの顔色じゃなく、自分の気持ちで。

 店員さんは一瞬だけ私を見て、ほんの少し眉を上げた。

「今日は、ホットがいい日ですか?」

 尋問じゃなくて、確認の手触り。その距離感がちょうどよくて、私は喉の奥でほどけた息を吐いた。

「……はい。冷えたので」

「わかりました」

 それだけ言って、彼は作業に戻った。余計な励ましも、やさしさの押し売りもない。ちょうどよく、私を放っておいてくれる。それが、こんなに助かるんだ、と自分でも驚いた。

 空いていた席で待ち、カップを受け取る。
 何の気なしに店員さんが残したレシートを見ると、その裏にペンでなにか書かれていた。

『砂糖いれても、おいしく飲めます』

 私は思わず、口元が緩むのを止められなかった。

 私は砂糖を入れない。いつも入れない。なのに今日の私は、砂糖が必要な顔をしていたのかもしれない。覚えられている、という事実が、胸の内側に薄い毛布をかけてくれた気がした。すごく温かいわけじゃない。だけど、風が直接当たらなくなる。

 結局、私は一つだけ入れた。甘いのが苦手なふりを、今日はやめることにした。

 ラテをひと口飲む。温かさが喉を通り、胸のあたりにじわっと広がる。
 涙が出るかと思ったが、気配だけで目元は光らない。
 でも、世界が少しだけ戻ってくる感じがした。私の輪郭が、私のところへ帰ってきていた。

 その夜、私はノートを机に出した。

 書きかけのページは、どこかで呼吸を止めたままになっている。ペンを持つと、指先が少し震えた。震えが止まるのを待っていたら、また何ヶ月も過ぎてしまう気がした。

「……よし、やってやりますか」

 独り言は、意外としっかりした声で出た。自分の声が自分を支える瞬間が、確かにある。

 夢は、勝手に叶うものじゃない。分かってる。だけど、勝手に捨てられるものでもない。ましてや、誰かに捨てられるものでもない。

 私は小説投稿サイトの応募フォームを開いた。締め切りまで、あと三週間。短編賞。テーマは「再出発」。

 まるで今の私のために用意されたみたいで、笑うしかない。こんな偶然、信じたくないのに、信じたくなる。信じれば、少しだけ前に進めるから。

 そこから先は、地味な作業だった。通勤電車でアイデアをメモして、昼休みに構成を整えて、夜に書く。推敲して、消して、また書く。お風呂の湯気の中でセリフを口に出して、変だったら直す。鏡の前で自分の顔を見て、「大丈夫」と言ってみる。声が震えたら、もう一度言う。大丈夫の代わりに、今日も書く。それをひたすら続けた。

 私は時々、彼の言葉を思い出した。

「夢とか、今じゃないでしょ」

 直接言われたんじゃないのに、ある時から言われた場面をイメージするようになっていた。
 そのたびに胸の奥に小さな火が起きる。悲しみじゃない。怒りでもない。もっと静かな、意地みたいなもの。私が私に対して持つ、最低限の礼儀だ。ここで折れたら、私が私に失礼だ。

 一週間が過ぎた頃、スマホが震えた。

 彼からだった。

『この前は言い方悪かった。今日、会える?』

 画面を見た瞬間、心が少しだけ揺れた。完全に嫌いになれたら楽なのに、と思う。好きだったから。いや、今でも、好きだった記憶が私の中に住んでいる。勝手に家賃を払わず居座っているだけだけど。

 追い打ちみたいに、もう一通。

『忙しい?』

 私は返事を打ちかけて止めた。指先が、昔の癖で“ごめんね”を探す。

『ごめんね。忙しくて。今日は無理で』

 ……なんで私が謝っているの。

 私は少しの苛立ちとともにスマホを伏せ、ノートに視線を落とした。そこには私の字で、こんな一文が書かれている。

『主人公は、選ばれなかったのではなく、自分を選び直した。』

 皮肉を感じて、ちょっと笑った。自分で書いたくせに、それに救われた。言葉って、未来の自分に残しておける手紙なんだ。宛名は私。差出人も私。

 翌朝早く、またカフェに寄った。私は今日もホットを頼み、カウンターの前で支払いを済ませた。
 早い時間だからか、店内には私と店員さんしかいなかった。

 席に来た店員さんが、カップを二つ並べる。
 頼んだのは一つだし、前の椅子に誰かいるわけでもなし。

「あの……」

 私が声を出すより先に、彼が少しだけ困った顔で言った。

「一杯、余分に作っちゃって。ミス。だから、よかったら」

 言い訳が下手だ。あまりにも下手で、逆に誠実さが透けて見える。
 ついで、の形にして差し出すのは、受け取る側の逃げ道まで一緒に渡すためなのかな。

 私はカップを見て、彼の顔を見て、笑った。

「おかしなミスですね。いまはお客さん、私しかいないのに」

「……すみません」

「でも、ありがたいです」

 彼は小さく息を吐いて、肩の力を抜いた。私はその一瞬に、胸の奥がふっと軽くなるのを感じた。

 席に着き、ノートを開く。締め切りまでの日数を書いた行に目が止まって、口の中が少し乾いた。
 私は自分に言い聞かせるみたいに、小さく呟く。

「……あと二週間か」

 それは呟きのつもりだったのに、声になってしまったらしい。カウンターの向こうで、彼の手が一瞬止まった。

「二週間?」

 呼ばれたわけじゃないのに、私は顔を上げてしまう。
 彼は踏み込む直前で止まるような言い方をしていた。
 最近は、二言三言の雑談をするようになっていたが、表面上のものでしかなかったから。

「……何かの、締め切りですか」

 それは詮索じゃなくて、確認の手触りをした、逃げ道の残る問い。
 私は、答えてもいい気がした。

「短編賞で。テーマが『再出発』なんです。……皮肉ですよね」

「皮肉、ですか?」

「今の私に、ぴったりすぎて」

 言った途端、少し恥ずかしくなる。いっそ笑ってくれればと思った。でも彼は笑わない。笑ってほしいときに笑う人じゃないみたい。

「じゃあ、二週間のあいだは……」

 彼は少し考えてから言った。

「ホットで、固定ですね」

「固定ですか?」

「はい、前に冷えたって言ってたので」

 私は、その覚えているを、押しつけがましくない形で受け取れた。温かい何かが、胸にじんわりと広がっていく感覚。
 その感覚に少し戸惑って、不自然な間が空く。私は視線をノートに戻し、勢いで口にした。

「一次とかで落ちたら、笑ってください」

 自分で言って、自己嫌悪に陥る。
 弱音を誰かに落とすのは容易だ。でも落としたぶんだけ、肩が軽くなってしまう。

 彼は一拍だけ置いて、真面目に首を振った。

「笑いませんよ」

 それから、少しだけ口元をゆるめる。

「一次なら、砂糖一つ。二次に行ったら二つ。……そういうのなら、出せます」

 私は思わず噴きそうになって、咳をするふりで誤魔化した。慌てて口元を押さえる。頬が熱い。たぶん、ラテのせいだけじゃない。

「……なんですか、それ」

「景気づけ、です」

 言い切ったあと、彼は何事もなかったように視線を外して、仕事に戻った。
 そのさっと引くところが、ずるい。優しさを置いて、逃げていく。

 二週間は、あっという間だった。原稿を送信するボタンを押す瞬間、私は息を止めた。送った直後、何かが終わるというより、何かが始まる感じがした。
 私はまだ同じ場所にいるのに、足元の地面がいきなり抜けて放り出されるみたいに。

 その夜、スマホが震えた。

 彼からだった。

『今週、どう?』

 私は少しだけ画面を見つめてから、短く打った。

『ごめん。今は会わない』

 送信。既読はすぐについた。返事は来ない。

 胸が少し痛んだ。だけど、その痛みは正しい痛みだった。自分を守るために必要な、筋肉痛みたいな痛み。痛むところがあるのは、そこに私がいるからだ。

 数週間後、投稿サイトのポストに一通のメッセージが入っていた。応募先からの通知だ。私は出先で見ることはできず、帰ってくるまでそわそわしていた。パソコンの前に座って、深呼吸して、ようやく開く。

 一次選考通過。

 文字が滲む。涙が出た。やっと出た。こんなに遅れて、でもちゃんと出た。溜め込んでいたものが、遅延して届くみたいに。私の身体は、ちゃんと私のために泣けるんだ、と分かった。

 私は思わず、カフェへ走った。夜の風が冷たいのに、足だけは軽い。冷たい空気の中で、私の中の何かが温度を取り戻していくのが分かった。

 扉を押すと、店内は閉店間際で静かだった。店員さんが片付けをしていて、私を見るなり手を止めた。

「……どうでしたか」

 私は返事の代わりに、スマホの画面を見せた。彼の目が一瞬だけ大きくなる。それから、ちゃんと笑った。大げさじゃないのに、嘘がない。

「一次、通ったんですね」

 彼はカウンターの下から角砂糖の入ったガラス容器を取り出して、コーヒーのカップとともに私の前に置いた。

「約束の、一つ」

「……律儀ですね」

「律儀です」

 私は笑って、人前なのに涙が出てきて。
 たった一つの砂糖が、勲章みたいに見えた。

「今日は、二つもらっちゃおうかな……?」

 私が冗談めかして言うと、彼は少しだけ目を細めた。

「それは、二次に行ったら、です」

 言い切る声が、軽いのに頼もしい。私の未来を、私の手の中に戻してくれる声だった。

 私はカップを両手で包んだ。温かい。甘い。苦い。全部が混ざって、ちゃんと私の味になる。

「あの……」

 私が言うと、彼は「はい」と目を上げた。待ってくれる目だ。急かさない目。答えを取りに来ない目。

「もし、次も通ったら……そのときは、砂糖じゃなくて」

 言いかけて、恥ずかしくなった。言葉が喉の手前で立ち止まる。自分から欲しいものを言うのは、こんなに難しいんだ。ずっと、相手の欲しいものを当てようとして生きてきたから。

 彼は、何も言わなかった。その沈黙が怖くない。逃げ道だけ残して、待ってくれる。

 だから私は、ちゃんと言えた。

「……名前で呼んでください」

 彼の目が、ほんの少しだけ柔らかくなった。

「……わかりました」

 間を置いて、彼は私の名前を呼んだ。丁寧に、確かめるみたいに。その音が、私の胸の奥のどこかにすとんと落ちて、そこでじんわり熱になった。

 私は笑った。泣き跡を残したまま。

 あの人は、私の夢を「今じゃない」と言った。
 でもこの人は、私の今を、そっと温めてくれる。

 砂糖は一つ。次は二つ。
 そして明日の私は、もう少し甘くてもいいんじゃないか。
 そう思いながら、ちょっと甘いコーヒーに口をつけた。

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